短剣と母と
そこにあったのは、今まさに私が思い浮かべていた短剣だった。
鞘の装飾の細部まで綺麗に磨かれて見違えるほどの輝きを放ち、布張りの盆に恭しく載せられた姿は、一見別物のようだ。けれど、見覚えのありすぎる形のそれは、私が持っていた母の形見の短剣に間違いなくて。
それが、どうして今、目の前にあるのだろう。
確かに、キリアンには持っていた短剣で縄を切ったと、話してはいた。けれど、その短剣の形状や、ましてそれが母の形見だったことは話していないのだから、こうして私に差し出される理由が見つからない。
私のそんな疑問が顔に出ていたのか、キリアンがどこかほっとしたように目を細めた。
「荷馬車の転落現場に落ちていたそうだ。エイナーが、あなたの物だから早々に返還しろと言うのを、今日まで私の方で保管していた」
「あ、兄上っ」
慌てるエイナーと、それをさらりと無視するキリアンの姿。それをどこか遠くに感じながら、私はテーブルの上の短剣から目が離せなかった。
誰かに見つかって取り上げられることを恐れるあまり、家を出るまでは滅多に自分の目にすら晒すことなく隠し持っていただけだった短剣を、当然ながら、私は磨いたことなど一度もない。
だから、時間の経過と共に鈍くくすんで重々しく変化した見た目から、見違えるような輝きを取り戻した短剣は、どこかその姿を私に自慢するかのようであり、また、綺麗に着飾った私とお揃いねと喜ぶようでもあり、それが、嫌でも私に母の笑顔を思い出させた。
じわりと目頭に熱を感じて、視界が滲む。
「あの、ミリアムごめんなさいっ。この短剣のこと、黙っていて。兄上が、あなたにはまだ話してはいけないって言うから、僕……」
黙り込んでしまった所為で、私が怒っているとでも勘違いしたのだろう。テーブルに身を乗り出して謝罪するエイナーに、私は首を振って応えた。
「……違います」
震える声でそれだけ言って、黙って私の反応を窺っていたキリアンに、短く尋ねる。
「……手に取っても?」
「勿論。あなたへ返す為に持って来たのだから」
むしろ、手に取ってもらわなければ困る――少しばかりおどけて答えたキリアンに礼を言って、私はそっと短剣に手を伸ばした。
懐かしい重みが両手に触れる。磨かれたことではっきりと分かるようになった装飾の一つ一つを、確かめるように指でなぞった。母が、子供の頃に落として傷をつけてしまったのと言っていた、鞘に残る古い凹み傷までをその目にして、私は短剣を強く胸に引き寄せる。
「よかった……っ」
間違いなく、母の形見の短剣だ。辛い日々を共に耐え、あの日、幾度となく私を勇気付け、助けてくれた宝物だ。
(ああ、お母様……!)
声にならない喜びと安堵が、一筋の涙となって頬を伝う。
「ミリアム……?」
エイナーが狼狽える姿に気付いて、私は慌てて涙を拭った。名残惜しく思いながらも、胸元に引き寄せていた短剣をエイナーへと示す。
「この短剣は、母の形見なんです。あの家では、これの他には何一つだって母が生きていた証を残すことを許されなかったので、私のたった一つの宝物でもあるんです。だから、こうしてまた手にできたことが嬉しくて」
母がそばにいる。私の隣へ戻って来た――そんな気持ちさえ抱かせる、大切な宝物だ。
私は、柄に刻まれた紋章に目を落とした。
六輪の釣鐘型の花に、それを下から包み込むような形で伸びる、交差した竜の翼。その上には輝く一つ星が刻まれ、そこから延びる針型の葉が、全体を丸く取り囲んでいる。
母の生家の紋章。
以前よりもはっきりと見える紋章を目にして、私は確信した。
竜の翼を紋章に組み込むなど、竜を守護者と崇めるエリューガルの民と示しているようなもの。間違いなく、母はエリューガルの、それも貴族身分の家に生まれた人間だ。
先ほどの考えを訂正しよう。キリアンは、確実に私の母がどこの家の生まれなのか、特定している。
「キリアン様……」
「――カルネアーデ」
私が何を問うか分かっていたかのように、静かに告げられたキリアンの一言が、私の耳に強く響く。
「その紋章は我が国の、当時貴族であったカルネアーデ家のものだ」
「カルネアーデ……」
エステル・カルネアーデ――それが、母の名。美しかった母に、とてもよく合う響きだ。
けれど、知らなかった母の名を知ることができた喜びを感じると同時に、私はキリアンの言葉に引っかかりを覚えて、素直に喜びだけに浸ることができなかった。
キリアンの言った、貴族「だった」と言う言葉が嫌に耳に響く。母が決して家名を口にしなかったのも、そのことに起因するのだろうか。
母に、いや、カルネアーデ家に一体何があったのだろう。
「……教えて、下さい」
気が付けば、私はそう口にしていた。短剣を持つ手に、自然と力が入る。
知らなければならないと、そう思った。単純に、母の生前の話を聞いてみたいという興味に先立つ気持ちではなく、娘としての義務に近い感情が私を急き立てる。
私がこの先を生きる上でも知らなければならない――そんな強い気持ちが、不思議と私の中に沸いていた。
「母は何故、国の外に出なければいけなかったのですか?」
私の発した問いは、静まった部屋に嫌に大きく響いた。それが不穏な気配を思わせて、私の胃がキリリと痛む。
考えたくはないけれど、嫌な想像が勝手に私の頭の中で膨らんでしまう。
カルネアーデ家は、爵位を失うほどの何かをエリューガル王家に対してしでかし、その為に、母は国内にいられない状況になってしまったのではないだろうか、と。
そうなると、いくらキリアン達が私を歓迎して受け入れてくれても、この国で穏やかに暮らすことは望めない気がする。母の縁者を探すことも、あまり褒められたことではないかもしれない。
いやそれよりも、私を受け入れたことで、キリアン達王子二人を悪く言う者が出てくる可能性はないだろうか。下手をすれば、カルネアーデ家をよく思わない人に、その血を継いでいるというだけの理由で私が殺される、なんてことにもなりかねない。
自分の想像に嫌な汗が背中を伝って、一瞬、目の前が暗くなった。死の予感が私に重く伸し掛かって、短剣を再び手にできた喜びが一瞬で霧散する。
なるほど、私はどうあっても、王太子と出会ったら殺されてしまう運命にあるらしい。
王太子とは、フィロンに限定されることではなかったのか。だとしたら、これはキリアンも命の危機にあると言うことではないだろうか。私と王太子が出会えば、必ず私も王太子も死んでいるのだから。
スイールスでは確か、フィロンと一緒に、あの場でスイールスの王子も暴徒の手にかかって死んでいた気がする。つまり、彼はスイールスの王太子だったと言うことだ。そして、彼もまた、私のことを視界に入れてしまっていたのだ。私が彼の姿を見たその時に。
記憶を辿って死の間際に見た光景を思い出し、そこで唐突に、ある考えが脳裏を掠めた。
もしかして、私は思い違いをしているのでは?
私はこれまでずっと、私が死ぬのは、私が王太子と出会うからだと思っていた。けれど、そうではないのだとしたら。逆、なのだとしたら。
王太子が死ぬのは、王太子が私と出会ったからだとしたら。そして私が死ぬのは、その役目を終えたからだとしたら。
(……キリアン様が、死ぬ?)
「……あなたは――」
「ひゃいっ!」
キリアンの呼び掛けに、体が盛大に跳ねた。心臓が早鐘を打ち、直前まで考えていた事柄が一瞬にして彼方に消し飛ぶ。
反射的に発した声は驚きのあまり裏返った上、まともな言葉にもならず、声をかけた側のキリアンが目を丸くしてしまうほど間抜けなものになってしまっていた。
エイナーの瞳までが驚きに見開かれるのを見て、酷く居た堪れない気持ちになる。
「…………かっ、考え事を……して、まして……」
「……そう、だろうな」
笑いを堪えるように手で口元を隠し、肩を震わせながら小さく俯くキリアンの姿は、私に更に羞恥を覚えさせた。こんな時はいっそはっきり笑ってくれた方が、と思うものの、実際にそれをやられたらやられたで、きっと居た堪れなさに拍車がかかる。
恥ずかしさで再び視線が手元に落ちた私の耳に、笑いの残滓を残しながらも、キリアンの落ち着きを取り戻した声が届いた。
「あなたは、少々頭が回りすぎるが故に、どうも悪い方へと考えてしまうところがあるようだ。私の言い方も悪かったのかもしれないが……これだけは、はっきりと言っておこう」
一度言葉が途切れ、私が顔を上げるのを待って、キリアンが再び口を開く。
「あなたの母君は、とても立派な方だった」
「……本当、ですか……?」
「ああ。もっとも、私が生まれる前の話で、私自身も聞いた話でしか知らないが……。少なくとも、エステル・カルネアーデの名は、悪い意味で広まっていることはない」
そうして、キリアンから「あまり面白くない話だが」との前置きで聞かされたカルネアーデ家に起った出来事は、ある意味では私が想像した通りだった。
簡単に言えば、当時のカルネアーデ家の当主――私から見て祖父にあたる人物――が他国の要人と通じ、エリューガル侵攻の手引きをしていたのを、気付いた母が王家へ告げて食い止めたと言う、どの国でも、一度は似たようなことを聞く話である。
母の密告により、事が起こる前に関係した者は速やかに拘束され、当主の計画は阻止された。カルネアーデ家は爵位剥奪の上、全ての土地や財産を没収。当主と彼に積極的に加担していた親族数名は斬首刑。その他、大なり小なり関わった者達も皆、それぞれに刑が言い渡された。
刑に処された者の妻子の多くは神殿預かりとなり、そうならなかった者も、ある者は人目を避けるために田舎へ移り住み、ある者は国外へ出るなど、散り散りに。
こうして、長く国の治世に有能な文官を輩出してきたカルネアーデ家は、その長い歴史を閉じた。
実に、二十五年前の話だ。
「では、母もその時に国を出る決断をしたんですね……」
「結論から言えばそうだが、エステル様の密告がなければ、私達はカルネアーデ卿の悪事に気付かず、国を危険に晒していた可能性があった。当初、王家は元より多くの国民が、エステル様が国を出ることに反対し、彼女に翻意を促したそうだ」
言われてみれば、確かにそうだ。国を危機から救った人物ともなれば、いくら父親が重罪人でも、本人の希望通り、はいそうですかと国から去ることを簡単には認められない。
何より、父親は他国と内通して国家転覆を謀ろうとしたのだ。いくら父の罪を暴いた側と言えども、その娘が国を出奔すれば様々な思惑を持って近づく者はいるだろうし、存在を邪魔に思う者もいる。母の身を守ると言う面からも、どうにかして国に留まってもらいたいと思うのは、自然の流れだろう。
他方、母が国を出ようとしたのも、母の性格を考えれば私には納得できる話だ。
記憶に残る姿は少ないけれど、母はとても美しい人だった。美しいと言うのは、何も容姿に限った話ではない。母は、どんな時も真っ直ぐに背を伸ばして前を向き、決して己の境遇を悲観せず、弱音も吐かず、いつだってその顔に凛とした笑顔を灯す、とても気高い人でもあったのだ。
そんな母だからこそ、カルネアーデ一族の中で、自分一人だけが罰せられないことを望まなかったのではないだろうか。カルネアーデの歴史を終わらせてしまった自分にも罰は下るべき、との思いもあったに違いない。
そして恐らく、そんな母の意思は固かった。
だからと言って、なにも旅芸人に身をやつさなくともよかったのではないだろうか、と、娘の立場ながら思ってしまうのだけれど。
「もっとも、反対の声が多かったのは、エステル様が当時、王太子の婚約者だったことも大いに影響していたと言われているのだが……。特に王都の民からの人望は厚く、将来の国母として非常に期待されていたそうだ。エステル様を罪人の娘と謗る声はわずかで、むしろ、国を救った英雄として称える声が多かったとか。中には、婚約の解消などせず、そのまま王太子との結婚を望む声まであったらしい。救国の乙女が王家に嫁ぐなど、またとない慶事だと、そんなことを喧伝する者もいたとかで……」
「――は?」
今しも口に運ぼうとしていた菓子が、私の手からぽとりと落ちた。膝に当たり、スカートの襞を滑って床へ転がった菓子を、目で追う余裕は欠片もない。
まるで横っ面を引っ叩かれたような衝撃に、開いた口が塞がらなかった。私の耳がとんでもないことを聞いてしまって、思考が停止する。
(誰が、誰の、何ですと……?)
テレシアが落ちた菓子を素早く片付けるのを感じながらも、私は眼前のキリアンから視線を外せなかった。
それまで、黒竜が守護をし、人知を超えた力を持つ人までいるような国でもそんなことが起こるのかとか、流石はお母様だとか、どこか他人事のように思いながら聞いていただけだったのに。
「……あの……? ……母、が……何と?」
どうか聞き間違いでありますように――そんな思いを込めて辛うじてキリアンに聞き返せば、彼は悪びれない態度で私の願いをばっさり断ち切った。
「あなたの母君は、当時王太子だった私達の父の婚約者だった、と」
くらりと眩暈を覚えて、私の体はそばにいたイーリスに支えられる。
なんと言う巡り合わせだろう。かつて王太子の婚約者だった母と、その王太子の息子を助けた娘と。こんな偶然の出会いがあるだろうか。これは、何か得体の知れない力が働いて、私達を引き寄せたのではないか――そんな想像さえ頭をもたげてしまうくらい、あり得ない出会いだ。