残る懸念、王都へ
7/11に、前話【愛し子であるということ】に、2000文字ほど加筆しております。
それぞれ歩調も音も異なる二人分の足音が、閉じた扉の向こうから遠ざかって行く。やがてその音がすっかり聞こえなくなったところで、黙って扉を見つめていたイーリスが満面の笑みで振り返り、レナートを見据えた。
「レナート。あなたのこと、殴ってもいいわよね?」
言葉と共に拳を強く握り込んだイーリスが大股でベッドへと近付く。対するレナートは、全く慌てることなく余裕の態度でやって来るイーリスを見上げていた。
「いきなり物騒だな、イーリス。殴りたいなら殴ればいいが、それをやって後悔するのはお前だぞ?」
「そうかしら?」
「ミリアムは優しいからな」
「あら。私は顔を殴る、なんて一言も言ってないわよ?」
「は? おいっ……」
レナートの顔色が変化した瞬間、踵を鳴らして枕元までやって来た勢いそのままにイーリスの手がレナートの肩を鷲掴み、キリアンが止める間もなく彼女の拳がレナートの胴を目掛けて勢いよく突き入れられた。
「――っ!」
咄嗟に身構えたレナートが息を詰める小さな音がし――
「――なんて。私が怪我人相手に手を上げるわけがないでしょ」
誰を恋人に持っていると思っているのだと呆れ返ったイーリスの声と共に、どうやら寸止めだったらしい拳が解け、レナートの額を弾く軽い音がそれに続く。
「なのに本気で慌てるなんて馬鹿ね、レナート」
「おっ、前な! こっちは……っ」
イーリスの随分な言いように、すぐさまレナートの眉が吊り上がる。だが、その口から続く筈だった文句の数々は、肩を掴んだままのイーリスの手に更に力が入ったことであえなく消えた。
更には、依然笑みを湛えたままのイーリスの顔がレナートの眼前にまで迫り、表情とは裏腹に決して笑っていない両眼に射られて完全に閉じてしまう。
「あら、なぁに? 文句があるの? 私がせっかく殴らないでやったって言うのに?」
「……っ」
顔を引き攣らせたレナートからは、まともな言葉は出て来ない。いや、下手な反論をすれば余計に事態が悪化するだけと分かっているから、何も言えないのだろう。
こう言う時のイーリスに逆らってもろくなことにならないことを、キリアンもレナートも、これまでの付き合いからよく知っているのだ。だからこそ、イーリスがレナートを殴ろうとした当初こそ反射的に止めに入ろうとしたキリアンも、今は傍観に徹していた。
そうして誰もが口を開くことなく時が過ぎ――室内を緊迫した沈黙が一周したところで、最初に動きを見せたのはこの場の主導権を握るイーリスだった。
腹の底からの深い吐息がこの場の沈黙を散らし、レナートの肩を掴んでいた手がゆっくり離れる。そして、一瞬俯いた顔が上向いたかと思うと、今度はその視線がキリアンを射た。
「……くだらない冗談はこのくらいにして。どう言うことか説明してくれるわよね、キリアン」
レナートに向けていた時の鋭さはそのままに、今度は怒りではなく警戒を宿した真剣な表情は、たちまち別種の張り詰めた空気を室内にもたらす。レナートも顔を引き攣らせていたのが嘘のように表情を改めて、キリアンに注意を向けていた。
二人の真面目な様子を見て取ったキリアンも二人同様に気持ちを切り替えると、ミリアムの手を握って以降痺れを訴える指先を無視して、先ほどは出さなかった紙片を二人の前へと提示した。便箋の半分ほどの大きさの紙片中央に、さも面倒臭そうに一文が殴り書きされただけの、手紙とも呼べぬものである。
これは、キリアンが父イェルドへ宛てて綴った現状報告とは別にリリエラへ宛てて書いた、モースがミリアムに接触を図ったことを伝える手紙に対する返答だ。
とは言え、実のところ、キリアンはリリエラからの返事は端から期待していなかった。あのリーテ嫌いのまじない師が、リーテに関わることで反応を寄越すとは思えなかったからだ。その為、殴り書きであろうとたった一文であろうと、こうして返事が来たことにキリアン自身酷く驚いたものでもある。
その、奇跡とも呼べるリリエラの返事を目にして、イーリスとレナート二人が揃って眉根を寄せる。
「つまり、あれがそうだってこと?」
「そのようだ」
「ミリアムは大丈夫なんだろうな?」
「……恐らく、今のところは」
「今のところは、だと?」
キリアンの曖昧な返答に、レナートが思わず身を乗り出してキリアンを睨み付けた。だが、現状、キリアンにもそうとしか答えられないのだから仕方がない。
モルムのまじないの進行具合を見ておけ――それが、リリエラが紙片に綴った一文だ。
最初にそれを目にした時には、聖域の民でもないのにそんなものをどうやって確かめろと言うのだと頭を抱えたが、つい先ほど、その答えはキリアン達の目の前にはっきりと示された。
ミリアムの髪色の変化と言う、非常に分かり易い形で。
その異変が起こったのは、キリアンがミリアムに、人々にとっての泉の乙女の存在の大きさを心に留め置いていてほしいと告げたあとのこと。恐らくはキリアンの言葉を深刻に受け止めてしまったミリアムが考え込み始めるのと時を同じくして、彼女の鮮やかに艶めく緑髪がじわりと根元から艶を失い色褪せ、枯葉のような色に変色し始めたのだ。まるで、彼女の自責思考と同調するように。
その身に力を宿す者の髪色は、力を授けた神の持つ髪色、またはその神を象徴する色と同色に彩られる。その色が変化したと言うことは宿す力に異変が起こったと言うことであり、ミリアムにかけられたまじないが彼女を侵し始めている証左に他ならない。
「ミリアムは気付いていない……わよね?」
「気付いていれば、何事もなかったように俺達と会話はできていないだろう」
加えて、ミリアムの退室際にレナートが一体何をしたものか、一瞬にして嬉しさと恥ずかしさにその顔を染め上げてもいた。彼女が異変を感じ取っていたならば、まず見せることのない代物だ。
ミリアムは、間違いなく自身の異変に気付いていない。
「どうにかできないのか、キリアン」
「できればとうにやっている」
確実にモルムのまじないを解くことができるのは、恐らくリリエラだろう。だが、そのリリエラが嫌悪するリーテに連なる者に助けの手を差し伸べることは、天地がひっくり返っても有り得ない。
これまでも、リリエラはモルムのまじないがミリアムに与える影響を軽視し続け、キリアンがミリアムを心配してどれだけ尋ねても真面目に取り合わず鼻で笑い、ならばとキリアンが自らまじないについて調べていれば、下らぬことに時間を浪費するなと邪魔をしにやって来ていたのだ。今回、一行だけ返事を寄越したのも、決してミリアムを心配してのことではなく、イェルドの計画に支障を来す恐れがないかを確認したいだけ。
故に、あのまじない師を当てにできない今のキリアンにできることは、気休めだろうとその場凌ぎであろうと、先ほどそうしたようにミリアムを自身の力で一時的にでも護ってやることだけだ。
幸いなことに、今回の変化の速度は非常に緩やかであり、キリアンの護りの力も効いてすぐさまミリアムの髪色は元の色を取り戻した。このことから、現時点でのまじないの進行具合自体は、まだそう深刻なものではないと見ていい。
恐らくは、モース自らのミリアムへの接触がモルムのまじないに影響を及ぼし、一時的に目に見える形となって現れるほどに力が増しているだけなのだろう。そして、シシシュによって粗方祓われたとは言え、災害から数日を経てもはっきりと変化が現れたことを考えれば、神の力の残滓もまだこの地に漂っていると見るべきである。
「この地を離れてしまえば、恐らくモルムのまじないの力は弱まるだろうが……」
一方で、それはそれで厄介であることをキリアン達に示してもいた。
ミリアムは、その性格から負の感情に支配されやすい。そして、神モースは負の感情を好む。つまり、ミリアムが己を責めれば責めるほど、モルムのまじないは彼女を蝕んでいくことになるのだ。
それが分かっているのに、ミリアムの周囲には彼女の心に負担をかけてしまうだろう事柄しか転がっていない。そもそも、ミリアムが泉の乙女であると言う事実それ自体が既に彼女の心には負担となっているのだから、他の面でどれだけ負担を軽減させようとしたところで、モルムのまじないは確実に彼女を蝕み続けるのだろう。
最早、モルムを殺すしか、根本的に彼女をまじないの呪いから救う手立てはないのだ。
せめてその時までミリアムには知らぬままでいてほしいとは思うものの、聡い彼女のこと、こちらが隠し事をしていると気付くのも時間の問題だろう。その時、果たしてモルムのまじないは彼女にどのような影響を及ぼすのか……腕を組んだキリアンは眉間に深く皺を刻んで、小さく唸った。
「いっそ、ミリアムに全て話してしまったらどうなんだ?」
「それは俺も考えたが、モースの影響が残るこの地ではまずい。せめて王都に帰ってからでなければ……」
ミリアムの心を支える者が多くいる王都であれば、キリアン達が秘していたことを明かしても、彼女が心に負うものは少なくて済むだろう。ミリアムの母であるエステルを知る大人も多く、これまでもそうだったように、王都の民は泉の乙女だからと言って彼女を特別視することもない。それは、ミリアムの心の負担を十分に軽くしてくれる筈だ。
そこまで考えて、キリアンはミリアムが先ほど見せた表情を思い出す。恐らくはレナート相手でなければ見せることがないだろう表情が現れた瞬間、ミリアムに宿る力が勢いを増す気配を、キリアンははっきりと知覚していた。
それが何を意味するのかは今はさておき、現時点でミリアムを負の感情から遠ざけるには、レナートの存在が不可欠であることは間違いないのだろう。
キリアンはこちらの様子をじっと窺うレナートへと、強い視線を向けた。
「レナート。お前のミリアムに対する多少の行き過ぎた行為には、この際、目を瞑っておいてやる。なんなら、それで彼女を泣かせてもいい。今回だけは俺が許す」
とにかく、ミリアムに負の感情を抱かせるな――
非常に気は進まないが、キリアン自身がミリアムのそばにいてやれない以上、確実に安全に無事にミリアムが王都へ帰り着くには、それが一番の安全策である。本当に全くもって気が進まない上、ミリアムへの罪悪感が重く圧し掛かってくるのだが、今回ばかりは手段を選んではいられない。
「何て言い方するのよ、キリアン。何も知らない人間が聞いたら間違いなく誤解するわよ、それ」
「今は俺達しかいないのだから、誤解しようがないだろう。大目に見ろ、イーリス」
眉間に深い皺を作って額を抑えながら呆れるイーリスを一瞥したのち、再びキリアンはレナートを先ほど以上の強さで、半ば睨み付けた。絶対におかしな問題だけは起こすな、との念と共に。
「――いいか。今回だけだからな」
「念を押されなくても分かってる」
「馬鹿ね。分かってないから言ってるんじゃない、レナート。私からも念の為に言っておくけれど……ミリアムにおかしなことをしたら削ぎ落とすわよ」
「削ぎ落とすってなんだよ!」
「ナニに決まってるでしょ」
イーリスの侮蔑を含んだ冷たい視線がレナートを刺し、理不尽な言われようもあってか、当然のようにレナートの眉が跳ね上がる。
だが、それはすぐに嘲笑する表情に変わり、レナートの口端が嫌味に曲がって、仕返しとばかりにその口からイーリスを挑発する言葉が飛び出した。
「お前こそ神殿で問題を起こすなよ、騎士レリオール?」
「――は? 何ですって?」
たちまち、怒りに染まったイーリスの低い声が腹に響く。蟀谷に浮かんだ青筋が彼女の怒りの度合いを明確に表して、キリアンは自分の顔が勝手に引き攣るのを感じていた。
「それは、私じゃなくてあいつに言ってくれるかしら、馬鹿レナート? 毎回、向こうが勝手に絡んでくるのであって、私は一度だって自分から問題を起こしたことはないわ。私は被害者よ」
「どうだかな。お前にキリアンを任せるのは心配だよ、俺は」
「私だって、あなたにミリアムを任せるのは心配だわ!」
どうにも話が妙な方向へ逸れ始め、キリアンの見る前で再び騎士二人の視線が双方を捉えて睨み合う。
その様子に、これはまた面倒なことになりそうだと密かにキリアンがうんざりしたところで、だが不思議なことに、キリアンの予想に反してあっさり双方の視線は逸れ、懸念した睨み合いはすぐに終わっていた。
ただ、その代わりとばかりに二人の視線が一度意味深に交錯すると、今度は揃ってどこか責める色を持ってキリアンへ向くものだから、既視感を感じながらもキリアンはたじろいでしまう。
二人の息が合うのはいいことだが、キリアンにとっての雲行きが怪しくなる気配は、あまり歓迎できるものではない。
「何だ、二人共……」
「いいや? ただ、ミリアムといいお前といい、愛し子ってのはどうして自分よりも他人のことにばかり気を回すのかと思ってな」
「それでどうして、今度は俺が睨まれなきゃならない」
「あなたが、自分のことを放っておくからでしょ」
「俺のこと?」
確信した物言いでの指摘に首を捻って心当たりを探してみるが、残念ながらキリアンに思い当たる節はなかった。いや、正確に言えば心当たりはあるにはあるが、まだ誰にも――それこそリリエラにすら――明かしていないし、少なくとも家族やこの二人に対しては、気取られないよう細心の注意を払ってきた。気付かれるようなへまはしていない筈だ。
そう思って知らぬ存ぜぬを通すことにしたキリアンだったが、その考えが誤りであったと気付いたのは、その直後。
「――っ!」
不意に伸びてきたレナートの左手に腕を掴まれ、走った痛みに顔が歪んだ。反射的にレナートの手を振り払ったが、その時にはキリアンは自分の犯した過ちに奥歯を強く噛み締めていた。
しくじった。そんな思いが咄嗟に駆ける。
簡単に振り払えるほどの力で掴まれて痛みに顔を歪める者は、そう多くはない。それこそ負傷でもしていない限りは、まずいないと言っていい。そして、キリアンは決して傷を負わない体の持ち主だ。痛みに顔を顰める、などと言うことをする筈がない。
「痛むんだろう」
他の者ならいざ知らず、キリアンに対してはあり得ない言葉が耳に刺さる。
「指先には痺れもあるんじゃない?」
尋ねているようでいて事実を確認しているだけのイーリスの一言が、キリアンに決定的な言葉となって突き付けられた。
二人は真っ直ぐキリアンを見ている。特にイーリスからは言い逃れは許さないとの強い意志が感じられ、キリアンは己の迂闊な行動を心底から後悔した。だが、キリアンが後悔したところで、この二人が追及を諦めてくれるわけではない。
観念するように息を吐き、いつからだ、とキリアンは小さく零した。二人は、一体いつからキリアンの異変に気付いていたのか。そして、知りつつ黙っていてくれたのか。
「私が違和感を覚えたのは、兵団との合同訓練の時よ。あなたの動きが、いつもよりも精彩を欠いているように見えてね。そこからしばらくあなたを注視して……気の所為ではないと確信したのが数日後ね」
「俺も似たようなものだ。お前、合同訓練でライサの騒動にアレックスの乱入があったとは言え、恒例の俺との模擬戦をやらなかっただろう。おまけに、そのことに言及することなく訓練を終えた。怪しむ理由はそれで十分だ」
「……確信したのは?」
「うちの茶会で、だな」
レナートとイーリスはその茶会で互いがキリアンに感じた違和を伝え合い、確信したと言う。そして、ひとまずは様子を見ることにして、いつかキリアンから自分達へ話してくれることを期待したのだと。
「……他に気付いている者は?」
「どうだろうな。カニア殿は気付いているかもしれないが、あの人は本人から言い出すまでは黙っている人だし、言ったところで気付いていたとも言う人ではないだろう」
「テレシアは」
「あのね。私達が彼女に気付かせるようなことをすると思うの?」
そこまで聞いて、キリアンはとうとう手で顔を覆って深く息を吐き、椅子に深く背を預けた。
隠し通せていると思っていた自分の愚かさ、悔しさと恥ずかしさ、二人の優しさと気遣い、最も愛する人に気付かれていない安堵――様々な感情が一気に押し寄せ、柄にもなく目頭が熱くなる。
キリアンが最も近くに存在を知覚するクルードがこのところキリアンに応えてくれることがないことも、この珍しい症状の原因だろうか。普段と何ら変わらない筈の二人の言葉が、今はやけに胸に沁みた。
「……やだ。もしかして、泣いてる?」
「なんだ、お前のことも抱きしめて慰めてやろうか?」
「馬鹿を言うな!」
ミリアムのように、とレナートが腕を広げる前に、キリアンは慌てて顔を覆っていた手を下ろし、レナートを睨み付けた。いくらキリアンのことを思ってのおふざけだと分かっていても、そればかりはご免被りたい。
「俺に男と抱き合う趣味はない!」
「そいつは残念」
「だったら、わた――」
「断る!」
イーリスに皆まで言わせるまでもなく今一度声を張り上げたキリアンは、その勢いを次の一声に繋げた。
「お前達二人に感謝はしているが、俺が抱き締めたいのも抱き締められたいのも、エイナーとテレシアだけだ!」
「そこはテレシア一人だけでいいでしょ!?」
「弟離れしたんじゃなかったのか、お前……」
呆れる二人に対して、キリアンは続けて堂々と言い放つ。
「弟離れなどして堪るか! エイナーは俺の愛し子だぞ!」
それだけは誰に何と言われようと、たとえキリアンがテレシアと結婚しようと二人の間に子が生まれようと、変わることはない。キリアンにとって、エイナーは己が死ぬまで大切な家族で愛おしい弟で、唯一の愛し子である。
キリアンが気合いを入れて胸を張れば、途端に二人の口からは呆れとも嘆きとも取れる深いため息が吐き出された。おまけに、どちらからともなく心配をして損をした、との声まで漏れ聞こえてくる始末だ。
だが、二人の反応の悪さにキリアンが眉を寄せるより早く、誰より先に気持ちを切り替えたレナートが、真剣さを戻した表情でキリアンに問うた。
「それだけ声を張り上げられるなら、ミリアム同様お前の体の異常も深刻ではないと言うことでいいんだな、キリアン?」
「……そう考えていい、とは思う」
リリエラの前で腕が竜のそれに変じて以降徐々に現れ始めた体の異変は、現状、動けなくなるほどにキリアンを苛むと言うことはない。それに、常時異変が現れていることもなければ、異変が現れたとしても数時間で治まることばかりだ。だからこそ、これまで殆どの者には気付かれずに済んでいるのだから。
ちなみに、体の部位が竜に変じること自体は、非常に数は少ないまでも先例はあることで、キリアン自身、直後に不安に襲われはしたものの、クルードの愛し子としては異常なことではない。
「腕が竜のものに変化したことが初耳だと言うことはこの際置いておくとして……流石に、リリエラ殿には伝えた方がいいんじゃないのか?」
「馬鹿を言うな。あいつに伝えれば、それこそ騒ぎになるだろうが」
今、この大事な時にそれはまずい。あのリリエラのこと、状況を弁えて大声を上げるようなことはないだろうが、普段東の塔に引きこもっているまじない師が急に動き出し、しかもそれがキリアンの元へと向かえば、周囲にいらぬ不安を与えることは必至である。
そうなれば、キリアンがこれまで周囲に悟られぬよう行動し続けてきたことも、水泡に帰してしまう。
「それはそうかもしれないが、クルードとその愛し子のことを誰より知っているのはリリエラ殿だけだろう」
「心配しなくとも、聖都へ行けば嫌でもクルードと対話することになる。その時に、クルードに尋ねるだけはしてみるさ」
とは言うものの、果たしてこれまで散々無言を貫いてきたクルードが、神殿へ赴いての対話だからと言ってキリアンに答えてくれるかどうか。
神が己の愛し子を蔑ろにすることはない筈だが、もしも……もしも、これまで同様答えてくれなかったら。この異変が、クルードすら予期せぬことであったとしたら。その時、自分は一体どうすればいいのか――
一抹の不安を胸に抱えてキリアンがわずかに目を伏せれば、まったく、と小さく零すレナートの声が耳を掠めた。
「お前が俺に言った言葉をそのまま返すぞ、キリアン」
言葉と共に、今度はそっと労わるようにキリアンの手を握ったレナートが、こちらを真摯な瞳で覗き込む。
「いいか、キリアン。俺とイーリスは、お前が自ら望んで得た、お前だけの騎士だろう。だったら、お前の望みに応えてお前に剣を捧げた俺達を……信じて頼れ。一人で抱え込むな」
晴れ渡った空を映す湖の如くに深く澄んだ蒼が、一言一言をキリアンの胸に刻んでいく。わずかに視線を動かせば、少し高い位置からこちらを見つめて微笑む柔らかな暗緑の瞳とも目が合った。そちらからは言葉こそなかったが、彼女の表情と視線に込められた思いだけで、キリアンには十分だった。
己の臣下を心配させるとは、何と情けない王太子だろうか。
だが、だからこそ、キリアンを見捨てることなくそばで支えようとしてくれている二人の存在は、キリアンにとって何より心強いものだった。
「……ありがとう。レナート、イーリス」
しばしの沈黙を挟んでキリアンの口から出たのは、何者にも代えがたい二人への、簡潔でいてどんな言葉よりも思いの伝わる感謝の一言だった。
◇
翌朝、キリアン達は太陽が山の端から顔を覗かせる前に聖都へ向けて立ち、その二日後には私達も王都へと出発することとなった。
前回の見送りの際、泣きながら私達を見送っていたセシリーは、今回は涙とは無縁の笑顔を見せている。それだけではなく、時折二つに結った髪を気にしては髪紐の端が自分の動きに合わせて揺れるのを確かめて喜び、私を見ては頬を染めて嬉しくて堪らないとばかりに飛び跳ねてもいた。
その理由は、きっと――
「よく似合ってる」
ヨルゲンと出発前の最終確認をし、ミュルダール家の人々への挨拶を終えたレナートが、同じく挨拶を終えた私の元へやって来るなり目を細めて笑む。その視線の先にあるのは、私の髪を結う髪紐だろう。セシリーとお揃いのものが、私の頭部を飾っているのだ。
「セシリーさんが、一番似合っていますけどね」
黒色のリボンに白のレースをあしらった実に可愛らしい髪紐は、恐らくはセシリーの髪色に合わせて作られたのだろう。私の緑色よりも、セシリーの銀鼠色の髪によく映えている。
そんな髪紐を何故私まで身に着けているのかと言えば、今朝セシリーから「ミリィねえさま、セシィのことわすれないで」との言葉と共に贈られたからだ。そんな可愛らしいことを誰より可愛い女の子から言われたら、すぐに身に着けないわけにはいかない。
そう言うわけで、セルマの提案もあって私とセシリーは侍女の手で同じ髪紐を使って揃いの髪型にされ、現在に至っている。セシリーが始終ご機嫌なのも、その為だ。
セシリーのあまりの喜びように、この分ではしばらくこの髪紐を使い続けるわね、とセルマが私にも期待の眼差しを送っていたので、私もせめて王都へ帰り着くまでは、セシリーとお揃いであることを思いながら使い続けるつもりでいる。
「もう、いいのか?」
「はい。皆さんへお礼はお伝えできましたから」
最後に私に向かって手を振るセシリーに手を振り返し、私は馬車へと乗り込んだ。ややあって、ミュルダール家の人々に見送られながら馬車が動き出す。
予定外に長く滞在し、すっかりお世話になってしまったミュルダール家。その古城の門を潜り抜けるまで車窓から見える景色を目に焼き付けてから、私は体を戻した。
それでも、止むことのない雨ではなく明るい日差しを浴びて煌めく街並みに、すぐにまた私の視線は車窓の向こうへ惹き付けられてしまう。
いつかまた、来られますように――
そんな思いと共に、私は飽きることなく東の国境の街の景色を眺め続けた。私の向かいに座るレナートもまた、飽きることなく私の横顔を――時に髪紐を複雑な表情で――見続けていたことには、気付かないまま。