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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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小さな変化・大切なもの

「ミア」


 痺れを切らすようにレナートが私を呼ぶ。それでも、私の口からは一音も出ない。出せない。


「俺の怪我をまだ自分の所為だと思ってる……わけじゃないよな?」

「それは違いますっ」


 今度は、私の口は即座に否定の言葉を出せた。そうすれば、レナートからは安堵の息が漏れる。

 とは言え、ならば追及はこれで終わりとなる筈もなく。当然のように、では何を考えていたのかと再度レナートから尋ねられて、私はいよいよ答えに窮した。


「……そんなに、俺には言いたくないのか」

「え、と……」

「言いたくないんだな」

「いやっ! そのっ、あのっ」


 咄嗟に否定の言葉を口にしたけれど、私の本心はレナートの言う通り、言いたくないのだ。


「そうか。俺には言えないのか」

「そっ、れは……」

「……分かった」


 それは違うと断言できず、けれど言葉に詰まっていることはレナートの言葉を肯定しているも同然で、私へ向けるレナートの視線が鋭くなるのを感じる。彼の言葉と態度に滲む冷たさに私の心が軋み、口が戦慄いた。

 何か言わなければと心が急く。それでも、こんな状況に至っても、私は正直に告げることを躊躇した。それだけは無理だ。できない。嫌だ。だって。だって――


「だ……っ、だって! 私、レファに嫌われたくな――っ!!」


 思わず自分の口から出た大声に驚き、私は瞬時に両手で口を塞いだ。

 直後に私を襲ったのは多大な後悔。けれど、声に出てしまった言葉は取り消せないし、まさかレナートが聞いていなかった可能性に賭けるほど、私も馬鹿ではない。

 レナートの反応が怖い。焦った末にうっかり口に出してしまうなんて、失態も失態、大失態だ。こんな私の愚かな言動を、レナートはどう思っただろう。

 しんと静まり返ってしまった部屋の沈黙が、耳に酷く痛かった。それでも、私もレナートもどちらも動かない。いや、私の場合は動けないと言った方が正しいだろう。

 緊迫した空気が室温を下げる中、失態を犯してしまったことを思い知った私の体からも、血の気が引き始める。

 その直後。

 レナートの腕がこれまでで一番の力を込めて私を抱き締め、長い長いため息が私の耳元から聞こえて、緊迫した空気を解いた。


「……った」


 ため息に混じって掠れ声が続き、私の肩にレナートの額が押し付けられて癖っ毛が首筋を撫でる。くすぐったさに私は反射的に肩を竦めてしまったけれど、レナートは気にすることなくしばらくその体勢のまま、何をするでもなく私を抱き締め続けた。

 その行動は、少なくとも私が発した言葉はレナートを不快にさせたわけではないらしい、と私が考えるのには十分で。

 そうして、聞き取れなかったレナートの呟きを気にしつつも、十分に私の心に落ち着きが戻って来るだけの時間が経過したところで、ようやくレナートの腕が緩んだ。そのまま腕が解けて、私の体にしばらく振りに自由が戻ってくる。


 けれど、その時の私が真っ先に感じたのは、自由になった喜びよりも腕が離れていく寂しさだった。まだ離れていかないでほしい――そんな思いで無言のままにレナートの腕を目で追い、首が動いてしまう寸前で戒めるように目を伏せる。

 私は何を考えているのだろう。レナートを苛立たせなかったらしいことに胸を撫で下ろすだけでいいのに、他を、それ以上を望もうとしてしまうなんて。

 そんな私の思考を読んだ、と言うわけではないのだろう。それでも、次に私の耳元に囁いてくれたレナートの一言は、一瞬沈みかけた私の心を簡単に浮上させてくれるほど嬉しいものだった。


「こっちを向いてくれるか、ミア」


 乞うような甘さのある声に、心臓が跳ねる。私は口元から下ろした手で胸を押さえながら、声に従ってゆっくりとレナートの方へと体を向けた。

 振り向いた先のレナートは声音から想像する通りの柔らかな微笑みを湛えて、私が顔を向けると嬉しそうに目を細める。そして、そっと私の頬に手を宛がった。


「何て顔をしてるんだ」


 強張った表情を解すように、レナートの指の腹が私の頬を撫でる。そうかと思えば、レナートは私の頭を掬うように引き寄せて、胸に押し付けた。


「……よかった」


 私をその腕に抱いていなければ、きっと胸を撫で下ろしていただろう安堵の響きを伴う声に、私は小さく首を傾げる。

 安堵すると言うことは、その前に不安に思う物事があるものだ。けれど、私の言動に苛立ったと言うならまだしも、今の会話の流れのどこにレナートを不安にさせ、そして安堵させる要素があったのかがまるで分からない。

 目を瞬いて疑問を浮かべる私に、レナートの苦笑が落ちた。


「どうして俺が安堵してるか分からないって顔だな」

「すみません……」

「謝ることじゃないさ。俺は嬉しいんだから」

「嬉しい……ですか?」


 頷きと共にレナートの手が私の頭をぽんと撫で、苦笑ではない喜びの笑みがその顔に広がった。


「だって、そうだろう? 俺に嫌われたくないと思ったってことは、俺の存在がそれだけミア……ミリアムにとって大切なものだってことの証なんだから」

「私、が……」

「それでなくとも、ミリアムに失くしたくないと思えるものができたんだ。君の家族としても俺個人としても、嬉しく思わないわけがない」


 本当に嬉しいと、心からそう思っていると分かる表情でもう一度繰り返すレナートを、私は不思議な思いで見上げていた。

 本当に、不思議だった。予想外のことを言われた驚きとも、少し違う。見当外れのことを聞かされて唖然とするのにどこか近く、自分のことなのにまるで他人事のような感覚で、私はレナートに言われた言葉を頭の中で反芻する。

 確かに嫌われたくないと、私は真っ先にそう思った。迷惑をかけたくないでも心配をかけたくないでもなく、嫌われたくないと。これまで、一度だってそんな思いが最初に出てきたことはなかったのに。

 だって、私はいつだって嫌われて、どんな身分であったって最後には一人になってしまったのだから。いずれ嫌われてしまうことが分かっているのならば、嫌われたくないなんて思うだけ無駄だ。だから、嫌われたくないと言う感情が私の中に生きていたこと自体が、そもそも驚きなのだ。


 当然、人間関係にだって執着はなかった。私がエリューガルで出会った人々に迷惑も心配もかけたくないと思うのは、これまでの人生で初めて、彼らから数えきれないくらい親切にしてもらったから。

 受けた恩を仇で返すわけにはいかないと言うだけで、親切によって築かれた人間関係がいつか壊れることを惜しむ気持ちもなかった。と言うより、嫌われたくないと言う思い同様、惜しむと言うことを考えたことすらなかったのだ。

 それなのに。

 私は、レナートに言われて初めて、自分自身の発言を自覚していた。

 私はエリューガルで得た優しい人々との関係を、こんなにも失いたくないと思っているのか、と。そして、それはレナートが嬉しいことだと歓迎して喜ぶほどのことなのだ、と。

 けれど、失いたくないほど大切な存在ならば、そんな相手に対して私が抱いてしまった自分本位な思いは、一体何なのだろう。大切どころか相手を酷く傷付ける内容で、とてもではないけれど、大切なものができた証だと手放しで喜べるものではない。


「でも、私……その、本当に最低……で」


 失いたくないと言うならば、知られてしまえば自ら失ってしまいそうなことを考えるのは、明らかに矛盾している。それは、大切に思っているとは言えないのではないだろうか。


「最低、か。いいんじゃないか? 俺だって、ミリアムに知られたら軽蔑されるだろうなと思うことを考えることはあるぞ?」

「まさか!」


 レナートに限って、そんなことを考える筈がない。それに、万が一考えたとしても、それで私がレナートを軽蔑することはあり得ない。嫌う筈もない。

 首を振って強く否定すれば、レナートは何がそんなにおかしいのか小さく噴き出し、ならば試しに白状してみようと、私が軽蔑しないかを見定めるようにこちらの顔を覗き込んだ。


「いくつかあるんだが……」

「一つじゃないんですかっ?」

「そりゃ、俺にとってミリアムはそれだけ大切だからな」


 驚く私に笑って、一番最近のものがいいかと、レナートは固定された右腕を指し示した。


「実は、この腕がまだしばらく治らなければいいのに、と思ったんだ」

「え――」


 まさかの言葉に、私は色をなくしてレナートを見上げる。ただ、それとは反対に心臓は微かに期待するように脈打って、私は無意識にぐっと胸元の手を握り込んだ。そして、レナートの言葉を聞き漏らすまいと、その声に集中する。

 一方のレナートは私の反応をどう取ったのか、相変わらず何と言うこともない様子で笑ったままだ。そして、私が思いもしなかったことを告げた。


「だって、そうすればミリアムは俺の食事の介助を続けてくれるだろ? それ以外にも、ミリアムは怪我人の俺のことを気遣って色々世話を焼いてくれている。俺は、普段誰かの世話になるなんて滅多にないから、この時間を案外楽しんでるんだよ。だから……怪我が治って世話をしてもらえなくなる上、ミリアムと過ごす時間が減るのは寂しいな、と」


 間近に見ていた筈のレナートの顔が何故だか話の途中から見え辛くなって、私は唇を噛み締めた。聞き間違いではないか、私の都合のいい幻聴ではないか、そんな現実逃避が過っては消えて、更に視界が不明瞭になっていく。

 それでも、現実を疑う気持ちはまだ消えない。だって、まさかだろう。レナートも私と同じくこの時間を楽しいと感じ、終わりがくることを寂しいと感じていただなんて。そんな奇跡のようなこと、すぐに信じられることではない。

 本当に、何て都合がよすぎるのだろう。まるで夢の中のようだ。そう思うのに、目の前のレナートが私の頬に触れてくる指先はどこまでも本物で。


「ミリアムは、俺のこんな馬鹿な願いでも泣いて(よろこんで)くれるんだな。白状してよかったよ」


 おまけに、どこか揶揄いを含んだ浮ついた声で嬉しそうにそんなことを言うレナートは、嫌でも私にこれは現実なのだと思い知らせるのだから、私は咄嗟に眉根に力を入れて目の前を睨み付けていた。


「よ、喜んでませんっ。それにっ、怪我は、治さなきゃ……っ」

「確かにな。白状しといて何だが、さっさと右腕は治した方がいいんだと、さっき思い知ったよ」

「は――?」


 私の反論を気にした様子もなく、怪我について先ほどと真逆のことをこともなげに口にするレナートに、私は今度は絶句した。

 あまりのことに一瞬で乾いてしまった両目でレナートを見やれば、はっきりとした視界に眩しいほどの清々しい笑顔が映る。


「じゃなきゃ、ミリアムをしっかり抱き締められないだろ。片腕は不便すぎる。それに、よくよく考えれば怪我が治ったからと言って、ミリアムと二人で過ごす時間が永遠になくなるわけでもない。食事の介助は確かに必要なくなるかもしれないが、俺の腕が治れば、今度は一緒に食事をして互いに食べさせ合うことができるだろ? そっちの方が、きっと食事も何倍も美味いに決まってる。だったら、自分の思うことが自由にできる怪我のない体に、早いところ戻した方がいいだろ」

「そ、んな……こと、で!?」

「何を言ってる? 俺にとっては大事なことだ」


 何故か胸まで張って堂々と言い切るレナートに、私の視界はまたしても、瞬時に目に映る全ての姿を滲ませていた。

 さも当然のように言ってのけるレナートは、私にはあまりに眩しい。

 私とレナートは同じことを考えていただなんて、とんでもないことだった。全然、全く、欠片も同じではなかった。

 だって、私は目の前の今をただ惜しむばかりで、レナートのように先を考えることをしなかったのだから。怪我が治ればもう終わりだと、それしか考えられていなかった。

 それなのに。目覚めた日といい今といい、本当に、どうしてレナートはこんなにも簡単に、私が持たないものを与え、気付かせてくれるのだろう。そして、私の心はレナートの言葉にこんなにも満たされる思いでいるのだろう。

 レナートの言い放った言葉に対して何か言わなければと思うのに、あまりに胸が一杯で、全く言葉が出て来ない。それどころか、口を開こうとすれば言葉の代わりに嗚咽が出そうになるものだから、口すら開けないでいる。


「ああ……なんだ。呆れられるかと思ったのに、こっちの馬鹿な願いの方がミリアムには嬉しかったか」


 笑いつつ、宥めるようにレナートの手が私の頭を撫でる。その手の感触が嬉しくて私がわずかにレナートへと顔を寄せた瞬間――ふっと影が降りて、目尻に柔らかなものがそっと触れた。


「……やっぱり、ミリアムの涙は甘いな」

「ひゃあっ!?」


 あまりのことに飛び上がってベッドから後退った私を、レナートが悪戯を成功させて喜ぶ子供のような顔で見上げる。


「な……っ、なな、なっ……!」


 片方だけすっかり乾いてしまった目尻が熱い。いや、全身が茹だるようだ。

 寸前までの嬉しさが一瞬で吹き飛び、片頬を押さえて目が回りそうな羞恥に言葉も出ない。それなのに、私は何故か幸せそうに微笑むレナートから視線を逸らせなかった。レナートもまた私から視線を逸らすことはなく、私達はそのままおかしな形で見つめ合ってしまう。

 そしてそれは、痺れを切らしたように部屋の扉が荒々しく叩かれるまで続いたのだった。


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