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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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閑話休題・その頃の王都-中心街-

「お待たせいたしました!」


 広いテラスを囲う柵の向こうからの雑踏を割って、給仕係の明るい声と共に注文した料理がやってきた。


「ごゆっくりどうぞ!」


 再びの溌剌とした声と共に、テーブルの上の空いた皿を持って給仕係が去っていく。頭の高い位置で一つに括った髪をぴょこぴょこ揺らしながら屋内への扉を潜っていく給仕係を目で追って、その姿が視界から消えたところで、オーレンはゆるりと自分の向いへ視線を戻した。

 そこには、やってきた料理に早速嬉々としてフォークとナイフを向けるライサがいる。ただし、その姿は普段オーレンが目にするものとはかなり異なっていた。

 襟と袖口に、白い小花の刺繍を散りばめた明るい赤布を使った生成りの半袖ブラウスに、裾から白いレースがちらりと覗く、襟袖と同色の膝下スカート、動きやすさと可愛らしさを重視したと見える、女性向けの丈の短いブーツ――その出で立ち自体は、特段珍しくはないものだ。それこそ、街を歩けば十人が十人、似たような格好をした女性を目にすると言ってもいいだろう。

 ただし、それがライサとなると話は別だ。


 一体全体、何がどうしてそんな格好を!? ――待ち合わせ場所にライサが現れた瞬間、オーレンは思わず己の目を疑ってしまったほどだ。

 おまけに、これまた珍しいことに服装に合わせて薄く化粧まで施しているのだから、普段野生児のようなライサばかりを目にしている側にしてみれば、驚くなと言う方が無理である。

 加えて、料理を前に浮かべる表情こそいつものライサらしく喜色満面ではあるものの、食事の作法は卒なく綺麗とあっては、まさに人が変わったようであった。

 ほんの数日前、兵団本部の食堂で兵士に混じって遠慮のえの字も見せずに肉をがっついていた猪女は、一体どこへ行ってしまったのか……。

 若い女性に人気の果物や蜂蜜、ジャムを添えたパンケーキを手慣れた様子で一口大に切り分けて、楚々と口へ運んで咀嚼する――どこの良家のお嬢様かと見紛う上品なライサの様子を改めて無言で見つめながら、オーレンは一人ひっそりと感心していた。

 短期間で、よくもまあここまで化けたられたものだ、と。


 姿を目にした当初こそあまりの変わりように驚きはしたものの、こうして食事をするライサを前にしてその意図が分かってしまえば、何と言うことはない。

 全体的な所作や姿勢の美しさは、ハラルド仕込み。恐らく、テーブルの下の足も爪先まで完璧に揃えて座っているに違いない。ちょっとした動作の端々にどこかミリアムを思い出すのは、それだけライサが彼女に教えを請い、熱心に学んだからだろう。化粧に関しては、テレシアかイーリスか。もしかしたら、彼女の父親に学んだ可能性もある。


 兎にも角にも、オーレンが現在進行形で目にしているのは、ライサの不断の努力の結果なのだ。

 そう考えれば、たとえ今ライサが食べているのが五皿目のパンケーキと言う淑女にあるまじき枚数であろうと、オーレンにとっては実に些細なことに思えた。

 もっとも、せっかくの成果を見せる相手が自分などでよかったのかとの疑問は残るのだが。

 オーレンがそんなことをつらつら考えていると、それまで淀みなく動いていたライサの手が不意に止まった。そして、おやと瞬いたオーレンへ、ライサの気まずそうな視線がおずおずと向けられる。


「どうした?」


 流石に、五皿のパンケーキはライサの胃の許容量を超えていただろうか。嬉々とした表情から一転して沈んだ様子を見せるライサに首を傾げれば、当人からオーレンへ思いもかけない言葉が寄越された。


「……怒ってる?」

「は? 何でだよ?」

「じゃあ、呆れてる?」

「いや、全く? どうしたんだ、ライサ?」


 オーレンとしてはむしろ大変に感心していたのだが、ライサは一体オーレンの態度の何を見てそんな見当違いの思いを抱くに至ったのだろう。

 いくらライサがミリアムに熱心に学んでいたのだとしても、その思考まで彼女に学んで寄せる必要はないのだが……などと、口に出せばミリアムの過保護者である親友の拳が笑顔と共に飛んでくるだろう失礼なことを頭の片隅に過ぎらせつつ、オーレンはライサの次の言葉を待った。


「だって、さっきから無言でずっとこっち見てんじゃん、オーレン。それって、あたしが気に食わないからそう言う態度なんでしょ?」

「あー……」


 思わず出てしまった声に反応して、ライサの瞳がくわっと開く。


「ほら、やっぱり! 言いたいことがあるなら、いつもみたいに遠慮なく言えばいいじゃん、何で黙るわけ? そう言う態度取られるとこっちも腹立つんだけど!」


 今にもテーブルに手を打ち付けそうな勢いを堪えているらしいライサの強い意志のこもった瞳が、苛立ちと共に真っ直ぐオーレンを射る。その、どこか必死ささえ窺えるライサの姿は妙に可愛らしく映り、オーレンはふっと口元を緩めた。


「違う違う。感心してたんだよ」

「え? 感心?」


 あまりに予想外だったのだろう、途端に目を丸くしたライサの姿に思わず吹き出して、オーレンは軽く頷く。


「そうだよ。真面目に頑張ってたんだな、ってな」


 持っていたフォークでライサの格好を指せば、今度はたちまちライサの顔に喜色が浮かんだ。


「ほんとっ!?」

「こんなことで嘘ついてどうすんだ」

「じゃあ、オーレンにもあたしがちゃんとして見えたってこと?」

「そうだな……ミリアムちゃんと並んでも十分釣り合うくらいには、らしくできてんじゃねぇの? あんまり見違えて、普段のお前しか知らない奴には気付かれないかもな」


 食事量は全くらしくできてはいないが、せっかくのライサの喜びに水を差すような野暮は言うまい。それに、オーレンとの食事の場でそこまで装う必要もない。

 加えて言えば、今日のこの場はライサが槍でオーレンに一撃でも有効打を与えられたら食事を奢る、と言う勝負の結果なのだ。勝負に勝ったライサには、好きなだけ食べる権利があると言うもの。

 揶揄いの言葉の数々はひっそり胸に留めて素直にオーレンが褒めれば、ライサはおかしそうにくしゃりと表情を崩した。


「何それ。あたしに気付かないとか、それは流石に言い過ぎだって。あたしもそこまで自惚れてないよ?」

「んなこと言って、さっきだってハラルドの奴にえらく褒められてたじゃないか、お前」


 口に出して言いながら、オーレンはその時のことを思い出す。

 本日の待ち合わせ場所である兵団本部へとやって来た際、ライサはオーレンと共にすぐに店へ向かうのではなく、まずハラルドに会うことを希望した。

 周囲がライサの姿に驚愕し奇異の目を向ける中、ライサは普段ならば素通りする受付で丁寧にハラルドを呼び出してもらい、現れたハラルドに対しても淑女よろしくにこりと微笑んで、その場にいた兵士達をそれはそれは驚かせたものだ。

 だが、ライサは周囲の反応をまるで気に留めることなく、その格好に合った態度で何事かをハラルドへと伝えた。そうすれば、ハラルドは一度驚きにやや目を見開き、それから深い頷きと共に微笑んだのだ。


 ハラルドがそのような反応をするのは彼が本心から感心した時であると、オーレンは元より兵団にいる者ならば誰もが知っている。それが、どれだけ稀有な事象であるのかも。

 その為、数年に一度あるかないかの灰色の梟の反応は、当然のようにその場にどよめきを起こした。今思い出しても、その時の兵士達の驚愕する姿は笑いが込み上げるほどに面白いものだった。

 オーレン自身は、本部の入口でライサの用が済むのを待っていた為に二人の会話こそ耳にしていないものの、微笑みに続いて動いたハラルドの口は間違いなくライサへの褒め言葉を紡いだと、確信している。


「ああ、あれ? あれは、一応先生には報告しといた方がいいかなって思っただけなんだけど……」


 ライサ自身もその時のことを思い出しているのか、何やら照れた様子で頬が緩んだ。そして、わずかに身を乗り出してオーレンへと顔を近付ける。

 一体、ライサはハラルドに素直に褒められるほどの何をやったのか。興味を惹かれるまま、こちらもまたライサへ顔を寄せ――


「あたし、陛下にお褒めの言葉をいただいたんだよね」


 直後に告げられた声量を抑えた一言に、オーレンは今日一番に目を見開いていた。素直な驚きよりも恐怖を覚えて、一度瞬く。

 イェルドと言う人間をよく知らぬ者にしてみれば、かの王は彼がその玉座に就いた経緯も含め、子である二人の王子を愛し、民を愛し、誰よりもこの国を思うよき王だろう。人前では常に柔らかな微笑みを湛え、穏やかながら芯のある人物との印象を与えていることも、イェルドに対する評価を好意的なものにしているだろうか。

 勿論、国にとってよき王であることは、オーレン自身も疑ってはいない。ただ、レナートを通じてキリアンと親しくなり、畏れ多くも一介の兵士であるにも拘らず人より多くイェルドと間近に接する機会の多いオーレンは、イェルドが浮かべる笑顔の裏で様々な策謀を巡らせていることをよく知っていた。


「お前……気を付けろよ?」

「ん? 何で?」


 素直に小首を傾げるライサを前に、オーレンは小さくため息を漏らす。

 イェルドは身分に関係なく、実に気さくに人々に声を掛ける王でも知られている。だが、かの人がそこで口にする言葉全てが本心であることは稀だ。特に、ただの市井の人々はともかく、一定の地位に就いている者への称賛の言葉は、素直に受け取ると痛い目を見ることも多い。

 大切な息子を守る騎士とは言え正式な任命前の候補に過ぎない相手を褒めるなど、それこそ裏があると言っているようなものだ。嫌な予感しかしないではないか。


「お前は知らないだろうけどな、あのお人はそう簡単に人を褒めたりしないんだよ」

「じゃあ、褒められたあたしって超凄いってことじゃん!」

「そうじゃねぇよ」


 こちらの心配を全く分かっていない能天気な返答に、オーレンは思わず手で顔を覆って天を仰いだ。

 この真っ直ぐで素直なライサに、どう言えばオーレンの忠告は届くだろうか。それも、今この楽しい食事の雰囲気を損なわないように。

 なかなかに難しい状況にオーレンが喉奥で唸れば、正面からからりとした笑いと、オーレンの心配に反して一応は思いが伝わっているらしい声が聞こえてきた。


「あはっ。大丈夫だよ、オーレン。あたしだって陛下のことちょっとは分かってるつもりだし、エイナー様を悲しませることはしないって誓ってるもん」

「……だといいけどな」


 ライサはそう言うが、イェルドと言う王はそう簡単な存在ではない。何と言っても、ミリアムを利用することに躊躇がないお人だ。当然、ミリアムと親しいライサも駒の一つに数えているだろうし、その上でエイナーの騎士候補として努力するライサを褒めたならば、それはより有能な駒に成長したことを喜んでの言葉とも取れるわけで。

 目的の為には、使えるものは何でも使う。敵も味方も老若も女子供も容赦なく――我らが国王は、そう言う人間なのだ。


 とは言え、ここであれこれ悩んだところで、所詮オーレンは一介の兵士。国王に意見などできる筈もなく、頭を悩ませるだけ無駄と言うものだ。

 それに、オーレンが思い悩まずともハラルドが動くだろう。彼とて教え子は大切だろうし、イェルドも付き合いの長いハラルドの言葉は簡単には無視できまい。

 ならば――この件はハラルドに投げてしまおう。

 第一、オーレンはキリアンに何かとこき使われる所為で、忙しいのだ。彼の私兵になったつもりはないと言うのに、どうにも人使いが荒くて困る。面倒事は、これ以上は抱えていられない。

 半ば投げ遣りにそう結論付けて、オーレンは気持ちを切り替えるべく眼前の肉料理にフォークを突き立てた。

 と、今度はライサの無言の視線が真面目な様子でオーレンを見る。


「どうした?」

「オーレンは、あたしのこと心配してくれたんだよね?」

「そりゃ、心配くらいするだろ。知らない仲じゃないんだ。俺はそこまで人でなしじゃねぇぞ」

「……そっか。ありがと! 何か、すんごいやる気出てきた!」

「何でだよ」


 感謝の言葉と共にやる気を漲らせて、たちまちライサが瞳を輝かせる。その勢いのまま、手先だけは丁寧に再びパンケーキを口に運び始めるライサに苦笑して、オーレンもまた、止まってしまっていた食事を再開させた。

 そうして、食事と他愛ない会話を続けることしばし。二人で、食後の茶をゆっくりと楽しんでいた時だった。

 テラスから見える通りを何気なく眺めていたライサが、何かを見つけて「あ」と声を上げたのだ。続けて、うわ、と驚いた様子で目を見開く。


「ねえ、オーレン。父さんが珍しく普通の男の人の格好してる!」

「はあ?」


 ライサの身も蓋もない言い方に、自分の父親に向かってそれはあんまりだろうと心中で突っ込みつつ、オーレンの体は興味に惹かれて素直にライサの指差す方へと向きを変える。

 飲食店が点在する通りは、食事時を少し過ぎた時間帯でも人通りはそれなりに多い。その中で、ライサの父親――ジェニスは、黄橙色の頭髪と褐色の肌こそ少しばかり目立ってはいたものの、その存在自体は普段と異なり周囲にすっかり馴染んでいた……のだが。

 女性顔負けに化粧をして女物の服を完璧に着こなす姿を見慣れているオーレンにとっては、髪を綺麗に整え化粧の気配のない男らしい顔に、首元から手先足先までを一目で高価と分かる服で装い、如何にも異国の商人と言う出で立ちのジェニスは、時折見かけるフェルディーン家での訓練着姿以上に違和感を禁じ得ないものだった。


「……いや、あれが普通なんだよな?」


 自分の感覚のおかしさに小さく唸ったオーレンは、ジェニスの隣を歩く見知った人間に気付く。歩く動きに合わせて揺れる赤みがかった金髪は、親友の弟に間違いない。


「ライサ。親父さん、ラッセと一緒に歩いてるぞ。商会に出向いた帰りじゃないか?」

「んー。でも、それくらいなら、父さんわざわざあんな格好しないよ?」

「商会に出向く時でもいつもの格好なのかよ」

「だって、それが父さんの仕事着だもん」


 なるほど、仕事着。ライサの言葉に納得しかけて、そんな仕事着があって堪るかと、オーレンはやはり自分の感覚のおかしさに慌てて首を振った。

 その間にも、装った淑女を忘れてライサが立ち上がり、ジェニス達へ向けて大きく手を振る。


「父さーん!」


 よく通るライサの声は、通りの向こう側を歩きながら何やら難しい顔をしたジェニスにも、十分届いたらしい。聞き覚えのある声におやと表情が変化し、ラッセ共々歩調を緩めて声の出所を探して視線が彷徨うのが見えた。


「こっちだよー!」


 通りよりも一段高いテラスでぶんぶんと振られる腕は、ライサが小柄であってもよく目立つ。案の定、ジェニス達は間を置かずにライサを見つけたようで、二人の顔がぱっと明るくなったのがオーレンにもはっきり分かった。

 ライサが今一度二人に向かって手を振るのに合わせてオーレンも軽く手を振れば、何故かジェニスには一瞬変な顔をされたものの、二人は通りを横切りこちらへとやって来る。


「よお。ジェニス、ラッセ。昼抜きで仕事か? 精が出るな」


 オーレンがテラスの柵越しに声を掛ければ、ライサとオーレンを順に見たジェニスの見慣れないにこやかな笑顔が、わずかにぎこちなく固まった……ような気がした。だが、それについてオーレンが尋ねるよりも先に、ジェニスの口が開く。


「やあ。オーレンこそ、私の娘と二人で食事とはね」


 普段より穏やかに感じる口調は、見慣れない商人の姿故だろうか。しかしながら、紡いだ言葉にはどうにも棘が含まれているようで、オーレンはわずかに片眉を上げた。

 ライサとは頻繁に会っているが、ジェニスとこうして顔を合わせるのは久し振りのことだ。にも拘らず、開口一番棘のある言い方をされるとは、何が原因であろうか。

 すぐさま考え始めたオーレンだったが、その理由に思い当たるのにさしたる時間はかからなかった。と言うより、考えるまでもないことだった。

 父さん格好いい、と服装について無邪気にはしゃぐライサを、複雑な表情で見つめるジェニス。その横顔は、年頃の娘を心配する父親そのもので。

 そう言えば、ライサがあまりにも珍しい格好をしているものだから、待ち合わせた兵団本部でも幾人かに揶揄われたことを思い出し、オーレンは口の端をゆるりと持ち上げた。そして、テーブルに肘をついてジェニスを横目に見る。


「あんたもちゃんと父親なんだな、ジェニス」

「何を……私以外にライサの父親がいるわけがないだろう」

「そうじゃねぇよ」


 オーレンがおかしそうに口元を歪めれば、ジェニスは嫌そうに顔を顰めてオーレンを睨んだ。それに対して軽く肩を竦め、オーレンはラッセから可愛い可愛いと褒められて照れるライサへと視線を移す。

 頬を染めてはにかむライサは、服装と化粧のお陰もあってか、確かにラッセの言葉通り可愛らしさが前面に出ていると言っていい。

 こんなライサが男と二人で食事をしている、なんて光景を目にすれば、なるほど父親としては心穏やかではいられない。特に、ライサのように体を動かすことの方が好きで、お洒落な格好をすることなど稀な娘であればなおのこと。相手の男がオーレンだと分かってもすぐには安堵できない程度には、ジェニスにとっては衝撃的だっただろう。


「心配いらねぇよ。あれはライサの努力の成果だ」

「それなら、最初に私に見せてくれたっていいだろうに。どうしてオーレンなんかに先に……」

「なんかって、それは酷くないか? 単に都合の問題だったんだろ。ちょうど、俺がライサに飯を奢ることになってたから」


 オーレンとしては、それ以外に意味があるとは思わない。

 それでも、強いてオーレンが最初であった理由を挙げるとするならば、ライサが欲したのが身内からの褒め言葉よりも他人からの率直な意見だから、だろうか。

 そう告げればジェニスは悔しそうに眉を寄せ、それから数拍を置いて諦めたように息を吐いた。

 そこに、ラッセとの会話が一段落したらしいライサから、思い出したように疑問が上がる。


「そう言えば、父さん達は商会に行ってたの?」


 その途端、ジェニスとラッセは顔を見合わせ、戸惑いがちに困惑の表情を浮かべた。


「何だ、親父さんに面倒な仕事でも押し付けられたのか? 大変だな、若旦那は」


 フェルディーン商会は、この王都では最も力を持つ商会と言っても過言ではない。そんな商会の後継者であるラッセに渋面を作らせるような面倒を押し付けることができるのは、父親でもある商会長のサロモンか、サロモンに次ぐ立場の年長者達くらいだろう。

 そう思っての軽口だったのだが、オーレンの一言に二人の表情が晴れる様子を見せることはなかった。


「父さんからの無茶振りならよかったんだけどね……」

「ここでは詳細は控えるけれど、ちょうどいいから先にこれだけは伝えておこうか。――ライサ」


 周囲を気にしながらジェニスがテラスへと身を寄せ、ライサもすぐさまジェニスへ顔を寄せる。


「私はしばらく、店を留守にすることになった」

「そうなんだ。しばらくって、どのくらい?」

「早くて一月半……状況次第では、もう少しかかるかもしれないね」


 端的に告げられた一言に、今度はライサの表情が固くなる。テラスに置いた手が柵を握り締め、父親を見る視線に力がこもった。


「父さん。もしかして、海に出るの?」


 ライサの問いにジェニスは無言だった。だが、それは肯定と同義だ。

 たちまちライサの顔に不安と心配が表れ、ジェニスは宥めるようにライサの手に彼自身の手を重ねる。


「心配いらないよ。私はただ、商会の護衛として行くだけだからね」

「嘘じゃん、そんなの」


 父親の嘘を見抜いた娘の即答に、ジェニスは苦く笑う。それだけで、オーレンにもジェニス達に任された仕事の行き先が明確に西海であると理解できてしまった。そして、今回の仕事の依頼者が誰であるのかも。

 フェルディーン家の私兵団にその名があるジェニスだが、アレクシアが彼に無理を言ったことが発端である為、その立場は少々特殊だ。

 基本的には、ジェニスの希望――洋服店の経営――が最優先。私兵の仕事は、そちらに影響が出ない程度と決められていると聞く。その為、ジェニスが商会の護衛に就くのは、十日以内で往復できる近隣の仕事に限られている。


 それが、一月半。しかも、目的地は西海。槍の名手として名を馳せながら、国の行く末よりも娘との未来を取って国を出奔したジェニスが、決して行きたがらない場所だ。

 二人がやって来る少し前のライサとの会話で出てきた人物の、一見人畜無害に見えて腹黒いことこの上ない柔らかな笑顔が思い出されて、オーレンは思わず現実逃避気味に遠くに視線を投げていた。

 王太子殿下とその騎士(ゆうじんたち)がいない間に目の前に大きな面倒事が転がり込んでくるとは、ついていない。今更聞かなかったことにもできない状況をそっと嘆いて、オーレンは三人へと渋々視線を戻した。


「ライサ。私達はこれからマダム・アンに話をしなければならなくてね。だから、そのあとでゆっくり話そう。それでいいね?」

「……ん。分かった」

「オーレンはどうする?」

「あのなぁ。どうするも何も、目の前で話聞いといて無視できると思うか?」


 本音を言えば無視をしたいが、祝祭に向けて動き始めているこの時期に、あのイェルドが意味もなく戦力になるジェニスを国外へ向かわせるわけがない。ならば、これもまた祝祭での狩りに向けた下準備の一環なのだろう。オーレンに無視をすると言う選択肢が取れる筈がない。

 オーレンの返答に頷くと、ジェニス達はまたあとで、との言葉を最後に店へ向かって歩き出す。その背を見送り、オーレンはだらしなく椅子の背に凭れた。


 一気に憂鬱な気分に突き落とされて、最悪だ。だと言うのに、見上げた空は白い雲が優雅に泳ぐ長閑な晴れ。街は活気に溢れて賑わい、オーレンの憂鬱など素知らぬ顔なのだから、堪らない。

 ちらと視線を落とせば、ライサはまだテラスから父親達の後ろ姿を見つめている。だが、その横顔にはオーレンが予想した不安よりも、何かを決意した強い光が宿っているようだった。

 こんな時、ミリアムならば不安に瞳を揺らし、本人にその気はなくともこちらの庇護欲をそそるのだろうが、ライサのなんと逞しいことか。流石、この国の第二王子の騎士になるとの宣言を有言実行してしまうだけはある。

 憂鬱だった気分が不思議と晴れていくのを感じて小さく笑い、オーレンは紅茶の残るカップを勢いよく飲み干した。


 ライサの姿への新鮮な驚きも美味しかった食事も楽しかった時間も、すっかり記憶の彼方。冷えた紅茶の強い渋みだけが最後に残ってしまったが、今はその渋味がどこか心地よかった。


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