祈願祭、午後の始まり
視線が痛い。
つい先ほど王族が修練場の観戦席に現れるまでは、この会場は午前よりも数多く押しかけた人々の熱気で溢れ返り、試合への期待のこもった騒めきが占めていたのに。
第二王子に手を引かれながらやって来た泉の乙女の姿をその目にした途端、会場の騒めきはその色を変えていた。
多くを占めたのは驚きと戸惑い、わずかに崇敬。次いで囁かれる「誰?」の声。そして刺さる視線。
結果、今の私は右を見ても左を見ても下を見ても、必ず誰かと視線がぶつかる。だからと言って、まさか上……空を見上げるわけにもいかない。来賓席の最上段、王族と同じ並びに座る私に、そんな態度を取れる筈もない。
仕方なく、方々から向けられる視線全てを無視するように、今はまだ誰もいない修練場の、その土の地面へ視線を投げた。今の私は泉の乙女、そう言い聞かせ、顔には鏡越しに見た自分の姿に似合うよう、控えめな微笑を浮かべて。けれど、その背には盛大に冷や汗を流しつつ、私は試合開始の合図を、観衆達とは全く別の心持ちで待ちわびている。
予想はしていたことだったけれど、いざ実際その場に身を置いてみると、予想よりはるかに居心地が悪く、こんなにも胃の痛くなることだとは思いもしなかった。
食堂でレナートに予想外に衣装を褒められた時は、彼の言葉への驚きと羞恥で、私に集中する視線にまで気を回す余裕がなかったけれど、今は何をどうしても気にせずにはいられない。
更には、来賓席のあちこちから上がる「どこの娘だ」だの「ミュルダール夫人はどこに」だの「まさかあの髪色は……」だのと言った言葉の数々。いくら声を潜めていても、距離の近い私の耳には嫌でも入ってきて、せっかく土に向かって無心になろうとしている視線が揺れてしまう。
事前にキリアン達からは、王家の客人なのだから、何も気にせず楽しめばいいと口々に言われてはいたけれど、いきなり泉の乙女役だと言われてこの場に連れ出された所為か、不安ばかりが募る。
優勝者に生命の杯を授けるなんて大役が、私に務まるとは思えない。
そもそも、王家の客人と言うなら、こんな最上段ではなく、もう少し下の来賓席の一角に一席用意してくれるだけでいいのに。どうして、泉の乙女役に私を抜擢したのか。
できるなら、今すぐこの場を去って部屋にこもり、布団を頭から被って寝てしまいたいと、できる筈もないことを頭に思い描きながら、出そうになるため息を何とか堪えた。
同時に、今更ながら、イェルドの言っていた「午後は忙しくなる」と言う言葉の意味を噛み締めて、私は周りの勢いに流されまくった自分の情けなさを嘆いた。
部屋に戻って昼食を食べ、そうかと思ったら、すっかりいつもの侍女姿に戻ったテレシアの手によって、あれよと言う間に現在の格好に着替えさせられて。着飾られた姿を鏡でじっくり見る間もなく、続けてキリアン達と共に宿舎へ移動し、途中で恥ずかしさの極致を味わって、今はこうして国王の隣。
しかも、この後の試合で優勝者が決まっても、祭りはこれで終わりではないと言う。夜には、出場者の労いも兼ねたリーテの目覚めを祝う祝宴が待っているのだとか。勿論これにも、私は強制参加が既に決定しているそうで。
ちなみにこの修練場も、試合終了後はダンス会場兼飲食を提供する場として王都の民に開放され、夜通し賑わうとのことだ。
あまりのことに、どう言うことかとテレシアに詰め寄っても、あとできちんと説明をするからの一点張りで有耶無耶にされてしまった。
私はほんの少し祭りを楽しみたかっただけなのに、周囲にされるがまま、いつの間にか祭りの中心へと放り込まれてしまっている現状には、ただただ後悔の念しかない。
とは言え、それもこれも元はと言えば、私が強く異を唱えず従ってしまった結果と言われてしまえば、それまでなのだけれど。
リンドナー家での長い下女生活で、従うことにすっかり慣れてしまったのか、逆らうことに諦めがついてしまったのか。はたまた、他人に親切にしてもらえることに不慣れで、断ることに罪悪感を覚えるのか。どうにも私は、頭で考えるより先に、口が勝手に了承の言葉を吐いてしまうのだ。
ここはもうあの屋敷ではないと頭では理解していても、これまでのいくつもの人生の経験があっても、一番新しい人生の影響と言うものは、どうしても強く私に作用してしまう。十年間の地獄のような生活は、自由になってたった数か月程度で忘れてしまえるようなものではなかった。
ただ一方で、私が本当に心底から嫌がる素振りの一つでも見せていたなら、きっと、テレシア達は自分達の意思を押し通そうとはしなかったのだろうとも思うのだ。
現に、ひっそり目立たず暮らすことを望む私としては、大勢の注目を浴びることは可能な限り避けたい事態ではあるけれど、今まで触れたこともない素敵な衣装に身を包み、特等席で試合を観戦できると言う日常からかけ離れた体験自体については、ほんの少し浮かれている。
どうせ、地味な服を着て化粧も落としてしまえば、こんなどこにでもいる小娘が国王の隣に座っていた女性と同一人物だなど、誰も気付きやしないのだから、と。
不意に隣から誰かに見られている感覚を覚えて、私は正面から右手へと、少しばかり顔を向けた。その私の動きを制するように、私の手を、小さなエイナーの手が握り締める。
彼の顔は正面を向いたままで、その表情ははっきりとは読み取れない。ただ、いつも柔らかな横顔がいつになく厳しいものに見えて、私は思わず口を開いていた。
「エイ――」
けれど、私がその名を言い終えるより先に歓声が上がり、会場に最初の試合の対戦者二人が現れる。イーリスと、ラーシュだ。
ラーシュは午前中に一度その姿を見てはいたけれど、近い距離で改めて目にしたその姿は、普段エイナーのそばに控えている優しい笑顔の「お兄さん」とは、また違っていた。今の彼は主を守り戦う騎士然としたもので、私は思わずその姿に見入ってしまう。心なしか彼の表情が午前中よりも引き締まっているように感じるのは、対戦相手がイーリスだからだろうか。
そのイーリスも、初めて会った時に感じた凛々しさはそのまま、こちらも第一王子の騎士に相応しい闘志に満ちた眼差しをラーシュに向けており、自然と私の手に力が入った。
両者が一定の距離を空けて向かい合い、剣を構える。
「――始め!」
審判の合図で、試合が始まった。
声と同時に、最初に動いたのはラーシュ。弾けるような歓声に押されるようにイーリスへ駆け、剣と剣が正面からぶつかり合う。一閃、二閃、三閃。ラーシュが激しく剣を振り、イーリスはじりじり後退しながら、その剣を受けるので精一杯に見えた。
この試合に、場外と言う規定はない。出場者は観戦席に囲まれた修練場内全てを使って戦い、勝敗は、相手を戦闘不能――気絶、負傷させるか、叩き落とすなどして相手の手から剣を失わせるか、急所へ剣を突き付けることで、決する。
反撃らしい反撃もできず、一方的に観戦席へと押し込まれるイーリスの姿に、女性達から悲鳴が上がる。一方、関係者席の一角からは、ラーシュを応援する子供の明るい声が上がっていた。歓声の合間に微かに「お兄ちゃん」と聞こえたので、ラーシュから応援に来ると聞いた彼の家族だろうか。
どちらも負けないでほしいけれど、引き分けはない。私がはらはらしながら見つめる先で、観戦席の柵まであとわずかの位置まで押し込まれたイーリスの口元に、ふっと笑みが灯った。瞬間、ラーシュが寸前で攻撃の手を止め、イーリスが下から突き入れた剣を、あわやのところで防御する。
ラーシュが慌てて距離を取り、今度は攻守が逆転。劣勢に見えたイーリスが地を蹴り一気に距離を詰め、ラーシュがそれを剣で防いだ。
ラーシュのそれが剛の剣とすれば、イーリスは柔の剣とでも称したらいいだろうか。まるでしなる鞭のように縦横からラーシュを攻めるイーリスは、気付けば場内の端から中央にまで、ラーシュを押し戻していた。
けれど、ラーシュも負けていない。イーリスの攻撃を上手く受け流して自分の攻撃へと繋げ、イーリスに攻めの流れを完全には渡そうとはしていなかった。互いの手の内をよく知り実力が拮抗する者同士、一進一退の攻防が繰り広げられる。
耳が痛くなるほどの歓声が、場内を包み込む。私を含め、誰もが二人の試合に熱中しているその中で――私は不意に、強い視線を感じた。
「――っ!」
反射的に顔を向けたのは、立ち見でごった返す人々の方角。けれど、私の目には、思い思いに歓声を上げて試合を楽しむ人々しか映らなかった。私を見る人の姿など、どこにもない。
(……気の所為……?)
そう思うものの、視線を感じると同時に背筋に走った悪寒が、決して気の所為ではないと私に訴える。好意の欠片もなく、むしろ憎悪すら感じたあの一瞬。
今のは一体、何だったのか。試合の興奮が一瞬で冷め、言いようのない不安が私の胸に渦巻く。ずっと握られたままのエイナーの手を自分から握り返し、目を閉じて、気持ちを落ち着けるように呼吸を繰り返す。
今は考える時ではないと理解していても、頑なに説明しようとしなかったテレシア、何も気にすることはないとしか言わなかったキリアン達、泉の乙女役、この国での自分の立場、色々なことが思い出されて、嫌でも考えてしまう。
その時。
「――そこまで!」
私の思考を断ち切るように審判の声が響き、一際大きな歓声が沸き上がった。慌てて目を開ければ、その手から剣を失ったラーシュと彼の顔の横へ剣を突いた姿勢のイーリス、二人の姿が飛び込んで来る。
どうやらイーリスが、ラーシュの手から剣を失わせることに成功したらしかった。
「あ……」
肩で息をするイーリスがゆっくりと剣を下ろす姿に、私は勝利の瞬間を見逃したのだと遅れて気付いた。そして押し寄せるのは、大きな後悔。
せっかく、私にとって初めてのイーリスの試合の観戦だったのに。
せめて目を閉じてさえいなければ見られたものを、と自分の行動を悔やんでも、終わってしまった試合をもう一度見ることは叶わない。相変わらず、どんな時でもやらかしてしまう自分の考え癖が恨めしい。
「凄い試合でしたね、ミリアム!」
勝利者として剣を掲げて観衆の声に応えるイーリスと、苦笑を零しながら落ちた剣を拾い上げるラーシュ。互いに握手を交わしてその場から下がる二人へ、エイナーが立ち上がって拍手を送り、私へと振り返る。
その目はいつになく興奮できらきらと輝いており、いつもの絶世の美少年に更に磨きがかかって、見慣れたと思っていても私の心臓がどきりと跳ねてしまう。
「最後までどちらが勝つか分からなくて、思わず手に力が入ってしまいました。ラーシュを応援していたので、負けてしまったのは少し残念ですけど。……もう少しだったのになぁ……」
私は最後を見逃してしまったけれど、それまではエイナーの言う通り、私も息をのんで試合を見守っていた。どちらが勝ってもおかしくない素晴らしい試合だったと、エイナーに同意したい。
けれど、私は二人へ惜しみない拍手をしながらも、エイナーにどう返すべきか迷っていた。
この場での振る舞いについては、堅苦しくなくていいと言われてはいるけれど、私がエイナーとどんな会話をするのか、周囲は聞き耳を立てている。本当に、それでいいのだろうか。王族と並んで座るような人物が無作法者では、王族の顔に泥を塗ることになりはしないだろうか。
そんな私の迷いを見て取ったのか、エイナーが着席を装って私に顔を寄せてきた。
「ここに貴族はいないから、平気だよ」
思わぬ言葉を囁かれて私が目を丸くすると、エイナーは満足そうに笑って、とすんと椅子に座った。かと思えば、今度は普通の声量で、聞き耳を立てている者に聞かせるように一言。
「兄上が、緊張している時のおまじないだと教えてくれました」
途端に、私に向けられていたいくつもの視線が、自然な動きで去っていく。同時に、こちらの様子を窺っていたキリアンが、自分の助言が役に立ったことに満足そうな笑みを浮かべるのに気付いて、私は恥ずかしさを押し隠して小さく会釈した。
どうにも、キリアンには色々と見抜かれてしまっているらしい。いや、この兄弟には、と言うべきだろうか。それとも、やはり私がエイナーにすら見抜かれるほど、分かりやすく顔に出してしまっていると言うことなのか。
どちらにせよ、私にとっては恥ずかしくて情けないことに変わりはないし、エイナーの一言に助けられたことにも変わりはないのだけれど。
一度深呼吸をして、エイナーへと顔を向ける。
「ありがとうございます、エイナー様」
「……緊張は解れました?」
「……はい」
私の小さな頷きに、エイナーが次の言葉を期待して瞳を輝かせた。
次の言葉――私の、試合の感想を。
「私も、どちらが勝つか、はらはらしながら見ていました。でも、それ以上にお二人の剣の腕を拝見できて感動しました。お二人共、お強くて格好いい、素敵な騎士様ですね」
「勿論、兄上の騎士と僕の護衛ですから!」
「女性の騎士は、私もとても憧れます」
試合でのイーリスの剣捌きを思い出して、私の口元が緩む。
筋肉のきの字もないひょろひょろの私が、これから剣を扱えるように訓練してみたところで、到底イーリスのような使い手にはなれない。それ以前に、まともに剣を扱えるようになれるかも怪しい。だからこそ、余計に憧れの気持ちが増してくる。
女性達が、挙って「イーリス様!」と声を張り上げ彼女を応援していた理由が、何となく分かった気がした。
「……ミリアムは、剣を握ろうなんて思わないでくださいね?」
「え?」
不意に掛けられた声に視線を落とせば、エイナーが恐る恐ると言った表情で私を見上げていた。その夕日色の瞳には何やら必死な色が見え隠れして、私の手をきゅっと握る。
「絶対、駄目ですよ?」
エイナーが、何をそんなに必死になっているのかは分からない。けれど、まさに今、剣をまともに扱えるかも怪しいと思っていたところなので、私は素直に頷いた。と言うより、エイナーの中に、頷かなければならないような必死さを感じては、彼を安心させる為にも頷かざるを得ない。
「私では、イーリスさんのように剣を扱うなんて、できませんから――」
ただ、護身の為にも短剣くらいは扱えた方がいいのでは、とは思う。
母の形見の短剣ですら、ろくに扱えずに危ない目に遭ったのだ。それでは形見にも失礼だろうし、この先の私の生存確率を上げる為にも、短剣に親しんでおくことに損はない筈。
「……もし扱うとしても、短剣止まりかと」
「た、短剣……」
「短剣も駄目ですか?」
女性でも騎士や兵士になれるエリューガルならば、短剣くらい、女性が嗜んでいてもおかしくない。そう思ってのことなのだけれど、何故だかエイナーは葛藤しているようで、きゅっと眉が眉間に寄っている。
もしかして、馬車の中での、私の短剣の扱いの酷さを思い出しているのだろうか。適当に振り回して、運よくほんの少しばかり相手の肌を傷付けられたあの光景を目にすれば、確かにあまりに危なっかしく思われても仕方がない。
ただ、それを上手く扱えるようにしようと言うのだから、悩む必要はないように感じるのだけれど。
エイナーの返事を待って、私がその可愛い苦悩顔を見つめていると、ややあってから、エイナーが渋々と顔を上げた。
「……鞘に納めて使ってくださいね?」
「……鞘、ですか?」
「……だって、ミリアムが猪になったら困る……」
「……猪?」
一瞬の間の後、私達の会話を聞いていたらしい来賓席のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。そして、それらは私の隣からも聞こえてくる。
イェルドは声こそ漏らしてはいないものの口元に手が伸びて、キリアンは逸らした顔を手で覆い、肩を震わせていた。ちらりと覗くその耳は真っ赤だ。おまけに、耳を澄ませれば、えい、かわ、と、何やらよく分からない言葉を呟く声まで聞こえてくる。
一方のエイナーはと言えば、家族にまで笑われたことでたちまち顔を赤くして、「父上、兄上!」と非難の声を上げていた。
笑う父と兄に、怒る弟。三人の間に挟まれて、先ほどの会話に対する疑問符を浮かべながらも、さて私はどうすればいいだろうと考え始めたところで、折よく次の試合の対戦者であるライサとオーレンの姿が修練場に現れ、その場はうやむやのままに幕が引かれた。




