奇妙な噂と不穏な視線
ライサが白い歯を見せて悪戯に笑った瞬間、頭上から新たな声が落ちてきて、私とライサは揃って視線を上へと向けた。
と、私を支えるラッセの肩越しに、にこりと笑ってこちらを見下ろすオーレンと目が合う。
「ミリアムちゃん、おっかえりー! 久し振りに見てもやっぱり可愛いね!」
「うわっ、オーレン!? 何でいるのさっ!?」
「うわって……お前は相変わらず失礼な奴だな、ライサ。別に俺がここにいたっていいだろ。仕事の途中でお前の親父さんに会ったから、ついでに寄ったんだよ」
そう言って背後を指したオーレンの視線を辿れば、店の入口でサーラ達と一緒に客を見送るジェニスがいることに気が付いた。
店内を見回せば、いつの間にか客は私達だけ。どうやら、今退店したのが最後の客だったらしい。
「父さん、おかえり!」
「ただいま、ライサ」
店内の様子に全く気付かなかったことに驚く私の前で、客を見送り終えたジェニスがライサに向かって柔らかく微笑む。そのまま、私とラッセにも笑みが向けられた。
「ミリアムお嬢さん、おかえりなさい」
いつもよりも落ち着いた声音なのは、私の無事な姿に安堵したからか、珍しく紳士的な服を纏っているからか。恐らく両方だろうジェニスの父親らしい姿に微笑み返して、私も感謝を込めて言葉を返す。
「ただいま帰りました、ジェニスさん」
それから、先ほど逸してしまった挨拶をオーレンにも同じく返せば、何故かオーレンは拍子抜けした顔をしていた。
「あれ? ミリアムちゃん、もしかしてジェニスのこう言う格好見たことある?」
「ありますよ。フェルディーン家で」
「ちぇー。驚く顔が見られると思ったのに」
途端に残念そうに肩を落とすオーレンにふふっと笑って、私は初めてジェニスの男性らしい姿を目にした時のことを思い出す。
ジェニスは時折、商会に属する者としてフェルディーン家に招かれることがある。そこでの彼は、招待された他の客の顔触れにもよるそうだけれど、大抵の場合、彼曰くの正装として、西海の国の人々が着るのに似た異国の雰囲気漂う服を身に纏うのだ。
その姿は普段の服屋の店主とはまるで違って洗練された紳士で、いつもの格好でやって来たジェニスが客室へ案内され、再び出てきた時にはすっかり変身していたのを目にした私は、思わず見とれて言葉を失ってしまった。
それなりに最近の出来事ではあるけれど、なんだか随分懐かしい。そんなことを思っていると、オーレンが一度周囲を見回して、おやと不思議そうな顔で私へ問うてきた。
「ミリアムちゃん、レナートは一緒じゃないの?」
「レナートさんなら、朝から城へ行ってらっしゃいますよ」
私の返答を聞いたオーレンの片眉が怪訝に上がり、すぐ隣のラッセを半眼で見やる。
「ラッセ、お前……まさか伝えてないのか?」
「僕が言うと思う? そんなことしたら、せっかくのミリアムとの時間を兄さんに邪魔されるのに?」
「……つまり、ミリアムちゃんも知らないと」
私を後ろから抱き締めながら、勘弁してよとラッセが頬を膨らませれば、オーレンはラッセの反応に呆れながら眉間に皺を寄せた。
うーんと小さく唸り、オーレンが今一度ラッセに視線だけを向ける。ラッセとオーレン、二人の間で無言のままに何かが交わされるのを見て、私の視線は自然とラッセを見つめていた。
詳細は分からないけれど、二人の様子からは、レナートにも伝えておくべき「何かあまりよくないこと」が起こっていることが見て取れる。
ただし切迫感はないので、緊急性も危険性もさほど高くはないのだろう。それでも、私に知らせずにいることもよくない結果を招きかねない程度には、私に関係する何かが。
「ラッセさん」
私が名を呼べば、目が合ったラッセが不意に天を仰ぎ、それから呻くような情けない声が口から漏れ出て、私の肩口へと落ちた。
私の肩にこつりと当たるラッセの額と視界を埋める赤味がかった金髪が、恨めしそうに私に重みを伝えてくる。
「あぁー……ミリアム、それは狡いよぉ……」
聞こえてきたのは、またしても悲鳴にも似た情けない声。
続けて、間近な距離でも聞き取れないくらい小さな声で何やら呟いたかと思うと、眉尻をすっかり下げたラッセの横顔がちらりと覗き、今日一日は黙っていたかったのにとの言葉と共に、諦めたように一つため息が落ちた。
「……最近、変な噂が流れてるんだ」
やや改まった様子で私に告げられたのは、奇妙で不可解で、少しの気持ち悪さを覚える話だった。
それは、突如半月ほど前から聞かれるようになった、泉の乙女に関する噂話。
曰く、その姿を目にすれば体の不調が和らぎ、その声を耳にすれば不調が回復へ向かい、その体に触れれば不調が癒え、更に直接言葉をかけてもらえれば、その者には死ぬまで幸運が訪れるのだとか。
それらはエリューガル国外からやって来た人の口から語られ、王都に噂が広まり出すと、徐々に年老いた人や病や怪我に起因した体の不調を持つ人が、泉の乙女を求めて王都へ訪れるようになったと言うのだ。
ただし、噂話を口にする人に詳細を聞いても、誰もが誰に聞いたのかどこで聞いたのかを明確に答えられず、いつの間にか噂話だけが記憶にあったと言う有り様で、噂の出処は判然としない。
加えて、具体的な泉の乙女の容姿についても、誰もがよく分からない、または知らないと答えたと言うのだ。
「この話とは別に、若い男性の間には、出会いが訪れるとか恋が叶うとか幸せな結婚ができるとかって話が広まってるみたいでね。勿論、これも口にしてるのは国外の人なんだけど」
「その手の話で俺が一番引いたのは、泉の乙女から髪を貰えれば一生元気で相手に困らないって話なんだよなぁ」
「あ、それは俺も聞いたッス。いくらお嬢が泉の乙女だからって、んな話あるわけないのに」
「げぇ……。何それ、超気持ち悪いんだけど」
オーレンが嫌そうに顔を顰めればオロフも困惑気味に相槌を打ち、話自体を知らなかったらしいライサは鳥肌が立ったと両腕を摩って全身で拒絶反応を示す。そして、ごめんねと私へ謝罪するラッセは、せめて今日一日だけは何も知らないまま自分と楽しく過ごしてほしかったのだと項垂れた。
確かに、私にとっても私を知る人達にとっても気持ちのいい話ではない。けれど、お陰で何故私に握手を求める人がいたのか、彼らが断られてあっさり引いたのかと言う謎と、二人がはぐらかしたように感じた理由が判明したことは、私にとっては唯一よかったことと言えるだろう。
レナートはいつだって優しいけれど、ラッセも同じくらい優しい。王都から行った先で大変な目に遭い、やっと帰って来たばかりの私を変に不安にさせたくないと言うラッセの気遣いに、私は気にしないでくださいと笑って首を振った。
「でも、結局ここに来るまでに何人かそう言う人に出会しちゃって、ミリアムに変な思いをさせちゃったし」
「早速会ったのかよ! お前なぁ……」
「でも、ちゃんとお断りしたッスよ、俺ら。お嬢のことだって、誰にも指一本触れさせてませんし」
「そう言う問題じゃねぇだろ」
護衛としての仕事はこなしていると主張するオロフだったけれど、オーレンの表情は渋い。そして、その理由を私も理解していた。
この国の人であれば――特に王都に住む人々であれば――泉の乙女と聞いて私を思い浮かべることは、不思議なことではない。けれど、他国の人が泉の乙女と聞いて私をすぐに思い浮かべるかと言えば、それは有り得ないと言ってもいいだろう。
仮に、芽吹きの祈願祭を見に王都を訪れて私の姿を目にした人がいたとしても、噂話を聞いて王都へやって来た人が悉く私を泉の乙女と認識して握手を求めるようなことは、普通ではない。それも、誰もが私の容姿については答えられなかったのに。
これは、明らかに怪しい話である。
「まさか、すぐにミリアムが特定されちゃうなんてね」
私を抱き締める腕の力をわずかに強めたラッセも、事態が思っていたよりも深刻であることに声を沈ませる。帰って来てからこれまでに、アレクシアからも私に何の話もなかったことを考えても、彼女ですら深刻なこととは捉えていなかったのだろう。
同時に、そうであるならやはり、はっきりと断られてすぐに引き下がった彼らの潔さ、私を知らないのに何故か私を特定してしている不可思議さは、ある種不気味でもあった。
何か得体の知れないものの意思が介在している……そんな心地に、私の背筋がすっと冷える。フェルベルグで私達を襲った存在といい、嫌な予感がしてならない。
「念の為に言っておくけど、もしもこの先もそう言う手合いが現れても絶対に相手にしないんだよ、ミリアムちゃん」
口元に力を入れていた私に、オーレンの真剣な瞳が心配の色を乗せて告げる。
事情を知らなかった先ほどまでは、単に不思議なこともあるものだ程度に流していたけれど、今後はそうもいかない。一人くらいなら応えても、などと甘いことを言っていては確実に面倒を背負い込むことになるだろう。いや、それどころか身の危険に晒される可能性もあるかもしれない。
私が神妙な顔で頷けば、オーレンの顔に少しの笑顔が戻った。
「でも、ミリアムちゃんが帰って来て早々に分かってよかったよ。今、王都の巡回警備の見直し中でね」
「巡回警備の見直し、ですか?」
噂についての話を聞いた直後だからだろうか。私は警備と言う単語に、思わず食い付くように反応してしまった。
けれど、視線の先のオーレンからは噂話同様、そこまでの切迫した様子は見当たらない。それどころか、私の見せた反応に対しておかしそうに笑って頷くだけだ。
「ミリアムちゃん、兄殿下かレナートに聞いてない?」
サーラとベルタを気にした様子でオーレンに小声で尋ねられ、はたと考え込み――はっと気付いて、思わず「あ」と声が出る。
オーレンの行動とキリアンの名、それに警備の見直しとくれば、それが指し示すものは一つしかない。イェルドとキリアン、それぞれの婚約だ。
ミュルダール家にいた時にキリアン達から聞かされたことを思い出し、もう二、三日もすれば発表されるだろうその時の人々の反応を想像して、私はそっと口元に笑みを浮かべた。
「そう言うわけだから、もしも気になることがあったらいつでも俺に教えてね、ミリアムちゃん」
「分かりました」
「それなら、私から一つ相談があるのだけれど、聞いてもらえるかな?」
私の頷きに、一緒に話を聞いていたライサの隣から声が上がる。ジェニスだ。
「ジェニスが俺に相談なんて珍しいな。どうした? あんたが不在の間の店の心配か?」
「それに近いけれど、店自体のことではなくてね。――サーラ」
一度言葉を切ったジェニスが、サーラを手招く。呼ばれてやって来たサーラは、不思議そうな顔をしてジェニスの隣に並んだ。
「どうしたんですか、ジェニスさん」
「オーレンが、気になることがあれば相談していいと言うから、あなたのことを相談しようと思って」
「お! サーラちゃんのご相談? いいよいいよー。このオーレンさんは王都の女性には特に味方だから、何でも相談しちゃって!」
相談相手がサーラだと分かった途端、オーレンの笑みが煌めき、言葉尻に片目まで瞑って格好をつけてみせる。その態度にライサが呆れて半眼になるのも気にせず、オーレンは女性にしか見せないであろう優しい表情で、サーラの口が開くのを待っていた。
一方のサーラはと言えば、オーレンの態度にか急に相談することになった状況にか、はたまたその両方にか、大いに戸惑った様子で視線を彷徨わせ、最終的にジェニスに苦笑と共に背中を押されて、小さく頷く。
「……視線を、感じるんです」
そして告げられたのは、こちらも私の噂話同様、あまり気持ちのいいものではなかった。
泉の乙女の噂が王都に広まる、その少し前から。サーラがジェニスの店での仕事を終えて帰路に就くと、どこからか視線を感じるようになったと言うのだ。
初めは気の所為だろうと気にしていなかったそうだけれど、一日、二日……五日と視線を感じる日が増えるにつれて気の所為ではないと確信するようになり、一度はジェニスに相談し、なるべく一人で帰ることのないようにしたそうだ。
「ジェニスさんに家まで送り届けてもらったり、店の近くの広場で、その……友達、と待ち合わせをして一緒に帰ったり、お母さんに途中まで迎えに来てもらったりして、そう言う時は視線を感じることはあまりないんですけど……」
それでも、どうしても一人で帰らざるを得ない日もある。そう言う日には必ず視線を感じるし、最近は連れがいようとお構いなしに視線を感じることもあるのだと、サーラは話す。
ジェニスも、何度か視線の主を確かめようとしたことはあるけれど、現在に至るまでに怪しい人物は見つけられておらず、サーラの周囲でそのようなことをする人物の心当たりもなく、頭を悩ませているのだと告げた。
「そりゃまた、泉の乙女の噂話といい、気持ちのいいもんじゃねぇな……。サーラちゃん、話してくれてありがとね!」
「明日からは私が店を留守にしてしまうから、日のある内に仕事を終えてもらうようにはするけれど、間の悪いことに今朝マダム・アンが足を痛めてしまってね。流石に二階の自宅で過ごすのは危ないから、しばらくはベルタの家に世話になることになって……」
「まあ! マダム・アンはお怪我をされたんですか?」
どうりで、店内がいつになく騒がしくなってもマダム・アンが姿を現さないと思ったら。
驚いた私にジェニスとライサが言うには、今朝店へやって来たところ、階段の下で蹲るマダム・アンを発見したのだそうだ。どうも、不注意で階段を踏み外してしまったのらしい。
急いで医師を呼んで診せた結果、骨に異常はないが年齢もあるので当面安静にするようにとの診断が下ったそうで、それもあってベルタまでが店に出ているのだと。
「なるほどなぁ。ちなみに、店を数日閉めるつもりは?」
「二、三日は閉めざるを得ないとは考えているけれど、ずっとと言うわけにはね」
「そうだよなぁ。んじゃ、ミリアムちゃんに聞くけど、ジェニスがいない間、店を手伝いに来ることは?」
「ご迷惑でなければ、これまで通りお手伝いさせていただければと思っているんですけど……」
私が店へ来たのも、ジェニスにこのことを相談したかったからだ。けれど、噂話と視線の話、それにマダム・アンの怪我を聞いてしまった今、私が店へ来ることは迷惑にしかならないのではないかと言う気がしていた。
私はちらとラッセを窺い、ジェニスを窺い、二人の反応を待つ。
「僕は構わないと思うよ? 母さんに相談はしなくちゃいけないけど、母さんも反対はしないんじゃないかな」
「私としても、ミリアムお嬢さんが来たいと思ってくれるのはありがたい話だよ。けれど、くれぐれも無理だけはしないでほしい」
「ありがとうございます、ラッセさん、ジェニスさん!」
二人からの前向きな返答は、同時に私の頭に一つの案を浮かばせた。
「あの! それなら、私がお店に来る日は、サーラと一緒に帰ったらいいんじゃないでしょうか。私にはオロフさん達が護衛についてくれていますし」
そうすればサーラが一人で帰る回数を減らせるし、ただの女性二人連れよりは格段に安全面でも安心である。サーラを送り届けて帰るとなると私の帰宅は少しばかり遅くなってしまうけれど、友人の安全には変えられない。
私は普段、フェルディーン家からまず商会へ行き、そこからジェニスの店へ向かっている。帰りも同様に必ず商会を経由して帰っているので、もしも店から直接サーラを送り届けて帰ることが難しいならば、サーラには手間をかけるけれど一旦商会へ行き、そこで私と別れてオロフ達にサーラを送り届けてもらってもいい。商会には常駐の護衛がいるので、私の安全面については心配することはないだろう。
友人の為に、私もできることをしたい。そんな思いでもう一度ラッセを窺うけれど、今度はどうも反応が芳しくなかった。ラッセの背後のオロフも、何やら複雑な表情だ。
「ミリアムの気持ちは尊重してあげたいけど、それはちょっと……」
「駄目、でしたか?」
「駄目と言うか……うーん、難しいかもしれないなぁ」
ごめんねと私に謝罪して、ラッセはオロフを指差す。
「父さんから私兵団の全権を任されてるのが母さんなのは、ミリアムも知ってるよね? だから、基本的に兵を自由に動かす権限は母さんにあるんだ」
ラッセがオロフにある程度の指示を出せるのは、オロフにとってラッセがフェルディーン家と言う雇い主の一人であり、次期当主であるから。対して私は、アレクシアが兵に護衛を命じた護衛対象であり、兵にとっては可能な限り危険を排除する使命がある存在だ。
その為、私には兵に指示を出す権利はなく、仮に指示を出したとしても兵がそれに従う義務もない。むしろ、私が兵の指示に従って安全に行動する義務があるのだ。
つまり、私にはオロフ達にサーラの護衛を頼むことはできないし、噂話の件でただでさえ私の安全に気を配らなければならないのに、不気味な視線に私を晒すなど絶対に避けなければならないと言うことだ。
「でもミリアムの気持ちも分かるから、帰ったら母さんに相談してみよう」
「そう……ですね」
せっかくいい案だと思ったのに、かえってオロフ達に迷惑をかけるところだったことに気付いて、私は肩を落とした。
「ミリアム、私の為にありがとう」
「ううん。サーラの力になってあげられないかもしれないから……」
「それでも、気持ちが嬉しいの! ありがとう、ミリアム」
サーラに笑顔で手を握られて、私も淡く笑みを灯す。
「そんなに落ち込まないで、ミリアム。母さんだって頭ごなしに駄目とは言わないと思うし、僕もできる限り口添えはしてあげるから。勿論、条件はあるけど」
「条件?」
思わぬ言葉に、一体どんな条件を出されるのかと私は反射的に身構えた。そこに、ラッセが指を一本立てる。
「簡単なことだよ。最初の予定通り、今日のミリアムの時間を僕にくれたらいいだけだから」
「そんなことで、いいんですか?」
あのアレクシアを説得しようと言うのだから、それに釣り合う厳しい条件に違いない――そう覚悟していた私は、出された条件とも言えない条件に呆気に取られる。
けれど、ラッセは私の零した一言に、くわっと両目を見開く過剰な反応を見せた。その表情に、私はこの後の流れを瞬時に悟り、ラッセの名を呼ぼうと口を開いて――
「そんなことだなんて! 僕にとっては凄く重要なことだよ、ミリアム! 明日からまたミリアムのいない日々を過ごさなきゃならない僕には、圧倒的にミリアムが不足してるんだから! 昨日までに仕事を全部終わらせたのだって今日ミリアムと心置きなく過ごす為だし、噂話の所為で変な奴に絡まれたくらいで予定を繰り上げて家に帰るなんて有り得ないからね!? 僕は! 絶対に! 夕方まではミリアムと一緒に過ごすって決めてるんだから!!」
私が名を口にするより先に、予想した通りにラッセが荒ぶってしまった。
舞台役者もかくやとばかりの大仰な仕草で両拳を握って早口で一気に捲し立て、最後には私の両肩をしっかり掴んで眼前にラッセの必死な顔が迫る。
それは、私にとっては久々に目にした日常の一幕で、笑みを誘うものだった。けれど、恐らくこんなラッセの姿を見たことがないのだろうサーラは私の隣で唖然とし、私達からやや離れた場所でこちらを見ていたベルタも驚いて目を丸くしている。
二人の様子にジェニスは額を抑え、何故かオロフは天を仰ぎ、最後にぽんとラッセの肩に手を置いたオーレンが、哀れむようにラッセの名を呼んだ。
「……ラッセ」
途端、我に返ったラッセが「やってしまった!」と頭を抱えて仰け反り、その反応に更に二人が驚いて、ライサが堪らず吹き出す。
「ごめんねミリアム! 僕ってばまた――」
「ラッセさん」
私は首を横に振り、ラッセの言葉を遮ってその手を取った。
「私と出掛けることをそんなに楽しみにしてくださって、ありがとうございます。心配しなくても、条件なんてそんなことを言わなくても、今日の私の時間はラッセさんのものですよ。私だって、ラッセさんと一緒に過ごしたいんですから」
私がにこりと微笑めば、たちまちラッセの表情が晴れ渡り――
「うわーん! ミリアム――――っ!!」
感極まったラッセの叫びが店内に響き渡った。
これでもかと私を抱き締め、ありがとう大好きと繰り返すラッセはまるで大型犬のようで。耳と尻尾の幻覚が見えた気がして私が笑えば、誰からともなく吹き出して、いつの間にか店内に笑いが満ちる。
それは束の間、私達から嫌な話題を忘れさせてくれるものだった。