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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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歌姫の悪意

 その瞬間、果たして私はどんな顔をしていただろう。

 一瞬にして総毛立った全身は金縛りにでもあったかのように動かず、口ですら縫い合わされたかのように固まり、当然のように一言だって発せない。それなのに、頭の中ではこれまでのことが一気に思い出されて目まぐるしくさえあった。


 私がこの国と深く関わる切っ掛けになった、エイナー誘拐。キリアンの――クルードの愛し子の――即位を阻む為のものだろうと説明された出来事。

 けれど、もしもそれが即位を阻むのではなく、王位簒奪の為の行動の一つだったのだとしたら。目の前の彼女の父の企てだったのだとしたら。

 周りが、時に過剰とも思えるほどに私の警護をしてくれるのも、ただエイナー誘拐を企てた者達から守る為ではなく、リーテの愛し子だからでもなく、カルネアーデ家の生き残りと言う二十五年前の出来事に繋がりを持つ者だからなのだとしたら。


 これまで私の考えていた点と点とを繋いでいた線が切れて別の点と結び付き、見えていた世界が大きく変容していく感覚に、私の背筋を悪寒が走った。

 風が梢を揺らす中、ただただ目の前の女性が――ディオーナが――してやったりと満足そうに笑むのだけが嫌に私の目について、我知らず顔が歪む。


「いい顔だわ。自分に関係することなのに、今まで誰からも知らされなかったのだから当然でしょうけれど……本当に哀れな娘。それに、自分が誰かに恨まれているなんて考えたこともないのでしょうね。まったく、お気楽なことだわ」


 折っていた膝を戻すと共に、ディオーナは畏まった態度すらどこかに捨てて、私をせせら笑った。 

 けれど、その態度がかえって私に少しの冷静さを取り戻してくれたのだろう。あまりのことに目眩すら感じながらも、私は懸命に口を動かして音を発することに成功する。


「……あ、なた、は――」

「そうね。誤解されると面倒だからこれだけは先に言っておくのだけれど、私は王位簒奪になんか欠片も興味はないの。やりたければ、やりたい馬鹿共だけで勝手にやればいい。彼等に使われた挙句に用済みと消されるのも、道連れに投獄されるのも真っ平ごめんよ」


 自らの父親を馬鹿呼ばわりするディオーナからは、これまでとは違い、嘘偽りのない嫌悪や苛立ち、怒りが明確に伝わってきた。

 その確かな感情は更に私に冷静さを取り戻させ、こんな状況だと言うのに、私にディオーナの置かれた立場を瞬時に理解させてもいた。

 そうか、と納得すると共に、私の口から細く息が漏れる。

 ディオーナは、娘だ。いくらエリューガルが身分差のない国であろうとも、家族と言う枠の中では明確な力関係が存在する。子が親に逆らうのは容易ではない。男性家長と娘では、特に。そして、父親が強権的な人物であればあるほど少しの意見も許されず、従うことを強要される。そんな人物の元から逃げ出すなど、よほどの強い決意でもなければ不可能に近いだろう。

 例えば、リンドナー家での私がそうだったように。


 けれど、私は幸運だった。私にはエリューガルと言う明確な逃げ場があり、何より他者とは違う繰り返し生きてきた記憶があったのだから。

 特に後者は、思い出したことで十歳と言う幼さながら強い決意を抱くことに繋がり、家を出ると言う行動を実行に移せたのだ。そうでなければ、私だって虐げられ続ける生活から逃げることを考えたかどうか。下手をすれば、母のあとを追うと言う、別の意味で逃げる方法を取ろうと考えたかもしれない。

 目の前のディオーナは、ある意味で過去の私だ。同時に、繰り返しの記憶を持たず逃げ場も持たずに生き続けたなら恐らく辿ったであろう、未来の私でもある。

 そう思ってしまった瞬間、私のディオーナに対する警戒も敵対心も消え失せて、ただただ冷静な眼差しで彼女と対峙することができていた。


「それを私に伝えて……あなたは私に何を望むのですか?」


 私が短い時間ですっかり冷静さを取り戻したことが面白くないのか、ディオーナの眉がわずかに寄り、整った顔に不満の色が垣間見えた。

 けれどそれも一瞬で、再び口元に笑みが戻る。


「責任を取ってもらえるかしら」

「責任、ですか? 一体、何の……」

「決まっているじゃない。エイナー殿下誘拐を失敗させた責任よ」

「な――っ!」

《何を言うのこの女!》


 絶句する私の隣で、しばらく静かにしていたレイラまでもが激しく怒りを表して蹄を鳴らした。それでもディオーナの笑みは崩れる様子はなく、むしろ堂々とした態度で続ける。


「だって、そうでしょう? 誘拐が成功していれば、陛下は私の父を捕らえる口実を確実に得られて、今頃父は投獄されるか処刑されて私は自由を得ていた筈だもの。でも、あなたが邪魔をした所為で、陛下は私の父を泳がせ続けなければならなくなった。私も自由を得る機会を失って、やりたくもない侍女を続ける羽目になっているんですもの」

《そんなの、ミリアムには何の責任もないじゃない! ただの八つ当たりだわ!》


 ディオーナの身勝手な言い分に、私が口を開くより先にレイラが私の思いを代弁してくれる。もっとも、ディオーナにレイラの声は聞こえないので、馬が苛立たしげに嘶いただけにしか映らなかっただろう。そして、レイラの代弁に満足して何も言わなかった私のことも、何も言い返せないでいると映っただろう。

 私からの反論がないのをいいことにディオーナは更に私との距離を詰め、優位に浸った銀朱の双眸が私を睥睨した。


「そもそも、あなたがエリューガルに来なければこんなことにはなっていなかったのよ、リーテの愛し子。どこかで野垂れ死んでくれていればとまでは言わないけれど、どうして生まれた国で大人しくしていなかったの? どうしてエリューガルに来ようなんて考えたの? どうして……どうして、あなたまで愛し子なのっ? あなたがこの国に現れさえしなければ、せめて愛し子でさえなければ、少なくとも父が躍起になって事を進めようとすることも、私の人生がこんなに不幸に塗れることもなかったのよ!」


 だからこそ私には責任を取る義務があると、少しばかり気色ばんだディオーナの視線が私を責める。

 私にしてみれば、彼女の言い分はやはりどこまで行ってもレイラの言う通り、彼女自身の境遇に対する八つ当たりでしかないものだ。けれど、この国に来なければよかったのに――その一言には、微かに私の胸に痛みが走った。

 それは、私自身、一度ならず考えたことがあることだからだろうか。

 母の故郷であるエリューガルへ来たことを強く後悔したことはないけれど、私がこの国に来てしまったばかりに王太子であるキリアンが死ぬ可能性を思った時には、すぐにでも王城を出てどこか遠くへ行かなければと思ったものだ。


 結局、キリアンが限りなく死から遠いと知らされ、母と縁のあるフェルディーン家に保護されることになってからはこの国を出なければとの思いは薄れ、代わりにこの国で生きていこうとの思いを強くして、今の私がここにいる。

 だから、わずかに痛みはするけれど、私がディオーナの身勝手な言い分に屈してやる理由はどこにもない。私がこの国へ来たことを、そんな理由で非難される謂れもない。

 こちらをきつく睨み据えるディオーナに怯むことなく彼女と真っ向から向き合えば、やがてディオーナは落ち着きを取り戻した様子で一つ息を吐き、ゆるりと口を開いた。


「――だから、あなたには私を守ってもらうわ」

《馬鹿なこと言わないで! どうしてミリアムがお前を守らなくちゃならないの!》

「レイラ」


 今度こそ我慢ならないとレイラが前に出ようとするのを、手綱を力強く握り締めて止める。何故、とのレイラの非難の視線を優しく受け止めて、私はレイラの首を撫でて宥めた。


「ありがとう、レイラ」


 私の為に怒ってくれて。私を守ろうとしてくれて。そんな思いを乗せて微笑めば、レイラは渋々ながらも怒りを収め、この場を私に委ねるように一歩下がってくれる。

 私はもう一度レイラに感謝を込めて触れると、一度目を閉じた。そうして気持ちを切り替え、ディオーナへと向き直る。


「あなたの望みは分かりました。ですが、その望みを叶えるかどうかは私が決めます」


 毅然と告げた私の言葉は、ディオーナに余裕の態度で受け止められた。きっと、私がどんな言葉を返すのか、ディオーナには分かっていたのだろう。そして私も、今の私に答えられる言葉はこれしかないと分かっていた。

 表情に大した変化もないまま、ディオーナが一言「そう」と受ける。


「でも、あなたは私を守るわ。あなたがリーテの愛し子である限り、あなたは私を守らざるを得ないもの。……そうでしょう、慈愛の乙女様?」


 更に一歩私との距離を縮めて断言するディオーナに対して、私はこれ以上言葉を交わす必要はないと口を閉ざすことで答えとし、ディオーナを見上げた。ディオーナもそれ以上続けることなく、私を静かに見下ろす。

 無言で見合う私とディオーナの間を一陣の風が吹き抜け、梢が騒めいた。それでも、私もディオーナも、どちらも視線を逸らそうとはしない。

 やがて、風が収まり森に穏やかな静けさが戻ったところで――先に動いたのはディオーナだった。

 ふ、と小さく息を吐くと私から視線を外し、風で乱れた髪を払う。そして、言葉を交わすのはこれまでと示すように、私の脇を真っ直ぐ歩き始めた。

 ディオーナの姿を目で追うことをしなかった私の視界から、彼女の姿が消える――寸前。


「最後に一つ、忠告しておいてあげるわ」


 私の耳元で、ディオーナが囁く。


「――蛇はしつこいわよ」


 蛇――ミュルダール家でその存在を示されて以降、しばらく聞くことのなかった単語。それがディオーナの口から出てきた衝撃に、私は大きく両目を見開いた。心臓が大きく跳ね、息さえ止まる。

 同時に、またしても関連はないと考えていた点が線で結ばれたことに、私が知らず当事者になっている事態の大きさを思い知って、気が遠くなりかけた。

 まさか、これまで私の身に起こったことの全てが繋がっていたなんて。

 だとしたら、考えたくはないけれど、私がこの国にやって来たことそれ自体が既に仕組まれていたことなのではないか――そんな悪い想像まで巡ってしまう。

 ディオーナの去り際の一言は、これまでにない衝撃を伴って私を慄かせていた。

 そんな私の反応を気に留める素振りもなく、ディオーナの口からは続けて言葉が紡がれる。忠告と言う言葉に相応しい内容が。


「この森には入って来られないようだけれど、あの男……随分とリーテの愛し子に執着しているようだから、油断しないことね」


 私の為に――一言と共に強く落ち葉を踏む音が聞こえて、私は慌てて振り返った。

 視界に捉えたディオーナは、私を顧みることなくこの場を足早に去っていく。私を拒絶するようにも見えるその背に思わず「待って」と声を掛けそうになって、私は咄嗟に唇を噛んだ。

 今ここで呼び止めて詳しく聞きたいと願ったとしても、ディオーナから返されるのは私の欲しがる答えなどではない。逆に、盛大な嘲りが返ってくるだけだ。

 知りたいのならば殿下方にお聞きなさい――聞けるものなら聞いてごらんなさい。その先に、私の死が待つことをよしとするなら――と。

 それが分かっているから、私は口を開けない。何より、私自身が自覚しているのだ。ディオーナに言われるまでもなく、ここでの出来事は誰にも告げられないと。


 彼女は言っていた。誘拐が失敗に終わったことで自由を得る機会を失い、侍女をやり続けなければならなくなった、と。

 ディオーナの父が地方官として勤めるヴェルエルドはエリューガルの北西に位置しており、西の国境に接する都市を有する地方だ。テレシアの実家も、この地方の一都市にある。王都からの距離は聖都よりも更に遠く、そんな場所で働く父親に王都にいる娘の動向がすぐに分かる筈もない。

 にも拘わらず、ディオーナは侍女として王城で働くことを強いられ、嫌々ながら従っている。それが意味するところは、この王城に彼女の動きを監視する父親の手の者がいる、と言うことに他ならない。

 そしてディオーナが、用済みと消されるのも道連れに投獄されるのもごめんだと言っていたことからも、状況によっては彼女の父親は実の娘であろうと容赦なく切り捨て、更には殺す指示を出す可能性があることを示してもいる。

 それらのことを私が理解しているとディオーナが確信したからこそ、彼女は私に守るよう迫ったのだ。生命の泉の女神リーテの愛し子が、慈愛の乙女とさえ呼ばれ始めた泉の乙女が、まさか役に立つ情報を伝えただけの生命を見殺しにするのか、との脅しと共に。


 レイラが言うように、私がディオーナを守る義理など、本当はどこにもない。守らなくとも私達の側には何の不利益も生じないし、仮に守らなかった結果ディオーナの身に危険が及んだとしても、それは私の所為ではないのだ。

 キリアン達だって、私がディオーナの言葉を無視してここでのことを正直に告げたとしても、私には何の責任もないと言うだろう。それどころか、よく話してくれたと感謝の言葉が出てくるかもしれない。もしくは、こんな形で知られることになるとはと、黙っていて済まなかったと逆に謝罪されるだろうか。

 ともあれ、私が話せば、キリアン達はディオーナの身の安全と言う私の希望を叶えるべく動いてくれるだろう。それも、私が責任を感じない形で。

 それは、簡単に想像できるキリアン達の優しさだ。そして、そうすることが私の取るべき正しい行動だと言うことも分かっている。これまでのことを考えれば、ここでのことは私一人の胸に留めておいてはいけないことも、十分理解している。

 けれど、物事に絶対はない。現に、私がこうしてディオーナと出会ってしまっていることが、皮肉なことにそれを証明してしまっているのだ。


 それに、蛇の存在もある。

 私はこれまで、告げられた「蛇」を無意識に言葉通りの意味として受け取っていた。けれど、ディオーナが「あの男」と言ったことで、その認識が間違いだと気付かされてしまった。

 少し考えてみれば分かることで、どうしてこれまでその可能性を考えなかったのか。気付かされた今になって、ようやく理解した自分自身の迂闊さに呆れ果てるばかりだ。

 「蛇」は、単に動物だけを示す言葉ではなかった。レイラ達グーラ種のように、神の加護を授かった特別な個体を指すだけの言葉でもなかった。

 勿論、それらのことも含められてはいたのだろう。けれど、私に告げられた「蛇」とは、限りなく人に近い姿形をし、けれど決して人には持ちえない不可思議な力を有した人ならざる存在――聖域の民なのだ。


 なるほど、それならばこれまでのキリアン達の私への対応全てに納得がいく。同時に、それは私に新たな悪い想像を抱かせた。

 相手に聖域の民がいるならば、ただの人間の護衛などすり抜けて、その目は私のことも監視しているのではないだろうか、と。ディオーナがわざわざ最後に忠告してきたことも、私にその考えを否定させない。

 そうであれば、私が今日のことをキリアン達に告げれば――もしくは、私がキリアン達に告げる素振りを見せるだけでも――不都合を生じさせたとして、ディオーナは殺されてしまうのではないだろうか。

 仮に、キリアン達がディオーナを保護できたとしても、そのあとで密かにディオーナを殺すことは、聖域の民にとっては容易いことかもしれない。

 キリアン達を信じていないわけではない。きっと、私の想像する最悪が起こる確率だって限りなく低いだろう。それでも絶対が存在しない中、最悪の結果に繋がる可能性があると言うだけで、私は取った選択を後悔し続けることになるだろう。そして、その後悔は相手に付け入る隙を与えるに違いない。一度とは言え、聞こえた声に応えてしまいそうになった私なのだから。


 そうでなくとも、短い時間ながらも言葉を交わし、今のディオーナに過去の私と仮定の未来の私を重ねて見てしまったのだ。私は、彼女に手を差し伸べないわけにいかない。

 彼女の命を脅かす選択をすることは、私自身への裏切りだ。誰が否定したとしても、外ならぬ私自身がそう感じてしまっている以上、やはり私にはどうあってもディオーナを守る為に、今日ここでの出来事について固く口を閉ざすと言う選択肢しかないのだ。

 遠ざかっていくディオーナの背を結局何もできないまま見送って、私はゆっくりと肩を落とした。途端、人一人の命と新たに抱えてしまった秘密の重さを思って、眉が寄る。増えてしまった謎も、私を悩ませた。

 それでも、私は口を閉ざす選択をしたのだ。この選択に、後悔はない。

 ぐ、と両手を握り締め、私は一つ深呼吸をする。そうして、森の木々の間に姿を隠していくディオーナの背を最後まで見つめ続けた。

 それからわずかな時が過ぎ、視界に動く存在がすっかり見えなくなった頃。


《……本当に嫌な女》


 不意に、ふん、と鼻息を立てたレイラが小さく吐き捨てた。


「どうしたの、レイラ?」


 揺れる手綱を辿って見上げれば、視線の先でレイラの不機嫌な横顔がくわっと歯を剥きす。


《あの女、自分が殺されたらミリアムのことを呪ってやる、ですって。やっぱり、少しくらい噛みついてやるんだったわ》


 それは恐らく、ディオーナにとっては誰にも聞かせつるもりのない独り言だっただろう。けれど、耳のいいレイラには運の悪いことに聞き取られてしまったらしい。

 苛々と前足で土を掻いて頭を振り、普段よりも随分と過激なことを口にするレイラに私が小さく笑えば、レイラが不機嫌な表情はそのままに、今度は私に半眼を寄越した。


《ミリアムもよ。どうしてあの女の言われるままだったの。もっと言い返したってよかったのに……。本当にあの女を守ってやるつもりはないんでしょう?》


 私がディオーナの言う通りにするわけがないと信じている声の響きに、私はレイラを見上げたまま、申し訳ない気持ちで眉尻を下げた。

 レイラに私の考えを伝えるには、それで十分だった。すぐさまレイラから、どうしてと非難の言葉が飛び出す。


《あんなに一方的に酷いことを言われたのに、まさかあの女に同情したの?》

「同情はしてないよ」

《だったらどうして? あの人……レナートにも何も話さないつもりでしょう、ミリアム。それはよくないわ》

「そう……だね。でも……彼女は、私、だから」


 私がエリューガルへ来るまでどんな人生を送ってきたのか、そのことはレイラと共に時間を過ごす中で、都度話してきた。

 分かってほしいとは言わないけれど、どうか許してほしい。そんな気持ちでレイラの鼻筋にそっと触れれば、レイラはわずかに苦しそうに表情を歪めて目を伏せた。


《ミリアムはあの女とは違うわ。辛いことがあったって、あんなに性格が悪くなったりしていないもの》

「そう?」

《そうよ。ミリアムは優しくて、いつだって一生懸命で、真っ直ぐで、自分のことより他人を気遣う人で……弱いところもあるのに、とても強いのよ。あんな女とは比べ物にならないくらい素敵な女性だわ》

「私のこと、そんな風に思ってくれてたの?」

《最初に会った時から、ずっと思っているわ。そうじゃなきゃ、私がミリアムを主人に選ぶわけがないもの》


 真っ直ぐに私を見つめて断言したレイラは、一呼吸を置いてふと瞳を和らげ、鼻先で私の頬に触れた。


《だから、そんな顔をしないでミリアム》

「そんなって……?」

《何かあったって、あの人にすぐに気付かれてしまう顔よ》

「えっ」


 慌てて頬に手を当て――その直後、私はレイラの言葉の意味を思って、間近にある相棒の顔を見返していた。

 少し情けない私の顔が映り込んだ優しい瞳が一度瞬き、ふわりと微笑む。


「誰にも言わないでくれるの……?」

《ミリアムが言わないと決めたのだもの》


 もう一度レイラの鼻先が私を撫でるように頬に触れ、私はじわりと湧き上がる嬉しさに口元を緩めた。


「ありがとう、レイラ」

《お礼なんていらないわ。代わりに約束をして、ミリアム》

「約束?」

《……もう、私を屋敷に置いて遠くへ行かないで》


 切実な響きを伴った一言に、私ははっとレイラを見上げた。

 レイラの大きな瞳は心なしかいつもよりも潤んでいるようで、フィンから告げられた一言が私の脳裏を過る。


《ミリアムが危ない目に遭っているのに、私がそばにいられないのは嫌だわ。ミリアムが帰ってくるまで心配し続けるのも、同じくらい嫌。帰ってきて、何があったかを聞かされるのも嫌。ミリアムの力になりたいのに何もできないのは……本当に嫌なの》


 切なく響く声は、レイラの思いを強く私に伝えていた。

 レイラは私のフェルベルグ行きが決まった時、本当は自分も連れて行ってくれと私に強く言いたかったのだ。けれど、レイラはそれを我慢して私を見送ってくれた。きっと、主人を困らせてはいけないとの思い、年上なのだから我慢をしなければいけないとの思い、外にも私が思い至れない様々な私を思う気持ちから、そうしてくれたのだろう。

 けれど、我慢をして屋敷に残ったレイラにとって、屋敷にはアレクシアの愛馬であるスーリャがいたとは言え、長期の私の不在はどれだけ彼女を孤独にしただろうか。

 レイラがどんな思いで屋敷で過ごしていたのかを想像して、私は気が付けばレイラを抱き締めていた。


「ごめんね、レイラ。辛かったよね。怖かったよね……寂しかったよね」

《……そうよ、寂しかったわ。凄く、凄く……寂しかったんだからっ》


 これまではっきりと寂しさを見せなかったレイラから明確に出てきた言葉に、私はレイラを抱き締める腕の力を強める。レイラも私を抱き寄せて、私達はそのまましばらくその場でただただ抱き合った。



 ◇



 森の中の道なき道を足早に抜け、小川を越え、ディオーナは逃げるように城壁近くの巨木の陰に滑り込んだ。

 わずかに弾む息を無視して襟元を寛げ、取り出した手鏡で露になった首元を見る。


「……っ!」


 漏れそうになる声を口に手を当てて堪え、ディオーナはそこにあるものを強く凝視した。

 ディオーナの首を一周し、自らの尾を噛む二匹の細い蛇の――刺青。その一匹が、微かに蠢く姿を。

 ディオーナが息を殺して見つめる前で、刺青の蛇は自らの尾を放す。自由を得た尾は小刻みに震えると、やがてじわりと色を薄めて肌の上から消え始めた。初めに尾が消え、胴が消え、最後に頭も消えていき、あとにはディオーナ自身の白い肌だけがそこに残った。

 ディオーナの指先が恐る恐る蛇のあった場所に触れようとして、まだもう一匹残る蛇の姿に思い留まる。代わりに、ぐっと拳を強く握り締めた。


「本当に……冗談じゃないわっ! どうして私がこんなことっ」


 思い出すのは、突然目の前に現れて、驚く間も抵抗する間もなく首に呪いを刻まれてしまった瞬間だ。禿げ上がった頭と醜く曲がった鷲鼻、年老いて嗄れた男の声が耳元でディオーナに囁いた記憶は、背筋に走る悪寒と共に脳裏にこびり付いている。

 男の望みを叶えなければ、いつか蛇がディオーナの心臓を食い破る。望みを叶えれば、蛇は一匹ずつ消えていく――そう告げられた、忌々しい呪い。

 だが、呪いを解くには男の望みを叶える以外に方法はない。従いたくなどないが、やらなければ自分の命が危ないのだ。


「あと、一匹……」


 初めは三匹存在した黒々と肌を這う蛇を鏡越しに睨み付け、ディオーナは寛げていた襟元を急いで戻した。解いていた髪も一つにまとめ、手鏡で出来を確認して立ち上がる。

 裏門から軽快な馬の蹄の音が現れ、やがて通り過ぎていく。その音を背中の向こうに聞きながら、ディオーナは巨木の陰から足を踏み出した。


「私を助けなさいよ、リーテの愛し子。助けなかったら、絶対に許さないわ……っ」


 自分よりも幼い子供に命を預ける屈辱と共に忌々しく吐き捨てて、ディオーナは後ろを振り返ることなく裏門を潜って城へと戻っていった。


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