ある戦士の追憶
彼は、戦士である。
生まれて間もない頃、不運に見舞われ死にかけていたところを通りがかった者に救われた彼は、それ以来、救ってくれた者を己が主として忠誠を誓い、生きている。
主からはそのような忠誠は不要だと笑って断られたが、それでも彼は主の為に日々己が体を鍛えることに余念なく過ごし、生きてきた。いついかなる時でも、主の役に立てるようにと。
その鍛錬の賜物か、彼は今では一睨みで周囲を怯えさせるほどには、立派な体躯と高い身体能力を手に入れるに至っている。敵を仕留める技も、戦士の名に恥じぬ腕前を身に付けた。それは、幾度か主にも褒められたこともある、彼の一番の自慢である。
ふ、と。彼の耳が、雑踏の中に微かな音の変化を捉えた。一拍遅れて、今度は彼の鼻が微細な変化を明確なものとして彼に伝える。
時間だ、と。
ふぅむと小さく唸り、彼はそれまで閉じていた瞳をゆるりと開けた。次いで、凝り固まった体を解すように、順に全身を伸ばしていく。両腕、両足、最後に胴。そうしながら、決して主には見せられない、戦士にあるまじき大欠伸を一つ。
直後、彼は欠伸の余韻を残しながら首を振って周囲を睨め付けるも、幸いなことに彼の大欠伸を目にした者はいないようだった。もしもいたならば彼は一撃の下に相手の記憶を奪ったであろうが、不運な犠牲者は出ずに済みそうである。
もっとも、仮に不運な者がその場にいたとして、彼の主は無用な暴力は好まない方ではあるものの、やる時は徹底的にやってよし、と言う思い切りのよい一面も持ち合わせた方であるので、戦士たる彼の矜持を守る為には必要な行動なのだと理解してくださることだろう。
彼は一つ鼻から息を吐き出すと、思考を切り替えるように眼下に広がる雑踏を眺め下した。王都の通りを行き交う人々は、今日も変わらず平穏な一日を過ごしている。しかし、彼の耳と鼻は、その中に微かに不穏な気配が混じっていることに気付いていた。
気配が現れ始めた時期を、彼は明確に覚えてはいない。その少し前に起こった出来事が彼を酷く落ち込ませていた為、気配の存在に気付くのに遅れてしまったのだ。
その所為で、と言うわけではないが、今では不穏な気配は街の至る所に存在するようになっている。その事実に気付いた時、そして、彼自身が気配に対処する術を持たないと思い知った時、彼は何と役立たずであろうかと己の未熟、不甲斐なさを酷く恥じた。
彼は、主にあとを託されたと言うのに。
主が大きな謀略に巻き込まれた、ある年のこと。共に往かんとした彼のことを、主は決して伴ってくれようとはしなかった。彼がどれだけ願っても、みっともなく追い縋っても主の首が縦に振れることはなく、主は彼を王都に残して行ってしまった。彼に、王都の平穏を守ってくれるよう言葉を残して。そして、それが彼が主を見た最後だった――
だからこそ、彼はこれまで主の言葉を胸に、かの方の戦士として恥じぬよう生きてきたと言うのに。肝心な時にこんなにも無力であるとは、主に合わせる顔がない。
故に、ここ最近の彼はせめてもと日課の見回りにより力を入れ、日々街の様子に目を光らせていた。どうやら、彼が睨みを利かせることはわずかながら気配を牽制する役に立っていると分かってからは、特に精力的に。彼にできる彼なりのやり方で、王都の平穏を守るべく行動しているのだ。
とは言え――とは言え、である。
常に気を張り続けることは、いかな屈強な戦士と言えども無理である。生きている以上、時には休息を取ることも必要であるし、食事はそれに輪を掛けて重要なことである。遥か昔から、腹が減っては戦はできぬと言われてきたように、いざと言う時に動けなければ無意味。気力体力共に万全を期しておくのは、戦う者の基本と言えよう。
そして、今の彼は休息を終えたところであった。ならば、次にすべきは何か。
彼は眼下の様子に異常がないことを見て取ると、軽い跳躍で宙へとその身を踊らせた。建物のわずかな凹凸に器用に足を掛けながら、素早くも危なげなく、いっそ優雅ささえ漂わせながら、音すら立てずに地上を目指す。
通りを行き交う人の殆どは、彼の存在に気付かない。眼下の建物二階バルコニーに難なく着地した彼は、運よく彼の姿に気付いた子供に指差されるのを尻目に手すりを飛び越えて、今度は建物の間の細い路地を足取り軽く進んでいった。
石畳の道をしばらく直進し、途中に現れた更に細い小路へ進路を変える。人一人がやっとの幅の狭さも、王都の街を知り尽くし、この道を歩き慣れた彼にとっては何の障害にもなり得ない。目印になりそうなものもない壁だらけの視界を迷うことなく別の路地へと抜け出ると、彼の足は次の大通りを目指した。
彼が進んでいく度、路地に似合いの静けさに雑多な音が混じり始める。視界にも明るさが増して、目指す大通りが見えてきた。と、大通りへと出る直前で彼は一度足を止めた。
目の前の通りの人の流れを静かに観察する。一人あくせく歩く男性、楽しく喋りながら連れ立って歩く女性達、巡回中の兵士に親子連れ、樽を積んだ荷車を押して進む商人達、仲睦まじく寄り添う老夫婦。そして、軽快な蹄と車輪の音を伴って馬車が通り過ぎた――一瞬。
人通りが、途切れた。
その隙を逃さず、彼は足に力を入れて地面を蹴りつけ大通りを素早く横切る。体を滑り込ませるように向かいの細い路地へ走り込むと、彼は路地の脇に積まれた木箱を足場に再び地上を離れた。
彼の姿に驚いて老夫婦が路地を覗き込む頃には、既に彼の姿は地上にない。彼は先ほど地上を目指した時同様、建物の構造を利用して器用に足を掛けながら、瞬く間に屋根の上へと躍り出ていた。
群れで憩っていたらしい鳩が彼の突然の登場に慌てて飛び立つが、彼はそちらには目もくれない。羽音を背景に、悪びれることなく屋根伝いに更に悠々と進んでいく。目的とする場所へと、心を弾ませながら。
屋根と屋根との間を軽快に跳躍、煙を吐く煙突を華麗に避けると、通りに沿って曲線を描く屋根を難なく駆けていく。その勢いで細い路地すら飛び越えた彼は、やがて更に別の大通りへと辿り着いた。
雑多な雰囲気の薄い落ち着いた通りは、人通りもそこまで多くない。低く高く連なる家々の屋根を迷いなく進むことしばし。彼の足は、一つの家の屋根の上でようやく止まった。
彼は一度、空を仰ぎ見る。太陽は真上にあって、彼を、街を明るく照らしていた。そのことに今日も間に合ったと満足気に口端を持ち上げると、彼はまたもや音もなく屋根から身を躍らせて家の裏手へと降り立つ。
休息を終えた彼の目的地は、ここであった。
ほんの小さな裏庭を持つこの家は、まだ彼が主と共にあった頃から付き合いのある食事処である。本来は別の物を売る店であり、その商品の為に彼は店主から入店を固く禁じられているのだが、主が店主に彼の為に食事を供してくれるよう頼み込んで以来、彼は一日一度はこの店の裏庭で食事をさせてもらっているのだ。
主が行ってしまっても、店主が変わってしまっても食事の提供だけは変わらずに続いていることは、彼には大変にありがたいことであった。約束を取り付けてくれた主に対しては当然のことながら、店主達に対しても頭が上がらない。いつかこの大恩を返したいと常々思ってはいるものの、今のところ機会が訪れる兆しすらないことが、最近の彼の小さな悩みである。
それはさておき。
彼とこの店との変わらぬ関係であるが、実は少し前に一つ大きな変化があった。店に、新たな人物が加わったのだ。そして、それがこの店を訪れる彼の心を大いに弾ませる理由でもあった。
彼は、降り立ったその場で自らの身嗜みを確認した。だらしなくみっともない姿を、これから食事を運んできてくれるであろう人物へ見せるわけにはいかないのだ。
乱れた髪を綺麗に撫でつけ、髭を整え、体についた汚れを全身くまなくしっかりと払う。念には念をと脇の辺りを今一度見直し、人に会うのに恥ずかしくない状態であることを再確認すると、準備はできたとばかりに裏口の前へと移動した。
背筋をぴんと伸ばして胸を張り、両手両足を綺麗に揃えて、戦士らしく引き締めた顔を堂々たる態度で扉へ向ける。その行動に、まるで彼の到着を知らせるかのように王都に時を告げる鐘の音が鳴り響き始めた。
合わせて十二回。荘厳な鐘の音に空気が震えるのを全身で感じながら、彼はじっと扉が開くのを待つ。
そうして、鐘の音の余韻が空気に溶け消えようかと言う時、一つの音を彼の耳が捉えた。床板を叩く、軽く可愛らしい足音。それが、真っ直ぐ裏口へと近付いてくる。
その足音の持ち主を、彼はよく知っていた。
その人物は、主の帰りを待ち続ける彼に驚きと喜びを与えてくれた存在であった。また、主から託された言葉の他に、新たに戦士として生き続ける理由を与えてくれた存在でもあった。
まさに、彼にとっての光。彼が命を賭して守るべき至宝であった。
故に、彼はその人物を敬愛の念を持って、ある名で呼ぶことにしていた。
彼の見つめる前で、裏口の鍵が開く。扉がゆっくり動き、そこから彼の記憶と同じ色、非常によく似た愛らしい顔が覗く。そして、その人が彼を見つけてにこりと笑んだ瞬間、彼は恭しい態度で一声。
「にゃあぁぁぁぅおぉぉぉ――――――――ん!」
――鳴いた。
*
「ヤークトったら、今日はミリアムがいるからご機嫌ね」
「ふふ。ご飯は美味しい、ヤークト?」
食事をする彼――ヤークトへかけられた敬愛する姫からの言葉に、ヤークトは尾をぴんと立てながら顔を上げた。
《無論でございます。姫がご用意くださった食事が不味いなど、あろう筈がございませぬ》
ヤークトが力強く言い切ると、こちらを見下ろす姫の顔がふわりと綻び、美しい繊手がヤークトの頭を撫でた。姫の優しい手付きに、ヤークトはうっとりと目を細めて心地よさに浸る。
これが他の人間であれば容易に撫でさせることはしないが、姫は特別である。戦士にあるまじきことと思いつつ、離れていく手を名残惜しく見つめながらもっと撫でてほしいとさえ思ってしまうのは、己の性であろうか。
催促など戦士としてみっともない真似はできぬと、己を律して食事を再開させながら、ヤークトは友人との会話を続ける姫の声に目を細めた。
ヤークトが姫と出会ったのは、かつては主が主役を務めていたこともあると言う人間の祭りより、しばらくの時が経った頃のことである。その日もいつものように食事をいただきにヤークトが店を訪れた際、食事を運ぶ店主の後ろから興味深そうな顔を遠慮がちに覗かせた少女が姫であった。
その瞬間ヤークトの全身に走った衝撃は、今でも忘れられない。
記憶にあるのと寸分違わぬ鮮やかな色彩、一度たりと忘れたことのない慈愛に溢れた顔、耳が確かに覚えている懐かしい声――
この時のヤークトは、長年待ち続けた主が遂に帰還したのだと信じて疑わなかった。そして、わざわざ己に会いに来てくれたのだとも、当然のこととして考えていた。
故に、喜びのあまり感情が先走り、ヤークトは相手のことをよく確かめもせずその胸元目掛けて力強く地を蹴り両腕を伸ばしてしまっていたのだ。
ここで、ヤークトはもう一つ大きな失態を犯す――すっかり失念していたのだ、己の体の大きさを。
日々の鍛錬の賜物か親から継いだものか、はたまた主のお力か。ヤークトの体は、その辺にいる同種の者達と比して優に二倍は大きく成長した。更に、体を覆うのは獅子の鬣もかくやとばかりの豊かな長毛。その見た目は、更に大きく感じることだろう。
それだけの巨体が、目が合った瞬間に突然大声を上げながら飛び掛かってくる……。初対面の姫にとって、どれほどの驚きと恐怖であっただろうか。
幸いであったのは、ヤークトの動きに即座に反応した店主が、己が姫に到達する前に捕獲してくれたことであろうか。
ただし、幸いだったのはそこまでである。
「今すぐその皮剥いで服に仕立ててやろうか、馬鹿猫」
ヤークトの耳元で囁いた地の底を這うような怒気のこもった声と、凍てついた両眼でヤークトを睨み据えた店主の顔は、恐怖の記憶としてヤークトの脳裏にしかと刻み込まれている。
同時に、驚きに目を見開き、恐怖にかその場を動くことすらままならなかったと見える姫のか弱い姿もまた、店主が「ミリアムお嬢さん」と呼び掛けたことで初めて己が人違いをしていたことを知ったヤークトの愚かさを戒めるものとして、決して忘れることはないであろう。
その後、店主からヤークトに下された沙汰は、当面の間の姫への接近禁止及び、店の敷地への進入禁止であった。
当然の報いである。
この時ほど、ヤークトは己を責めたことはなかった。店主の温情か主との約束であるからか、ぽつんと残された食事の盛られた皿を前にそれを食べることもせず、ヤークトはだたただ悔い、項垂れ続けた。
それからどれほどの時が経過した頃であろうか。ヤークトの前に現れたのは、前店主――主がヤークトへの食事を約束した相手――であった。
「お前さんは覚えていたんだねぇ。賢い子だよ」
出会った頃より随分と年老いた前店主は、項垂れるヤークトの頭を軽く撫でると、寂しげに目を細めて小さく笑った。それから、お前に分かるだろうかと前置きをしつつ、ヤークトに主の死と、その主の忘れ形見である姫について教えてくれたのだ。
以降、ヤークトはこの先を姫に尽くすことを誓い、主に対しては果たせなかった戦士の誓いを今度こそ果たすべく、姫を守り抜かんと気持ちを新たにしたのである。
そして、ヤークトは出会いを最悪のものとしてしまった姫との関係を修復することから始めるべく、行動を開始した。
ところが、覚悟を持って挑んだヤークトの予想に反し、姫のヤークトに対する態度は拍子抜けするほどに非常に友好的であった。
店主に言い渡された禁止令を守るヤークトに、姫自ら近付いて食事の提供を行い、手まで差し伸べて触れようとしてくださったのだ。
まさかの行動に、ヤークトはそれはもう心の底から喜んだ。しかし、禁止令を破れば店主から新たな制裁を受けることは必至。お陰で、何度涙をのんで姫から距離を取ったことであろうか。また、ヤークトが距離を取る度に残念そうに眉を下げる姫に対し、何度駆け寄ってその手に擦り寄りたい衝動を堪えたことか……。
決して、店主の監視の目さえなければ、などと思ってはいない。いかにして店主の監視の目を掻い潜るかなどと言うことも、考えてはいない。ヤークトは誇り高き戦士なのだから。
それはさておき。姫の好意的な行動には、店主達が姫にヤークトのことを「近所に住む野良猫」としか伝えなかったことが大きな理由と思われる。
ヤークトのことを誰よりよく知る前店主は、自ら多くを語ることを好まぬ質らしかった。現在の店主に対しても「知り合いに頼まれて食事の世話をしている野良猫」と説明し、引き続き食事の世話をしてくれるよう頼むだけであったのだ。恐らく姫に対しても、その程度の説明しかしなかったのであろう。
その為、ヤークトが姫に飛び掛かったのは、突然現れた見慣れぬ人間に驚いたからだと姫は考えたようなのである。
加えて、「野良猫」との言葉が示す通り、誰一人として己を特定の名で呼ぶ者がいなかったことも理由であろうか。
そのことが、ヤークトを様々な人間に世話をされている野良猫の一匹であると姫に認識させ、ならば姫自身も世話をする人間の一人として近付きたいと考えさせたのかもしれない。
なお、己が名乗っている名である「ヤークト」は、主が付けてくださったものである。しかしながら、どう言うわけか主は決して人前でヤークトの名を口にしなかった為に誰一人として己の名を知らず、これまではそれぞれが勝手な呼び名を付けて己を呼んでいた。
現在、皆が己を「ヤークト」と主に戴いた名で呼ぶようになったのは、偏にヤークトの言葉を解するお力を持った姫のお陰である。
姫がヤークトの言葉を解すと知った瞬間の驚きと喜びもまた、ヤークトの中には鮮烈な記憶として残っている。姫が突然長期にわたって王都を空けることになった事実に打ち拉がれていたこともあり、姫が無事に帰還したことも合わせて、ヤークトの感じた喜びは計り知れない。
加えて、あの時の姫の驚きと喜びの入り交じった表情といったら、ヤークトが無条件で腹を見せるに値するほどに尊いものでもあった――
姫とのこれまでに思いを馳せながら、最後の一欠片まで余すことなく食事を食べ切ったヤークトは、まだ続く姫と友人との会話を聞くともなしに聞きながら、今度は念入りに毛繕いを始めた。
決して、ただの猫の習性と言うなかれ。戦士たるもの、いついかなる時でも姫に存分に撫でてご満足いただけるよう――否、姫の戦士として相応しくあるべく身綺麗にしておくのは当然のことである。
主が存命であった頃も、ヤークトはこうして主の足元で熱心に毛繕いをしたものだ。友人と楽しげに談笑する姫の姿はまた、ヤークトに在りし日の主の姿を思い出させた。
姫同様、主もまた大変よく笑う方であった。もっとも、優しげな微笑みや控え目な苦笑を見せることの多い姫とは異なり、主は自信に満ちた勝気な笑みや悪戯な気配を纏った笑みを浮かべることの多い方ではあったが。そして、決まって主のそばには獅子もかくやとばかりの女騎士がおり、主はその者と実に楽しそうに嬉しそうに過ごしておられた。
目の前の二人を過去の二人に重ね合わせてしばし懐かしんだヤークトは、ふと気になって姫へと声を掛けた。
《お話し中失礼いたします、姫。本日の姫の護衛は、どなたでありましょう?》
「今日はフリーダさんよ。どうかした?」
《……ふむ。あの男ではないのですな》
姫には現在、二人の護衛がいる。この場に姿はないものの、開いたままの裏口の向こうでこちらに注意を向ける人の気配があるのは分かっていた。
それぞれの顔を思い浮かべながら、姫からの返答にヤークトは小さく安堵した。どちらも姫の護衛をするくらいなのだから実力こそ疑いはしていないが、男の方は少々難があるのである。特に、姫の護衛と言う点において。
「ヤークトはオロフさんのことが気になるの?」
《いえ、そうではございませぬが――》
姫の口から出た人名に友人が耳聡く反応するのを視界の端に、ヤークトはわずかに口籠った。その時である。
「お! サーラちゃんにミリアムちゃん! 休憩中? 今日も二人共可愛いね!」
通りから軽薄な声が届き、ヤークトは反射的に姫を庇う位置に立って四つ足で地面を踏み締め、毛を逆立てた。
睨み据えた先にヤークトが見たのは、声音に違わぬ軽薄な様相の、王都の兵士だと言う若い男である。この男は、ヤークトにとって姫に近付く大変にけしからん人物の一人であった。
複数の兵士と共にやって来たと思ったら、先に行けと手で示して一人その場に残る姿を、ヤークトは憎々しげに睨め付ける。
「巡回ですか、オーレンさん? お疲れ様です」
《姫! あのような軟派な者にお声を掛けてやる必要などありませぬぞ!》
姫以外には激しく威嚇しているだけに聞こえるだろうヤークトの一声に姫は苦笑し、軟派兵士は半眼で呆れ顔を覗かせた。
「相っ変わらず俺のことが嫌いだよなぁ、お前。俺、お前に何かした覚えないんだけど?」
《姫に対する無礼が目に余るのだ! 貴様のような存在は姫にとって害悪でしかないわ! 今すぐ立ち去れ!》
尾の先まで警戒に警戒を重ねたヤークトの渾身の威嚇は、しかし軟派兵士には華麗に無視されてしまった。
まるで、ヤークトには用はないとばかりにすぐに逸れてしまった視線は姫と友人の二人へ向けられて、軟派兵士は二人の健やかな姿に微笑む。しかし、その笑みと言ったら、たかだか微笑むだけだと言うのになんと気障ったらしいことか。実にけしからん男である。
ヤークトはよほど割って入ってやろうかと考えたが、笑みこそ軽薄ではありながら交わされる会話は姫達の安全にまつわるものである様子に、仕方なく威嚇を収めて姫の足元に鎮座した。姫を守る者の数は、多ければ多いほどよいものである。それがたとえけしからん男であっても、実力が申し分ないことはヤークトとて認めている。
ただし、姫に不埒な真似をしようものならいつでも飛び掛かっていけるよう、警戒は怠らないままに。
やがてヤークトの頭上で行われていた三人の会話は恙なく終了し、軟派兵士は姫達に手を振って去っていった。ヤークトに対しても、どこか呆れた様子の一瞥をくれて。そして、ヤークトをたっぷりと撫でてくださった姫と友人も仕事へと戻り、その場にはヤークトだけが残される。
急に静かになった裏庭に、雀の囀りが長閑に届いた。ヤークトが見上げた空もまた、長閑である。しかし、吹く風に混じる気配には邪悪が滲んでいた。ヤークトの髭が警戒に震える。
直接気配の方から襲ってくる様子はないものの、じわじわと数を増やして確実に包囲しようとする様は、さながら地を這い回り蜷局を巻いて獲物を捕らえんとする蛇のようである。それは、かつて主に教えられた「蛇」なる者と同種の気配。奴の狙いは、間違いなく姫であろう。
《主様……。姫様は吾輩が必ず、お守りいたします》
遥か遠い地で亡くなった主へと誓い、ヤークトは軽やかに地を蹴って店を後にした。
◇
小さな裏庭で、やせ細った猫が一心不乱に餌にがっついている。血のこびり付いたぼさぼさの錆色の毛に白い包帯が随分と痛々しい。それでも、目だけは力強く生きる力に溢れて輝いていた。
「よく食べるわね、お前」
「昨日見た時は、まだ母猫の乳が必要な子猫だったと思うんだがねぇ。お前、こいつに何をしたんだい?」
猫を囲むのは、目に鮮やかな緑髪の少女と騎士服を着崩した紅色の女騎士。王都では知らぬ者のいない王太子の婚約者エステルと、騎士団長アレクシアだ。
「あら、何も特別なことはしていないわよ。ただちょっと、これに祈りを込めてこの子にあげただけで」
これ、とエステルが小瓶を取り出してアレクシアへ示す。手の平にすっぽり収まる大きさの小瓶の中には、無色透明の液体が三分の二ほど入っていた。
「そいつは?」
「リーテの雫よ。この間神殿に殴り込みに行った時に、ちょっとくすねてきたの」
「仮にもリーテの愛し子様が何をやっているんだか」
「いいじゃない。私が祈願祭で湧き出させたものなのよ? つまり、私の物も同然。私がどう使おうと私の自由でしょう」
あっけらかんとした態度で悪びれなく告げるエステルに、アレクシアの顔がそうではないだろうと言わんばかりに呆れに歪む。
もしもこの場に二人を知る第三者がいれば、清楚な少女エステルの発言と最恐の騎士団長アレクシアの反応に目を丸くして驚いただろう。それほどに、二人の言動は人前で見せるものとは違っていた。
しかしながら、今この場にそれを指摘する者はおろか、目撃する者もいなかった。二人の会話は、誰の目も耳も気にすることなく続いていく。
「ちょっと雫を垂らし過ぎてしまって心配したけど、幸い死んでいないし、この子には毒にならなかったみたいでよかったわ。むしろ一日で乳離れできるくらい成長したなら、うんと長生きする猫になるかもしれないわね」
「お前は……死んでいたらどうするつもりだったのさ」
「その時は、残念だけど女神に呼ばれていたのねと思うだけよ。元々、私が手を差し伸べなければそのまま死んでしまっていたんでしょうし。遅いか早いかの違いでしかないわ」
「やれやれ。お前も災難だねぇ、こんなとんでもないのに命を助けられちまって」
「とんでもない代表のあなたにだけは言われたくないのだけど?」
わざとらしく頬を膨らませるエステルに対し、アレクシアは肩を竦めて呆れた様子を隠さない。やがてどちらからともなく笑い声が漏れ始めると、その声につられるように子猫も皿から顔を上げてエステルを見上げる。ついでに「みゃぁお」と鳴いて、円らな瞳を輝かせた。
「もうお腹一杯かしら? それともまだ食べる?」
エステルに抱き上げられた子猫は後者の言葉に強く反応を示し、ぱんぱんに膨らんだ腹から伸びた手足をじたばたと動かす。そんな子猫の様子にエステルは柔らかく微笑み、アレクシアを見つめた。
「――だそうよ、騎士団長様」
「まったく。この私を顎で使おうとする奴は、お前とイェルドくらいだろうよ」
「それは名誉なことね」
すっかり空になった皿を手に、アレクシアが開け放たれたままの裏口から中へと入っていく。その後ろ姿に手を振って、エステルは改めて子猫を見下ろした。
エステルが命を助けたことを理解しているかのように、子猫はしっかりとエステルを見上げて、利口そうな瞳を瞬いている。
「お前は私を使ったことを理解しているかしら? リーテの愛し子の前に現れるなんて、いい度胸よね。見捨てられるわけがないんだから。……こうなったら、何が何でもお前には長生きしてもらうわよ?」
「みゃうん!」
エステルの言葉を理解したのか、偶然か。元気よく鳴いた子猫に、エステルがおかしそうに笑い声を上げた。
それは、小さな猫が戦士となることを決意した、誰も知らない瞬間である。