私のこの先
「無論、ミリアムお嬢様の今後についてでございますよ」
「……あの、ですから……」
さも当然と言ってのけるハラルドの態度に今度こそ気勢が削がれて、私は、そうじゃないだろう、と心中で反論するしかできなかった。
好々爺然としたハラルドの表情に、悪気の欠片も見られなかったこともある。本心から私のことを思ってくれているらしい相手に一人腹を立てると言うのも、どうにも居心地がよくない。
どう伝えれば、私の疑問を二人に正確に分かってもらえるのか。私が頭を悩ませ始めたところで、イェルドのそう言えば、と思い出したように漏らされた一言によって、私は考えることを中断させられてしまった。
「ミリアムは、我が国のことをあまり知らないのだったね」
あまり知らないと言うより、私の知っていることには偏りがあるのだと、今日でつくづく思い知らされた。
私のこれまでに得たエリューガル王国についての知識は、もっぱらテレシアのお喋りとエイナーが提供してくれた本からのものばかりだ。私自らが得たいと願って得たものではなく、自分から知る機会も今のところ手にできていない。
これまで私が常に受け身でいたことも仇になっているのだろうけれど、特にテレシアは、彼女自身が教えたいことや、私の置かれた状況を考慮して、教えてもいいことしか私に伝えてくれていない気がする。
早いところ図書館へ行って自由に色々な本を手に取り、この国についての見識を深めたいところだけれど、いまだその願いも叶っていない現状では、あまり知らないと評されるのも当然だ。
「ミリアムは十六歳と言うことだけれど、我が国では、十八歳未満は未成年……子供だ。それは知っているね?」
まるで教鞭を取る教師のように、イェルドがすいと人差し指を立てながら私に尋ねるので、私は素直に頷いた。
それは、私が目覚めたばかりの頃に、まずテレシアから教えられたことだ。私自身は大人のつもりでいるのに事ある毎に子供扱いされることには、少しの反発心と戸惑い、そして恥ずかしさが今でもある。
「では、孤児院のような施設を設けていない我が国では、保護者のいない子供を、我々成年者が代わって保護する責任と義務があることは?」
いいえと答えながら、私の中にずっと引っかかっていた疑問が解ける。
何故、イェルド達は私とハラルドとを面会させるつもりでいたのか。その答えが、ようやく私の手の中にやって来た。
「……つまり、子供である私を保護する大人として、母が信頼し、イェルド様達も信頼なさっているハラルド様が適任だと考えて、こうして会わせてくださったのですね」
「そう取ってもらって構わないかな。勿論、保護される側にも、保護してくれる相手を選ぶ権利はあるのだけれど……。救国の乙女の忠臣ラウランツォンの名は、我が国ではそれなりに力を持つ名でね。特に王都では灰色の梟の異称と併せて、下手な輩を君に近づけさせないだけの力があるから、保護先として真っ先にお薦めしておこうかと思って」
「……陛下。私を買得品か何かのようにミリアムお嬢様に紹介なさるのは、やめていただけますかな?」
「推しておかないでどうする? 何もしなければ、アレックスに全て掻っ攫われてしまうだろうに」
呆れて嘆息するハラルドを前にしながらも、私はイェルドから聞かされた新たなハラルドの呼び名に眩暈を覚えていた。
母につけられた救国の乙女の呼称にすら唖然としたのに、更に救国の乙女の忠臣だなんて。そんな人が私の後ろ盾になることを考えただけで、その言葉のあまりの強大さに恐れ多さが先立って、頭の天辺から爪先まで、全身で遠慮したい気持ちになってしまう。
それに、そんな人が私の後ろにいると知られたら、私の描くひっそり穏やかエリューガル生活は、あまりに目立ちすぎて実現不可能なのではないだろうか。
それは、非常に困る。困るけれど、ここまでお膳立てされていることを考えれば、私にこれを断ると言う選択肢は存在しないのだろう。
それでも諦めきれない私は、駄目だろうとは思いつつ、何もしないよりはと、平穏な生活の為に少しばかり足掻いてみることにした。
「……あの……私は、どうしても保護先を決めなければいけませんか……?」
「残念ながら、我が国の法で定められているからね。子供として保護されるのは気が進まないかな?」
「いえ、そうではなくて。ハラルド様にご迷惑をおかけしては申し訳ないと……」
「迷惑など。これは我らに課せられた義務でございます。どうか、お気になさいませんよう」
案の定と言うか予想通りと言うか、私の足掻きはあっさり却下され、更にはお優しいですなぁとハラルドに微笑まれてしまう。そんな笑顔を目にしてしまっては、私としても、これ以上この方向で食い下がるのは良心が痛むと言うもの。
「……そう……ですか……」
愛想笑いを浮かべて、穏やか生活が遠のく気配に、出てしまいそうになるため息を堪えつつ、それでも往生際悪く、せめてどうにかハラルドの手を煩わせない方法はないものかと頭を悩ませた。
孤児院がないことは意外だったけれど、こう言うところにもクルードの守護とやらが働いているのだろうか。親を失う子供の数が少ないことは、喜ばしいことではある。もっとも、孤児院があろうとなかろうと、私の中で孤児院に入ると言う選択肢は元から考えていなかったのだけれど。
子供の保護――具体的な話は出ていないものの、保護と言っても様々な形がある筈だ。先ほどの会話の流れから察するに、ハラルドは私の後ろ盾になることを希望しているようだし、それならば、住み込みで働く許可くらいはもぎ取れるかもしれない。
そう考えた私はもう一度挙手をして、二人に問うてみた。
「では……その、城を辞したあと……例えば、ですが。例えば、私が王都のどこかで住み込みで働く……なんてことは、できますか?」
「保護する者の許可があれば、勿論可能でございますが……。ミリアムお嬢様、まさか、そのようなこと本気でお考えではございませんでしょうな?」
私の問いを聞いたハラルドの相貌が、一気に梟に転ずる。その鋭い眼差しに、私は雲行きの怪しさを瞬時に見て取った。
これは、まずい。どうしてそんな反応を寄越されたのか分からないけれど、私にとって良くない展開になる予感しかない。
「え、と……ですから、例えば、の話で……」
慌てて弁明を試みたものの、正面のハラルドの表情から険を拭い去るには至らず、かえって睨まれるように顔を覗き込まれる結果を招いてしまった。
「では、そのようなことをなさるおつもりはないのですね?」
「…………っ……」
その問いに、嘘でも「当然です」と即答できればどれだけよかっただろう。
けれど悲しいかな、私の口は言葉を詰まらせ、即答どころか一つの音すらまともに発することができなかった。そして、それは同時に私の正直な答えをハラルドへ提示した瞬間でもあって。
私がそれと気付いた時には、ハラルドのみならず何故かイェルドからも嘆きと呆れ、そして同情と言った感情がない交ぜになった、生温い視線を貰う結果になってしまった。
(な……っ、何だって言うのー!?)
確かに、これまでに貰ったたくさんの親切を無下にしようとしている自覚はあるけれど、だからと言って、そこまであからさまに態度に出さなくてもいいのではないだろうか。それも年長の男性二人から同時にだなんて、子供に対する仕打ちとしては流石に酷いのでは。
仕方がないではないか。身一つでこの国へやって来た私は、城を辞す時だって身一つなのだから。生きていく為に仕事を求めるのは、そんなに哀れまれなければならないほどおかしな行動だろうか。
「……ミリアム」
「……何でしょう……」
穏やかな微笑を湛えてはいるけれど、肘掛けに肘をつき頭痛を堪えるように軽く額を押さえたイェルドの態度は、控えめに見ても、言葉を探しあぐねて困っているのだと言うことがありありと分かるもので。
それは、私が馬鹿な発言をしたことを、嗜められる未来しか待っていないことを示しているも同然だった。
「……例えば、君が店を営む者だとして。そこに、王家の客人が住み込みで働かせてほしいとやって来たら……君は、二つ返事で雇うかな?」
例えには、例えで。
イェルドが殊更ゆっくりと紡いだ言葉達は、乾いた大地が水をたちまち吸い込むように私の耳から入っていき、頭の中を十分に巡り切る前に、私に答えを提示させていた。
雇わない。否、雇えない。
ずしんと頭上に落ちてくるように、その言葉が私の思考を埋め尽くした。
真っ先に私が描いたのは、アルグライスで働いていた仕立屋規模の店だ。大きくもなく小さくもなく、お得意様は下級貴族がいくつかくらいの、ほどほどの店。そんな店に、しばらく王家の客人として城に滞在していたと言う人物が、住み込みで雇ってほしいと店の戸を叩く――そんな場面を想像して、私の口にした例え話が如何に無茶なことなのかを思い知った。
よほど大きな商会だとしても、そんな危なっかしい人物を二つ返事で雇うなんてあり得ない。まず真っ当な経営者なら、訳ありと判断して断る。いらぬ火の粉を自ら被るなんて、百害あって一利なし。丁重にお帰りいただいて、聞かなかったことにするのが正しい判断と言うものだ。
つまり、私が住み込みで雇ってほしいとどれだけの店を訪ねたところで、雇ってくれる先は見つからない。万が一にも招き入れられたなら、そこは恐らく真っ当な店ではない証拠。そんな店で働くことを、今度はハラルドが、引いては王家が絶対に許さないに違いない。当然、王家の客人と言うことを黙っておくことも、子供の私にはできないのだろう。
「……雇いません……ね……」
「そうだろう? もっとも、そんなことは私達が絶対にさせてやらないけれどね」
万事休す。さようなら、私のひっそり穏やかエリューガル生活。
穏やかに暮らす希望も住み込みで働く希望も叶わないだなんて、私はこの先、どうしたらいいのだろう。
ここは、目標をとにかく他国の王族とは会わない、この一点に絞って、極力引きこもりながら暮らす方向に変更すべきだろうか。ただしその場合、引きこもれる家をどうやって探すのか、そしてどうやって日銭を稼ぐのかが、最大の問題になるのだけれど。
「もしかしてミリアムは、王子の命を助けた相手を、王家が身一つで城から出すなんて思っていないだろうね?」
「えっ!?」
思わず驚いてしまった私のその反応にイェルドがぴしりと表情を固まらせ、ハラルドまでが呆気に取られたように目を見開いた。挙句、お労しい、とぼそりと呟かれる始末。
そんな二人の様子から分かることは、またしても私の考えがおかしいのだと言うこと。
けれど私に言わせれば、死にかけていた私を生かし、今日までこうして世話をしてもらっているだけで、十分恩は返してもらっている。むしろ、エイナーを助けた私の行為に対する礼としては、最早釣り合わないくらいに私は貰いすぎているのだ。保護の話は受けるしかないにしても、これ以上、どうして王家から貰えるだろう。
「まいったね……。冗談で言ったつもりだったのに、本気で、身一つで城を出るつもりだったのかい、ミリアム? そんな馬鹿な話があるわけがないだろうに。君が当面生活に困らないだけの援助はさせてもらわなければ、こちらとしても沽券に関わるよ」
「それに、子供の保護と言うのは、何も身元だけを保証するものではございません。この国に孤児院がないと言うことは、それに相当するだけの養護をする義務が、我々成年者には課せられているのですよ、ミリアムお嬢様」
「…………」
私は、何も言えなかった。
敢えてたっぷりと時間を使って二人の言葉を整理し、辿り着いた結論にただただ驚く。
つまり、城を辞した後の私には、住む場所も食べるものも、着るものにだって困らない生活が約束されていると。しかも、それは保護する側の義務で、その恩恵に与る権利が保護される側にはあると。
おまけにイェルドの口振りからすると、私の場合は通常の保護に加え、王家の側からも、当面の間は何不自由ない生活が送れるように必要なものが与えられるらしい。そして、それはどうやら辞退できるようなものでもなさそうだ。
そんな夢のような話、本当に現実だろうか。ひたすら虐げられるだけで何も持たなかった私が、こんなに都合よく突然何もかもを持つだなんて。
幸運がすぎて、まるで現実感がない。実はこれは夢で、私は応接室のソファでうたた寝をしているのではないかとさえ、疑ってしまう。
「……夢……」
「――ではございませんよ」
間髪入れずに否定されて、続く筈だった言葉が喉の奥で消える。代わりに、確かめるような頼りない言葉が私の口から零れ出た。
「……いい、のでしょうか……」
こんなにもたくさんの人に、数えきれないほどよくしてもらって。
「いいも何も、君はそれだけのものを受け取る権利があるのだから、遠慮なく受け取っておくれ」
「でも……」
人から何かを貰う経験が乏しすぎて喜びよりも戸惑いが大きく、どうしていいのか分からない。おまけに、またもや勝手に目頭が熱くなって視界が滲み、鼻の奥が痛くなってきて、気を緩めれば涙が出てしまいそうだ。
「これまでお辛い経験をなさった分、たくさんのものをその手になさってよいのですよ、ミリアムお嬢様。お母上であるエステル様も、きっとそれを望まれておりましょう」
「……お母様、も……?」
脳裏に、母の姿が浮かぶ。
母は、自分達の置かれた境遇について私に謝罪することもなければ、現状を不幸と決めつけて、私に幸せになりなさいと言うこともない人だった。
だから私も、屋敷の主人に折檻され続ける境遇を酷すぎると思いこそすれ、不幸だと嘆いたことはなかった気がする。もしもそんな風に思ってしまっていたなら、私は糸がぷつりと切れるように、十歳を待たずに自らの手でその命を終わらせていただろう。
決して、嘆きも弱さも怒りさえも表に出すことのなかった母。けれど、そんな母が唯一、弱さを見せたことがあったことを思い出す。
もうずいぶんと体力を落とし、ベッドから起き上がることも難しくなって来た頃のこと。短剣を手元に手繰り寄せて長いこと祈り、そして、それをしっかりと私に握らせながら告げたのだ。
『この短剣が、あなたを必ず導いてくれるわ』
それは、死期を悟った母からの別れの言葉だったと、今なら分かる。けれど、そんなことを全く感じさせなかった、ともすれば前向きな言葉。それでも唯一、母が自分以外のものに私を託すと言う弱さを見せた言葉だ。
残念ながら、当時はその後に続いた「お母様の宝物を守ってね」と言う言葉の方に気持ちが向いていた私は、守ると言う使命感に燃えるばかりで、母の言葉の意味に全く気付けなかったけれど。
あの時、母がどんなことを祈っていたのかは分からない。それでも、こんなにも私に幸せが与えられるのは、あの時の母の祈りと、唯一頼りにしてきた短剣が導いてくれた結果だろうか。
「子の幸せを願わぬ母親はおりますまい。私は、エステル様のことをよく存じております。あの方がミリアムお嬢様の幸せを願わないなどと言うことは、決してございませんよ」
ハラルドの優しい声音に、母の言葉が重なる。
『愛しているわ、私の可愛いミリアム。笑顔が素敵な、私の大切なお姫様』
いつだって、眠る時に抱きしめてくれた母を思い出す。怖い夜も寒い夜も、それだけで平気になった。母が私のことを思って紡いでくれた、幸せの言葉。
零れそうになる涙を拭って、私はできる限りの笑顔をその顔に浮かべた。母のたった一つの願いが私を今この時へと導いてくれたのなら、今だけは泣くのではなく笑わなくては。笑って、私は幸せなのだと母に伝えなくては。
『――だから、ミリアムはいつだって笑っていてちょうだい』
「こんなにもたくさん……ありがとうございます」
お母様に、どうか伝わりますように――そう思って笑おうとするのに、拭っても拭っても零れてしまう涙がおかしくて、私は泣き笑いの顔のまま、とうとう声を上げて笑ってしまった。
そんな私をイェルドとハラルドはただ静かに見守ってくれて、二人の優しさにも、改めて私は幸せを噛み締めた。