木漏れ日の幸せ
私達を探しに来たフィンに案内されて着いた木陰では、籠に詰めて持ってきた料理がレナートの手で敷布の上に綺麗に並べられているところだった。
玉ねぎとじゃがいもと塩漬け肉の炒め物。目玉焼きと新鮮な野菜のサラダ、焼いた腸詰め肉。焼き立てのパンにチーズが数種類と、苺ジャムに蜂蜜。それに食後の果物。中央に置かれた蓋付きの小鍋は、豚肉と野菜のトマト煮込みだ。
料理の手前には二人分の木製の食器も並んで、すっかり食事の準備は整って見えた。
「お待たせしてしまってごめんなさい、レナートさん」
「いや、待たせたのは俺の方だろう。時間がかかって悪かったな、ミリアム」
「レナートさんはお仕事だったんですから。それに、そんなに待っていないので気にしないでください」
「何だ、よっぽどレイラと楽しく過ごしてたのか」
妬けるな、と冗談めかして笑うレナートに私も微笑み返して、レナートに勧められるままに敷布に腰を下ろす。一瞬、レイラがレナートに向かって得意気に小さく鼻を鳴らしたけれど、レナートは気付かなかったようで、笑みを崩さないままに私の手元に籠から取り出したカップを用意していた。
「レイラといつもの場所に?」
「えっと……はい」
《あれ? 僕、いつもの場所から離れたところでミリアム達のこと見つけたよね?》
《そんなに離れていないわ》
《そうかなぁ?》
《そうよ。あそこもいつもの場所よ》
私の小さな嘘に首を傾げたフィンに、すかさずレイラが何食わぬ顔で嘘を重ねる。その姿はあまりに普段通りすぎて、嘘をついたようには全く見えないどころか、フィンの方が間違っている印象さえ与えるものだった。
案の定、レイラのあまりの堂々とした態度にフィンは戸惑いを見せ、困惑の表情だ。けれど、少しの間考えるように首を左右に傾げたあとにぱっと表情を明るくさせると、嬉しそうに瞳を輝かせた。
《そっか! レイラとミリアムのいつもの場所、増えたんだね!》
知らなかった、と納得するフィンは、続けてよかったと我がことのように尾を振って喜びを表す。
疑うことをせず、素直にレイラの言葉を信じて喜ぶフィンの無邪気な反応に、今度はレイラが戸惑う番だった。ばつの悪い顔でちらと私を窺い、私が苦笑で応えると、レイラは気まずさを誤魔化すように瞳を細める。
《どうして、フィンがそんなに嬉しそうにするの》
《だって、レイラとミリアムのお気に入りの場所が増えたってことでしょ? 大好きな相手に好きなものが増えるのって嬉しくない? 僕はすっごく嬉しいよ》
えへへ、と笑うフィンは私にも笑顔を向けて、嬉しいなと繰り返す。あまりに喜ぶフィンの姿はレナートの苦笑をも誘い、レイラが呆れた様子で小さく鼻を鳴らす音がそれに続いた。
《幸せなことね、あなた》
《うん! レナートもミリアムもレイラも僕のそばにいて、すっごく幸せだよー!》
素直なフィンには、生憎レイラの皮肉は通じなかったらしい。そのことにいよいよ呆れたレイラが、もう一度、今度は大きく鼻を鳴らす。けれどその表情は柔らかく、私に向けた瞳も優しい光を宿して、仕方がないわねとでも言いたげな笑みを含んでいた。
フィンのこの素直さは、彼の美点だろう。フェルベルグ地方へ行っていた期間も、怪我をしていてさえ、フィンの明るさと素直さにはどれだけ助けられたか知れない。時折、奔放すぎる行動にはレナートが手を焼いていたけれど、それすらも愛おしいと感じてしまうくらいには、フィンと言う存在を形作る魅力の一つだ。
だからこそ、レイラもなんだかんだと言いながらも、フィンのことを嫌うことはないのだろう。それどころか、きっとレイラは否定するのだろうけれど、並ぶ二頭は仲睦まじくさえ見える。
そんなことを思いながら二頭を眺めていると、不意にフィンが両耳をぴんと立てた。
《そうだ! ヨルゲンさんが、待たせたお詫びにって僕とレイラにおやつを用意してくれたんだった! レイラ、一緒に食べに行こう?》
《あら、なんて気の利く騎士殿なの。どこかの誰かとは大違いだわ》
どこかの誰か、と嫌に強調して言いつつ、その視線を何故かレナートに向けたレイラは、続けて私を気にしてこちらへ首を動かした。
ディオーナとのことが尾を引いているのか、先ほどの私の危なげな噓を心配しているのか、はたまた、彼女の嫌いなレナートと私が二人きりになるのが嫌なのか。レイラの私を見下ろす瞳には迷いが見え、ミリアム、と私の名を呼ぶ声にも遠慮が窺えた。
だから、私は真っ直ぐレイラを見返して笑みを浮かべ、その背を押す。
「行ってらっしゃい、レイラ」
私は大丈夫、心配はいらないとの気持ちを込めて返せば、レイラは一度私の顔を覗き込んで瞬き、それからふっと瞳を和らげて、それ以上迷いを見せることなく軽い頷きで私に応えた。
《レナート、僕達おやつ食べに行ってくるね!》
私の返答とレイラの反応に、フィンもまた鼻先でレナートの髪に優しく触れることで、彼の意思をレナートへ伝える。
この行動は、フィンの言葉の代わりだ。そして、レナートはいつだって正しくフィンの言いたいことを理解する。
「ああ、そうか。ヨルゲン殿からお前達も貰ってたんだったな。ゆっくり楽しんでこいよ」
レナートの挙げた手に、行ってきますと言いながら鼻先で触れて、フィンとレイラが連れ立って去っていく。その姿を見送って、ようやくレナートも私の隣へと腰を下ろした。
と、レナートは私が持ってきたのとは別の籠を手元に引き寄せ、その中から銀蓋の被せられた皿を取り出した。
「ミリアム。君にもヨルゲン殿……と言うか、俺達から詫びの品だ」
「まあ。私にもあるんですか?」
「当たり前だろう。俺が誘っておいて長い時間待たせたんだぞ? ミリアムに詫びないでどうするんだ」
皿を私の前に置いたレナートは驚く私に呆れると、ヨルゲンが用意したフィン達のおやつは私への詫びのついでだと、レイラが聞けば怒りそうなことを当然のように続ける。
もっとも、実際にレイラもフィンもそれぞれの主人の都合で待たされたわけなので、ついでだろうと何だろうとヨルゲンの心遣いは二頭にとっては嬉しいことだろう。実際、フィンは見た目にも明らかに喜び、レイラも満更でもない顔をして行ってしまったのだから。
「あとでヨルゲンさんにお礼を言わないといけませんね」
「気にしなくていい」
何故かわずかに口を尖らせたレナートは、そんなことより、とばかりに銀蓋に手を伸ばし、私がそちらに視線をやると同時に蓋を取り去った。
「まあ!」
思わず声を上げた私の前に現れたのは、薄切りにした小振りの果物を薔薇の花のように敷き詰めた、見事なタルト。果物の赤い皮が付いたまま焼かれたタルトはまさしく大輪の薔薇の花が咲くようで、私は城の料理人の腕に感動を覚えると共に、タルトから目が離せなくなる。
全体に綺麗に付いた焼き色。仄かに香るバターと、炒った木の実の香ばしい香り。それから、こちらを誘うように強く香るのは瑞々しさを感じる果実の甘酸っぱい香り。種々の美味しそうな香りだけでも十分に食欲をそそるのに、焼き上げたあとでジャムを塗ったのか、風に揺れる木漏れ日に時折きらきらと表面が輝く様は、更にタルトを美しく見せていた。
ただの詫びの品にするにはあまりに見事すぎる造形と香りは、もはや芸術の域と言ってもいいかもしれない。流石は、長年王城に勤める料理人の作ったタルトだ。そんなことを思いながらじっと見入る私に、レナートから更なる一言が告げられた。
「すもものタルトだそうだ」
「すももですか!」
甘酸っぱい香りの正体に納得しつつ、果物の名がタルトの味を私に想像させて、じわりと口の中に唾が湧く。その途端、これまで不思議と感じていなかった空腹が急に存在を主張しだした。
胃が空っぽの感覚が強くなり、私がそれと意識した瞬間――その場に、淑女にあるまじきそれはそれは盛大な音が鳴り響く。
流れたのは、驚きを纏った沈黙。
一拍を置いて我に返った私の顔には瞬時に熱が集まり、レナートからは堪えきれなかったらしい笑い声が吹き出た。
「くっ……はははっ! 悪い、本当に待たせすぎたな、ミリアム。食事にしよう」
「そう、ですね……」
身を縮こまらせて俯く私の頭を優しく撫でながら、レナートがタルトを指差す。
「タルトはどうする? 今食べたいなら切ろうか?」
「……あとでいただきます」
軽く首を横に振った私の返答に、レナートはタルトに銀蓋を被せて一旦皿を脇へと除けた。そうすれば視線は自然と並べられた料理へ向くことになり、私の心臓が別の意味で軽く跳ねる。
今から、私の作った料理をレナートと食べる。
自分から望んだこととは言えいざその時が来たと思うと、菓子を食べてもらった時の比ではないくらい、そわそわと気持ちが落ち着かない。それでも、不安よりは期待が大きく、私は自分の気持ちに押されるように皿を手に取った。
これまでにレナートが食事をする姿を見ていると、流石は騎士とばかりに、食べる量が多いのは圧倒的に野菜よりも肉だ。だから、サラダは控え目に。目玉焼きは、形も綺麗に上手く焼けた一枚を。じゃがいもの炒め物と腸詰め肉は、しっかり多めに。
最後にパンを二切れ載せる。そうして、一度料理の盛り付け具合を確かめて気持ちを落ち着け、私はレナートへと皿を差し出した。
「レナートさん、どうぞ」
「俺に?」
あれだけ空腹を主張していた私の行動に素直に驚くレナートに苦笑しつつ、私ははっきり頷いた。
「今日の昼食は、レナートさんの為に作ってきたんです。だから、レナートさんに先に食べてもらいたくて」
「ミリアムが作ったのか? これを全部?」
「厨房の皆さんにも手伝っていただいて、ですけど……」
皿を受け取ったレナートに言葉もなく料理をまじまじと見られて、私の中を急に気恥かしさが駆け上る。顔まで熱くなってきた気がして、私はそれらを誤魔化すべく深皿を手に取ると、小鍋の中身もよそってレナートへと突き付けるように差し出した。
「こっちもパンと一緒に食べてくださいねっ」
「ああ。ありがとう、ミリアム。どれも美味そうだ」
危なげなく深皿も受け取ったレナートは私の勢いに何を言うでもなく、代わりに私が料理を前にして見たかった笑みを浮かべていた。
嬉しさを隠さず、料理へ向ける瞳は期待に満ちて柔らかい。あとは料理を食べて幸せに綻ぶ顔が見られたなら、私にとってこれ以上ない喜びだ。
「口に合わないものがあったら言ってくださいね?」
「まさか。ミリアムの作ったものが俺の口に合わないわけがない」
念の為に私が言えば、食べる前だと言うのにレナートから自信満々に言い切られてしまい、即座に北塔でのレイラの言葉が思い出された。続けて、レイラが「本当に嫌な人」と言いながら勢いよく顔を背ける姿が想像できてしまって、私は小さく吹き出してしまう。
けれど、これもまた私がレイラに言ったように、全てをただ美味しいと食べてもらうのは、嬉しいけれど、それでは私が困ってしまうのだ。
「ありがとうございます。でも、少しでも気になることがあったら教えてくださいね? そうじゃないと困ります」
「困るのか?」
「だって、レナートさんには美味しいものを食べてもらいたいじゃないですか」
欲を言えば、レナートが望む料理を私が作って喜んでもらいたい。美味しそうに顔を綻ばせ、たくさん食べてもらいたい。
その為にも、私はレナートの好みの味や食材、好きな料理のことを一つでも多く知っておきたいのだ。それなのに全ての料理の感想が美味しいの一言では、次にレナートの為にどんな食材を使って何を作ればいいのか、味付けをどうすればいいのか、何も分からないではないか。
「それは……ミリアムが作るのか?」
「そうですよ?」
「そうか、ミリアムが……。そう、か……」
言葉を噛み締めながら料理を見つめ、スプーンを握ったレナートの手が、じゃがいもの炒め物をゆっくりと口へ運んだ。
大きな一口を、しっかり味わうように咀嚼する。その様子を固唾をのんで見守る私の前でレナートの喉が大きく上下し、口に含んだものを嚥下したのがはっきり分かった。
果たして、レナートはどんな感想を告げるのか。知らず両手を握り締め、私は祈る思いでレナートの言葉を待った。
「――うん」
レナートの口角がわずかに上がり、頷きが一つ。それから青い瞳が私を映し――
「ど、どうで――っ!?」
堪らず感想を求めて開いた口へと同時に何かが放り込まれて、私は反射的に口を閉じた。一体何がと思う間もなく私の舌が味覚を捉え、驚きと共にレナートを見やる。
スプーンを片手に笑みを浮かべるレナートは、どこか悪戯を成功させた子供のようで、けれど幸せを滲ませてもいて。肉の塩味とじゃがいものほくりとした食感、玉ねぎの甘味を口一杯に感じながら、私は微笑むレナートの口が期待した言葉を発するのを聞いていた。
「美味いよ、ミリアム。とびきり美味い」
何でも美味しいでは困るのに、とびきりだなんて大袈裟なお世辞は余計に困る。
そう思うのに、レナートが「美味い」と言った瞬間から、私の口の中で料理が味を変えた気がした。初めは味見をした時と何ら変わらなかった筈なのに、レナートの美味しさに喜ぶ姿を視界に収めた今は、その表情に胸が喜びで満ちると共に不思議と美味しさが増して感じる。
噛む毎に旨味が染み出し、炒め過ぎて焼き色が濃い部分さえ、かえってそのほろ苦さがより料理の味を引き立てているようだった。
「美味いか、ミリアム」
自分が作ったものに対して、美味しいも不味いもない。レナートが私の口に食べ物を入れた直後なら、おかしなことを言うものだと笑っただろう。
けれど、はっきり味が変化して美味しさに驚いてしまった今は、レナートの言葉に戸惑いつつも頷くしかなかった。
「レナートさん、料理が美味しくなるおまじないでもかけました?」
「そんなまじないは聞いたことがないな」
「そうなんですか……」
「どうかしたのか?」
小首を傾げて不思議そうにするレナートに私も同じく首を傾げて、急に料理が美味しくなった謎を思う。
美味しく感じた理由として、時間が経って食材に味が染み込んだとは考えられるかもしれない。けれど、口に入れた瞬間は味見をした時と同じだったのだから、納得するには弱い理由だ。
それならこの国特有のまじないが理由かとも思ったけれど、美味しくするまじないは存在しないとレナートは言う。では、一体何が理由なのだろうか。
私の気の所為と言われてしまえばそれまでではあるのだけれど、気の所為と言うには味の変化は実に顕著で、どうしても気の所為にはしたくない自分がいる。
「何だ、そんなことか」
「レナートさんには理由が分かるんですか?」
理由が分からず悩む私に対し、レナートは謎でも何でもないと理由を知る口振りで笑った。そしてもう一度料理を頬張り、続けて私の口にもまた入れる。
「もうっ。何するんですか、レナートさん」
せっかくレナートの為によそったものが、どうして私の口に何度も入れられなければならないのだろう。
非難を込めて声を上げても、レナートはまるで気にすることなく「味は?」と私に問うてきた。
「さっきと変わりませんよ、美味しいです。……どうしてなんですか?」
いい加減に理由を教えてほしいと私が頬を膨らませれば、レナートは簡単なことだと軽い調子で一言告げた。
「俺と一緒に食べるからだよ」
あまりに簡潔に過ぎる、それでいて答えとも思えない一言に、私は自然と自分の眉根が寄るのを感じた。そんな私を見てレナートがおかしそうに表情を崩し、詫びるように私の頭に手を伸ばす。
「ミリアムは、俺の為に作ってくれたんだろう?」
「そうですけど……」
少しでもレナートの疲れが癒えるようにとの思いを込めながら、レナートが驚き喜んでくれる姿を、美味しく食べてくれる姿を想像しながら、午前中一杯厨房の片隅を借りて頑張って作ったのだ。
そして、実際にレナートが美味しいと笑ってくれてこれまでになく嬉しかったし、作ってよかったとも感じている。
私がそう告げれば、だからだと、まるでそれが答えのようにレナートが頷いた。
「料理ってのは……いや、料理に限った話でもないか。作ったものを喜んでもらえたら、それだけで嬉しくなるものだろう? 俺だって、珈琲を美味いと飲んでくれたら作った甲斐があったと嬉しくなるし、そうでもない出来だと思ったものでも、相手に気に入ってもらえたら途端に美味く感じるんだ」
レナートの語った状況は、正に今の私と同じだった。つまりは、そう言うことなのだ。
食べてもらいたいと願った相手に食べてもらえて、美味しいと喜んでもらえて、しかもその様を間近で目にするだけで、こんなにも美味しさが増すだなんて。
それが自分の作ったものであれば尚更、美味しさが増して感じても不思議ではないとレナートは言うのだ。
「それ以前に、誰かと食事をするってのは、それだけで美味しく感じるものだろう?」
加えて、菓子を作った時よりも今回の方が味に変化を齎すほど喜びが大きかったのは、それだけ料理に私が気持ちをこめたからか、食事と言う、普段の生活の中で欠かせないものを作ったからか。
いや、恐らくは両方なのだろう。そう思うと、またしても少しばかり気恥ずかしさを感じてしまうけれど、それ以上に大きな幸せに満たされて心が温かくなる。
レナートの言葉に理解と共に深く頷いて、私は背筋を正してレナートと向き合った。
「レナートさん、ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だろう?」
「いいえ。私の作った料理を美味しいと食べてくれたんですから、私がお礼を言うのは当然です」
「それなら、俺の方こそ美味い食事をありがとう、ミリアム。本当に嬉しい」
結局互いに感謝を伝え合い、私とレナートは顔を見合わせて笑った。それから、私も取り皿を手に取って一つずつ料理を取り分けていく。
その間にも、レナートは次々に料理を口に運んでは全てに美味しいとの感想を口にして、彼自身が言ったように本当に嬉しそうに食べてくれていた。横で感想を耳にする私は、その度に嬉しさと恥ずかしさが渦巻いてどうにもむず痒い思いに襲われてしまったけれど、いつの間にか困ると思うことはなくなって。
ただ、気持ちと一緒にどうしようもなく頬が緩んでしまうのだけは何とか止めたくて、私はわざとらしく眉間に皺を寄せ、料理を頬張るレナートを横目に見た。
「もう……本当に、そんなに言うほど美味しいですか? 実は、遠慮して美味しいって言っていません? もしくは、美味しいと言っておけばいいと思っていませんか?」
「何言ってるんだ。本当に美味いから、俺は素直にそう言ってるだけだぞ? それに……何度も言うが嬉しいんだよ、俺は。やっとミリアムの顔を見られただけでも嬉しいのに、こんなにも早くミリアムの手料理を食べられる日が来るとは思わなかったんだから」
「そ、んなに……食べたかったん、です……?」
「食べたかったよ。誰より一番に。それが俺の為に作ってくれたものなら、尚更」
あまりに想定外の一言に、私は心底から驚いて思わず目を丸くする。ただ、驚きと同じくらい喜びが込み上げてきて、隠しようもなく頬が上気するのも感じていた。
会いたいとの思いが私を抱き締めた、と言ったフィンの言葉が脳裏を過る。私の作った料理を美味しいと食べるレナートの笑顔が、瞼の裏に焼き付いている。
瞬いた先でレナートの顔が柔らかく相好を崩し、穏やかに吹く風が髪を揺らして木漏れ日に輝いた。ほんの少し目元が色付き、瞳の色が深みを増して煌めいて見えるのは気の所為だろうか。
その姿は見慣れたレナートの筈なのにまるで初めて目にするようで、けれど、心のどこかでずっと私が望んでいたもののようでもあって、酷く胸が締め付けられた。
(――ああ)
これは――幸せ、だ。
目にした光景にふつっと言葉が湧き上がり、不意に私の目頭が熱くなった。唇が震えて、そこから言葉が溢れそうになる。けれど、吸った息が音になる前に伸びてきた指先が、私の口から音を消した。
「――ミア」
少しかさついた指先が私の眦をそっと撫で、レナートが目を細めて私の愛称を口にする。それだけで私の全てが満たされて、わずかに滲む視界に吐息だけが弱く漏れた。
私とレナートはただ静かに見つめ合い、そのまましばらくどちらも口を開かないまま時が過ぎて――ふっと、どこか惜しむような音でレナートの形のいい唇から、小さく息が吐き出された。
「俺の勝手な願いにも、ミアはこんなにも喜んでくれるんだな」
「そ……っ」
それは違う。レナートのくれる言葉が、私を喜ばせてくれるのだ。レナートが喜んでくれるからこそ、私も嬉しくなるのだ。レナートはいつだって私を思って言葉をくれていることを、私は知っている。勝手だなんて、そんなことはない。
そう言いたくて口を開いてみたものの、またしてもそこから音が出る前に、レナートの声が私の行動を止めていた。
「こんなに喜んでくれるなら、なかなか屋敷に帰れないのも悪いことじゃないな」
「か……帰って、来ないんですか……っ?」
レナートは突然、何を言い出すのだろう。
言いたかった言葉を過去へと置き去り、感じていた幸せもどこかに吹き飛んで、私は信じられない思いで悲壮な声を上げていた。
だって、それではまるで、レナートがフェルディーンの屋敷に帰ってこないことが私を喜ばせると言っているようではないか。そんなの、冗談ではない。
レナートもラッセも屋敷に不在で、私がどんな思いで過ごしていたと思っているのか。どうして、レナートの為に昼食を作ったと思っているのか。今日と言う日が来るのを、私がどれだけ楽しみにしていたと思っているのか。
レナートが屋敷に帰って来なくて嬉しいと思ったことなんて、一度もないのに。これまでの日々での思いも、今日一日の私の気持ちも頑張りも全てを無に帰すような一言は、簡単に私から冷静さを奪っていた。
「悪いです! レナートさんもラッセさんもいなくて、凄く寂しかったんですよっ? レナートさんが帰って来なくていいことなんかありません! 帰って来てください! レナートさんに……レファに会えないのは嫌です――っ!」
言いたいことを一息に言い切った、次の瞬間。
私の視界は、何故かレナートの騎士服の生地で埋め尽くされていた。一拍後、背中にレナートの腕の温もりを感じてはっとする。反射的に顔を上げるも首はわずかしか動かず、後頭部に触れる掌に優しく押さえ付けられて、私はようやく自分の状態を理解した。
レナートの胸に倒れ込むような格好で、私はレナートの腕の中にいる――
「レ、ファ?」
突然のことに戸惑いながら名を呼べば、レナートの肩が微かに震えて、喉奥でくつりと笑いが漏れるのを感じた。
「……ああ。ミアは俺を喜ばせる天才だな」
「それ、は」
どう言う意味だろうか。疑問が過ったけれど、直後に自分が何を言い放ったのかに気付いた私を羞恥が駆けて、レナートの腕の温かさだけではない熱が全身を侵した。心臓がこれまでにない速さで脈打ち、全身が強張って口すら動かない。
何を口走ってしまったのかと猛烈な勢いで後悔ばかりが頭の中を渦巻き、穴があったら入りたいと言う一心で、私はレナートの腕の中にいることを忘れてその胸に顔を強く押し付けていた。
そんな私の行動にレナートがこれまでになく幸せに笑っていたことも、「会いたかった」と掠れた声で呟いたことも、私達の周りを楽しげに精霊が舞っていたことにも気付かないまま、私の胃が空腹を思い出して二度目に大きな声で鳴くまで、私はレナートの腕に抱かれたままでいた。