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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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待ち合わせの北塔で

 エルメーアへと向かうラッセ達を見送って、数日。国王と王太子それぞれの婚約が発表されて王都中がいつになく賑わう中、私はレイラと共に王城を訪れていた。

 数日振りの王城も先日とは打って変わって人の往来が増えており、誰もが忙しなく動いている。侍女や騎士、文官達が私に気付いて挨拶をする姿もどこか落ち着きがなく、少しばかり申し訳なく思いながら、私はレナートと待ち合わせた場所に一足先に着いて、彼を待っていた。


《女性を待たせるなんて、どう言うつもりなのかしら》

「レイラったら。私達が早く来てしまったんだから仕方ないじゃない」


 手に持つ懐中時計の指す時刻は、約束の時間まで十分余裕がある。ふん、と鼻を鳴らすレイラに苦笑して、私は宥めるように彼女の首を撫でた。

 私達が今いるのは王家の森へ続く裏門の近く、北塔だ。今日はレナートとここで待ち合わせたあと、王家の森で一緒に昼食を取ることになっている。

 私としては、王都へ帰って来た翌日以降ずっと城にいるレナートへお守りを渡せたらそれでよかったのだけれど、都合を聞いたレナートから、それならば昼食を一緒にと誘われたのだ。こんな予想外の嬉しい誘い、頷かないわけにいかない。

 ベンチに座って両手で抱えた籠を覗き込み、被せた布の間から仄かに漂ってくる香りに、私の頬が勝手に緩んだ。

 自分でも意外だったのだけれど、ラッセもレナートもいないここ数日は、私にこれまでにない寂しさを感じさせていた。その所為もあって、レナートからの食事の誘いは私の心を大いに弾ませているのだ。


《嬉しそうね、ミリアム》

「だって、レナートさんと一緒にご飯を食べるのは久し振りなんだもの」

《今までだって、あの人のいない日はいくらでもあったのに?》

「それはそうだけど……」

《朝から呆れるくらい締りのない顔をして、どうせそれだけが理由じゃないんでしょう》

「しま……っ!?」


 あまりの言い方に絶句した私をレイラの呆れた横目が一瞥し、そのまま私の膝の上の籠へと移動した。どこか恨めしそうにも見えるレイラにつられて、私も今一度手元へと視線を落とす。

 布を被せた、取っ手付きの籠。この中には、レナートと食べる為の昼食が入っている。そして実のところ、これこそがレイラが指摘する別の理由でもあった。

 今日の昼食は、私が作ったのだ。

 勿論、一人で一から全てをとはいかず、その都度フェルディーン家の料理人に手伝ってもらいながらではあったけれど。それでも、私が頑張った結晶がここには詰め込まれている。


 忙しいだろうレナートを思って、こちらから持って行くとだけ伝えた昼食。これまで簡単な菓子くらいしか作っていない私が作ったとレナートが知ったら、彼はどんな顔をするだろう。

 味見はしているので味付けが極端におかしいことはないだろうけれど、果たしてレナートの口に合うものにできただろうか。レナートは、美味しく食べてくれるだろうか。仕事に追われているだろうレナートの、疲れを癒せるものを作れただろうか。私の作った料理達は、レナートにほんの一時でも安らげる時間を提供できるだろうか。レナートは喜んでくれるだろうか――

 一度考え始めると次から次に期待と不安が押し寄せて、私は今朝からどうにも落ち着かないでいた。

 まさか、そんな状態の私を見て「締まりのない顔」だとレイラに言われるとは思わなかったけれど。


「ねえ、レイラ――」

《心配しなくても、ミリアムの作ったものなら何だって美味しいって言いながら食べるわよ、あの人。……本当に嫌な人だわ》


 まるで私の言いたいことが分かっていたようなレイラの即答と、言葉の端々からレナートが嫌いだと伝わる口調に、私は苦笑する。


「それは……嬉しいけど、口に合わないものがあったなら、それはちゃんと教えてほしい……かな」

《もしミリアムの手料理を不味いなんて言ったら、私が噛み付いてやるわ。女心の分からない男は最低よっ》

「もう、レイラ。それじゃ、レナートさんが何を言ってもレイラは怒るってことじゃない」

《当たり前でしょう。私、あの人のことが嫌いだもの》


 心底から嫌いだと鼻に皺を寄せて歯を見せながら、レイラは呆れる私に向かってぴしゃりと言い放った。この様子では、レナートがやって来た時に勢い余って噛み付きそうだ。

 まさかそんなことを実際にやってしまうレイラではないだろうけれど、一抹の不安に駆られた私はそっと手綱を握り締める。

 心が弾む私とは対照的に、レイラは今朝からずっと不機嫌なのだ。恐らく、せっかく私と過ごす時間が持てたところに、行き先は王城で会いに行く相手がレイラの嫌うレナートなものだから、腹が立って仕方がないのだろう。

 レイラのレナート嫌いは相変わらず……と言うより、今の彼女の様子を見ると、むしろその程度は酷くなっている気がする。

 もっとも、レイラがこんなにも荒れてしまうのも無理もないのかもしれない。だって、レイラは一月以上も屋敷で留守番だったのに、その間レナートはほぼずっと私の近くにいたのだから。

 とは言え、それにしてもこの嫌いようはどうしたことか。一体、レイラはレナートのどこがそんなに嫌いなのだろう。

 疑問に思いながらも、今それを言えば火に油を注いでしまう気がして、私は言葉の代わりに小さく息を吐いた。

 と、レイラの耳がぴくりと動き、顔が上がる。


《誰かこっちへ来るわ》


 レイラの向く方向へ私も顔を向ければ、フェルベルグ行きですっかり見慣れた騎士の一人がこちらを目指して急ぎやって来る姿が見えた。

 騎士と言うより文官のような雰囲気を纏い、穏やかな表情を絶やさないその人は、キリアン付きの騎士隊の隊長ヨルゲンだ。

 くすんだ鳶色の下から覗く薄灰色の瞳が私に向かって目礼し、安堵を見せる。その態度から見るに、どうやらヨルゲンの目的は私のようだ。

 私はヨルゲンを出迎えるべくベンチへ籠を置いて立ち上がり――同時にヨルゲンとは別の方向から聞こえてきた軽やかな馬の蹄の音に、反射的に振り返っていた。


「悪い、ミリアム! 遅れた!」

《レイラー! お待たせー!》

「レナートさん! フィン!」


 一人と一頭の声がそれぞれから聞こえて私は思わず飛び跳ね、笑顔で二人を迎える。けれど、やって来たレナートはフィンから降りて私を抱き締めるなり私の背後に目をやって、たちまち怪訝そうに眉を寄せた。


「何故あなたがここにいる? 会議室にいただろう」

「レナート殿が部屋を飛び出してしまわれましたので」


 呼び止めたのにそれを聞かずにレナートが行ってしまうからここに来る羽目になったのだと、ヨルゲンは悪びれた様子なくにこやかに笑んだ。そんな彼とは対照的に、見上げたレナートの眉はわずかに吊り上がり、口元も引き結ばれて不機嫌が顔を覗かせる。


「会議はあれで終わった筈だが?」

「会議に限って言えば、仰る通りです」


 ヨルゲンが答えた途端、レナートははっきり嫌そうに表情を歪ませた。たったそれだけで私にも状況が理解できてしまって、途端に私の中に申し訳なさが広がっていく。

 もしも、私との昼食の約束を守る為にレナートが仕事を放り出してきたのだとしたら、それはきっと大勢に迷惑をかける行為だろう。そして、レナートにそんな行動を取らせてしまった原因は、彼と約束をした私にある。


「レナートさん――」

「誤解するなよ、ミリアム。遅れたのは会議が押したからで、俺はちゃんと仕事に一区切りつけてここに来たからな? ミリアムが気にすることは何一つないんだ」


 そうは言うけれど、実際にレナートを追いかけてヨルゲンがこの場に来ているのだ。会議以外にもレナートにはやるべきことが残っていると言って。

 残念ながら、私は誰かに迷惑をかけてまでレナートと食事を楽しめるほど、図太くできてはいない。

 そんな思いで、「でも」と口に出しつつ私がヨルゲンを気にする素振りを見せれば、レナートは一瞬恨めしそうにヨルゲンを睨み付け、それから諦めたように息を吐いて私を抱いていた腕を解いた。


「どうしても午後に回せないのか?」

「団長が出席される午後の会議までに、レナート殿に目を通していただきたいそうです」

「相手は団長か……」


 仕事の相手が断れない上司と知ったレナートの顔が、一度天を仰ぐ。それから、ゆるゆると私に申し訳なさそうな瞳が落ちてきた。


「ミリアム、本当に悪い。もう少しだけ待っていてくれるか? なるべく早く終わらせて戻ってくるから」

「私は構いません、けど……」


 果たして、それでいいのだろうか。

 ヨルゲンの言葉から察するに、レナートは午後の会議の議題となる事柄について意見を求められているのだろう。騎士団長が出席するような会議ともなれば、他の出席者も相応の役職に就いていると容易に想像できる。そんな会議の議題が簡単なものである筈がなく、目を通して数分で意見を述べられるものでも、なるべく早く終わらせられるものでも、終わらせていいものでもない気がする。

 そう思ってヨルゲンにも確認の為に顔を向ければ、彼からは「ご安心ください」との一言が寄越された。


「そう時間のかかるものではございませんので」

「分かりました。それなら、ここで――」

《嫌よ》


 待っています。そう続く筈だった私の言葉は、レイラのはっきりとした拒否の言葉によって途切れてしまう。

 レナートに向かって苛々と鼻を鳴らすレイラは、もう限界だと言わんばかりに私とレナートの間に体を割り込ませ、私の視界からレナートの姿を隠してしまった。


《私はこれ以上ここで待ちたくないわ。森へ行っていましょう、ミリアム》

《わあ、レイラってばご機嫌斜めだね。どしたの?》

《あなたの主人の所為でしょう》

《またそれ? レイラはレナートのこと本当に嫌いだよねー。おっかしーの!》


 一体どこに笑う要素があるのか、フィンは腹を立てているレイラを能天気に面白がるけれど、二頭の会話が聞こえる私にとっては笑い事ではない。

 万が一にもレイラが暴れないよう手綱をしっかり握り締め、レイラの後ろからこちらを窺うレナートに謝罪する。


「ごめんなさい、レナートさん。レイラが早く森に行きたいみたいで……」

「森に?」


 レナートの顔にたちまち懸念の色が現れて、再び申し訳なさに私の眉尻が下がった。

 すぐ隣の森に行くことにさえレナートが難色を示すのは、王都に広まっている泉の乙女の噂話が原因だろう。今は王族二人の婚約話でもちきりで噂話は霞んでしまった印象があるけれど、決してなくなったわけではない。私が一人で行動することをレナートがよく思わないのは、当然のことだ。

 私としては、こんなことでレナートを心配させたくはない。そうなるとレイラを説得しなければならないのだけど、さてどう言って納得してもらおうか。

 レイラを宥めながら頭を悩ませていると、ヨルゲンが小さく笑ってレナートへ声をかけた。


「よろしいのではありませんか、レナート殿。今は城の警備も強化されていますし」


 そう言って、ヨルゲンの視線が北塔に向く。そこには普段よりも数を増した複数の騎士の姿があり、塔の上階にも見張りの騎士の姿がいくつも確認できた。

 今日のレナートとの待ち合わせが城の一室などではなく屋外のこの場所だったのも、レイラ連れと言うこともあったけれど、この増員された警備の存在が最も大きな理由と言っていいだろう。

 私がこの場所にレイラと共にいる姿を、今日は何人もの騎士の視界が常に捉えている。不審な人物が私に接近するようなことがあれば、たちまち複数人が私の下へ駆けつけることが予想できるくらいには、ここは安全が確保された場所なのだ。


「王家の森も、城の敷地内であれば外部の者が踏み入ることはありませんから、心配は無用かと」

「それはそうだが……」


 ヨルゲンが安全を主張するけれど、それに対するレナートの反応はどうにも思わしくなかった。その理由を考えて、私は城壁の向こうの森をレイラ越しに窺う。

 王城に隣接する王家の森の一部は、王城に勤める者達の憩いの場として、城の敷地内扱いがなされている。ヨルゲンの言う通り、そこを利用するのは城勤めの者か城に住む王族、他には城に招かれた客くらいで、全くの部外者が足を踏み入れることはない。

 それでもレナートが渋い顔をするのは、私を心配する気持ちが万が一を頭に過ぎらせるからだろうか。


 この森の憩い場、敷地の境界は石を積み上げて作られた背の低い塀が囲うだけで、出入り口も塀が途切れた箇所に騎士が立っているだけと言う、恐ろしく警備が手薄な場所なのだ。

 それだけを見れば、確かにレナートの心配も頷ける。けれど、実のところこれまでにこの場所から王城が侵攻されたことがないくらいには、見た目に反して警備面では心配がいらないのだ。

 何故か? 答えは簡単。王家の森自体が神の加護を受けているからだ。クルードは言わずもがな、森にある湖に毎年リーテの雫が捧げられるお陰で、この森はリーテの加護にも守られている。

 その為、不思議なことに悪意を持つ者は自然と森を避け、たとえ強い意志でもって無理をして森に足を踏み入れたとしても、その者は次第に体調に異変を来し、決して裏門まで辿り着けないのだ。

 また、悪意を持たない者でも、悪戯心で石塀を越えてやろうと考えたとしても、どう言うわけか絶対にそれを実行に移せないのだと言う。馬場の柵を飛び越えて森へ遊びに行くフィンでさえ、この石塀を飛び越えたことは一度もない。


 つまり、レナートの考える「万が一」はほぼ起こらないと言っていいくらいには、王家の森は安全な場所なのだ。

 レナートもそれは理解している筈だけれど、それでもこうして心配させてしまうのは、フェルベルグの地での出来事がそれだけレナートの心に強い不安を植え付けてしまったと言うことなのだろうか。

 そんなことを思って、レナートに対する申し訳なさで私の心が少しだけ重さを増した時だった。


《もー。レナートってば、いくらミリアムと一緒に森に行きたいからって、駄々捏ねてミリアムを困らせるのはよくないと思うなー》

「――へ?」


 フィンが鼻先でレナートを突き、明るくも呆れた声で告げた言葉に、私の口から思わず間の抜けた声が漏れ出る。

 突然のフィンの行動に、レナートが咎めるように何事かをフィンに向かって放つけれど、そちらに意識を向ける余裕は私にはなかった。

 今、フィンはレナートが何をしていると言ったのだろう? 私の聞き間違いだろうか? いくらなんでも、まさかレナートがそんな子供じみた真似をする筈が――

 否定の思考が次から次へと私の頭を巡る。けれど、続いた二頭の会話が私の淡い思いをすっぱり否定した。


《嘘でしょう? この人、ミリアムを心配しているんじゃないの?》

《まさかー。城が安全なの、レイラだって知ってるでしょ。そうじゃなきゃ、レナートがこんな外でミリアムを待たせるわけないよ?》

《なんて男なの……! 信じられない! ミリアムのことより自分の都合を気にするなんて!》

《ここに急いで来たのだって、早くミリアムに会いたかったからだもんね。会いたすぎて、勢い余って抱き締めちゃうくらい!》

「ふぇっ!?」

《最低っ!》


 フィンの一言に、私とレイラの声が重なる。同時に、一瞬にして私の顔が熱を持った。

 言われてみれば、フィンから降りてすぐにレナートは私のことを抱き締めてきた。あの時はレナートに会えた喜びが大きくて、全く何とも思わずに彼の抱擁を受け入れていたけれど、改めて言葉にされると何とも恥ずかしい。

 それに、である。まさかレナートも私に会いたいと思っていたなんて、想像もしなかった。その思いが私を抱き締めさせたなんてことも、考えすらしなかった。

 嬉しいような恥ずかしいような、何ともむず痒く落ち着かない気持ちがじわじわと湧き出して、私は急にレナートを直視できなくなる。


「おい、フィン。お前、ミリアムとレイラに何を言った?」

《えぇー。何で僕怒られてるの? 本当のこと言っただけなのになー》


 熱い頬を両手で押さえる私の耳に、レナートの尖った声とフィンのとぼけた声が聞こえてくる。かと思ったら、私の手が不意に何かに引っ張られ、顔から剥がれた。


《馬鹿馬鹿しくて付き合っていられないわ。行きましょう、ミリアム》


 慌てて顔を上げれば、視界に映ったのはこちらに顔を向けて顎を上げるレイラと、そこから伸びる私が握ったままの手綱だ。

 私を見下ろすレイラと一度はっきり目が合い、首を振る動きに再び手綱が引かれる。


《早く》


 そう言うや、レイラは私を有無を言わさぬ強さで引っ張った。


「あ! レイラ、待って。ベンチに籠が」

《そんなの、あの人に持ってこさせたらいいのよ》

「でも、レナートさんに迷惑――」

《ミリアム、レナートのことは気にしないでレイラと一緒に先に森に行っててよ》


 足を止めようとする私の背をフィンが押し、驚いて振り返った私にずいと顔を寄せた。大きな瞳が私を見つめて柔らかく笑む。


《あのね。レイラ、すっごく寂しがってたんだ》


 ごく小さな声でそっと囁かれた一言に、私ははっと目を見開いた。そして、レイラへと顔を戻す。

 フィンの行動に驚いた拍子に私が手綱を手放してしまったレイラは、フィンの囁きには気付いていないのか、こちらを振り返ることなく森を目指して進んでいる。その後ろ姿は、レナートに対して腹を立てているのに、何故か不思議と寂しそうに私の目に映った。

 その姿に不意に今日これまでのレイラの尖った態度が重なり、私の中に納得が広がる。


(――ああ……そうか)


 どうして気付かなかったのだろう。私がほんの数日とは言えレナートに会えないことを寂しいと感じたのと同様、レイラも長期にわたって私に会えないことに寂しさを感じていたのだと言うことに。朝からずっと不機嫌なのも寂しさの裏返しなのだと、どうして分かってあげられなかったのだろう。何より、私だって、確かに初めの頃はレイラを伴ってフェルベルグへ行けなかったことを寂しいと思っていた筈なのに。

 それなのに、朝からずっと不機嫌なのも寂しさの裏返しなのだと、どうして分かってあげられなかったのだろう。

 少しずつ遠ざかるレイラの姿に、あの日城を辞してフェルディーン家へ帰り着き、レイラに会いに厩舎へ向かった時のことが思い出される。


 レイラは厩舎に現れた私の姿に驚いて、ただいまと言うより先に私の怪我を心配した。そして、私が無事なことが分かると目に見えて安堵し、そばに寄った私を首を回して引き寄せて、ただただ私の帰りを喜んでくれた。

 そこには、レイラ自身が寂しさを抱いていたことを感じさせるものなど微塵もなく、だから私もレイラの出迎えにただ喜ぶことしかしなかった――私をなかなか離そうとしなかったレイラの行動こそが、寂しかったと私に伝えていたようなものなのに。

 私はレイラに声をかけようと口を開きかけ、一旦閉じてレナートを振り返った。


「ごめんなさい、レナートさん。私、レイラと一緒に先に森に行っています。籠をお願いしてもいいですか?」

「……ああ、分かった」


 私の謝罪に、レナートは仕方がないと諦めるように笑って首を縦に動かす。ほんの少し肩を落としたように見えたのは私の気の所為か、それともフィンの言葉を聞いていた所為でそう感じたからか。

 そんなことを一瞬頭に過ぎらせてすぐに考えることをやめ、私は裏門へと進むレイラを追って駆け出した。


「レイラ! 私を置いていかないで!」

《あら、私がミリアムを置いていくわけがないわ》


 立ち止まり、追い付いた私につんと澄まして答えるレイラの耳と尾が、声音とは裏腹に嬉しさを隠しきれていないのには気付かない振りをして、私はレイラに触れた。


「レイラ」

《なぁに?》


 私よりほんの少し年上なレイラは、時々私に対して年長者振る。私を思って自分の感情を隠し、我慢をしてしまう。主人を守ることを何よりも優先させようと、行動してしまう。

 とても優しくて責任感の強い、私の大切な愛馬。

 私の呼びかけに応えて真っ直ぐこちらを見つめるレイラの瞳は、嬉しさを滲ませて柔らかい。そんなレイラを見つめ返し、私は感謝と謝罪の気持ちを込めて一言を贈った。


「私はレイラが大好きよ」

《私だって、ミリアムが大好きよ》


 当然だと即座に返ってきた同じ言葉に、私の顔に自然と笑みが灯る。レイラも嬉しそうに鼻先で私の額に触れ、それから私達はゆっくりと歩みを再開した。

 裏門を潜り抜ければ、もうそこは森の中。木漏れ日の煌めきに迎えられながら、私はレナート達がやって来るまでのしばしの時間をレイラと過ごすべく、緑の中を進んでいった。


 *


 一度も振り返ることなくミリアムの姿が裏門の向こうへ消えてしまった、その直後。

「振られてしまいましたね」

「煩い」


 ヨルゲンがおかしそうに笑い、それを横目に睨んだレナートのため息が小さく続いた。だが、すぐに気を取り直すようにレナートの視線は愛馬を捉える。


「フィン。俺が戻ってくるまでお前はここにいろよ」


 レナートの指示に愛馬が尾を振って応え、それを見たヨルゲンが卒のない動きで籠を手に取ると、レナートへと己の来た道を示す。


「では、お急ぎくださいレナート殿。こちらの籠は、私が責任を持ってお預かりしておきますので」

「……頼んだ」


 一瞬、レナートの視線が物言いたげにヨルゲンに向けられるが、再びのため息と共に諦めるような声音が口から漏れ出た。そして、こうしてはいられないとヨルゲンがやってきた道を急ぎ足で戻っていく。

 程なくしてそれが駆け足に変わり建物の向こうへあっと言う間にその姿を消してしまうと、ヨルゲンが口元に手をやって小さく噴き出すように笑んだ。


「……君の主人も困った方だ」


 ヨルゲンの呟きに、同意するようにレナートの愛馬が首を振り、それを目にしたヨルゲンが笑みを深める。

 その後、ヨルゲンも来た時とは逆にゆっくりとした足取りで北塔を去っていき、レナートの愛馬だけがその場にぽつんと残された。

 のんびりと尾を揺らしてヨルゲンを見送る愛馬は、その姿が見えなくなると途端に興味をなくしたように頭を巡らせ、さして広くもない北塔前の広場に足を向ける。

 軽い馬の蹄の音が響く中、一連のやり取りを目にしていた北塔の騎士達はそれぞれが素知らぬ顔で視線を逸らし、長閑な静けさがその場に漂った。


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