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聖なる水

「……大変、よい試合でした。あなた方の生命の躍動、その輝き、力強さ。どれをとっても心躍る一時……実に快い。大変に満たされました。再びの眠りの時まで大地は潤い、数多の命宿ることを約しましょう。芽吹きの勝者に祝福を。この地に生きる民に大いなる恵みを――」


 私が我に返った時には、空だった杯はいつの間にか澄み切った水で満たされ、呆けた私と目を見開いたレナートの顔を、その水面一杯に映していた。


「え……」


 銀杯の放つ、目が眩むような輝きを目にしたほんのわずかの時間で、一体、何が起こったのか。

 一瞬にして湧き出た水に驚いて、私は思わず杯を取り落としそうになった。それをレナートがすかさず受け取り、何事もなかったかのように危なげなく杯を高々と掲げて、女神への祈りの口上を述べ始める。


「我らが母なる女神リーテの目覚めに祝福を。芽吹きの勝者が請う。我らが生命の輝きをもって、新たなるこの年に育まれし命へ、慈雨の降り注がれんことを――」


 レナートの手によって私の頭上遥か上に掲げられている杯は、恐らくこの場にいる人々全てに、なみなみと水が湛えられている様をはっきりと見せていることだろう。その証拠に、驚きからのどよめきが会場中を満たし、もう何度目だろう、杯へ向かっていた視線が私に集中するのがはっきりと分かった。

 同時にそこかしこから聞こえてくる「リーテの雫が湧いた」との畏怖の呟きに、まさかあの水は私がやらかしたのかと、足が震える。一瞬の意識の空白を、これほど恐ろしいと思ったことはないかもしれない。


「あ、あの……」


 レナートが女神への祈りを終えて杯を胸元へ下ろした時を見計らい、私は堪らず彼に声をかけた。けれど、レナートから返って来たのは一言と笑顔だけ。


「心配はいらない。滅多にない、女神リーテの贈り物だ」

「それって――」


 どう言う意味ですか。私が言い終える前に、台座の左右に控えていた神官がやって来た為、私の言葉は最後まで音にならなかった。

 状況について行けず不安な私を一人置いて、神官達はやや興奮した面持ちで杯を覗き込み、それが間違いなく水で満たされているのを確認すると、恭しくレナートの手から杯を受け取り、慎重な脚運びで後方へと下がってしまう。


 それは、私の仕事の終わりも意味しており、私がこの場にこれ以上長居することはできないと示すものでもあって。

 私はレナートの小さな頷きに促されるように、せめて最後は堂々と淑女らしく、女神リーテの代理人たる泉の乙女らしく一礼して、後方で待つキリアンの元へと心持ち急ぎ足で戻った。


「ご苦労様」

「キリアン様、あの、杯に……!」


 レナートが駄目ならば、キリアンに話を聞くまで。そう思って、労いへの返事もそこそこに勢い込む私を、キリアンの苦笑が出迎える。


「ああ、私も見ていた。女神リーテは、よほど決勝がお気に召したのだろう。これは、レナートには褒美の一つもやらなければな」

「ですから、あれは一体何なんですか?」


 キリアンほどの人であれば、私が何を聞きたいかなど分かっているだろうに、どうも返答は的を得ない。まさか、今目の前で起こった出来事ですら説明は後でと言うのかと私が眦を釣り上げた時、優勝したレナートと準優勝となったオーレン両名を改めて称える声とは別に、慌ただしい気配が、神官達の下がった小部屋の方で起こった。

 何事かと足を止めた私の横で、キリアンが顔を顰める。


「ミリアム。悪いが、話はあとだ。煩いのが来る前にここを出る」


 言うや否や、足を速めたキリアンに半ば引っ張られるような形で、私は修練場の外へと連れ出されてしまった。

 外には、どう言うわけか馬車と共に待機するハラルドの姿。馬車は、昼に騎士団宿舎へとやって来るのに使ったものだ。御者が、私達の乗車を今かと待ち構えている。


「ご用意は万端整っております、キリアン殿下」

「助言、感謝する。ハラルド殿」

「なんの。ミリアムお嬢様の為でございますからな」


 状況について行けずに戸惑う私が馬車に押し込まれたところで、修練場から初老の神官がキリアンの名を呼びながら慌てて駆けてくる姿が見えた。けれど、キリアンは聞こえていないかのようにその声を無視して、馬車を出させる。

 執事宜しく腰を折って馬車を見送るハラルドだけが、場違いに平常だ。


「キリアン様、いいんですか? 神官様がお呼びだったようですけど……」


 神を祀る神殿に奉職する神官は、神を崇める国の中では、王族に次いで地位が高い。そして、場合によっては王族の言葉より彼らの言葉が優先されることもあり、そんな立場の者の声を無視するのは、たとえ王族と言えど褒められたものではないとされる。

 それとも、東方の国では常識とされるそれらのことも、エリューガルではまた違うのだろうか。


「構わない。それに、彼らの用件は分かっているしな。彼らに捕まったが最後、数時間は帰してもらえないことが分かっているなら、逃げるしかないだろう」

「そんなことをして、神殿からお叱りは受けませんか?」

「それこそ心配ない。彼らは皆、クルードの神殿の神官だ。愛し子である私には、誰も逆らえないさ」


 悪戯な笑みを浮かべるキリアンは、どこか楽しそうだった。加えて、彼の言葉の端々からは、神官の声を無視して彼らを困らせる常習者の気配が滲み出てもいた。

 もしかすると、クルードの愛し子と言う立場故に、その存在を最も神聖視する神殿とは、キリアンは特別色々とあるのかもしれない。

 ふと、神殿側の要求をいとも容易く突っぱねられて困り果てる神官と、そんな神官の姿を見て留飲を下げ、密かに笑うキリアンの姿が想像されて、私の口の端が緩んだ。


「しかし、自分から楽しめと言っておいてなんだが、あなたもなかなか面白いことをしでかしてくれるな」

「……それは、さっきの水のことですか? しでかすって……私は、何かしたつもりはないんですが……」


 リーテの雫だとか聞こえた、生命の杯に突如湧いた清らかな水。

 女神の名を冠しているのならば、まず間違いなく、あの現象は女神の力によるものだ。一瞬、私がやらかしたかと思いもしたけれど、断じて私自らが何かをしたわけではない。それなのに、キリアンの口振りは、まるで私があの現象を引き起こしたと言わんばかりだ。

 心外にもほどがある。


「勿論、あなた自身が何かしたとは思ってはいない。だが、泉の乙女としてのあなたの存在が女神を引き寄せたと考えれば、十分『しでかした』の範囲内だ」

「……それは……言いがかりなのでは……」


 この国にやって来て日も浅い、正に飛び入り参加とも言っていい私の存在が女神を引き寄せたと言われても、納得できない。

 確かに、決勝戦で女神の存在を側に感じはしたけれど、あれは私が引き寄せたのではなく、試合を見たいと思った女神が、泉の乙女役として会場にいた私を利用しただけなのではないだろうか。

 眉を寄せて賛同できずにいる私に、キリアンは緩く首を振る。


「とんでもない。それだけ滅多に起こらないことなのだよ、リーテの……ああ、東方出身のあなたにも通じる言葉で言うなら、聖水、と言った方がいいか。クルードの力が強く及ぶエリューガルでは、他の神の力は抑えられていてな。リーテの加護が宿る聖水が湧くことも、そうそうあることではないのだ」

「聖水……」


 水を司る慈愛の女神レーの加護が宿った水のことを、東方の国々では聖水と呼ぶ。

 伝承には、人がその水を一口飲めばたちどころに傷は癒え、病は快復し、枯れた大地に撒けば草木が息を吹き返し、乾いた大地に撒けば水が湧き出ると伝えられている。

 実際の聖水の効果は伝承に言われるほど劇的なものではないけれど、規模の大きなレーの神殿が所有するものであれば、重傷が軽傷になるくらいには、確かなものだ。

 水資源が豊富な国はレーを信奉していることが多く、そう言った国々の神殿で扱われている聖水は他国の神殿の聖水よりも一般的に効果は高く、なかなかの高値で取引されているとも言われている。


 そんな聖水が、あの生命の杯に湧き出た。

 それも、生命の泉を冠する女神ならば、レーの加護と引けを取らない効果が付与されているに違いない。


「……もしかしなくても……目立ちました……?」

「そうだな」


 あっさりと首肯するキリアンに、私は心の中で「ですよね!」と半ば自棄に近い勢いで頷く。


「生命の杯に聖水が湧いたのは、三十年振りでな」

「そんなに滅多にないことなんですかっ?」


 それでは、私を連れて行こうとしていたキリアンを、神官が慌てて止めに来たのも納得がいく。そして、その声をキリアンが無視したことも。

 私に、この日を楽しんでほしいと考えてくれているキリアンにしてみれば、神官との話でこれからの数時間が潰されることは、許せることではないだろう。


 とは言え、キリアンが言うように、聖水を湧かせたのは女神であって、私ではない。私自身が聖水を湧かせる為に何か特別なことをやったわけでもないのに、神官から話を聞きたいなどと言われたとしても、彼らにとって有益になりそうなものや彼らの欲する情報は、私からは何一つとして示せない自信しかないのだけれど。

 あの神官は、何故あんなにも慌てて私達を呼び止めようとしたのだろうか。

 遠く離れていく修練場を馬車の窓から見下ろしながら、先ほどの神官の慌てようを思い出してそんなことを考えていると、私の思考をぶった切る発言がキリアンから飛び出した。


「……それに、三十年前の泉の乙女は、エステル様だったとか」

「ふぇっ!?」


 あまりに衝撃的な発言を耳にして、変な声が出てしまった。

 母が泉の乙女をやっていたこともそうだけれど、まさか母の時にも聖水が湧いていたとは。これは親子の血の成せる業か、親子と知っての女神の悪戯か。


「私も、それを聞いたのは決勝が始まる前のことだったのだが……。念の為に気を付けるように、と言うのでそのままハラルド殿に支度を頼んだら、見事に、な」


 流石は、ハラルド。彼ならば三十年前のことでもはっきりと覚えているだろうし、私が娘であることも知っている。もしかしたら、三十年前に母が掲げた生命の杯に聖水が湧いた時に、母は神官に捕まって話を聞かされたのかもしれない。

 その過去が、母同様に私を長時間神官に拘束させてはなるまいと言う気遣いが、ハラルドに万一を想定した行動を起こさせたのだろう。

 俄かに、先ほどの「しでかした」と言われたことが思い出される。確かにこれでは、キリアンにしでかしたと言われても仕方がない気がする。

 断じて、私の意思でしでかそうと思ってしでかしたわけではないけれど。


「……なる、ほど……?」


 それでも、素直に頷くには疑問が残る。

 ハラルドの懸念通りに聖水が湧いたのは事実だけれど、いくら何でも、親子ならばあり得ると簡単に決めつけられるものだろうか。

 それを言えば、王女が泉の乙女を務めていれば、何代前の泉の乙女だろうと同じ血族なのだから、いくらクルードの力で抑えられているとは言っても、定期的に聖水が湧いてもおかしくはない。

 それに、キリアン自身が言っていたではないか。女神は決勝をお気に召したのだろう、と。それならば、素晴らしい試合を繰り広げたレナートとオーレンこそが、聖水を湧かせた要因と考えた方が自然ではないだろうか。女神が聖水を与えてもいいと思えるほどの試合ともなれば、そう頻繁に起こるものでもないだろう。


 だから、今回はたまたま、母と私が泉の乙女だった時の決勝が女神のお眼鏡に適っただけ――私としては、そう考えるべきだと思うのだけれど、今日のこの日に関しては、私に必要な知識を敢えて与えないようにしている節がある、私の周囲の人達のこと。まだ何か、隠していることがあるように思えてならない。


「キリアン様」

「……何だ?」


 私を見るキリアンの顔は相変わらず楽しそうで、きっとこの場で私が詳細な説明を求めたとしても、はぐらかされそうな予感しかしなかった。

 人生を楽しむ為には無茶をも楽しむものだと言うほどの人が、私の懇願にあっさり折れてくれるとも思えない。


「……いえ、何でもありません」


 呼びかけたはいいものの、結局私は首を横に振って、胸に渦巻く疑問をため息に変えた。


「心配しなくても、神官達のことは私の方できちんと対処しておく。あなたは何も気にしなくていい」

「それは……ありがとう、ございます」

「それよりも、今のあなたは夜の祝宴のことを考えておくべきだろうな」


 テレシアが張り切っていたから、と何でもないことのように付け加えられて、私も、自分が何かしたわけでもない聖水のことよりも重要なことを思い出した。

 決勝の観戦へ向かう中、宿舎の入口で別れたテレシアの満面の笑みが即座に脳裏に蘇る。あの特上の笑みを見るのは、今日で二度目だ。

 途端に、部屋へ戻ることが恐ろしく感じられた。泉の乙女でさえ、毎年泉の乙女役が着る衣装だったとは言え、私の予想を遥かに上回って煌びやかに着飾られてしまったのだ。次の祝宴に向けては一体どんなことになるのか、まるで想像がつかない。


「私、次はどんな服を着せられるんでしょう……」

「テレシアによって着飾られたあなたの姿を見るのを、楽しみにしているよ」


 今にも頭を抱えそうになる私に、キリアンの他人事が故の軽い言葉が飛んだところで、折よく馬車が停車した。

 そして、出迎えてくれた今日一番のテレシアの眩しい笑顔に、私は大人しく観念するしかなかった。


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