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決勝戦

 再び観戦席に現れた私達を出迎えたのは、大勢の観衆達の熱気だった。

 決勝戦の開始を今か今かと待つ観衆達にとっては、午後の始まりに既に目にした泉の乙女である私のことなど、最早話題にするほどでもないのだろう。最初と比べても格段に注目されていないことが分かって、私は内心で胸を撫で下ろす。


 やや西に傾き始めた太陽に照らされた会場には、既に審判が立っていた。その隣にはこれまでの試合ではなかった台座が一つ用意され、神官と思しき二人の人物がその左右に控えている。そして、そんな台座の上には磨き抜かれた銀杯が一つ。どうやら、それが生命の杯のようだ。


 決勝戦は、王太子の両翼が一人レナートと、次期兵団長の呼び声高いオーレンとの対戦と言うこともあってか、試合前だと言うのに既に歓声があちこちで飛び交い、私の思う以上の盛り上がりを見せていた。

 そんな騒がしさを割って、突如鳴り響く角笛の音。これまでの試合とは異なり、その音を合図に対戦者が入場してくる。


 互いに防具を身に着けた姿はこれまでと変わらなかったけれど、レナートは前髪を後ろに撫でつけ額を露わにし、オーレンは肩ほどまでの長さの髪を一つに括って、気合十分。どちらも、これまでの印象を塗り替える凛々しさだ。

 会場の二人は真剣な眼差しで、にこりともしない。全身に闘志が漲っているのが、傍目にも強く伝わってくる。


「――始め!」


 鋭い審判の掛け声と共に、今年の芽吹きの祈願祭の勝者を決める最後の試合が始まった。

 先に動いたのは、わずかにオーレンの方だっただろうか。殆ど同時に地を蹴り、会場のほぼ中央で二人の剣がぶつかる。一つ前の試合で二人がどんな剣捌きを見せたのかは知らないけれど、今の二人は、私が見たライサとの試合ともハラルドの試合とも、まるで動きが異なっていた。


 共に切磋琢磨し、互いの手の内を知り尽くす者との試合。相手の動きを先読みして仕掛けては躱され、躱した動きから不意を突き、更にそれを読まれて防がれる。実力も拮抗している為か一つの手も有効打にならず、剣と剣がぶつかり合う音ばかりが何度も何度も鳴り響く。

 また、剣の動きだけに注視していると足技が防御の薄いところを急襲するので、まるで動きが止まることがない。今日、私が見た試合の中で、最も荒々しく激しい試合が繰り広げられていた。


 再び会場の中央付近で、二人の剣が殷々と響く音を奏でる。

 まるで耳鳴りのようなその音が私の中に強く響いた瞬間、私は時が止まったかのような錯覚に襲われた。


 一瞬にして世界から音が消え、人々の存在が消え、私の視界には会場の二人しか見えなくなる。その存在が、間近に迫る。

 激しく動いている筈の二人の動きが妙にゆっくりと感じられ、距離があってはっきりしなかった二人の表情が(つぶさ)に分かる。剣を振り、剣を受け止める度に二人から散る汗の粒まで、私の目には余さず見えた。

 彼らの一挙手一投足、全ての動きが、驚くほどはっきりと目で追えるのだ。

 そして不思議なことに、いつの間にか二人が楽しげに笑い漏らす声も、攻撃の端々で相手に向かって悪態をつく声も、おどけた挑発も、澄ました皮肉も、動きに合わせて漏れる呼気までもが私の耳に明瞭に届いていた。


 レナートもオーレンも、全身で試合を楽しんでいる。互いに全力でぶつかり合い、その力を受け止められる相手であることを喜んでいる。それは、ともすれば無邪気な子供のようで、実に生き生きとしていた。さながら、生命の躍動そのもの。

 時に力強く軽やかに、時に荒々しく繊細に。二人の動きに合わせて数多の命が躍り、猛り、天へ向かって快哉を叫ぶ。

 二人の力の限りを尽くして戦う姿に、その姿を見て歓声を上げる大勢の観衆に、ふわりと、私の耳元で誰かが満足そうに吐息を漏らす気配があった。


 それは、イェルドでもエイナーでもない。勿論、席の離れたキリアンでもない。けれど不思議と、不審に思う気持ちも恐れる気持ちも私の中に沸くことはなく、そこにいる者の存在を確かめようとすら思うこともなく。私はただ、見ることを定められたように会場の二人から目を逸らせないままだった。

 そんな自分の不可思議な状況を意識した瞬間、理屈のない理解が私の中に奔った。


「――っ!」


 私は今、女神リーテの「眼」だ。

 生命の泉の女神リーテが、私の目を通して共にこの試合を見ている。この光景は――女神の見る世界の姿なのだ。

 私が理解してわずかに息をのむと、再び、愛でるような吐息が耳元で聞こえた。それは、私が状況を理解したことを褒めるような優しい気配で。私を柔らかく包み込む何かの存在を感じながら、私は導かれるように二人の試合へと意識を集中させた。


 上段から振り下ろされたオーレンの剣を、レナートが身を低めながら頭上で受け止め、力を込めて押し返す。オーレンがその勢いに数歩後退して空いた距離を、今度はレナートが瞬時に縮め、横薙ぎに胴を狙って剣を一閃。

 オーレンは危ういところで剣を盾に防いだものの、体勢が整わない内の一打は、オーレンを窮地に陥らせる。両足の踏ん張りが不十分で、オーレンは大きく体勢を崩した。


「……っの、やろ!」


 オーレンはレナートの追撃を、体を捻って紙一重で何とか躱す。そのまま体を倒れるに任せ、ライサの試合で見せたのと同様、地面に手を突き反動を利用してレナートと距離を取ると、素早く体勢を整えた。


「ちっ」


 今の一撃で仕留める心積もりだったのか、レナートから舌打ちが漏れる。ただしその口角は上がり、仕留め損ねた悔しさよりも、まだ戦える喜びを表していた。

 オーレンの表情に灯るものもまた不敵な笑みで、危ういところを脱したことが、更に彼のやる気を漲らせているようだった。


「この程度で決着がついたら、つまんねぇだろ。観客も、女神様も」


 舌打ちをしたレナートを揶揄うように、オーレンが舌を出して笑う。対するレナートは、高慢とも取れる皮肉を込めた笑みと共に、オーレンを鼻で笑った。


「ギリギリで避けた癖に、何を偉そうに」

「じゃあ、今ので終わってりゃよかったってか? 俺は嫌だね」


 じり、とオーレンの左足が地面を踏み締め、肩位置まで水平に上げた剣先がひたとレナートを狙う。オーレンのその構えに、そう来るかと言いたげに瞳に好戦的な光を宿したレナートもまた、乱暴に汗を拭うと、呼応するように足を開いた。


「それには、同意する……っ!」


 言葉尻にレナートの足が地を蹴り、オーレンへと先に仕掛ける。

 わずかに止まっていた試合の再開に、会場を取り囲む数多の命が沸き立った。剣を打ち鳴らす二人は、まるで広い広い舞台で女神に捧げる剣舞の舞手のよう。

 地を踏み鳴らし、剣を突き交わす。互いの位置を入れ替えて薙ぎ、足を振り上げ体を倒し、弧を描いた剣閃が二人の間で弾けて消える。離れては近付き、近付いては距離を空け、止まることなく剣舞が続く。二つの命が舞い踊る。


 肩で息をする姿すら美しく、流れる汗の雫一つ一つが星のように煌めいて、このままいつまでも二人の命の躍動を見続けていたい思いが募る。けれど、どれだけ強靭な肉体を持つ者だろうと、人である以上、永遠に戦い続けることは叶わない。いずれ決着の時は、来てしまう。


 この二人のどちらかが勝者とならなければならないことの、なんと惜しいことか。


 私の思いに同意するように、ふわりと三度吐息が私の耳元を掠めた――その時。

 何の悪戯か一陣の風が会場を吹き抜け、強い向かい風を受ける形になったオーレンの動きに、ほんのわずか狂いが生じた。

 それは、女神と共に見ていた私だからこそ分かった、本当にわずかなものだった。恐らく、私以外でそのことに気付いたのはオーレン自身と、そして対峙しているレナートくらいだろう。そして、そのわずかの狂いはオーレンにとっては致命的であり、レナートにとっては千載一遇の好機だった。


 追い風に押されて、レナートの剣が速度を増してオーレンへ向かう。これもまた、変化と言うには微細なもの。けれど、勝敗を決定付ける大きな変化でもあった。

 自分に向かって振り下ろされる剣を、オーレンは危なげなく受け止める――かに見えた。けれど、風の悪戯で狂わされた一瞬にも満たない刹那の時が、風を味方につけたそれを芯で受け止めることをさせなかった。

 完全には勢いを殺されることのなかったレナートの剣がオーレンの剣を力強く払い、その勢いでオーレンの体が左へ開く。

 反射的に剣の行方を目で追ってしまったのは、戦う者の(さが)故か。

 オーレンが己の失態に気付いて視線を正面に戻した時には、無防備になった彼の右の首筋に、ぴたりとレナートの剣が付きつけられていた。


「――そこまで! 勝者、騎士レナート・フェルディーン!!」


 どっと沸いた歓声に、私の世界が一瞬にして元に戻る。

 二人の近くにあった私の意識は最上段の観戦席に戻り、視界に映る二人の姿もはるかに遠い。生命の輝きにしか見えなかった観衆達も人の姿を取り戻し、会場で言葉を交わし合う二人の声も大歓声に掻き消されて、もう私には聞こえない。

 私のすぐそばにあった見えざる気配も、まるで初めから誰もいなかったように消え失せて、そのことにわずかな寂しさが過る。


 けれど、女神リーテが私を通して見ていたこの試合に、とても満足していたことだけは間違いない。それを、リーテの代理人たる泉の乙女を務めた私一人だけが確かに感じられたことは、とても嬉しく光栄なことだった。


 総立ちになる観衆の向こうで、一方は満足そうに、一方は悔しそうに、それでも笑顔で握手を交わし合うレナートとオーレンの姿を目に留めて、私は大きな安堵と興奮を、遅れてしみじみと実感していた。観戦中は全く感じなかった自分の鼓動が、今更早鐘を打つように鳴っていることにも、驚きと苦笑を漏らす。


 そんな私の元へ、キリアンが歩み寄って来た。私一人が座ったままであることに、一瞬心配がその顔に覗いたけれど、私が笑って首を横に振ったのを見て、彼にもまた笑みが零れる。そして、差し出される手に、私は予め聞かされていたこの後の段取りを思い出した。


 現在、決勝を戦った二人は会場を辞すことなく、観衆の大歓声に応えながら泉の乙女の登場を待っている。いよいよ、私が泉の乙女として、優勝者に生命の杯を授ける時が来たのだ。

 頭の中で作法を繰り返し思い出しながら、私は差し出されたキリアンの手をしっかり握って立ち上がった。


「堅苦しく考えることはない。ただ、レナートに杯を手渡せばいいだけだ」

「……はい」


 本来であれば、杯を優勝者へ手渡す前に、泉の乙女として会場に集った観衆へ言葉をかける。けれど、ただでさえ私の了承なくこんな大役を押しつけてしまったと言うことで、流石にそこまでの無茶は要求されなかった。今回、私は、簡単な授賞の作法に則ってただ優勝者に杯を授ける、それだけを行えばいいのだ。

 もっとも、そうでなければ、いくらこの私でも泉の乙女なんてお断りだと叫んで、部屋に戻っていたことだろう。


 行ってらっしゃいとエイナーに手を振られ、キリアンにエスコートされて会場へ降り立った私を、大勢の人の視線が出迎える。

 響き渡る角笛の音に会場全体が静まる中、進行役の騎士が優勝者であるレナートの名を改めて告げ、私の前方にレナートが進み出た。

 私も緊張の面持ちで台座へと歩み、生命の杯を両手で捧げ持つ。


 女神リーテの為に作られた銀杯は中皿ほどの大きさで、流れる水を模した二対の曲線が杯を支えるように左右から延び、泉を模した台座へと、絡み合う蔦のように続く。杯の底から延びる足との付け根にはティーティスと思しき鳥の翼の装飾が施され、水の流れの上を滑るように、杯を包み込む形で羽が伸びていた。

 それ以外には細かく施された装飾もなく、至って質素でありながらも女神の美しさを表した銀杯は、私が捧げ持ったことで磨き抜かれた表面が太陽の光を浴び、神々しい煌めきを見せる。


 女神に対し、これから勝者へ杯を渡すことを示す為に、一度頭上に高々と掲げる。次いで静々と胸元まで杯を下ろした私は、前方で跪くレナートへと歩み出て、恭しく杯を差し出した。

 あとはこれをレナートが受け取り、女神へ祈りを捧げるのだ。

 顔を上げたレナートと、視線が交わる。試合を終えて間もないレナートは、この生命の杯を受け取る為に多少身支度を整えたとは言え、普段より髪は乱れ、汗の気配もいまだ濃い。何より、澄んだ深い青の双眸には冷めやらぬ興奮が宿り、そこに力強い()()()()()が見て取れた。


 それを自覚した瞬間、私の意識が銀杯の輝きに飲まれるように束の間遠のく――ふつりと意識が途切れるその間際、私の口が勝手に開くのを微かに感じながら。


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