閑話休題・その頃の王都-王城にて-
ミリアム達がオスタルグへと向かってから、およそ半月。王都では、変わりない日常が一見穏やかに過ぎていた――
*
カン、カ、カン、カンッ。
王城の修練場の片隅で、木剣と木剣のぶつかり合う音が響く。
振り下ろされる剣を受け止め、左から薙ぐ剣を体に捻りを利かせながら防ぎ、下から勢いを持って迫る剣を、目一杯の力で押さえ付けるように迎え撃つ。
一際大きな音と共に、一時、両者の力が拮抗する――と見せかけて、相手の剣が不意に引き、押さえることに意識を向けていたエイナーは体勢を崩しかけた。
「っ!」
けれど、寸でのところで足を踏ん張り、素早く翻ってエイナー目掛けて振り下ろされようとする剣を、辛うじて受け止めることに成功する。
ところがそれも束の間。不安定な体勢が災いし、次の動作に迷いが生じた。そして、その隙を逃さなかった相手の一打が、エイナーの手から剣を叩き落とす。
「――っ!」
衝撃に両手がじんと痺れて、エイナーは堪らず顔を顰めた。それでもすぐさま剣を拾い上げ、諦めずに構え直す。
汗と砂に塗れたエイナーとは違い、汚れ一つない訓練着に涼しい顔をしたラーシュを強い気持ちで見据え、エイナーは次を求めて口を開いた。
「もう一度お願い、ラーシュ」
エイナーの声に応えて剣を構えたラーシュが、今一度エイナーへと攻撃を仕掛ける。そして――
ほんの数手でエイナーはまたしてもラーシュに圧され、上手く捌き切れなかった剣が今度は眼前に突き付けられてしまった。
実際には丸く削られて尖ってはいないのに今のエイナーには十分鋭い切っ先に、薄く開いた口から「……ぁ」と思わず声が零れる。直後に、呆気なく終わってしまったことに悔しさと焦りが込み上げて、エイナーは唇を噛んだ。
「も、もう一回っ!」
「エイナー様、一度休憩にしましょう」
「まだ大丈夫だよっ」
「いけません。休むことも大事ですよ、エイナー様。それに、無理も無茶もしないとミリアムと約束しましたよね?」
「そ……っ」
約束を破るんですか、とにこやかな笑顔と共に容赦なく放たれたラーシュの一言に、エイナーは咄嗟に言い返せずに押し黙る。同時にミリアムの表情が心配に染まる様が容易に想像できてしまい、エイナーはラーシュを恨めしげに下から睨んだ。
けれど、ラーシュはそんなエイナーの態度を予想していたのだろう。彼の笑みは崩れるどころか逆に深まり、すっかり構えを解いてしまったエイナーを見つめる様子は、どこか上機嫌ですらあった。
「もうっ。ラーシュは、すぐそうやってミリアムのことを持ち出すよね。それって凄く狡いと思うんだ」
「狡いだなんて。自分は事実を言っただけですし、エイナー様がきちんと休憩を取ろうとしてくださっていれば、自分がミリアムの名を出すこともなかったと思いませんか?」
全てはエイナーの自業自得だと変わらぬ表情で言ってのけるラーシュに対して、エイナーはまたしても反論できず、その悔しさにぷうと頬を膨らませて木陰へと移動した。
流れる汗を拭い、ラーシュに差し出された水で喉を潤す。冷たい水が体中に染み込む感覚に一気に水を飲み干せば、自然とエイナーの口からは息が漏れた。
予想もしなかったその渇きはエイナーを驚かせ、同時にラーシュの言葉の正しさを思い知らせるものでもあり、エイナーはばつの悪さに眉を寄せる。そうしながら、ラーシュの視線から逃れるように修練場へと目を向けた。
午後の強い日差しの下、少なくない数の騎士が訓練に勤しむ姿がそこにはある。鍛えられた体は男女共に逞しく頼もしく、刃を潰した剣で激しく打ち合う彼らの姿は、流石は選ばれてこの場にいるだけはあると十分に思わせてくれるものだった。
なるほど、ミリアムが時折瞳を輝かせて「騎士様」と口にするのも頷ける。それくらい、真剣に鍛錬をする彼らの姿は格好いいものだった――今のエイナーとは、全く違って。
彼らの姿の眩しさに、太陽の強い光も相俟ってエイナーは目を細めた。彼らを羨ましいとは思わないと言ったら嘘になるけれど、本物の剣を振るにはまだまだ小さく弱い自分を思えば、羨む気持ちは自然と萎む。それに、今のエイナーは彼らに一歩でも近付くことが目標なのだから、羨んでばかりもいられない。
毎日の稽古で小さな傷が増えてしまった自分の手を握り締め、エイナーは気持ちも新たに静かに気合いを入れた。
そうしてすっかり心を落ち着かせたところで、エイナーは改めて不満を満載にした瞳でラーシュを見上げた。
「最近のラーシュは、僕にも容赦がなくなったよね」
「そうですか?」
「惚けないでよ。自分で分かってるくせに」
これまでラーシュは、エイナーの心を第一に考え常に優しく寄り添う、もう一人の兄のような存在だった。きつく諫めることも無理強いをすることもなく、エイナーが嫌だと言えば分かりましたとすぐに引いてそれ以上は何も言わず、笑顔でそばに控える。そんな騎士だった。
それが、ミリアムと出会ってエイナーが自ら前を向き始めると、徐々に遠慮のない物言いが増えたのだ。笑顔も口調もこれまでと変わらないのに、その口から出る言葉は時に容赦なくエイナーの痛いところを突き、優しい言葉に乗せて皮肉を言い、励ますと見せかけて貶す。ラーシュの辛辣な言葉の数々には、もう何度頬を膨らませたか知れない。
けれど、兄達との会話でしか見せていなかった姿をエイナーにも見せてくれるようになったことはむしろ嬉しく、ラーシュとこうして新たな会話ができることは、エイナーにとってとても楽しいことだった。
エイナーがわざとらしく口を尖らせて木剣で軽く小突けば、ラーシュの浮かべていた笑みが嬉しそうにくしゃりと崩れる。
「そうですね。エイナー様は、もう自分がただお守りするだけの方ではなくなりましたから」
「それって、褒めてる?」
「勿論」
きっぱりと言い切るラーシュを、一度エイナーは胡乱げな表情で探るように横目に見て、それからわずかに視線を逸らして頬を緩めた。
「……そっか」
「エイナー様はとても頑張っていらっしゃいますよ。ですから、焦る必要もないと自分は思います」
追加の水を差し出して、ラーシュがいつものようにエイナーを素直に褒めてくれる。ただし、その表情は嫌味なくらいのにこやかな笑みに彩られ、エイナーは水を受け取りつつも視線にわずかに疑いを混ぜた。
こう言う時のラーシュは優しいだけでは終わらないと、これまでの経験がエイナーに囁いたのだ。
「本当にそう思ってる?」
「自分はエイナー様に嘘はつきませんよ」
「じゃあ、ラーシュは僕のどんなところが頑張ってると思うの?」
柔らかな笑顔が即座にはっきりと縦に振れるのを見て、すかさずエイナーはラーシュに問い――直後に、直感の正しさを思い知ると共に、問うたことを深く後悔した。
「これまで引きこもっていらして全く体力のなかったエイナー様が、ここまで体を動かすことができるようになったところに決まっているじゃないですか!」
「そこなの!?」
「胸を張るところですよ、エイナー様。今は同年代と比べてお小さい背に細い手足で、運動ができるようになったとは言え体力もまだまだ平均以下ですが、このまま鍛錬を続けられれば成人される頃には十分に成長なさっている筈です。きっと、ミリアムにも格好いいと言ってもらえますよ」
「それじゃ遅いのに! ――じゃなくて! 僕のこと全然褒めてないよね、ラーシュ!」
悪びれない顔に向かって眦を吊り上げても、ラーシュからは全く反省する様子は伺えない。彼が口にした言葉の前半はエイナー自身も自覚していることもあり、ラーシュの笑顔はいっそ憎たらしくさえ思えた。
おまけに、今こうして剣の鍛錬に熱を入れている理由もすっかり見抜かれていることに、かっと顔に熱も集まる。
勿論、それだけが理由と言うわけでも、それが一番の理由と言うわけでもない。けれど、頑張り続けた先にその言葉を望んでいることは紛れもない事実で。
何なら、兄よりも、その兄に続いて現在城を留守にしている父よりも、まずはミリアムが帰って来た時に、成長した自分の姿を見せて驚かせたいとの思いが一番強いのだけれど――
それはともかく、全く褒められた気がしないことに対して、エイナーは堪らず木剣の切っ先をラーシュに突き付けた。
「絶対、ラーシュより強くなってやるっ!」
「エイナー様、それは無理です。高い目標を立てるのはいいことですが、せめて現実的なものにしなくては」
「――んもうっ! ラーシュの意地悪!」
「お褒めいただき恐縮です」
「褒めてないよっ!」
エイナーが何を言っても喜ぶばかりのラーシュに、エイナーはとうとう地団駄を踏んで吠えた。その際、うっかり振り回しかけた木剣をラーシュに危なげなく受け止められたことも、エイナーの顔をむくれさせる。それなのに、ラーシュの表情に変化はない。
全く堪える様子のないラーシュに、エイナーの方が堪えきれなくなって「もうっ」と頬を膨らませると、いつの間にか剣戟の音が少なくなっていた修練場から、いくつもの明るい笑い声が上がった。
そのことに、ラーシュとのやり取りを見られていたのだと気付いたエイナーが顔を赤らめれば、二人だけだったその場に新たな声が聞こえてくる。
「おやおや。私もキリアンもいなくて寂しがっていると思っていたのに、エイナーはずいぶんと元気だね」
同時に、エイナーの頭にぽんと大きな手が優しく乗った。
「父上!」
跳ねるように振り返ったエイナーの一声に、たちまち騎士達が動きを止めて父へ向かって姿勢を正す。それを片手を上げて解かせると、父は今一度エイナーの頭を撫でて微笑んだ。
「おかえりなさい、父上」
「うん。ただいま、エイナー」
軽い抱擁を交わし、エイナーは帰城したばかりと見える父の姿に笑みを零す。
「早かったですね。僕、父上はもう少しゆっくりお帰りになると思ってました」
「私もそのつもりでいたのだけど、明日はテレシアが出発する日だろう? シーラがどうしても見送ってやりたいと言うものだから」
軽く肩を竦めて坂の上の城へと視線を向ける父は、その時の会話でも思い出しているのか表情は柔らかく穏やかで、実に幸せそうだ。そして、そんな父の横顔を見るだけで、エイナーの頬も自然と緩んだ。
今回、父がエイナーを一人城に残してまで王都外へ出たのは、シーラと共に彼女の実家へ赴き、結婚の報告をする為。勿論、そこには短いながらも婚前旅行の意味合いも込められている。だから、エイナーは密かに一日二日父の帰城は遅れるだろうと予想していたのだ。
けれど、真面目なシーラは父との旅行を一人の女性として楽しむよりも、新たな国母として、同じく近い将来王太子妃となるテレシアを気遣う気持ちの方が強かったらしい。
何故なら、テレシアはこれから神官達、それに途中の街で合流することになっている兄と共に聖都へ向かい、神殿で二人の結婚の許しを得ることになっているのだから。そして、これをもって国民へ父と兄それぞれの婚約が大々的に発表される。
そんな重大事が控える中を、テレシアが途中までとは言え兄不在で出発しなければならないことを、シーラはとても気にしたのだろう。
因みに、わざわざ神殿に結婚の許しを得ることが必要とされているのは、言わずもがな兄がクルードの愛し子だからである。ただの人間である父の再婚については一切そのような必要はない為、父はこうしてゆっくりしているのだった。
「神殿は兄上に逆らえないのに、結婚の許しを得るっておかしな話ですよね。兄上も、わざわざ神殿にそんなことしてやらなくてもいいのに」
「やれやれ、エイナーもすっかり神殿嫌いになってしまったようだ。けれどね、エイナー。それは違うよ」
会議の時の記憶が過って口を尖らせるエイナーに父は柔らかく笑い、緩く首を振った。そして一言、守る為だと口にする。
「守る、ですか?」
「そうだとも。本人があまりに丈夫なものだから忘れがちになるけれど、お前の兄は誰より狙われる立場にあるからね」
わずかに意味ありげな色を見せた父の瞳に、エイナーの口元に力がこもる。
それは、エイナーにとってはあまりに覚えがありすぎることだった。兄を直接害せないならば、兄の大切な者を――兄を邪魔に思う者達のそんな思考がエイナーを誘拐させたのは、ほんの数か月前のことなのだから。
つまり、婚約を発表すれば、今度はテレシアがエイナーの立場になり、エイナーが経験したような事態に見舞われる可能性があると父は言うのだ。そして、結婚の許しを得ると言う儀礼は、そんな危険が付き纏うテレシアに神殿と言う大きく強い後ろ盾を得させる為の行為なのだと。
父の言葉の意味を正しく理解したエイナーは、途端にテレシアに対する心配が膨れ上がって城を見上げた。
今頃テレシアは出発の準備に追われて忙しくしている真っ最中であり、明日からの道中への不安など抱えている暇はないかもしれない。けれど、今ならばシーラが父と過ごすことよりもテレシアを見送る方を選んだ理由が、分かる気がした。
「大丈夫……ですよね、父上?」
「心配はいらないよ、エイナー。彼女はまだ、ただの侍女なのだから」
不安を払うように父の大きな手がエイナー肩を叩き、ついでのように修練場を一瞥してから、ところでと話題を変える一声を発した。
「お前の騎士候補の姿が見えないようだけれど、彼女は一緒ではないのかな?」
「ライサなら今日は侍女の日なので、今はテレシアを手伝っていますよ」
「そうか。彼女も頑張っているようだね」
「はい。この間も、ハラルドに褒められたって嬉しそうに僕に報告してくれました」
「それは……驚いたな。あのハラルドが彼女を褒めたのか」
思わず目を丸くした父は本当に驚いた様子で、エイナーの父ではなくハラルドの友人としての顔を覗かせた反応に、エイナーはまるで我がことのように嬉しくなった。同時に、ライサに負けないよう、自分も頑張らねばと気が引き締まる思いでもある。
今年の守護竜の祝祭では、父と兄の婚約披露と共に、エイナーの専任騎士の任命式も執り行われる予定なのだ。エイナーはそこで、この国の第二王子として堂々とした姿を見せ、引きこもりの気弱な王子と言う、人々に広く知られている印象を払拭させるつもりでいる。
連日エイナーが剣を手に励んでいるのも、一番の理由としては祝祭で起こるかもしれないモルム達による騒動に備える為だけれど、この任命式の為でもあるのだ。
今日も、予定ではもう少しこの場で体を動かすつもりでいたのだけれど――
「早く帰ってきてしまって退屈するかと思っていたけれど、面白い話を聞けてよかったよ、エイナー。これは、早いところハラルドが褒めた彼女を間近で見物しなければならないね」
案の定楽しそうな父の姿に、エイナーは続きを行うことをすっぱり諦めて、父と共に歩き出した。
「間近で見物って……あんまりライサを虐めないでくださいね、父上?」
「おや。エイナーは、私がそんな酷いことをする王に見えるのかい?」
「父上。自分でそう言うことを言う人ほど信用ならないって、知ってますか?」
エイナーが確実にライサで遊ぶ気でいる父を横目に睨めば、父はこれはやられたとばかりに苦笑して、エイナーの機嫌を取るように頭を撫でる。
それから、またしても話題を変えるべく、今思い出したような様子で口を開いた。
「そう言えば、叔母上がお前のことを心配して顔を見たいと言っているそうだよ、エイナー」
父の言う叔母とは、エイナーにとっての大叔母。エイナーが攫われた時に滞在していた屋敷の女主人でもある。正直、エイナーとしては当面思い出したくない人物だ。現に、エイナーは父の口から出てくるまで大叔母のことはすっかり忘れていた。
大叔母とその夫――ブルキエル大公弟――夫妻は、エリューガル王家と大公家とが調査した結果、エイナー誘拐に二人の直接の関与はなかったと結論付けられ、エリューガル王家に対して謝罪をしただけでこれまでと変わらぬ生活を送っている――
いつだったか兄が話していたことを、エイナーはふと思い出した。その大叔母が、今頃になって心配してエイナーの顔を見たいとは、一体どう言う風の吹き回しだろうか。
どうする、との父の問い掛けに、エイナーは考える間もなくすぐに答えた。
「大叔母上が僕の顔を見に城へいらしてくださるなら、お会いします」
きっぱりと、迷いなく。
ついでのように父を真っ直ぐ見上げれば、父の口元には実に満足そうな笑みが浮かんで、エイナーの答えを褒めるように頷きが返ってきた。
「うん、いい答えだ。あちらには、そっくりそのまま返事をしておこう」
果たして叔母はどんな反応をするだろう――父は、きっとそんなことを考えているのだろう。浮かべた笑みが意味ありげに歪むのを目の端に捉えつつ、エイナーもまたその口元に小さく笑みを浮かべて前を向いた。
父のほんの少しばかり意地の悪いそれとは異なる、前向きな決意に満ちた、小さなものを。
父が本当は何を考えて笑んでいたのかにも、エイナーの半歩後ろを歩くラーシュが父の背中に冷たい視線を送っていたことにも、自分が父に返した答えがこの先にもたらすものにも、何も気付かないまま――