森の歌姫
昼時と言うこともあってか、森の憩い場は木陰で休息を取る人の姿がちらほらと見えた。私とレイラは憩う人の邪魔にならないよう、少しばかり大回りをしながら敷地の奥を目指して進んでいく。
ある程度整備されている裏門に近い側とは違い、奥へ行けば行くほど敷地内の手入れは最小限に留められて、森のあるがままの自然の姿が視界一杯に広がるのだ。
湖に流れ込む川の水を引き込んだ小川には澄んだ水が心地よい音を奏でながら流れ、木々の合間を野鳥が賑やかに飛び交う。灌木の茂みからは小動物がそっと愛らしい顔を覗かせ、足元には季節が進んだことを示すように、これまでには見なかった種々の野草が可憐な花を咲かせている。そして、小川を渡った向こうには、私とレイラの気に入りの場所があった。
小川の脇、敷物を広げて食事をするには少々茂った草が邪魔をして適していないけれど、倒木がほどよい自然のベンチとなって、森の雰囲気を楽しみながらゆっくりと時間を過ごすのにちょうどいい場所があるのだ。
「王家の森に来るのが久し振りなんて……何だかちょっと変な気分」
《ミリアムが東の国境へ行く前は、城に行く度にここに来ていたものね》
「そうだったね。……ふふっ」
レイラの一言にこれまでのことが思い出されて、思わず私の口から笑みが漏れた。
女性陣でひっしと抱き合って別れを惜しみ、フェルディーン家へと居を移した当初こそ、もう滅多に行くことはないのだろうと思っていた王城。けれど、茶会でエイナーから身分証を兼ねた懐中時計を贈られてからと言うもの、私は何かと理由を付けては王城の門を潜るようになっていた。
その殆どでレイラも一緒だったのは、乗馬は元より崖登りの訓練をする為で。そして、訓練も含め王城訪問の予定を消化して帰るまでに時間が空いてしまった時などには、この場所を訪れるのがいつの間にか私達のお決まりになっていた。半ば習慣付いていたと言ってもいいかもしれない。
それが突然ぱたりと行けなくなったならば、懐かしさすら感じてもおかしくはないのだろう。もっとも、神官に依頼されたあの日から一月半以上もの間、王都を留守にすることになるとは予想もしていなかったけれど。
咲く花の種類や緑の色の濃さ、その緑の合間に見え隠れする森の恵みなど、そこかしこに窺える森の変化を見つけては楽しみながら、私はすっかり機嫌を直したレイラと一緒に目的地を目指した。
*
それは、小川に設置された飛び石を使って、私が危なげなく川を渡った時だった。
《待って、ミリアム》
こちらは軽々と一蹴りで川を飛び越えたレイラが、不意に足を止めた。そして、周囲の音を探るように忙しなく耳を動かし辺りを見回すと、視線をある方向へと定める。
《何か……聞こえるわ》
王家の森で危険なことは起こり得ない。そのことは、私もレイラも十分知っている。だから注意を促すレイラの声に緊迫感はないし、私にも危険に対する緊張感はない。
ただし――この敷地の奥に限っては、ある意味で危険と言えるかもしれない状況に遭遇する可能性があることを、私達は知っていた。
憩うと言う目的の為に作られたこの場所は、常に城の中で緊張を強いられて働く人々にとって、気兼ねなく気を緩めることのできる場所の一つである。加えて、木々が生い茂る森はそこかしこで視界を遮ってくれると言う、開放的でありながらも閉鎖的な空間を作り出してくれる場所でもある。そして、そう言う場所は、得てして密かに心を交わす者達にとって好まれやすい。
つまり。
この王家の森の一部は、城勤めの者達の逢引きの場所としても利用されているのだ。意図的に手入れされていない敷地の奥、小川を渡った先は特に。
真偽のほどは定かではないけれど、一説にはスヴェイン遷都後に即位した王が、当時の恋人との時間を誰にも邪魔されることなく過ごしたいが為に、森の一部を無理矢理王城の敷地としてしまったのが、この場所の出来た由来なんだとか何とか。その為、逢引の場として使われることは黙認されていると言う。
ともあれ、幸いと言うべきか、私達のお気に入りの場所は小川と言う一時的に視界の拓ける場所のそばにある。私達が森へ行く時間帯も、多くの場合城勤めの者達の休憩時間と被っていないこともあり、これまでに直接そう言った人の姿を目撃したことはない。
仮に先客がいたとしても、今のように人よりも耳のいいレイラが先に気付いてくれるお陰で、私達が先客の貴重な時間を邪魔するようなこともなかった。
けれど、久方振りに訪れた今日に限って早々に先客の存在を知らされるとは、少しばかりついていないとは思う。ただ、いつもならば「人の声がする」とはっきり言うレイラにしては曖昧な言い方が気にかかり、私は確かめるようにレイラへと顔を向けた。
「人がいるのよね?」
《ええ。だけど……話し声ではないみたい》
「それって……」
《いいえ。そう言うものとも違うわ》
人目がないとは言え流石に王城に勤めるような人が日の高い内から、と思いつつも少しばかり気まずい思いを顔に表す私に、けれどレイラはあっさり首を横に振って応える。
そして、聞こえる音を確かめるように耳を澄ませて、首をわずかに傾げた。
《これは……歌、かしら?》
「歌?」
レイラからの全く予想しなかった言葉に私は目を瞬き、レイラも不思議そうに私と顔を見合わせる。
今まで、ここで歌声を聞いたことは一度もない。
初めてのことに興味を引かれた私はレイラと視線を交わして互いに頷き合い、少しだけ慎重な足取りで歌声の聞こえる方へと行ってみることにした。
森の中の道なき道をレイラの先導で進めば、初めはレイラにしか聞き取れなかった歌声が、次第に私の耳にも聞こえ始める。
伸びやかな高音が、美しくもどこか物悲しい旋律を奏でていた。吹く風に思いを乗せるように切なく音が踊り、願い祈るように下がる音階が真摯に地に響く。かと思えば、募る思いを空へ届けるように、強くも女性らしい柔らかさを持った音が森の静けさの中を遠く渡っていく――
それはフェルディーン家へ来てすぐの頃、サロモンとラッセに連れられて行った歌劇場で上演されていた劇中で聞いた覚えのあるものだった。
戦続きの小国で、国を守る為に兵として戦に向かうことを余儀なくされた恋人を案じる女性が、彼の無事の帰還を願った歌。
この作品は紆余曲折を経て最後には二人が結ばれる恋愛劇で、この歌は物語の序盤、第一幕の締めを飾ったと記憶している。
《……綺麗ね》
「……うん。本当に素敵な歌声」
目を細めて聞き惚れた様子のレイラに頷きを返して、私も素直に同意した。
歌劇場の歌姫には今一歩及ばない印象だけれど、情景が目に浮かぶような感情の籠もった歌声は、とても素人とは思えなかった。ただ単に歌が上手いと言うだけではない歌声の主は、恐らく声楽を専門に学んだのだろう。
では、そんな人物が何故王城の敷地のこんな奥にいるのか。
新たに湧き上がった好奇心のまま更に森を進み――私は目にした人の姿に息をのんだ。
「――っ」
真っ先に目を奪われたのは、木漏れ日を受けて輝く蒼銀の髪。今この時だけ解いたと見える少し乱れた長い髪が、柔らかな曲線を描きながら背を流れている。そよぐ風に毛先が遊ぶ、たったそれだけの事象すら実に美しい。その髪の合間から覗くわずかに愁いを帯びた横顔も、遠目ながら整った相貌であることがはっきりと見て取れた。
これだけでも十分見とれるものだったけれど、更に私を驚かせたのは女性の周囲を楽しげに舞う光だった。ウゥスの店で初めて目にした精霊を想起させる光の粒達は、まさしく精霊なのだろう。彼女の歌声に惹かれたのか、まだまだ聞かせてほしいとばかりに女性の周囲で期待するように明滅している。
それらの光景は美しい一幅の絵画のようで、そこにいるのはお仕着せを着た王城の侍女の一人だと言うのに、先ほどの歌声、頭髪の色、木漏れ日に輝く苔生した倒木に物憂げに腰掛けている姿も相俟って、この国へやって来て知った多くの風の神の一人、南風の女神レイエールを私に想起させた。
私は、我知らず女性の姿に引き込まれるように見入り――不意に、女性の姿に私の記憶の片隅を過った誰かの姿が重なる。
「っ! メ――」
反射的に、私の口から音が零れた。けれど、それは完全に形を成す前に身じろいだレイラの動きに驚いて、爆ぜるように消えてしまう。同時に、レイラの立てた音は前方の女性に私達の存在を気付かせ、驚かせてしまう結果をも生んでいた。
慌てて立ち上がり、瞬時に光の粒が消える中、こちらを振り返って目を見開く女性。その表情は、突然現れた私に対する純粋な驚きよりも何故か恐怖の色を強く感じて、私は内心で首を傾げた。
「泉の乙女……!? どうしてこんな場所にっ!」
のんびりと疑問を抱く私とは対照的に、女性は酷く焦った様子で周囲を見回し、切れ長の瞳の眦を吊り上げてこちらを見据える。その姿は、直前までの絵画のような美しい雰囲気を一瞬にして消し飛ばし、私達を最大限に警戒しているようだった。
《どうしたのかしら?》
私と同じく不思議そうに呟くレイラに心中で同意しつつ、まずは女性を落ち着かせなければと、私はそっと一歩前に出て笑顔を口元に浮かべた。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのです。その……あまりにも綺麗な歌声が聞こえてきたので、つい気になってしまって」
「……は? 私の歌? そんなことで……本当に? 一人でここに来たって言うの?」
訝しげに問う女性に私ははっきりと首肯し、そのままレイラに顔を向ければ私の意を汲んだレイラも頷いて、私の言葉に偽りはないと示してくれる。
これで女性も落ち着いてくれるだろう。そう思ったけれど、私の予想に反して何故か女性の方はますます怪訝の色を濃くして、私に猜疑心に満ちた眼差しを向けてきた。
「あなた泉の乙女でしょう? それなのにどうして……まさか、私のことを知らないの?」
そして出てきた言葉は、私に女性の態度に対する疑問の答えを提示するようなもので。
「あの、もしかして有名な歌手の方でしたか? すみません、私、存じ――」
「違うわよ! そんな人間が城で侍女なんかやってるわけないでしょう!? 馬鹿なのっ?」
謝罪する私の言葉を遮って女性の鋭い声が飛び、その剣幕に私の肩がわずかに跳ねる。同時にレイラが私への突然の罵倒に憤り、前足の蹄を強く鳴らした。
《なんて言い方! 知らないことを謝罪したのに、あんまりだわ!》
慌てて手綱を握ってレイラを落ち着かせれば、私達の様子を見ていた女性はわずかに険の取れた表情で、独りごちるように「本当に知らないのね」と呟く。
それから、つ、と視線を逸らして思案げに考え込み始め――ややあって、短く息を吐くような笑いが口から零れ出た。
嘲笑とも自嘲とも取れる音にレイラが敏感に反応し、私を守るように四肢に力を込める。けれど、次に女性の口から出たのは先ほどとは違い、すっかりと落ち着きを取り戻した音だった。
ただし、今度は嘲りの色がはっきりと表れたものではあったけれど。
「そう……殿下方には、当事者に何も知らせずに事を収める自信がおありと言うわけね。――笑えるわ」
ゆらりと女性の視線が私を見つめ、形のいい唇がゆるりと曲線を描く。
「あなたもいい気なものね。何も知らずに多くの人間に大切に守られて、一人だけ安全な場所でさも幸せそうに笑っているんですもの。おまけにリーテの愛し子……東の国境では多くの民に傅かれて、さぞやいい気分だったでしょうね、お姫様」
明らかな侮蔑を含んだ物言いと、はっきりと私を指して「リーテの愛し子」と言い切った女性の言動に、今度は私も即座に相手を警戒する。
私がリーテの愛し子であることは、公然の秘密だ。初めに女性自身も「泉の乙女」と口にした通り、王都の民であれば私を指して「リーテの愛し子」と言うことはない。にも拘らず、態度を一変させた女性は敢えて私をそう呼んだ。それも、一部の人しか知らない出来事まで口にして。
目の前の女性は――ただの侍女ではない。
認識を改めると同時に自然と腹に力が入って私の背筋が伸び、くっと口元に力がこもる。
私は目の前の女性を、少なくともキリアンやエイナーの周囲で見かけたことはない。二人の王子の周辺で見かけなかったならば、彼らの父親であるイェルドの近くに配されているとも考えられない。幾度も王城を訪れているのに、蒼銀なんて目立つ髪色の人物をこれまで一度も見たことがなかったことからも、それは明らかだろう。
裏を返せば、それほどまでに目の前の女性は王族からも私からも遠ざけられていると言うことだ。そして、女性の態度を見るに、彼女の側も私と接触することがないことを当然のことと捉えているようだった。その理由が先ほどの彼女の言動にあることも、恐らく自覚している。
明らかに王家に対して好意的ではない人物が、まさか王家の居城で侍女として働いているなんて。それを王家が許しているなんて。
勿論、国を動かす者達の住まう場所に、腹に一物ある人物が全く存在しないなんてことがあるとは思っていないけれど、私に対しても悪意を持つ者がいることは、全く予想していなかった。
だからこそ、キリアン達は私を目の前の女性に接触させまいとしていたのだろう。キリアンの不在と王族の婚約発表とで常にない忙しさに追われている状況でなければ、きっと今も私は彼女とこうして見えることはなかった筈だ。
それを考えると、この森では決して悪意のままに力を振るうことができないとは言え、このまま彼女と相対していていいのだろうかとの迷いと不安が私の心に湧き上がった。
今すぐ戻るべきか、否か。
そんな私の思いを感じ取ったのか、呼応するようにレイラが短く告げる。
《ミリアム、乗って。城へ戻るわ》
「レイラ」
頼もしい相棒の声に、わずかに肩から力が抜ける。けれど、味方を得た安堵はすぐに女性の声によって緊張へと塗り替えられてしまった。
「あら。もう行ってしまうの?」
残念だわ、と全く残念とは思っていない様子で女性が口を開く。
「とは言え、私もリーテの愛し子に接触してしまったなんて知られると厄介だから、行きたければ行ってもらって構わないのだけれど……。でも、あなたは本当にそれでいいのかしら? あなた、自分が何故狙われているのか、本当の理由を知らないのでしょう? 殿下方も酷いことをなさるわね」
《無視よ、ミリアム。早く――》
乗って、とのレイラの声は、残念ながら私には聞き取れなかった。
いや、正確には耳には入っていたけれど、意識から抜け落ちてしまったのだ。悪意に満ちた女性の声に、私が囚われてしまったから。
「救国の乙女も、まさか二十五年も経って娘が自分達の不始末に巻き込まれるだなんて、流石に想像していなかったでしょうね。なんてお可哀想な慈愛の乙女様なのかしら」
「――どう言う、意味ですか」
堪らず反応を返してしまった私にレイラが嘆き、女性の口元の笑みが勝ち誇ったように深まる。
けれど、こればかりは反応せずにいられなかった。レイラには申し訳ないけれど、女性の今の一言は、私にとって聞き逃せないものだったのだから。
私は数歩前に進み出て、わずかに近くなった女性を真っ直ぐに見た。
正直に言えば、女性が何故突然母のことを出してきたのか分からないし、分からないと言う時点で、女性の言う通り私には知らない何かがあると言っているようなものだろう。けれど、そうなのだとしても、それはキリアン達が私のことを思って今はまだ告げていない事実があると言うだけで、決して目の前の女性が含ませているような、私を利用する為に黙っているわけではないと信じたい。
「何故、突然母の話が出てくるのでしょう? ……あなたは何者です? 何の目的で王城にいるのですか?」
「まあ、質問の多いお姫様だこと。周りに大切に守られすぎて、自分の頭で考えることをすっかり忘れてしまったのかしら? お可哀想な方ね」
《なんて酷い言い方なの、あの女!》
女性の嘲りにレイラが憤る隣で、私はぐっと奥歯を噛み締めた。
安い挑発だ。分かっている。真実を伝えるわけもない相手に、我ながら間の抜けたことを問うたものだと自覚はしているけれど、だからこそこれ以上は相手の思い通りに行かせてはいけない。
私が言い返す代わりに女性を強い気持ちで睨み付ければ、女性は興醒めした様子ではっと息を吐いた。同時にその口が動き、つまらない娘、との言葉を象ったのは気の所為ではないだろう。
「挑発の一つでもすれば、そこの馬を嗾けてくるか私に飛び掛かって来るかと思ったのだけれど……流石にそこまで馬鹿ではないのね、あなたも馬も」
つまらなそうに吐き捨てたあと、切り替えるように女性の口元に再び笑みが灯った。反射的に身構える私を前に、なおも優位に立った姿勢を崩さないままの女性が、先ほどの私をなぞるように数歩距離を縮める。
たちまちレイラが警戒して私を守るように隣に並んだけれど、女性は軽く肩を竦めただけで全く意に介さず、くすりと笑うだけだ。
「でも、賢いなら賢いなりに……使えるわ」
そう呟くと女性は徐に姿勢を正し、流石は城に勤める侍女とばかりの美しい所作で、私に対して綺麗に膝を折ってみせた。
「先ほどは名乗りもせず大変失礼いたしました、リーテの愛し子ミリアム様」
けれど、非の打ち所のない所作と違い女性の声は私に対する嘲りを隠そうとはしておらず、私は一瞬所作の見事さに感心しかけたのを押し止めて、女性の次の言葉へと油断なく耳を澄ませた。どんな言葉が彼女の口から飛び出しても、冷静に対処できるように――
けれど、私のそんな思いを、女性の言葉はいとも容易く打ち砕く。
「わたくしはディオーナ・ロズベルグと申します。ヴェルエルドの地方官を務める者を父に持つ、しがない侍女でございますわ。――ですが、あなた様にはこう申し上げるべきかもしれませんわね」
ひたり、と膝を折った女性のやや低くなった視線が私を見据えて不気味に笑った。
「二十五年前、カルネアーデ卿と共に王位簒奪を目論んだ男を祖父に、そして、今またその野望を果たさんと動く愚かな男を父に持つ女――と」
更新がかなりな不定期となり物語の進みが遅々としている中ではありますが、今話で文字数が100万字を超えたようです。
これまでに一つの作品に対してこれほどの文字数を費やしたことは初めてで、文字数に自分自身で驚きつつ、書き続けられているのは読んで下さる方の存在のお陰だなと強く感じております。
これから先も更新は不定期が続いていくかと思いますが、最後まで書ききる気持ちはありますので、気長にお付き合いいただけましたら嬉しく思います。