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庭園でのひととき

 しばらくして私の目の前にやって来たのは、紅茶とは似ても似つかない黒々とした液体の入ったカップ。立ち昇る香りも甘やかなものではなく、どちらかと言えば香ばしさが強い。

 まさか、これが珈琲なのだろうか。この黒いのが。

 得体の知れない液体を前に、私はイェルドの言葉に甘えてしまった数分前の自分を激しく後悔した。カップの中身に目を落としたまま、生唾を飲み込む。漂う香りだけは美味しそうと言えなくもないけれど、その色からは全く味の想像ができない。


 ちらりとイェルドを窺い、彼がどうぞと頷くのを目にして、私は恐る恐るカップに口をつけてみた。テーブルにはミルクが用意されていたけれど、勇気を持って、まずはそのまま。

 一口含んだ途端、得も言われぬ苦みが口の中に広がって、思い切り顔を顰めてしまう。木の実独特の甘みを微かに感じはするものの、後味に残る酸味がそれを凌駕して、何とも言い難い。飲料と言うよりは、薬と言われた方が納得する味だ。


 迷わずミルクのポットに手が伸びて、私は遠慮することなくカップの中にミルクを注いでしまった。黒かったカップの中身があっと言う間に薄茶色に変化して、見た目だけはミルクを入れた紅茶と大差なくなる。

 それをもう一度、口に含んだ。今度はミルクのお陰かはっきりと甘みが加味されて、苦みと酸味も随分和らいだ。これなら、何とか飲めそうだ。

 けれど、こんなものを好むイェルドの味覚は、一体どうなっているのだろう。


「どうやら、お嬢さんのお口には合わなかったようだ。これは残念」

「……いえ、あの、ミルクを入れた状態でしたら……」

「口に合わなかった者は、皆そう言うのだよ」


 私が直接的な言葉を避けた途端、イェルドから何でもないことのようにバッサリと両断されて、私は継ぐ言葉を失った。

 ここは即座に謝罪すべきか、愛想笑いの一つでも浮かべて曖昧に濁すべきか。私が考える間に、イェルドはしみじみと味わうように珈琲を飲んで、こんなに美味しいのになぁと言いたげに目を細める。


「息子のキリアンに至っては、新手の毒物実験かと目を剥いてね。私はそこまで酷い父であった記憶はないのだけど……」


 突然の物騒な発言に、私はキリアンの体質を思い出してはっとした。

 クルードの加護のお陰で、全く毒が効かないキリアン。イェルドの口振りからは、キリアンはそれでも、自分を殺す毒がないかを常日頃から試し続けているのだと言うことが窺えて、衝撃を受けた。

 彼が死なないことは喜ばしいことだけれど、それはそれで、とても悲しい。


 死ねないが故に、死を探求する――それは、死ぬことで生き続けてしまうが故に死を忌避する私と、どこか似ている気がした。

 私が悩み苦しみ藻掻いたように、彼も悩み、苦しんでいるのだろうか。いつか必ず死ぬとは分かっても、それまでは生きることを強制されることを辛いと感じているだろうか。

 一時的かもしれないけれど、私はキリアンと出会えたことで、死から遠ざかることができた。ではキリアンは、どうなのだろう。


「これは失礼した。若い女性とのお茶の席で出す話題ではなかったね」


 手元に落ちた視界の端に菓子の載った皿が近付けられたのが見えて、私は慌てて顔を上げた。


「……申し訳ありません」


 自分の迂闊な行動に恥じ入る。

 長年の間に、私は、自分の死に関連する物事に触れるとすぐに考え込んでしまう癖がついてしまった。これは、殺される可能性が少しばかり低くなった程度で、すぐに改善できるようなものではない。息をするように私を思考の渦に引き込んで、ついつい没頭させてしまうのだ。


 いつだったか、あまりに考え込んでばかりいて人の話を聞かないことから、耳なし令嬢なんて不名誉なあだ名が付けられた人生もあったことが、ふと思い出された。

 目上の相手とのお茶の席の時くらい目の前のことに集中しなければ、いつまた、「ミリアム・リンドナー」も耳なしと揶揄されるかしれない。

 気を引き締める意味を込めて珈琲に口をつけ、私は寄せられた皿に目を向けた。


「私のお勧めはチーズなのだけど……お嬢さんにはクッキーの方が合うかもしれないね」


 チーズを見た瞬間に不可解な顔にでもなってしまったのか、私が尋ねる前に、イェルドがさり気なく先回りする。取り繕うように笑ってみるけれど、恐らくは口に合わなかった人は皆、私と似たり寄ったりの反応を示したのだろう。

 私はイェルドに勧められるまま、素直にクッキーを苦い珈琲のお供に選んで口に運んだ。口の中に残る苦みと酸味が、クッキーの甘さに中和されてほっとする。

 時と共に味覚も変化すると言うし、いつかは私にも珈琲を美味しいと感じて飲む日が来るかもしれない。けれど今のところ、その日はまだ少し遠そうだ。


 爽やかな風が吹き抜けて、常緑樹の葉を揺らす。庭園は奥まった場所にあるお陰か、先ほどまでの祭りの喧騒が嘘のように、この場は静かだ。

 土と緑と花と、水の匂い。自然に包まれた空間に、鳥の囀りが楽しそうに踊る。柵の向こうに見える街並みも絵画のようで、ただこうしてゆっくりと景色を楽しむことのできる、小さいけれど私にとっては大きな幸せに、自然と顔が綻んだ。


「祈願祭は楽しんでいるかな?」


 私が、池の中を楽しげに泳ぐ小魚の群れにその興味を移した頃。イェルドにそう尋ねられて、私はそれにはっきり「はい」と答えた。


「とても楽しませていただいています。祭りの何もかもが新鮮で、初めて体験することばかりで。女神への祈りの捧げ方にもこんなに違いが出るとは思いもしませんでしたから、この祭り自体にも、とても興味が湧きました」


 アルヴァースを挟んで東にある国々は、殆ど全ての国で豊穣の女神と言えばセーを指す。たわわに実った麦穂を思わせる黄金の髪、青々と茂る草原を表す緑の瞳を持つとされるセーは大地の守護者でもあり、東方の穀倉地帯とも言われる十の小国は、特にこれを信奉しているのだ。

 けれど、それがかえって三女神信仰以外を排斥する動きに繋がった為、三女神以外の神々の存在を語る伝承や記した書物は、この十国ではなかなか見聞きすることがない。


 幸い、私はこれまでの人生のいくつかで得た知識のお陰で、それなりに他国で信仰されている神々のことを知っていたので、リーテについても多少の知識はあった。

 ただ、それがこんなにも性質の違う女神であるとは知らず、テレシアから聞かされる話は、私にとっては新鮮な驚きに満ち満ちていた。


「それはよかった。我が国は、他国から見ると随分変わった国に見られることもあるのだけれど、初めての我が国の祭りをそれだけ楽しんでもらえているとは、嬉しいね」

「はい! それに何より、試合の観戦があんなに興奮するものだなんて知りませんでした。皆さん、男性だけじゃなく、女性の出場者の方も本当に強くて……! 午後の試合も、今からとても楽しみなんです」


 俄かに祭りで感じた興奮が蘇って、自然と口数が増える。

 今頃は、レナートやイーリスも初戦を勝ち抜いている頃だろうか。午後の試合にどんな顔触れが残るのか、想像するだけで心が躍る。特にあの小さな少女、ライサが勝ち残っていたらぜひとも応援したい。今度は、どんな試合を私達に見せてくれるだろう――

 私が午後の試合に思いを馳せて頬を緩ませていると、向かいに座るイェルドが不意に相好を崩した。目尻の皺が深くなり、口元に描く弧が横に大きく広がって、心の底から安堵しているようにも見える。


「そう言ってもらえて安心したよ。息子達も、君が楽しんでいると知ればさぞ喜ぶだろうね。……ありがとう、ミリアム」


 決して大きくはないその一言が、重みを持って私の胸に届く。その時のイェルドの顔は、確かに二人の息子を持つ父親のものだった。


「……私の方こそ、ありがとうございます」 


 イェルドの言葉に込められた思いに私からも礼を返し、静かな空間に、私とイェルド、二人が吐息に交じって笑みを漏らす小さな音だけが落ちる。

 それは、この日の最も穏やかな時間だった。


 初めの内は、共通の話題として母のことに触れるべきかと考えもしたけれど、イェルドからの謝辞は、その必要がないことを私に教えてくれていて。だから、イェルドの案内で庭園を散策する間も、どちらの口からも母の話題は出ることはなく、ただ穏やかに、今日のこの時間を楽しんだ。

 そしてそれは、居館の向こうから角笛が吹き鳴らされる音が聞こえてくるまで続いた。


「おや。午前の試合が終わったようだね」

「申し訳ありません、長居をしてしまったみたいで……」

「構わないよ。とても楽しい時間だった。それに、午後はお互い忙しくなるのだし、ゆっくりできる今の内に、存分に休んでおかなければね」

「そう、ですね……?」


 イェルドの言い方に引っかかりを覚えて、思わず語尾が上がる。


 何だろう。何故だか、とてつもなく嫌な予感がする。


 せっかく気持ちのいい時間を過ごせたと言うのに、不穏な気配がにじり寄ってくるような、そんな感覚に肌がぞわりとした。庭園の花を見て気持ちを落ち着かせようとしてみるけれど、どうにも上手くいかない。


「おや? もしかして、何も聞いていないのかな?」

「……何も、と言うと……?」


 既視感を感じる。そんなことはない筈なのに、全身が、その後の展開を知っているぞと私に強く訴えた。口元が自然に引きつって、私の視線は勝手に一人の人物へと向かう。

 果たしてそこには、上機嫌も上機嫌、特上の笑みを満面に湛えた侍女が一人――


「ひっ」


 思わず小さく悲鳴を上げた私と、私の視線の先のテレシアとを交互に見て、イェルドの顔にも理解の色が広がった。


「やれやれ……。ほどほどにしておきなさい、テレシア」


 奇しくも息子と同じ言葉が父の口から出て来て、私は心の中で盛大に頭を抱えた。

 ああ、やっぱり――と。



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