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成猫と子猫、騎士と執事

 私が密かに安堵の息をつく中、再び人々の歓声に埋め尽くされた会場で、二人が握手を交わして試合開始の所定位置へと向かう。ライサは意気揚々すぐに剣を構えたけれど、オーレンは剣を構える前に来賓席へ向かって優雅に一礼。そして、上げた顔が真っ直ぐ私を捉えた。


 ぽかんとする私を、オーレンの気障な笑みが見つめる。一拍遅れて、先ほどの礼は私に対してのものだったのだと気付き、私は遅ればせながら頬が熱を帯びるのを感じた。

 夜会でのダンスの申し込みとはわけが違うそれは、大勢の人々の前と言うこともあって、酷く気恥ずかしい。

 同時に観衆もそれと気付いて、王族入場時と同様、再び一斉に人々の注目が私へ集まる。そして、騒めきに交じって聞こえてくるのは「勝利宣言」の声。


 なるほど、試合前に泉の乙女へ敬意を表す行動には、そんな意味が――そう理解したところで、私は控えめにオーレンへと笑みを返して、ライサへも微笑みかける。

 いくら畏まらなくていいとは言え、与えられた役割はきちんとこなさなければ。泉の乙女は、女神リーテの代理人。出場者全員に対して、公平でなくてはならない。

 二人に対して心の中で平等に健闘を祈り、私は自らの視線を、これから始まる試合へと向けた。


 審判の合図で始まったライサとオーレンの試合は、前の試合とはまた違った光景が繰り広げられ、今度こそ私は最初から最後まで目を逸らすことなく見入る。


 試合前のオーレンの勝利宣言に気分を害したのか、午前中に見た試合とは一転、ライサは初めから全力を出すかのように激しい攻めの姿勢を見せていた。素早い動きで斬りかかっては距離を取り、またすぐ別の方向からオーレンへと剣を薙ぐ。私と同じほどの年齢の子供とは思えないその動きは、見ている側をも翻弄して、ともすれば目が回る素早さだ。


 一方のオーレンは始終余裕の表情を崩すことなくライサの剣を受けては払い、受けては流す。彼女の動きを全て見切って最小限に動くその足取りも、まるでダンスでも踊っているかのように軽やかだった。

 膝よりも低い姿勢から、まるで足にばねでもあるのかとばかりにオーレンの足を目掛けて地面を蹴るライサを、オーレンがこちらも優雅に跳躍で躱す。おまけとばかりに真下に迫ったライサの背を、跳馬よろしく手でついて逆側へ飛び、彼女との立ち位置を入れ替えた。


 成猫に挑みかかる子猫――そんな光景が不意に私の脳裏を駆け抜けるくらい、二人の実力差は歴然としていた。

 それでも、ライサは諦めることなく剣を繰り出す。ただ、先ほどのオーレンの行動に腹を立てたのか、その怒りが彼女の動きを単調なものにさせて、本来ならばオーレンへ届いただろう剣先もあえなく空を切ることが目立ってきていた。

 次第に、あれだけ派手に動き回っていたライサの足の動きにも切れがなくなり、軽く息をつくだけのオーレンに対して、ライサは大きく肩で息をし始める始末。額に浮く汗を拭う表情も苦虫を噛み潰したようで、最早誰の目にも勝敗は明らかに見えた。


 けれど、息を整えたライサの瞳は勝ちを諦めた者のそれではなく、オーレンから十分に距離を取ると、何故かおもむろに胸当てを外してしまった。全員が呆気に取られる中、両手両足の防具まで全て取り払い、すっかり身軽になって飛び跳ねる――と、先ほどまでの鈍った動きはどこへやら、まるで一瞬にしてそこへ移動したかのような素早さで、ライサがオーレンの懐へ飛び込んだ。


 私が驚きに瞬いた瞬間、ライサの剣は過たずオーレンの剣の鍔を狙って下から襲い掛かり、一瞬反応が遅れたオーレンの手から、剣を空高くへ刎ね飛ばす。

 誰もが息をのみ、生まれた一瞬の静寂の中――一拍遅れて、宙を舞っていた剣が地面へ突き刺さった。

 勝った、とライサの顔に満面の笑みが灯る。


 けれど。


「――勝者、兵士オーレン・リンストルム!」


 審判の告げた勝者の名は、ライサではなかった。

 あまりの出来事について行けずに呆気に取られる私の前で、まるで私の心の声を代弁するかのようなライサの叫びが、場内に響き渡る。


「何で!? あたし、勝ったじゃん!! ほら! 相手の剣あっちでしょ!?」


 地面に刺さった剣を指差して審判に不服を申し立てるライサだったけれど、そんな彼女に即答したのは、審判ではなく対戦相手のオーレンだった。

 すぐそばにあったライサの小さな頭を押さえつけるようにがしりと掴み、あのな、と呆れとも怒りともつかない低い声が彼の口から漏れ出る。


「試合中に防具を脱いだら棄権とみなすって規定があるだろうが!」

「えっ!? そうなの!?」


 まるで、さも今初めて聞いたとばかりに大きな目をぱちくりと瞬かせたライサに、次の瞬間、観衆からどっと笑いが巻き起こった。


「そうだよ! 何のために防具をつけて試合をやってると思ってんだ!」

「えー……? 全力でやったら殺しちゃうから、そうならない為の……枷? ほら、防具って重いし!」

「違うわ、ボケ!」

「嘘ぉ!? 絶対正解だと思ったのに!」

「正解なわけあるか!」


 まるで掛け合いのような二人の会話に、更に笑い声が増す。


「大体な! 防具なしの状態で相手に向かって行くのは反則行為! 今のはお前の反則負けだぞ!」

「反則負けぇええええ!?」


 人々の笑いの合間にライサの素っ頓狂な叫びが会場に響いて、私はただただ呆気に取られて二人を見つめるしかできない。

 ライサの、誰も真似ができないだろう素早い動きに感心していただけに、こんな幕切れになるとは思わなかった。まさか、反則負けだなんて。予想外すぎて、状況を飲み込むのに手一杯だ。


「で、でもでも! 昼休憩の時にホルガーさんが、何でもいいから、相手の手から剣さえ弾けばあたしの勝ちだって!」

「何でもいいは、規定の範囲内で何でもいいんだ、この馬鹿!」

「えぇー! そんなの知らない! あたしにちゃんと教えといてよ!」

「知らずに参加する方が悪い!」

「だってあたし、座学嫌いなんだもん!」

「好き嫌いの問題かよ!? 言っておくがな! 反則を犯した奴は、三年間祈願祭への参加禁止だぞ!」

「えぇっ! 嘘ぉ!? 三年も出らんないの!? 本当に!? あたし、やっと今年出られたんだよ!? そんなの聞いてないんだけど! ねえ! ちょっと! 待……っ、いやー! 助けて隊長ぉおおおー!!」


 オーレンに引きずられるようにして会場を後にするライサは、最後に悲痛な叫びを残して姿を消した。けれど、それすら場内の人々には笑いの種にしかならず、また四年後にな、との慰めの言葉が飛び交うその場は、実に明るい。

 その中で、王族の護衛として私達四人の両脇に立つ団長達は、一方は顔を手で覆い、一方は顔を背けて肩を震わせていた。私のすぐ隣に座る国王イェルドも、先ほどのエイナーの時同様、笑いを噛み殺すように口元に手を当てている。その奥のキリアンは盛大な呆れ顔、エイナーは私の隣で何やら複雑な顔をして、口元を引きつらせたままだ。


 ライサがどの隊に所属する騎士なのかは知らないけれど、きっと今頃、助けを求められた隊長は、騎士団長と同じく頭を抱えているに違いない。そして、騎士団長の反応を見る限り、この後、ライサにはみっちりと勉強が待っていそうだ。彼らに守られる王族としても、きっと彼女の教育は急務だろう。頭より体を動かす方が好きと見えるライサには、しばらく辛い日々が続きそうである。

 これからのライサの日々を思い、私は心の中で、彼女に向かってその無事をそっと祈った。


 その後、笑いの余韻の中を始まった次の試合は、最初のイーリス達同様、互いに手の内をよく知る者同士の対戦だった。それぞれが小隊を率いる隊長と言うことで実力も申し分なく、ライサによってもたらされた笑いを払拭する、実に白熱した試合が繰り広げられた。


 互いに決定打になる一撃を繰り出せないまま、短くない時間切り結び続けた末、軍配が上がったのは女性兵士の方。

 男性兵士からの急所への急襲を咄嗟に体を捻って回避し、瞬時に剣を持ち替えて、反対に無防備になった男性の胸当て目掛けた一打が、ようやく彼女に勝利をもたらしていた。

 勝利が確定した瞬間、お互いが地面に倒れるように転がって笑い合う姿には心地のいい清々しさがあり、二人の健闘を称える拍手がたちまち場内を埋め尽くす。


 私も二人へと拍手を送りながら、改めて女性の強さに感心していた。ライサは例外としても、イーリスといい今の女性兵士といい、男性に引けを取らない強さは、私を驚かせてばかりいる。

 アルグライスにもこれくらい女性に対して自由があったなら、私のこれまでの人生も今の人生も、もう少し何かが変わっていたのではないかと、詮ないことと理解しながらもそんな思いが浮かんでは消えた。


 そして、修練場を後にする兵士二人と入れ替わるように、午前の試合を勝ち残った八人の、最後の二人がその姿を現す。一人は、言わずもがな騎士のレナート。対するもう一人は、今回の出場者の中で最も高齢と思われる、五十がらみの兵士だ。

 レナートは殊更、王太子の騎士であることを見せつけるように、その顔に貴公子然とした微笑を貼り付け、優雅に流れるような身のこなしで歩を進めている。その隣を共に歩む兵士は、主人に長年に渡って仕える規律に厳しい老執事を思わせる、機敏ながら品位ある乱れのない動作が、衆目を引きつけていた。


 事前に教えてもらったテレシア情報によると、レナートの対戦者であるハラルド・ラウランツォンは兵団の前副団長。年齢を理由に、十年ほど前にその座を辞して後方へ下がったものの、今現在も新人教育を担う教官としてその腕は衰えるところを知らず、兵団の参謀としても団長の信が厚い人だと言う。

 表情一つ変えることなく淡々と、新人兵士に容赦のない地獄のようなしごきを課し、規律に厳しく常に団内の風紀にも目を光らせ、様々な情報に精通し、時に兵団の頭脳として大いに貢献する彼につけられた異称は、灰色の梟。彼が副団長の時分から、王都警備兵団内で最も恐れられている人物なのだそうだ。ちなみに、五年前の祈願祭の優勝者でもあると言う。


 そんな相手と、これからレナートが剣を交える――無意識に胸の前で手を組んで、私は会場中央で握手を交わす二人の様子に固唾をのんだ。

 そんな私の耳に、イェルドが愉快そうに零す声が聞こえてくる。


「これはこれは……灰色の梟が、珍しくご立腹だね」


 隣に座る私だからこそ聞き取れただろう声量で呟かれた一言に、私はイェルドを窺い、そして会場へ視線を落とした。

 互いに背を向けて所定位置へ向かう二人の様子は、私には会場に姿を現した時と何ら変わりなく映り、特段ハラルドが気分を害しているようには見受けられない。私個人がハラルドと言う人物を今初めて目にしたが故にそう見えるのかと周囲の反応を窺っても、誰もハラルドの様子を注視している者はいなかった。当然、彼が立腹していると気付いている者もいない。


 改めて私がイェルドの言葉の真意を探るように彼へと瞳を動かせば、私の視線に気付いたイェルドが、立てた人差し指を口元に当てて、わずかに私の方へと体を寄せた。そして、耳元で囁く。


「彼は今でこそ兵士なのだけれど、昔は従僕として、ある家で働いていてね。いずれはその家の執事として働くことを望まれてもいた、優秀な人間だったのだよ。本人もそのつもりで、その家の一人娘を己の生涯の主と定め、彼女に忠誠を誓っていたとか」


 場内では、二人の試合が既に始まっている。ただし、これまですぐに動きのあった試合とは違い、互いに剣を構えたまま微動だにしていない。初めは歓声を上げていた観衆も全く動かない二人の様子に次第に口を閉じる者が増え、会場は徐々に静かになり始めていた。

 そんな中で唐突に始まったイェルドの昔語りは、私を大いに動揺させた。


(誰が、誰の、何ですと……?)


 あまりの動揺に、いつかと同じ言葉が頭を過る。


「あの……イェルド陛下?」


 とある家の一人娘なんて、名前を出さないだけでイェルドが誰のことを指しているのかは明白だ。その符号に合致する、この国で私に関係する人物の心当たりは、たった一人しかいない。

 私の視線にイェルドは小さく肩を竦めて姿勢を正し、それきり彼の夕日色の瞳が私を見ることはなかった。


「…………」


 つまり、こう言うことか。

 ハラルドには、私のことは何一つ教えていない。それなのに、ハラルドは私が、彼がかつて忠誠を誓った主――私の母エステル――の娘であるとどう言うわけか確信していて、致し方なかったとは言え己の主を国外追放した王家が、その娘をいつの間にか手元に置いていることを知って、大層ご立腹である、と。


 母に忠誠を誓った彼がこの国に今もいるのは、母に国外への同行を拒否されたからだと想像できる。そして、まるで騎士のような忠誠心を持ちながらも兵士として生きているのは、本来ならば母が守り導く筈だった民を、母に代わって彼が守り導く為だろうか。敢えて王の膝元である王都の兵士となったのは、王家に対する当てつけと考えるのは、穿ちすぎでもないと思う。


 そんなハラルドにとって、この試合の対戦者であるレナートは王太子の騎士、王家の意思を代弁する者と言ってもいい。彼としては、何としてもレナートを負かして王家に一言物申したいに違いない。もしかすると、私のこの先の暮らしについても口を出す可能性は大いにある。

 いまだ動く気配のない二人の姿が、途端に、ただ豊作を願って力比べを行うと言う軽いものから、互いが背負うものを賭けた真剣勝負へと変貌したように私の目に映った。

 そこまで考えて、私は頬を引きつらせる。


 恐らくハラルドが私の姿を目にしたのは、騎士団宿舎の食堂。入口からそう離れていない場所にレナートの姿を見つけたエイナーが声を上げて、一時立ち止まった時だろう。

 あの時の私は、立て続けに予想外のことに巻き込まれて、冷静に物事を考えられる状態ではなかった。その所為で考えが及ばなかったけれど、あの食堂前での出来事は、最初から想定されていたことだったのか。

 レナートの立ち位置もエイナーが声をかけたのも、予め打ち合わされていたものだとしたら。ハラルドが立腹している姿を見て、イェルドが予想通りとばかりに愉快そうにしているのにも、合点がいく。


 どうしてわざわざそんなことをしたのかは、私には分からない。どうせ今質問をぶつけたところで、あとで説明するから、と言うお決まりの言葉が返ってくるだけだろうから、考えるだけ無駄だ。

 ただ、エイナーまでがこの件に関わっていることには、少なからず動揺した。特に、私をエスコートすることへの喜びに嘘がなかった分余計に、エスコートのついでに大人達の企みに加担していたことが、少しばかり悲しい。

 心のどこかで、私のことを最初に友人だと言ってくれたエイナーだけは、そんなことはしないと思っていたのに。


 勿論、これまで様々に親切にしてもらって、キリアンを始め彼の周囲にいる人達が、私をよくないことに利用するとは思わない。今回のことにも何かしら理由があり、それは私を陥れる為ではないのだろうと頭では理解している。だからこそ、エイナーも賛同したのだろう。けれど、それならば何故、と言う疑問に対する答えが得られない以上、私が心から安心することはできない。

 何より彼らは、他国の王太子と言う、私の死を招く存在に最も近しいのだから。


 とは言え、現状、私は彼らの手の平の上で踊らされている。もしもこのまま、私が王族の近くに居続けるようなことになったら――

 最悪の未来が脳裏を掠めて、私の背筋がふるりと震えた。

 そんな私の隣の席では、私の不安など知りもしないで、親子が言葉を囁き交わす声が聞こえる。


「キリアン、どうする? お前の騎士が負けたら、果たしてお前はあの男を説得できるかな?」

「説得? そんなもの……するまでもありませんよ、陛下」

「ほう、大した自信だ」

「自信ではなく、事実です」


 何を説得するのか。耳聡く聞きつけてしまった単語に私が不安を膨らませるより前に、キリアンの断言に呼応するように、眼下で試合が動いた。


 歓声の収まった今が好機とばかりに、若い女性の一団がレナートへの声援を送った直後、二人が同時に地を蹴り、会場中央で剣を交える。澄んだ金属音が静まっていた会場にやけに大きく響き、一拍遅れて観衆がわっと盛り上がった。

 それは束の間、私から不安渦巻く思考を彼方へと押しやってくれた。


 体の動きは最小限に、あくまでゆったりとして見えるのに一撃一撃が重いハラルドの剣は、穏やかに見えて流れが速く、ともすれば深みに足を取られて一瞬にして流される、荒れる大河を思わせた。

 対するレナートは、私のレナートに対する憧れがそう見せているのか、試合で剣を振っている筈なのに、剣まで己の身体の一部かのように操る剣舞を見ているようで、一つ一つの動作に無駄なところが全くなく、どこまでも美しかった。


 何とか前のめりになることだけは堪えて、胸元で合わせた手を握り締める。息をするのも忘れて見入り、どれだけの時間が経過したか。

 実際には、ほんの数秒のことだったかもしれない。一際大きな音と共にレナートの剣がハラルドの剣を弾き、間髪入れずにその剣先が、防御を失ったハラルドの喉元へと付きつけられた。

 レナートの剣舞が終わり、決した勝敗に観衆が沸く。


 小さく息を吐いて剣を下ろすレナートに対し、ハラルドも、どこか諦め交じりに息をついて姿勢を正した。向かい合った二人はわだかまりを払拭するように握手を交わし、歓声に応えるべくその場にしばし留まったレナートを残して、ハラルドは先に会場を後にする。

 そのハラルドの足がふと止まり、顔が上がった。厳しい面差しが不意に和らぎ、私に向かって、まるで執事の手本のようなお辞儀を一つ。懐かしむように細められたその目に見つめられて、私はひゅっと細く息をのんだ。


 どうして思い至らなかったのだろう。キリアンから母について語られた時に、私自身が一度は考えた筈なのに。母を強く慕うあまり、かえって王家憎しの感情を育てることだってないとも限らない、と。そして、そう言う者達の執念深さは、時に想像を超える成果を生み出すものだ、とも。

 私の姿を一目見て、己が主の娘だと確信したほどの人物だ。恐らく、私だけがこの場に現れていることで、母が既に亡くなっていることにも考えが及んでいるに違いない。


 だからこそ今、私の姿を通して母を見つめたのだろうし、そんなハラルドの目に、果たして私はどう映っただろうか。最初に食堂で私の姿を目にした彼は、何を考えただろう。

 私の存在と彼の主の死を、長年、彼の中で燻ぶり続けてきた王家への感情を吐き出す絶好の好機と捉えていたとしたら――その先にある最悪は、死だ。


 クルードの加護を信じるならばキリアンは死なないとしても、イェルドやエイナーはそうとは限らない。ハラルドのことを語ったイェルドの態度を見れば、彼がハラルドを危険視していないことは明白。その隙を突かれて、もしも彼ら王族の血が流れるようなことがあれば、私は――


「――ではミリアム、行きましょう」


 不意に視界に入ってきた小さな手に、私の思考が強制的に遮断された。

 慌てて顔を上げれば、手の持ち主であるエイナーが、こちらもまた、すぐそばに潜んでいるかもしれない命の危機に毛ほども気付いていない様子で、席を立っている。


「……え?」


 状況が飲み込めずに乾いた声を落とす私に、エイナーは正面に立っていた体をわずかばかり横へずらして、私に差し出したのとは別の手をそちらに差し向けた。


「次の試合の前に、これから少し、休憩の時間が設けられているのです。僕達も一度、下がりましょう」


 観戦席を見渡せば、なるほど、その場に留まる人、移動する人、様々入り乱れて雑然としていた。いつの間に、と私が驚く隣ではイェルドも立ち上がる素振りを見せていて、その流れに押されるように、私も無意識にエイナーへと手を差し出す。


 来た時と違い、何故か強く私の手を握り締めるエイナーのその手は、まるで私に、どこにも行かないでと懇願するようだった。


これまで「貴賓席」と表記していた部分を「来賓席」に変更しています。

その他、個人的に気になった表記をいくつか修正していますが、物語の内容に変更はありません。

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