初めての外出
山岳国エリューガルは、おおよそ一年の三分の一を雪に閉ざされる。地域によってはその期間は半年を優に超す場所もあるほど、雪国としても有名だ。そしてその積雪も、多いところでは建物の二階部分までがすっぽり覆われてしまう地域すらある。その為、雪の季節の間、エリューガルの人々――特にシュナークルの麓に住まう人々は、必然的に家にこもって過ごしてきた
今でこそ山深い小村に至るまで道が整備され、昔ほど家にこもって過ごさざるを得ない状況は減ってはいるが、この地域では、少し前まではそれが普通の光景だった。
雪の季節の到来までに人々は家にこもる支度を整え、雪が積もり始めると、村や町の門を閉ざす。そうして人々は、雪解けと芽吹きの季節を家の中でじっと待つのだ。
芽吹きの祈願祭は、そんな厳しい雪の季節を乗り越え、雪解けと共に始まる新たな一年の生命の繁栄を願う祭りである。
その起源は古く、エリューガル王国が建国されるより以前から、山岳地域一帯で行われていた慣習が始まりとされている。
昔の人々には、雪が降るのは生命の泉の女神リーテが、新たな生命を育む為の眠りについたからだと考えられており、雪解けはリーテの目覚めを意味していた。
そこで、雪解けを迎えて家の外に出た人々は、リーテの目覚めを祝福し、また、自分達がリーテの水によって育まれた食物で雪の季節を無事に乗り越えられたことを感謝して、ささやかな祝宴を催した。
その祝宴の中で、雪の季節を生き延びた生命の力強さと、この先の農作業へ向けて、家にこもっていた間に鈍った体を動かして働けることをリーテへ示し、新たな年の生命の繁栄を願って、男達が体をぶつけ合ったのだ。
それが時と共に他の意味が付加されるなど徐々に変化し、エリューガルと言う国が作られ地域が一つに統合された結果、ただの一地域の慣習から国の祭りの一つへと昇華されることになった。
リーテの目覚めを祝福し、新たな生命の繁栄を願う趣旨は変わらないものの、エリューガル建国の経緯もあって、今日では目覚めを祝う祝宴よりもその中で行われた生命力の顕示に主体を移した、エリューガルの年始を告げる重要な祭りの一つとして定着している。
この芽吹きの祈願祭は各地域でそれぞれ行われるものであり、地域によって若干の違いはあるものの、総じて複数の出場者を募った試合で一人の勝者を決め、その者を称え、それをもって生命の強さを示し、その繁栄を祈る流れは同じである。
最も大きな規模を誇る王都の祈願祭では、近衛騎士団と王都警備兵団、二つの組織からそれぞれ十名が選出され、剣による勝ち抜き戦が行われる。
試合会場は、王城内にある騎士団修練場。この日は城門が開放され、城門から修練場までの道程には許可を受けた出店が軒を連ね、修練場には観戦席が設けられて、多くの人々が詰めかける。
祈願祭の数日前から準備に追われだした城内は、祈願祭当日の今日は、日も昇らない時刻から、既に多くの人々が祭りへ向けて動き出していた。
◇
少し窓を開ければ、どこからともなく流れてくる、鼻腔をくすぐる食欲を刺激する匂い。普段、鳥の声の方が多く聞こえる城内は、今日は遠く近く人々の騒めきが届き、設営準備だろう作業音もそれに交じって、大変賑やかだ。
天候は雲一つない晴れと絶好の祭り日和でもあり、もう何十年とまともに祭りを楽しむことから遠ざかっていた私は、この非日常の雰囲気に朝からそわそわしっ放しだった。惜しむらくは、現在私が過ごす城の一角からは、城壁に阻まれて、坂の下の城門も修練場も行き交う人々の姿も、何一つ見えないことか。
お陰で、早く祭りの様子を見てみたいと言う気持ちばかりがはやって、ソファにじっとしていられずに、先ほどから部屋の中を一人うろうろ動き回っている。
もう何度目かの窓の景色から離れ、これまた何度目か知れない鏡の前に立って、私は自分の姿を確認する。
初めての友人を得た日から祭りまでのほんの数日の間、私は改めて細かく採寸され、髪を丹念に手入れされ、傷を考慮しつつ全身も入念に磨かれて、頭の先からつま先まで見事につやつやにされてしまった。それはもう、たかが小規模な祭りに出掛けるのに何をそんなに、と思うほどの徹底ぶりで。
お陰で、以前ほど目立つことがなくなった首の痣については感謝しているものの、せっかく部屋に閉じこもらなくてもよくなったのに、私は殆ど部屋から出ることがなかった。正確には、全身の手入れに翻弄され、疲れ果てて出ることができなかった。
そんなわけで、日々仕事をやり遂げたと満足そうに笑うテレシアの、浮かれに浮かれた姿を目にして今日と言う日を酷く警戒していたのに――現在の私の装いは、拍子抜けするほど普通だった。
少しばかりフリル装飾が多いクリーム色のワンピースに、飾り気の少ない臙脂のジャケット。アルグライスでも、少しおめかしして出掛ける際にはよく見かけたものだ。
ただし、いずれの服の生地も少々厚手のものでできている。アルグライスでは、今時分は爽やかな暖かさを感じていたものだけれど、高地のエリューガルはまだ風に冷たさが残り、朝夕は冷え込むこともあるのだ。
一方、あちらこちらを歩くことを見越してか、髪はいく房かに分けてきつく編んだあと、後頭部で一つにまとめられて涼しげだ。化粧も控えめで、これなら多くの人の中にも間違いなく馴染んで、目立つことはないだろう。
実のところ、髪と化粧に関しては自分でできると言ったのだけれど、城に滞在している間はお客様なのだからと、テレシアに聞き入れてもらえなかったのだ。
流石にそう言われてしまっては、私としてもテレシアの仕事を奪うわけにもいかず、お陰で、今日も今日とて、全てテレシアの手によって私の姿は完璧に整えられてしまっていた。
少々切なさを訴えるお腹を両手で押さえて、時計を見やる。いつもより格段に少ない朝食を終え、支度を整えてから、早一時間。量の増えた食事にすっかり慣れてしまった私の胃袋は、まだ食べ足りないと鳴いている。
私としては、エリューガルの通貨を持っていないこともあって、ただ祭りの雰囲気さえ楽しめたらそれでいいと思っていた。
けれど、そう考えているのはどうやら私だけだったようで、前日にキリアンから少額を渡されてしまい、テレシアと楽しんで来るといい、との言葉までかけられてしまっては、祭りそれ自体をしっかり楽しまなければ逆に失礼と言うもの。早く出店を巡って、まずは切ない胃袋を落ち着かせたい。
ちなみに、この時一度、雰囲気だけ楽しめたら十分なのでと金の受け取りを遠慮したところ、その場にいた全員に呆れられてしまったのは記憶に新しい。
改めて私の存在を歓迎されて以降、友人となったエイナーやテレシアだけでなく、あの場にいたキリアン達も私に対する態度を飾ることが少なくなった所為か、あの時の呆れ顔は間違いなく本心を曝け出していたように思う。
あそこまで呆れなくても、と思い出しついでにため息をついたところで扉を叩く音が届いて、私は瞬時に姿勢を正した。
現れたのは、こちらも普段着に袖を通したテレシアだった。
基本は私と同じワンピースにジャケットを合わせた格好だったけれど、こちらの方はいくらか大人びた装いだ。ジャケットの落ち着いた渋い緑色が、テレシアの胡桃色の髪によく似合っている。普段一つにまとめられた髪が下ろされているのも、私の目にはとても新鮮だった。
「お待たせしてしまってごめんなさいね、ミリアム」
「いえ。私の方こそ、急がせてしまったんじゃ……」
「そんなことないわ」
首を振りつつやって来るテレシアは、二人きりの時には、私に対してすっかり気安く話してくれるようになっていた。
一方の私はと言えば、以前に比べればそこそこ対等な立場で物を言えるようにはなったものの、テレシアが年上と言うこともあって、なかなか気安い調子では話すことができずにいる。それでも、テレシアは全く気にすることなく私に接してくれるのがありがたい。
こんな私が、エイナーと友達になろうと言葉を紡げたのは、それこそ奇跡だったと今なら思う。
あの場の勢いに背中を押されていなければ、エイナーに友達宣言されてもすぐには頷けなかっただろう。事実、あの日は部屋に戻ってから、なんて大それたことを言ってしまったのかと、しばらく激しい動悸に襲われ、明け方まで寝付けなかったものだ。
こんなこと、私が家を出たその晩に、自分のやったことに興奮しすぎて一睡もできなかったあの日以来だ。
「ミリアム、そのまま鏡の前に立っていてちょうだいね」
そう言うや、テレシアは私の頭に、彼女が手にしていたつば広の帽子をぽんと乗せた。
ワンピースと同じようにフリルがふんだんにあしらわれた帽子が、見ようによっては髪をまとめてしまって寂しくなっていた頭部を、一気に華やかにする。
「この帽子を探すのにちょっと手間取ってしまったの。今日の服に似合うと思ったから、どうしても持って行きたくて」
「テレシアさんが手間取るなんて、珍しいですね」
鏡を見ながら帽子の位置を微調整して、テレシアが一つ頷いた。
「うん、完璧! やっぱりとっても似合うわ! さあ、行きましょうか!」
「はいっ!」
少しのお洒落をして、友人と出掛ける――人生初の体験に、私は大きく返事をした。
本日、18時にもう一話投稿いたします。