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女騎士の憂慮

「それは卑怯じゃないか?」

「あら。卑怯も戦術のうちよ」

「お前ら……俺が優勝したら覚えてろよ?」

「優勝、できたらいいわね?」


 オーレンの笑みが引きつるのを見て、イーリスはせいぜい健闘を祈る、とカップを軽く掲げた。これは、連絡終了の合図でもある。途端に、今日一番の顰め面がオーレンの綺麗な顔に浮かび、こちらも終了の合図として、これ以上の話題の継続を拒否するようにその口に珈琲を含んだ。


 その時、城壁の向こうから、昼の二時を知らせる時計塔の鐘の音が微かに聞こえてきた。その音に窓の外へと注意を向ければ、宿舎に出場者を見にやって来る人はその数を減らして、随分と落ち着きを取り戻した様子が目に映る。ラーシュの一家も場所を移動したのか、いつの間にかその姿はない。


「そう言えば……ミュルダール夫人はまだいらしていないんだな」


 不意に食堂をぐるりと見まわしたオーレンが、いつもなら見える筈の姿がないことに気付いて目を瞬いた。

 ミュルダール夫人――セルマ・ガイランディア・ミュルダール。現国王イェルドの妹で、毎年この祈願祭では女神リーテの代理人、泉の乙女を務める女性だ。


 泉の乙女は試合の優勝者に対し、生命の躍動と力強さを示したとして、リーテに代わって生命の杯を授ける役を担う。王都の祈願祭では通例、王妃もしくは王女、王子の配偶者と言った女性王族がその役を務めることになっている。

 王妃亡き現在、王子に婚約者もいない王家の中で国王に近しい女性王族として、既に降嫁して王都から離れた都市で暮らしているにも拘らず、セルマが長く担ってきているものだ。


 例年であれば、前日の内に入城して午前中は出店を楽しみ、二時の鐘の音の前後には泉の乙女としてこの宿舎に入り、午後の試合の出場者へ言葉をかける。その後、午後からの試合観戦に国王と連れ立って観戦席へ現れるのだ。

 そのセルマが、いまだ宿舎に現れない。オーレン以外にもそのことに気付いている者が食堂内にはちらほらいるようで、宿舎入口を気にする素振りが時折見られた。

 何か事情を知っているのではないかと物問いたげなオーレンの視線を受けて、イーリスはすまし顔のまま一言を返す。


「夫人ならいらっしゃらないわよ」


 イーリスの返答に驚いたオーレンは、だが次の瞬間はっとして、イーリスに顔を寄せた。周囲に聞こえることを危惧して、その声が自然と潜められる。


「まさか、とうとうあの弟至上主義の兄殿下が婚約するのか?」

「違うわよ」

「だったら、弟の方?」

「馬鹿言わないで」


 流石にそちらは早すぎる。エイナーは、まだ十歳になったばかりだ。


「それなら――」


 ミュルダール夫人が来ない理由は何だ――オーレンの口がそれを言葉にする前に、宿舎の入口が俄かに騒々しくなった。小さなどよめきがさざ波のように広がって、食堂全体に伝播する。

 開け放たれている食堂の扉の向こうに皆が注目したところで、廊下を歩く一団の姿がイーリスの座る位置からでもはっきりと見えた。


 先頭を進むのは正装に身を固めた国王イェルド。それに続くのはイーリスの主であるキリアン。その後ろを、エイナーが一人の美女の手を取って歩いていく。

 宿舎内のどよめきは、どうやらその美女が原因らしかった。


 白を基調に、泉の水を表す薄青と木々の芽吹きを表す新緑色を織り交ぜたドレスは、祈願祭で女神リーテの代理人を務める泉の乙女の衣装だ。胸下の切り替えから幾重にも重ねられた薄絹は、美女が歩く度に水中を揺蕩う水草のように揺れ、縫い込まれた銀糸がその動きに合わせて煌めいて、実に美しい。


 そして、ドレスに負けず劣らず、その美女を美女足らしめているのが、水に濡れたように艶やかな緑の髪。全体が緩く波打ち、いく房かを真珠の髪飾りと共に編み込んだその髪は、白くほっそりとした美女の体を彩るように滑り、イーリスが知る姿より一段と清楚な雰囲気が増している。そして、裾の大きく広がった袖に透ける細腕が、なおのこと美女の華奢さを強調していた。


 そんな己の格好にか、それとも周囲から浴びせられる視線にか、恥ずかしげに目を伏せてエイナーに手を引かれて歩く美女――ミリアムが、エイナーの上げた声に反応して顔を上げた。

 エイナーが声をかけた先にいたのは、兵士と談笑していたレナートだ。彼も話を止めて食堂入口へと目を向けていた為、ごく自然な成り行きで二人の視線は交差する。


「とてもよくお似合いですよ」


 さして広くもない食堂内。加えて、全員が入口に注目し、ある意味静まっていたこともあって、レナートが彼女の姿を一言褒める声が、イーリスにも十分聞き取れた。

 その瞬間、ミリアムは傍で見ていてもはっきり分かるほど顔を真っ赤にさせて、小さなエイナーの背の後ろに隠れようとしてしまうくらい、盛大に狼狽える。


 果たしてこの時、食堂にいてその姿を見ていた何人が、ミリアムのその愛らしさに心奪われただろうか。


 その場に留まることをよしとせず、エイナーに先へ進むよう促して足早に食堂前を過ぎていくミリアムのその後ろ姿を、入口近くにいた者達が一斉に目で追いかける様に、イーリスは一人、ほくそ笑んだ。

 あれだけの美女ならば、観衆もそれ以外の人間も、必ず一度はその姿に見とれること間違いなしだろう。人を着飾ることを何より喜びとするイーリスの親友は、実にいい仕事をしてくれたものだ。


「……ありゃ、何だ?」

「何って……見ての通り、今年の泉の乙女でしょう」

「そう言うことじゃなくてだなっ?」


 突然の美女の来訪に食堂内が沸き立つ中、椅子から乗り出すように体を捻ってミリアムの姿を見ていたオーレンが、くわと目を見開いてイーリスに迫る。

 その顔には、事前に知らされなかった悔しさとレナートに対する少しの嫉妬、知っていて黙っていたイーリスへの腹立たしさ、そして理解……様々な感情が混ざり合って現れていた。


「……つまり、だ」


 大きく息を吐き、気持ちを落ち着けるように、とんとん、とオーレンの指がテーブルを叩く。


「彼女が例の子供で、噂の眠り姫だと」

「眠り姫?」

「知らないのか? 第二王子が寝たきりのご令嬢に随分ご執心らしいと、兵団内で噂になっているんだよ」

「……へぇ。眠り姫、ね」


 頬杖をつき、手慰みにカップの淵を指でつつきながら、イーリスはミリアム達が去った食堂入口を見やった。

 王の一団が時間になるまで宿舎内の応接室で過ごすのも、毎年のことだ。きっと今頃は、王族に加えて二組織の団長、副団長と言う面々に囲まれ、一人緊張のただ中にいるであろうミリアムを思って苦笑が零れそうになり、イーリスは努めて表情をそのままに保つ。


「その噂って、王都の人々にも広まっているの?」

「多少は広まっているだろうさ。ただ、色々知っている俺はともかく、眠り姫と今年の泉の乙女がすぐに結びつく奴は、多くはないんじゃないか? それより……」


 オーレンの言葉が中途半端に途切れ、彼自身の髪を一房摘まみ上げた。言葉はなくとも、オーレンの言いたいことは分かる。

 あの泉の乙女の緑の髪は本物か――そう問いたいのだろう。


 イーリスの反応を見極めようと目を眇めたオーレンに対し、イーリスは口角をゆるりと上げた。

 それを肯定と取ったオーレンの口から、重いため息が吐き出される。


「……まさか、とは思うんだけどな? ……繋がりがあったり……するのか?」


 何と、とも、誰と、ともオーレンは言わなかったが、王都に住む者であれば、ミリアムの髪色を見て勘付かない者はいないだろう。たとえ髪が作り物であったとしても、これから会場に現れるミリアムの姿は、否応なく一人の女性の姿を観衆に想起させる。

 テレシアもそれを分かって、敢えてミリアムを()()()()()()()()飾り立てた。


 それだけ彼女の母親の存在はこの王都では大きいものであり、その母親に、彼女はよく似ているのだ。それこそ当時、その姿を直接見たことがなく、少ない肖像画でしか救国の乙女の姿を知らないイーリス達若い世代ですら、気付くほどに。

 だからこそイーリスも、オーレンの問いが疑問からのものではなく、確認の為のものであることを理解していた。


 オーレンはいかにも否定してほしそうに眉を寄せていたが、イーリスはそれに対して微笑みはそのままに、敢えてオーレンの真似をしてテーブルを指で叩くことで返答する。

 途端にオーレンが、肘をついた手で顔を覆って肩を落とした。今にも、そのままテーブルに突っ伏してしまいそうだ。そんなオーレンの指の隙間から、嘘だろ、と小さく声が漏れる。


「引きが強すぎだろう、弟殿下。……大丈夫なのか、それ?」

「私が調べたから、問題ないわ」


 イーリスの返答を聞くや否や、オーレンが今度は勢いよく顔を上げ、苛立たしげに髪を掻き上げた。


「……あいつから珈琲なんて貰わなきゃよかったよ」

「そんなことを言って、結局いつも親切にしてくれるじゃない。あなたのそう言うところ、私は好きよ」

「俺の親切は、巡り巡って王都の民の為だ。断じてお前らの為じゃない」


 まるで酒を呷るかのように勢い任せに珈琲を飲み干したオーレンは、そのままイーリスの空のカップを手に取ると、席を立った。その背が真っ直ぐ向かうのは、厨房だ。

 同じく厨房へと向かうレナートに気付いて足を速め、連れ立って厨房の中へと消えていく二人の姿を見送って、イーリスは一つ小さく息を吐く。


 窓の外は、小さな雲が所々に浮いている以外は、相変わらず実に見事に晴れ渡っている。

 このまま何事もなく日々が過ぎていけばいい――思わずそう願ってしまいたくなるほどの空模様だが、現実はそう穏やかに過ぎ去ってはくれないだろう。

 テーブルに残された紙袋を見やって、イーリスは形のいい眉をわずかに寄せた。


 考えるのは、ミリアムのことだ。


 イーリスが彼女と初めて対面した日も、先ほども。イーリス達の前で泣き、笑い、戸惑い、喜び、赤面する姿は、至って普通の少女だった。そしてその姿は、実に生き生きとしていた。

 少なくとも、ミリアムがこれまでの十六年を生きた、アルグライス王国はモールト領へ実際に足を運び、この目で直に見、調べて得た彼女の暮らし振りを思って、暗鬱とした気持ちで帰城したイーリスの予想を覆すほどには、ミリアムは明るい少女に見えた。


 彼女がそこまで明るい表情を見せるのは、日々そばにいて看護を続けたテレシアのお陰か、毎日彼女を見舞ったエイナーのお陰か、はたまた、それが元来の彼女の姿なのかは分からない。だが少なくとも、イーリスが調査をする中で浮かび上がってきたミリアム像とはまるで違って、驚いたのは事実だ。

 仮に、イーリスが不在の間にミリアムが心身共にあそこまでの回復を見せたのであれば、それは素直に喜ばしいことだと思う。だが、身分が絶対の国で散々に虐げられてきた彼女のこと。急に他国の王城で手厚くもてなされて、不敬があってはならないと、どこかで無理をしている可能性は否定できない。


 キリアンにはイーリスの懸念を伝えてはいるものの、それでも、今回ミリアムに無茶をさせることを、キリアンは結局、本気で止めることはなかった。

 一番ミリアムを見ているテレシアがいいと言うのだから、大丈夫――そんなことを言っていたが、テレシアとて完璧ではないし、何より彼女は、時々その思いの強さで突っ走るところがある。それが、かえってミリアムを苦しめるようなことにならなければいいのだが……。

 それに、イーリスにはそれとは別に、ミリアムに対して少なからず不安に思う面もあるのだ。


 ミリアムは、傍から見る限り、何一つ後悔せず前を向いていた。それは、ミリアム自身が、彼女のいなくなった後のモールト領の様子を知りたがる素振りを見せなかったことからも確かではあるのだろう。

 だが、それが反対に、イーリスに不安を覚えさせる。

 あの日、涙を流すミリアムに咄嗟にイーリスが差し出したハンカチ。あれは、ミリアムへの手土産にと、彼女が針子として働いていた店で購入したものだった。それも、恐らくはミリアムが刺繍を施しただろう品。

 それなのに、ミリアムはそのことに気付く素振りが全くなかった。モールト領で買い求めたのだとイーリスが伝え、差し上げますと言っても、自分が作った品とは結び付ける様子もなく。ただただ、ハンカチを贈られたことに恐縮するばかりで。


 店側は、少し前に店を辞めてしまった、一番腕のいい針子の品だと認識していたのに。

 店主が辞めてしまった針子のことを口にした時の表情は、後悔に塗れていて。

 ある日突然、店の裏口の戸を叩いた薄汚い子供。その子が領主の娘の一人であることに気付いたのに、彼女の申し出通り、何も言わずに雇ってやること以外何もできなかったと嘆いてもいた。


 交わす言葉は最小限。誰とも深く関わろうとせず、文句も言わず、ただひたすらに手を動かして、依頼されたものを依頼された通りに無心で作る――その姿は痛ましく、まるで自動で動く針子人形のようだったと、旅行客と言う余所者相手に少しばかり軽くなった口が、そう語っていた。


 何を勝手な、と一瞬怒りが沸きもしたが、ミリアムが屋敷から消えても、何食わぬ顔でミリアムの異母妹である娘を連れて意気揚々と出掛ける領主のことを思えば、まだしもこの店主は後悔しているだけ人の心は持っている方だと言えよう。

 ここを出て行って幸せになっているといいですね、とたいして気のない素振りで相槌を打ったイーリスに返ってきた言葉が、今でも心にずしりと響く。


『今よりましな生活はできても、お嬢様一人では、幸せにはなれんでしょう』


 一人――そう。ミリアムは、一人なのだ。


 ミリアムを一番に庇護すべき存在から、庇護されるどころか虐待され続けてきた彼女には、そばにいて安心できる存在がいない。最も身近な者の残虐な行為の所為で、そんな存在を求めることもしない。

 今の彼女が心から信頼し、一番に頼り、その手を伸ばすのは、唯一亡くなった母親だけ。ミリアムが母親の形見の短剣を目にして涙し、もう離さないとばかりに胸に抱いた姿からも、それは明らかだ。

 ミリアムは、母親の存在だけを心の支えに、これまでを生きてきたのだろう。だから、ミリアムの内側には、母親以外の存在がない。

 アルグライスで、少なからずミリアムに関わった人々のことを気に留めないのも、針子として働いた自分が、これまで何を作ってきたのかを覚えていないのも、それらは彼女にとって、記憶に強く留めておくほど大事なものではないから。


 だが、死者は生者に寄り添うことはできないのだ。同じように、生者が死者に何かを求めても、過ぎ去った思い出しか死者には存在しない。母親の存在に縋っていては、駄目なのだ。

 生きている彼女に必要なのは、彼女と同じく今を生き、彼女と共にこの先を見たいと願ってくれる誰か。少なくとも、ミリアムが心を開いて向き合える者。

 その存在をいまだ得られていないミリアムは、いつかどこかでぽきりと折れてしまうのではないか――イーリスには、そう思えてならない。


 親交を深めてほしいとミリアムに対して口にしたのも、ミリアムを巻き込んでしまった者の一人としての責任からと言うこともあるが、せめて友として、彼女にそのことを気付かせる手助けができればとの思いからだった。

 ミリアム自身はまだそれと自覚していないが、彼女の容姿、出自も併せて、エイナーの誘拐に巻き込まれたが故に、彼女はこの国では「ただの被害者」ではいられないのだから。


 その為にも、イーリスは彼女の為に最善を尽くすと決めている。

 まずは今日。この芽吹きの祈願祭を、無事に終わらせる。


 広げられた紙袋を、決意を込めるように丸めて手の中に収めた。

 その手の向こう側、食堂の入口にラーシュが現れ、更にその後ろから、試合の進行係の兵士が姿を見せる。

 その兵士が、午後最初の試合の出場者であるイーリスとラーシュの名を呼ぶ声に、イーリスは静かに立ち上がった。


「悪いけど、手加減はしないわよ」

「勿論。自分も、簡単に負けるつもりはないんで」


 短く言葉を交わし、兵士の後について、イーリスはラーシュと共に宿舎を後にした。


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