夢が招くもの
勢いよく開けた扉をそのままに、私は廊下を必死に駆ける。
目的とする場所があるわけではない。それでも足の進むままに走った先には、屋敷の玄関ホールへ続く階段。吹き抜けのその場に勢いよく駆け込めば、階下から親しんだ声が私を呼んだ。
「おや、ミリアムじゃないか。そんなに慌てて――」
「ラッセさんは無事ですかっ!?」
静かなホールに、私の必死な声が大きく響く。
「ジェニスさんは!? 船はっ!? 私兵の皆さんは……っ!?」
肩で大きく息をしながら、私は手摺から半ば身を乗り出す勢いで階下のアレクシアへと続けて尋ねた。無事だと言ってと祈る思いで、私の見たものはただの夢だと信じさせてほしくて。
階段を一段ずつ駆け降りるのすらもどかしく思うほど逸る気持ちが、一瞬止まった私の足を、再び普段以上の速さで動かす。けれど、帰宅したばかりと見えるアレクシアは、私の必死さに反して雨除けの外套を片手にただただ私を不思議そうな顔で見上げるばかりだ。
その私の感情とのあまりの落差に、丁度踊場へと辿り着いた私の足が勢いをなくして動きを止める。
「……どうしたんだい、ミリアム?」
アレクシアが目を丸くして、一度瞬く。一拍遅れてアレクシアの背後、開け放たれたままの玄関扉の向こうに停まった馬車からサロモンが姿を現し、アレクシア同様私に向かって何事かと言いたげな顔を見せた。
二人はいたって落ち着き払い、焦りも慌てた様子も全く伺えない。主人達を出迎える使用人達の驚いた顔が、一斉に私に注目する。その様子を目にして、私はようやく我に返った。
「ぁ――」
自分のしでかしたことに一気に血の気が引き、足が震えて手摺に触れていた手に力がこもる。
やってしまった。この人生でも、とうとう同じ過ちを繰り返してしまった。
フィロンが殺され私も死んで、別人としてまた生きている――あまりに突拍子もないことを必死に告げて人間関係が壊れた過去が、私の脳裏にまざまざと蘇った。
死を避けるべく一人奔走する私のことを気味悪がって遠巻きにした家族や友人、知人を始めとした大勢の人の記憶が瞬間的に流れ込む。
私を見上げる二人の視線が、使用人達の表情が、怪訝なものから冷たいものへと変化していく想像が、いとも容易く私を駆けた。
せっかく、ここまでとても良好な関係を築けていたのに。今回こそは、これまでの人生で犯した失敗は繰り返すまいと気を付けていた筈なのに。
「ミリアム」
アレクシアの静かな声に、大袈裟なほどに肩が震えた。何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。口が震えて音にならない。心臓が嫌な音を立て、嫌でも呼吸が荒くなる。膝が震えて、見える世界がぐらぐらと揺れる。
早く。早く言わなければ。違うと否定を。謝罪の言葉を。おかしな夢の所為だと伝えなければ。家族を大切にするフェルディーン家の人達に対して「家族に命の危険が」なんて、きっととても気分を害したに違いないのだから。
頭では分かっているのに、それを音にできない。焦りばかりが募って、堪えた筈の吐き気が再び込み上げる。
と、頭上に影が差したことに気付いて私は反射的に顔を上げ、
「ひ……っ!」
いつの間にか眼前にいるアレクシアの存在に驚き、後退ると同時に小さな悲鳴を上げてしまっていた。
瞬間、絶望が私を飲み込む。
私は何と言うことを。よりにもよって、アレクシアに対して悲鳴を上げるなんて。キスタス人だと知った時でさえ、こんな反応はしなかったのに。
「ぁ……、ちが――」
アレクシアの片眉が微かに反応したのを、私の両目は見逃さなかった。その瞳に宿るのは怒りだろうか、嫌悪だろうか、侮蔑だろうか。
恐ろしい思いに視線が外せない中、何故か一瞬、アレクシアとの距離がすとんと離れた。けれど、一拍置いて再び間近にアレクシアが迫り、視界の端から腕が伸びるのを目にした瞬間、私は身を固くしてきつく両目を瞑っていた。
痛みの想像が私を襲う。反射的に歯を食いしばり、襲い来る痛みを覚悟した。相手の感情を逆撫でする声を出してしまわないよう、唇すらきつく噛んで。
それなのに――いくら待っても痛みは来ない。代わりに私に優しく触れたのは、温かな何かだった。落ち着いた緑と、仄かに柔らかな花の香りが鼻腔を擽る。
それは私の全身を包み込み、更にその上から誰かの温もりが私をゆっくりと抱き締め、柔らかな息遣いが耳を掠めた。
「安心おし、ミリアム。お前の言葉を疑う奴は、この屋敷には一人もいやしないよ」
まず聞こえたのは、優しい響きのアレクシアの声だった。次いで感じたのは、私に安心を与えるようにゆっくりと背中を撫でる温かな手。
覚悟していたものとはまるで違うものが与えられたことに、私の思考が白く弾けた。
一体、何が起こっているのか。混乱する中で、大丈夫だと繰り返し囁くアレクシアの声だけが耳に届く。
ややあって、その声に導かれるように私は恐る恐る目を開けた。ゆるりと瞬き、目の前にアレクシアの紅い髪を見つける。その髪を辿るように顔を上げれば、私に微笑むアレクシアと目が合った。まるで壊れ物を扱うかのように頬に手を添えられて、わずかに私の体の強張りが解ける。
「ああ……顔が真っ青じゃないか。こんなに震えて、手まで冷たくなって」
いつの間に手摺から離してしまっていたのか。膝に落ちている私の手をアレクシアが掬い上げ、両手で包み込んだ。その姿は何度瞬いても消え去ることはなく、伝わる温もりも冷たく離れていくことはない。
そのことに、ようやく私の中で目の前のアレクシアは現実なのだとの実感が湧き上がり、肩から力が抜けていく。
「ア……レックス、さん……」
「ああ、そうだよ。アレックスだ」
頭を撫でる手に更に実感を強めた私は、けれど安堵を感じるより先に新たな焦燥に駆られ、アレックスにしがみ付くように手を伸ばした。
「あ、あのっ。アレックスさん、私……っ」
「分かっているからまずは落ち着きな、ミリアム」
苦笑するアレクシアにもう一度抱き締められて、私は「でも」と出そうになった言葉を飲み込んだ。一定の間隔で背に触れるアレクシアの手が私の急いていた気持ちを徐々に鎮め、アレクシアの服を掴む手が緩む。
「……ご、め――」
「謝る必要はないさ。それよりも、立てるかい?」
立つ。
アレクシアの発した意外な言葉に、私はきょとりと瞬く。
言われるまでもなく私は立っている筈で、私を抱く腕を一度解いてこちらに手を差し出すアレクシアの行動には、疑問しか浮かばない。
差し出された手を掴むでも疑問を口にするでもなくアレクシアをぽかんと見上げれば、アレクシアは何故か小さく吹き出し、それから目の前にしゃがみ込んだ。
(あ、れ……?)
不意に生まれた小さな疑問が明確な形になるより先に、アレクシアの両腕が危なげなく私を抱える。かと思えば、あっと言う間に階段を降りて廊下を進み、サロモンが開いた扉の中へと私を連れて入ってしまった。
見慣れた壁紙が目に入り、そこがフェルディーン一家が家族で憩う為の居間だと気付いた時には、私の体は触り心地も座り心地もいいソファに深々と沈んでしまっていた。
更に、状況に思考が付いて行かずに呆けている間に体は毛布に包まれ、手には温かな湯気を立てるミルクが入ったマグカップを握らされて。
「蜂蜜をたっぷり入れてあるからね」
そんな言葉と共にアレクシアに勧められるままマグカップに口を付け、ミルクの温かさと蜂蜜の甘さが体に染み込む感覚に、私の口から自然と息が漏れた。
カップから伝わる熱も手を温めて、私は誘われるようにもう何度かゆっくりと中身を減らしていく。そうして半分以上を飲んだところで、隣に座っていたアレクシアが確かめるように私の顔を覗き込んできた。そっと私の頬に手を伸ばし、俯き気味だった私の顔を上げさせて、満足そうに笑む。
「よし、顔色は大分戻ったね。気分はどうだい、ミリアム? 少しは落ち着いたかい?」
「……落ち着き、ました」
本音を言えば、落ち着くと同時に戻ってきた冷静な思考が私に状況を整理させ、自分がどれだけ冷静さを失っていたかを思い知らせて別の意味で落ち着かなくなっていたのだけれど、私は何とか誤魔化して首を縦に小さく動かした。
アレクシアは私の反応に頷くと、優しい光を宿す瞳はそのままに表情だけをわずかに改めた。
「――さて。それじゃあ、お前の話を私達に聞かせてくれるかい、ミリアム」
瞬間、反射的にマグカップを持つ手に力が入る。逡巡が過り、口元が知らず強張った。過去の夢を見たからか、見た夢があまりに恐ろしいものだったからか、これまで繰り返し身に受けてきた多くの人からの仕打ちが強く思い出されて、嫌な想像が私の言葉を飲み込んでしまう。
けれど、すぐに大丈夫だと繰り返したアレクシアの声を思い出し、私の言葉を疑わないとの強い一言を縋るように噛み締めて、息を吐く。
隣に座るアレクシアと向かいのソファに腰掛けるサロモンへと順に顔を向ければ、それぞれに微笑まれ、背を押すように頷かれた。私は嫌な想像が浮かびそうになるのを「大丈夫」の言葉で振り払い、マグカップを置いて姿勢を正すと、過去の記憶のことには触れずに言葉を選びながら見た夢について二人に告げた。
見た夢を改めて言葉にして告げる行為は、私の体に何度も震えを走らせた。
激しく揺れる船上で次々と襲い掛かってくる見知らぬ戦士達、彼らと激しくやり合って傷付いていく見知った私兵の姿。腕を赤く染めて苦悶の表情を浮かべるラッセに、彼を守りながら懸命に槍を振るうジェニス。
彼らの姿を思い出す度に眉が寄り、両手に力が入る。その度にアレクシアが無言で私を抱き寄せ、消えそうになる私の声を支えてくれた。
アレクシアの存在は、とても心強かった。それでも、二人に本当に信じてもらえるだろうかとの不安は、しつこく私の胸に燻ぶる。
二人は私の言葉を疑わないと言ってくれたとは言え、こんな話、到底すぐには信じられないに決まっている。どう言い繕ったところで、私の口から出る内容は凄惨なものばかり。これが作り話だとしたならば、悪趣味が過ぎるだろう。信じると言った言葉を前言撤回されたって不思議ではない。それどころか、真っ先に私の精神状態を疑われる可能性だってある。
果たして二人はどう思ったか――何度も言葉を詰まらせながらも一通り話し終えた私は、二人の反応を恐る恐る窺った。
室内には、しばし沈黙が漂う。ただ、含まれる気配には嫌悪や忌避と言ったものはないように感じた。
「話してくれてありがとう、ミリアム」
やがて最初にサロモンから静かに言葉が紡がれ、ラッセに濃く受け継がれた柔らかな笑みが、私を見て目を細めた。
「さぞ恐ろしかっただろうね。突然そんな夢を見てしまったら、私だってきっと平静ではいられないよ。……本当に、よく話してくれたね、ミリアム」
「……信じて、くれる……ん、ですか?」
「勿論だよ。ミリアムはこんなことで嘘を付く子じゃないと、私達家族は皆知っているからね」
「第一、お前はラッセの為にお守りを作って渡したじゃないか。無事を願う相手に不幸が訪れることを、お前が願うわけがないだろうに。だからこそ取り乱したんだろう? それが分からない私達じゃないさ」
サロモンの即答に思わず目を見開いた私に、アレクシアが両腕を回して「馬鹿だねぇ」と私の不安を一蹴する。私への確かな愛情を感じる一言は、ようやく私の頬を少しだけ緩ませた。
「ありがとう、ございます」
「礼を言うのは私達の方さ。……だろう、サロモン?」
「そうだね。ただ、その前に――ヴィア」
気付けば、サロモンは申し訳なさそうに眉尻を下げた顔をしていた。どうしたのだろうと私が疑問符を浮かべる間にも、サロモンとアレクシアは視線を交わして無言の内に互いの意思を確認し合う。
場の空気の雲行きの怪しさに、私はアレクシアの横顔を見上げた。同時に私からアレクシアの腕が離れ、硬さのある真剣な表情が私と真っ直ぐ向かい合う。
「ミリアム」
名を呼ぶ声からも笑みの気配は消え失せて、先ほどわずかに解れた緊張が戻ってきた。
(そうだ――)
私は、申し訳なさそうなサロモンとアレクシアの硬い表情の理由にすぐに気付いた。
そうなのだ。二人は、私の夢について拍子抜けするほどあっさりと、当然のように信じてくれた。けれど、それだけだ。普通、何の切っ掛けもなくおかしな夢を見たならば、何故そんな夢を見たのだろうとの疑問が上がってもいい筈なのに、二人の口から出たのは疑問ではなく、夢の内容を伝えたことに対する感謝。
私自身は、簡単に信じてもらえる筈がないと思っていた為、信じてもらえたことに衝撃を受けるばかりで疑問を抱くまでに至らなかったのだけれど、二人は私が夢を見たこともその内容についても、まるで疑問を抱いていないのだ。
それは何故か。
「落ち着いて、よくお聞きよ」
膝の上で、無意識に両手が拳を作る。
怖い。アレクシア達の態度は、私が夢を見た理由を知っているのだと明確に私に伝えている。だからこそ、アレクシアの口から出てくる言葉を聞くのが途轍もなく恐ろしい。それはきっと、私が薄々感じているであろう予感を確信に変えてしまうと理解してしまっているから。
それでも聞かないわけにはいかないことも、私は本能的に理解していた。これはきっと私にとって大切なことで、逃げてはいけないのだ。
そして、アレクシアが私に現実を突き付けた。
「お前が視た『夢』は――この先に起こる『未来』だ」
告げられた内容に、驚きはあまりなかった。逆に、予感は正しかったとの落胆が私の両肩に伸し掛かる。
未来を視る。
それは、女神リーテから愛し子に授けられる力の一つだ。私が最初に文献で目にしたのは、水鏡に未来を視るらしい、と言う正確性に欠ける記述で、正直に言えば半信半疑だった。けれど、その後も様々な文献に触れ、未来視はリーテから授かる力の一つとして確かに存在することを知った。
もっとも、未来視は国の行く末すら左右しかねない力であり、それ故か発現した事例は非常に少ない――もしくは、少ないと言うことになっている――力である。そんな力が、まさか私に発現するとは思わなかったし、思いたくもなかった。
けれど、アレクシア達がすぐに私の状況を理解したことから考えれば、母にも同様の力が発現していたと考えるべきなのだろう。母に発現した力について公式な記録はないけれど、親友であるアレクシアには密かに伝えていたのかもしれない。
(でも、それなら)
新たな疑問が、不意に湧き上がる。
何故、母は自らの早すぎる死を避けなかったのだろう?
勿論、母が己に迫る死を視なかった可能性はある。けれど、何かしらの未来を視ていたならば、己の死を予見することは全くの不可能ではなかったと思うのだ。それでなくとも、待遇が悪くなるばかりのリンドナー家での生活である。悪い方向にしか向かわないことは、母自身自覚していた筈だ。
それなのに、母は私を見捨てることもせず、家を出ることもせず、父の酷い仕打ちに耐えて体を壊し、私を一人遺して若くして死んでしまった。
もしも――もしも、である。母が自らの死を視ていたとして。その未来を回避すべく行動していたとして。それでも、自らの死を避けられなかったのだとしたら。
リーテの愛し子が視た未来は確定されたものであり、必ず現実のものとなってしまうのだとしたら。
それなら、ラッセ達は――
「しっかりおし、ミリアム」
両肩を掴まれる感覚に、はっとする。いつの間にか下を向いていた顔を上げれば、真っ先にアレクシアの強い意志の宿った瞳が視界に入った。
恐らく、アレクシアには私が何を考えていたのか分かったのだろう。肩を掴む手に力を込めて、無言の内に私を叱咤する。
「いいかい、よくお聞き。お前の視た未来は、絶対じゃない。ただの可能性であって、必ず視た通りのことが起こるってもんじゃないんだ」
「でもっ」
「安心おし。お前のその力は、不幸を生むものじゃない。幸運を招くものだ」
「こう、うん……?」
アレクシアは何を言っているのだろう? あの凄惨な夢が、どう考えたって不幸しか待っていないあの夢が、幸運を招く?
ラッセ達が出発して、既にそれなりの日数が過ぎてしまっている。まだ港に到着してはいないだろうけれど、それも時間の問題に違いない。そして、彼らが海に出てしまえば、次の瞬間に夢が現実となって襲いかかって来ないとも限らない。残された時間はきっと少ないだろう。それも、海から遠く離れた山の国であるエリューガルにいれば尚更、行動に移すには時間が足りなさすぎる。
アレクシアがこんな時に無意味な気休めを口にするわけがないとは思うけれど、それにしたって幸運だと言い切れる根拠が私には全く分からなかった。
「やれやれ。馬鹿なことを言ってるって顔だね」
アレクシアに苦笑されて、私は咄嗟に視線を下げた。けれど、アレクシアは私の態度に気分を悪くすることなく、宥めるように私の頭を撫でるだけだ。
「気にすることはないさ。この国に生まれていないお前の反応は、いたって普通だよ。私だって、来たばかりの頃は信じられないものばかりで頭がどうにかなりそうだったもんさ」
「……ああ、懐かしいね。当時は私の両親も巻き込んで、ちょっとした騒動に発展してね。それはそれは大変だったんだよ。それに比べたら、ミリアムの反応は大人しすぎて可愛いくらいだ」
「ちょいと、サルゥ」
もっと取り乱すと思ったとサロモンが口元を緩め、アレクシアがすかさず片眉を跳ね上げる。危機感も不安も懸念も欠片もない二人のやり取りは私を唖然とさせるのに十分で、強張っていた体から嘘のように力が抜けた。
正直、まだまだ私の中では不安が圧倒的に強い。けれど、二人を見ていると強い希望とまではいかないものの、私の胸の奥に小さな明かりが灯るような力強さを感じた。




