私の味方
向かった先は、午後の試合開始までの間を一時過ごした、騎士団宿舎の応接室。途中、食堂の前を通り過ぎざまにハラルドの姿をその中に探したけれど、そこに彼の姿はおろかレナートの姿すらなく、雑談に興じて賑やかに過ごす出場者の姿があるだけだった。
その平和な光景は、まるで私だけが違う世界を見ているかのようで、恐怖がせり上がる。温かなエイナーの手に握られていても私の指先は冷えるばかりで、足元の感覚さえ覚束ない。
応接室で勧められるままにソファに座った私は、周りへの配慮もできずにただただ一点を見つめて、せめて今日だけは何事もなく過ぎてくれることを必死に祈っていた。
並行して、今後のことにも必死に考えを巡らせる。
この日を無事に乗り越えられたなら、すぐにでも城を出て、私は姿を消そう。むしろ、今夜中に発つべきか。私の過ごす部屋から外へ出る道順は、今日で覚えた。幸い、祭りのお陰で城内も一晩中賑わうと言うし、私が夜中に外出着を纏って城内を彷徨いていても、きっと怪しまれない。祭りを楽しむ人々に紛れてしまえば、城の外に出るのも容易いだろう。体力だって、午前中にあちこち歩いてみて、十分戻っていることは確認できた。一晩中歩き通すことは無理でも、予め出店で飲食物を購入した上で小休止をいくらか挟めば、それなりの距離を進める筈。
恩を仇で返すような去り方にはなってしまうかもしれないけれど、エイナー達が血を見る事態になる可能性を考えれば、これくらい、可愛い無礼だと思って許してほしい。
とにかく、私の所為で仲のよいこの家族が傷つくところを、私は絶対に見たくない。そして何より、私も死にたくはない。
両手をきつく握り締め、自分に言い聞かせるように、心中で何度も大丈夫だと繰り返す。
周囲に気を配る余裕をすっかり失っていた私は、だから全く気が付かなかった。
私の隣に座っていたエイナーが私に声をかけようとして、それを向かいに座るキリアンに止められていたことも。そのキリアンが、父であるイェルドを睨みつけ、だから気を付けろと言ったでしょうと窘めていたことも。そんな息子の非難に対して言い返すことができず、イェルドがすっかり弱り顔になっていたことも。
そして最後に、扉の向こうを気にしつつ、キリアンがソファから立ち上がったことにも。
「――ミリアム」
視界の端に誰かの靴の爪先が入り込み、私は弾かれるように顔を上げた。
目の前の黒衣に気が付き、更に首を上げて、対面のソファに座っていた筈のキリアンが、いつの間にか目の前に立っていることに更に驚く。
「……キ、リアン……様?」
ただでさえ小柄な私にとって、背の高いキリアンに座った状態の自分をすっかり見下ろされている状況は、その黒衣と血を思わせる紅い瞳も相まって、威圧感を覚えるのに十分だった。加えて、今しがたまで最悪の想定を巡らせ、思考の半分以上を恐怖が占めていた私には、彼のその姿は肩を震わせるのにも十分で。
失礼な反応をしてしまったと咄嗟に顔を伏せたけれど、キリアンからは微かに笑う気配が漏れただけで、私の態度を咎める様子はなかった。
「……ミリアム。あなたが今何をそんなに恐れているのかは……多少は想像がつくが、それらは全て杞憂だと言っておこう」
私の目の前で片膝を付いたキリアンに固く握り締めた手を取られ、ゆるりと顔を上げた私に、キリアンが笑いかける。ただし、それは相手を慈しむようなものではなく、さながら、お転婆を叱られて泣いて取り縋る妹をあやす兄のような、愛しさの滲むものだった。
「物事をすぐに悪い方へと考えてしまうのは、あなたの悪い癖だな」
「……え……?」
キリアンに言われた内容がゆっくりと頭の中を巡り、徐々にその意味を理解するに従って、私の体温が上昇を始める。
「この国で暮らしたいと言ってくれたあなたに、私達がわざわざ危険な人物を示して、怖がらせるような真似をするわけがないだろう」
重ねて告げられ、私はここに来てようやく、自分がまたしても勝手に悪い方へと思考を巡らせていたのだと理解した。そして、それをキリアンに悟られていたことも。
ふと片腕に誰かの手が触れる感触に首を巡らせれば、心配そうに私の顔色を窺うエイナーの顔。
キリアン同様に温かな体温に、先ほど強く手を握られていた時のことが思い出される。
既にあの時、私は無意識にここから去らなければと強く思っていたのだろう。だから、エイナーが手に込める力を、私を引き留める為のもののように感じていた。
けれど、本当はそうではなく、ハラルドの行動に自分勝手に恐怖を覚えていた私を、少しでも安心させようとしてのものだったとしたら。
「あ、の……それでは――」
私が言いかけたところに扉を叩く音が重なって、全員の視線が一瞬、扉へ向かう。けれど、その扉が開く前に、すかさずキリアンが外にいる者へと声を張った。
「少し待て。今、取り込んでいる」
ごく小さな舌打ちと、堪え性のない梟が、と続いて呟かれた悪態は、きっと聞かなかったことにした方がいいのだろう。
私の手を握る力がやや強められ、キリアンがとにかく、と続けて殊更明るく振る舞う。
「あなたには、今日は一日、ただこの祈願祭を楽しんでもらいたいんだ」
「ふ……振り回されて、ばかり、です、けど……」
「それも含めて」
キリアン達が何の説明もしてくれない所為で私は楽しむばかりではない、と抗議したつもりがばっさりと切り捨てられて、私は思わず絶句した。
「……な、なんて無茶な……」
「無茶は楽しむものだろう?」
「……それは、どこの国の偉人の言葉ですか」
「人生を楽しく生きる為の、ただの助言だ」
「なっ。人の気も知らないで……っ」
なんて勝手なことを言うのだろう。誰の所為で、私がこんな目に遭っていると思っているのだろう。きちんと事前に説明さえしてくれたなら、私だってこんなにあれこれと勝手に思い悩んだりしていないと言うのに。
人を揶揄うキリアンの態度と言い分に我慢ができずに私が声を荒立てると、キリアンは何故か、反省するどころか安心したように一つ息を吐いた。
「私に言い返せるだけの元気が戻ったなら、もう大丈夫だな」
「……っ」
いつの間にか、強張っていた体からは余計な力が抜け、酷く冷たかった指先には熱が戻り、胸の中に渦巻いていた恐怖もどこかへ消えていた。
思考にも冷静さが戻り、少し前までほんの目の前のことしか見えていなかった視界も大きく広がって、明るい。
「ミリアム。これだけは覚えておいてほしい」
真摯な眼差しが、至近距離で私に注がれる。
「ここは、これまであなたが暮らしていた国ではない。ここには、あなたを理不尽に罰する者も、あなたの苦しみに背を向ける者も、あなたの助けを求める声を無視する者もいない。そして……私達は、あなたの味方だ」
キリアンの一言一言が、私の胸に重く強く、温かく響く。
「……味方」
遥か遠い昔に諦めた存在を表す単語を、噛み締める。
私には、味方なんていなかった。
初めの内はそれを求めていたけれど、いざ私の身に起きている状況を話したら、途端に頭がおかしい女と思われて、誰も彼もが私の元から去っていった。気が触れてしまったと修道院に無理やり送られたり、噂が広がって家族ごと白い目で見られることもあった。
女神を信奉しているのに、不可思議な体験を神の御業と考える人も誰もおらず、私がそのことを口にすると、女神を冒涜するなと罵られもした。
その内、誰か一人は信じてくれるかもしれないとの希望を抱くことをやめ、打ち明けることも諦めて一人で考え込むようになると、今度は皆が私を遠巻きにした。家族も、初めの内こそ思春期だからだとかなんだとか理由をつけて見守る姿勢でいたけれど、次第に薄気味悪がるようになるのが殆どだった。そして、そんな私に近付いて来るのは興味本位の物好きばかり。私が噂に違わぬつまらない女と見るや、二度と寄っては来なかった。
だからもう長い間、私は一人でいることを自ら選択し続けてきた。それはこの、ミリアム・リンドナーの人生でも同じ。いや、この人生では、嫌でも一人にさせられたと言った方が正しいだろうか。
それなのに、こんな私の味方だと言ってくれる人が現れるなんて。
たとえそれが、私の抱える秘密に対してではなく、ミリアム・リンドナーのこれまでの境遇を思ってのものだとしても、初めてのこと。アルグライスに居続けていたなら、きっと得られなかったものだ。
「……ありがとう、ございます……」
私は口元を緩めた。この国での、私のささやかな願いを叶える助けになってくれるだろう味方の存在は、とてもありがたい。
目尻から一筋、感謝と喜びの涙が零れる。
「ミリアムは、泣いてばかりだね」
確かにここ最近、もう十年もまともに泣いたことがないとは思えないくらい、私は泣いている気がする。けれどそれは、私の涙腺が、泣けなかった十年分を取り戻そうとしているわけではなくて。
「……皆さんが、初めてのものをたくさんくださるから」
嬉しいことばかりが私の身に立て続けに起こり、そのことに安堵して気が緩んでしまうからだ。
「じゃあ、これからももっと泣いちゃうかもしれないね、ミリアム」
「……あんまり泣かせないでください」
エイナーが嬉しそうにし、私が涙を拭ったところでキリアンが立ち上がる。そして、口を挟むことなく成り行きを見ていたイェルドに向き直った。
「では、陛下。くれぐれも、これ以上彼女におかしな誤解を与えることのないよう、お願いいたします」
「……いつまでもお前に睨まれたくはないからね。肝に銘じておこう」
イェルドの返答に、今度はエイナーが席を立った。休憩は終わりだろうかと、その動きを目で追った私も続けて腰を上げようとしたけれど、何故かすぐにエイナーに押し止められてしまう。
「ミリアムにはお客様が来ているから」
言われて、扉の向こうで入室を待つ存在がいたことを思い出した。キリアン曰く、堪え性のない梟――恐らくは、ハラルド・ラウランツォンだろう。
彼が、私に会いに来ている。
見つめられたあの瞬間を思い出して、無意識の内に、でも、と言葉が零れた。
私の抱いた勘違いはキリアンによって訂正されたけれど、こんなにもすぐに対面するのは、少しばかり勇気が要る。当然、心の準備もできていない。
「……き、急すぎます……」
心の準備もなく人と対面させられるのは今日で二度目だけれど、二度目だからと言って慣れるものではない。
どうしてこう、私の出会った人々は私に対して無茶振りばかりするのだろう。まだ、無茶をも楽しめるほどの心の余裕は、私にはないのに。
「大丈夫だよ、ミリアム。何かあったら、全部父上の所為にしていいから」
「エイナー、それは……」
「頼みましたよ、陛下」
「キリアン、お前まで……」
口々に息子から責任を押しつけられたイェルドは、二人の視線に有無を言わせぬものが込められていたのか、自分の子供には甘いのか。強く言い返すことをせず、敵わないと言いたげに眉を下げた。
そして、仕方がないと、子供達へ向けて一つ頷いてみせる。
「それじゃあ、ミリアム。僕と兄上は、少しだけ席を外すね」
またあとで、と軽い調子で告げられて、私はキリアンへ顔を向けた。
「出場者達の労いだ。しばらく一人にさせてすまないが、そこの似非紳士やこれから来る似非執事に対して思うことがあったら、下手に自分一人で考え込まず、はっきり口に出すことだ。……いいな?」
私の無言の問いかけを理解してくれたキリアンからは、答えだけでなく揶揄交じりに釘を刺されてしまい、私は、似非紳士だの似非執事だのと言う単語に反応するより前に、ぐ、と一瞬言葉に詰まった。
私に会いに来たらしいハラルドとこれから対面する私は、油断すると、きっとまたおかしな勘違いをしてしまうに違いない――キリアンの切れ長の瞳は、そんな懸念を含んで私を見下ろしている。
どうやら私は、すっかりキリアンに勘違い常習者と認識されてしまっているらしい。私としては、常習者と言われるほど酷くはないと思いたいけれど、今しがたやらかしたばかりでは、否定することも言い返すこともできない。
「……ぜ、善処、します……」
「これまでのあなたの暮らしを思えば仕方がないことだろうが……。すぐにとはいかなくとも、少しずつ慣れていくことを覚えた方がいい」
「はい……」
私の消え入りそうな返事を最後に、キリアンとエイナーの二人は連れ立って部屋を出て行った。そして、彼らと入れ替わるように部屋へと入って来たのは、思っていた通りの人物。
白いものが目立つ薄墨色の髪に、鉛色の瞳、綺麗に整えられた口髭、厳格を絵に描いたような眉。そして、年相応に皺が刻まれた顔――つい先ほど終了したばかりの試合で、レナートと激しく剣を交えていたハラルドその人が、私の目の前に現れた。