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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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悪夢からの生還

 伸ばした手は、間に合わなかった。

 追い付く前に黒い波に襲われ、全てがあっと言う間に飲み込まれた。何もできないまま眼前で馬車の横っ面に巨石が直撃し、直後に自分も横から来た衝撃に体ごと持っていかれて、意識が途絶えた。

 耳の奥に残る雷轟の残響、フィンの嘶き、崩落の瀑布が生む轟音。そして――


〝――赦セ〟


 他を圧して静かに重く響く無機質な声に、レナートは弾かれるように両目を見開いた。

 途端、全身を押し潰さんばかりの圧迫感に襲われ、肺から息が勢いよく押し出される。


「……っ」


 目に映るのは、上も下も不明な全き闇。あまりの深い闇色に、自分が本当に目を開いているのか疑うほどだ。体は伸し掛かる重みに指一本すら動かせず、空気を求めて開いた口も呼吸がままならずに、陸に打ち上った魚の如く無意味に開閉するばかり。

 ここはどこだと咄嗟に周囲を見やるも、闇の中では何が見える筈もない。覚えている直前の記憶と現在との繋がりも不明で、混乱ばかりがレナートを襲う。

 馬車は、乗っていたミリアムとキリアンは、騎士隊の皆は、先頭を走っていたイーリスは、自分を乗せていたフィンは。矢継ぎ早に全員の顔が浮かんでは消え、その安否に胸が掻き乱される。

 次いで、記憶にある様々な音の余韻が耳鳴りの奥に聞こえた。その中でも、雨音がやけに強い。まるで滝を思わせるその雨音に混じって、次第に誰かの必死に叫ぶ声が聞こえてくる。言葉ははっきり聞き取れないが、誰かを探しているらしい悲痛な声だ。聞きようによっては助けを求めているようでもあり、必死なあまり今にも泣きそうに聞こえるのに涙の気配は一切感じられない、不思議な声でもあった。ただただ強い感情だけが乾いた声に強く激しく響いて雨音に溶け、耳鳴りに消える。


 この声は、一体誰のものだろうか。

 知っているようで、知らない。レナートの記憶にはない声だ。

 だが、十分思いを巡らせる前に息苦しさから再び意識が薄れ始めたことに焦って、レナートはとにかく必死に空気を吸い込んだ。そうすれば、わずかに闇の中に何者かの輪郭を得る。

 だが、見えたのは人ではなかった。見慣れた四足動物のいずれでもない。もっと別の、途轍もなく巨大な何かだ。

 小山のような曲線を描く輪郭が、闇に慣れたレナートの目に薄っすら浮かび上がる。それはレナートを取り囲むように――否、レナートの体の上に鎮座していた。

 自覚した瞬間、体にかかる圧力が増す。せっかく吸い込んだ空気が再び否応なく肺から押し出され、レナートの視界が霞んだ。

 押し潰される。そう感じたレナートの目に、見慣れた色が一瞬、掠めた。

 眼窩に嵌め込まれた宝石の如き、無機質な輝き。鮮やかでいて深く濃く、赤より紅い、レナートの主と同じ、この国で唯一の類稀なる神の色彩。深紅の一対。それが、仄暗い光を微かに放つ鱗に覆われた長い首の先、遥か高みからレナートを見下ろしていた。


「……ク、ッ……」


 まさかとの思いで発した声は、だがまともな音になることはなかった。伸し掛かる圧力に今度こそ肺が負け、レナートの意識が遠のく。こちらを覗き込む深紅が霞む。輪郭がぼやけて闇に沈む。無事を願う皆の顔が消えていく。巨体がレナートの体を擦り潰す。

 せめて片腕だけでもと抗ってみるものの、動かせたのはわずかに指先だけ。その指先が何かに触れる朧げな感触を得たような気がしたが、それを確かめる前に指先の感覚が失せた。

 そして、今一度感情の伺えない声が、レナートに向かってただ一言「眠れ」と告げる。全て忘れて、今は眠れと。

 傲慢とも思えるその神の声を最後に、レナートは抗えぬままに完全に意識を手放していた。


 *


 次に意識が浮上した時、レナートが最初に知覚したのは微かな物音だった。

 まだ夢と現の狭間で頭がはっきりせず、体の感覚すら覚束ない中、極力音を立てないよう注意した人間特有のささやかな音を、耳が拾う。

 囁き交わされる声、慎重ながらも迷いのない足取り、極力そっと動かされる調度。静寂を乱さないよう努めていると分かる音の数々は、聞きようによっては、レナートに対して殺意ある者の侵入を想起させた。

 例えば――暗殺者のような。


「――っ!」


 その瞬間、レナートの騎士としての本能が、襲い来る危機に対して考えるより先に体を動かしていた。

 やけに重たい瞼を押し上げ両の目を見開き、その勢いに任せて身も起こす。相手の不意を突くように。

 だが、現実は鉛のように重い体は頭をわずかに上げるだけで精一杯。おまけに、力を入れた途端に全身に激痛が走り、気持ちとは裏腹に体は柔らかな布の塊へと無様に沈んだ。指一本、まともに動かせない。


「ぐっ……」


 思わず口から零れた声も、驚くほど掠れて音にならなかった。

 何がどうなっているのか。

 抱いた当然の疑問は、直後に脳裏に閃いた闇を切り裂く雷光と雷轟によって掻き消され、レナートは弾かれるように我に返る。同時に、誰より安否が気になる少女の顔が脳裏を過って、レナートは全く別の意味で再び身を起こそうと藻掻いた。

 と。


「動いちゃ駄目です、レナートさんっ」


 何とかして起き上がろうとするレナートを慌てて制止する声と肩に触れる手が、突然頭上から現れる。はっと目だけをそちらへやれば、鮮やかな緑髪がレナートの視界に飛び込んだ。誰と確認するまでもなく、その色の髪を持つのはこの国でただ一人だけだ。

 レナートが誰より真っ先に無事を確かめたかった少女――ミリアムが、愛らしい顔に今は不安と心配の色を乗せてレナートを見ていた。


「ミ、ッ……!」


 反射的に名を口にするも、眠りから覚めたばかりの喉はまるで音を作らせず、逆に全身の激痛がレナートから口を開く気力を奪う。堪らず痛みに呻いてレナートがベッドで悶えれば、今にも泣きそうでいて涙の気配のないミリアムの声が、すぐ耳元で聞こえた。


「落ち着いてください、レナートさん。ここは安全な場所です。だから、無理に体を動かさないでください」


 宥めるようにレナートの手を握り、摩るミリアムの体温が温かい。その温もりは、痛みに霞む視界に映るミリアムが、決してレナートの願望が作り出した幻ではないことを、確かにレナートに教えていた。

 頭に巻かれた包帯こそ痛々しいが、ミリアムは無事だった。

 その事実に泣きそうなほどの安堵感が溢れてきて、レナートはざらつく包帯越しに可能な限りで指を動かし、ミリアムの手をそっと握り返した。ついでに、声にならない声でミリアムの名を呼ぶ。そうすればミリアムの表情もくしゃりと崩れて、レナートの手を握るその手に力がこもった。

 涙こそ流れはしなかったが、はっきりと瞳を潤ませるミリアム。その姿にレナートが改めてミリアムの生存を実感したところで、まるで見計らったように、ミリアムだけだった視界に別の顔がぬっと現れた。


「呆れた人ね」


 開口一番、レナートの無事を喜ぶでもなくうんざりした様子でそう零したのは、ミリアムとは逆の方向から半眼でレナートを見下ろすイーリスだ。明るい室内ながら、彼女の体勢と光源の位置から影が多くを占める顔は怒りを存分に含んでも見え、どうにも穏やかではない。イーリスの手に何やら丁寧に折り畳まれた布が握られていることも、その不穏さに拍車をかけている。

 その布を、一体どうする気だろうか。

 状況をいまだによく飲み込めていないながらも、どうやらミリアムに続いてイーリスも無事だったらしいと、呑気に安堵している場合ではなさそうだ。心中でわずかばかり恐れ戦きながらレナートがイーリスへと視線だけを寄越せば、半眼の上の眉がぴくりと反応し、小さなため息が零される。


「私達のことを不審者だと思ったでしょう、レナート」


 失礼しちゃうわ、と続けて零し、イーリスは更に呆れの色を濃くした。


「まったく……こんな状態でも物音に敏感で警戒までしてしまうのを、騎士の鑑と褒めていいのか迷うわね」

「……ぁ?」

「それとも、こう言うのを騎士馬鹿って言うのかしら。やぁねぇ……。ミリアムもそう思わない?」


 どうにも理不尽なことをぼやきながらミリアムに同意を求めつつ、イーリスは次に手に持った布を動けないレナートの額に押し当ててきた。

 何を、と思う間もなくたちまち気持ちのいい冷たさが額を覆い、レナートは思わず呻くように息を吐く。それから、痛みだけではない体の怠さを遅れて自覚し、レナートは自分が発熱していることをようやく知った。

 全身の痛みに、思うように動かせない体。発熱と倦怠感。どうやら、自分は相当に重傷を負っているらしい。もしかして、こうして生きていることが奇跡的だったりするのだろうか。

 水差しから水を貰って喉を潤せば、レナートにもようやく現状を考える余裕が生まれて、頭が回り出す。


「ミリアム」


 はっきりと出るようになった声で、レナートは改めて名を口にした。

 途端に、イーリスからの言葉に困ったように苦笑していたミリアムの表情が改まり、はい、とどこか緊張を滲ませた声がレナートの耳に届く。そこには、先ほどまで見せていたレナートへの心配や不安よりも叱責を覚悟する色が見て取れて、変わらないミリアムの態度にレナートの口元が自然と緩んだ。

 レナートがこの場で目覚めるまでに何があったのかを、レナートは当然知らない。だが、ベッドから起き上がれないほどの重傷を負ったレナートを前にして、ミリアムがそんな態度を取る理由については、容易に想像ができた。

 恐らく、ミリアムは危険が迫っていると告げた自分の発言が、レナート達をこんな目に遭わせたとでも思っているのだろう。

 ミリアムはフィン達の言葉を人間側へ伝えただけで、土砂崩れの発生は決してミリアムの所為ではない。元より、自然災害とは往々にして人間には正確に予測できないものだ。それなのに、この心優しい少女は自分に原因があったと感じて自分を責めるのだ。


 彼女自身が軽傷で済んでいることにも、もしかしたら負い目を感じているのだろうか。こちらは、ミリアムが軽傷で済んでいることに対して、大いに安堵していると言うのに。

 人に頼ることを知らず、人に甘えることに不慣れで、人に大切にされることに臆病で、そして、他人を思って――あるいは自分を卑下して――遠慮ばかりしてしまう。そんなミリアムだからこそ、レナートが殊更に安否を心配し、その無事に多大な安堵を感じているなど、ミリアムは夢にも思っていないのだろう。

 だから、レナートは自分の気持ちが明確に伝わるよう、いまだに自分の手を握ったままでいてくれているミリアムの手を、改めて優しく握り締めた。そして、そのことでずっとレナートの手を握っていたことに気付いて慌てるミリアムに向かって、柔らかく目を細める。


「ミリアムが無事で、本当によかった。……ありがとう」

「な、ん……」


 大きく見開いた目が瞬き、ぽろりと目尻から光が零れる。

 ミリアムの涙は、彼女の喜びの表れだ。ミリアムに掛ける言葉が間違っていなかったことに安心し、これ以上の涙は流すまいと懸命に力を入れて顔をくしゃくしゃにするミリアムの様子に、レナートは今一度笑みを深めた。

 もう一度ミリアムのそんな表情を生きて見られたことが、無性に嬉しくて堪らない。たったこれだけのことに、今までにないほどの幸せを感じている。

 だからこそ、負った傷の所為で痛む体が恨めしくもあった。

 できることなら今すぐにでも身を起こし、ミリアムをこの腕に抱き締めて、堪えさせることなく気の済むまで存分に泣かせてやりたいのに、少しでも腕を持ち上げようものなら全身に激痛が走る。お陰で、ミリアムの手をほんの少し力を込めて握ることが精々とは、全く残念で仕方がない。

 そんなレナートの気持ちを知ってか知らずか……いや、確実に分かっているのだろう。イーリスがレナートの寝かされているベッドを回り込んでミリアムの元へと向かい、涙を堪える彼女をこれみよがしに抱き締め、傷に障らぬ程度に頭を撫でながら、レナートに対して勝ち誇った笑みを浮かべた。


「イーリス、お前な……」

「あら。二日も目を覚まさなかったんだから、これくらいいいじゃない」


 心配させた罰にしては軽いだろうと、ミリアムの頭を撫でながら悪びれなく告げられて、レナートは軽く目を瞠った。

 まさか、土砂崩れからそんなにも時間が経っていたとは。いや、これだけの重傷を負って、すぐに目覚めることの方が稀だろうか。むしろ、二日で目覚められたなら早い方と言えるかもしれない。

 ともかく、予想だにしなかった時の経過を知ると共に、レナートはたちまち土砂崩れに巻き込まれた他の騎士達の安否が心配になった。レナートはこうして運よく生きているが、それでも容易には動けない重傷を負っている。ならば、命を落とした者がいてもおかしくはない。

 そして何より、キリアンのことを思って眉が寄った。己の主は今、どうしているだろう。

 傷を負わない体を持つキリアンは、彼を守って他者が傷付くことを厭っている。他者が傷を負うくらいならば己を盾にして守った方がいいとの考えを、常に持っている。だが、王族と言う守られる立場に生まれたことが、キリアンにそれを容易に実行させない。故に、キリアンは他者の傷に心を痛め、守れなかった己を責め、誰もが傷付かずに済む方法を懸命に考えるのだ。


 今回は自然災害だったとは言え、レナートのこの状況を考えれば、これまでにない怪我人が出たことだろう。だが、それだけの被害が出ても、キリアンだけは無傷で生還する。そして、誰にとっても同じ災厄に見舞われたのに、それをものともしない己の頑丈さをキリアンはやはり厭い、己を責めているに違いない。

 災害現場では、恐らく誰より率先して現場で救助に当たっただろう。王族として、クルードの加護により傷付かない体を持つ愛し子として、一人でも多くの者を救おうと必死に動いた筈だ。レナートも、そうしてキリアンに助け出されたのかもしれない。

 それなのに助けた相手が二日も目を覚まさずにいれば、体は無事でも心は疲弊し、いずれそれは傷となってキリアンを苛む。


 決して驕るわけではないが、レナートはキリアンの為の騎士で、彼の右腕と称される側近でもある。そしてレナート自身、キリアンにとって心許せる数少ない人間であると、自負してもいる。

 身近にあればある者ほど傷付くことを恐れるキリアンにとって、レナートの安否はどれだけ心を掻き乱したことか。それでも、キリアンの立場はその弱さを見せずに振る舞うことを、彼に強要する。そして、キリアンも分かっているから平気で己を偽り、無理に無理を重ねるのだ。

 まだ二日、されど二日。

 それを思えば、レナートに対するイーリスの態度も納得できる。彼女もまた、キリアンの側近と言う立場から徒に主に心労をかけさせまいと、不安や疲労を表に出さないようにしているのだろう。そして、それが重傷のレナートに対して平時と変わらないどころか、いっそ素っ気ない態度となって現れているのだ。


「イーリス」


 レナートの呼び掛けに、イーリスは腕に抱いていたミリアムを解放することで応えた。


「はいはい。それじゃ、ミリアム。私はキリアンに知らせてくるから、少しの間レナートのことを頼めるかしら?」


 急に抱擁を解かれたミリアムはイーリスを見上げ、言われた言葉に目を丸くする。次いで、慌てたようにイーリスへと手を伸ばした。


「あのっ。イーリスさん、私っ」


 だが、ミリアムの行動は実を結ぶことはなかった。


「お願いね」


 ミリアムの伸ばした手はイーリスに届かず、イーリスは安堵を含んだ笑みと共に手を振ってレナート達に背を向けてしまう。そして、ミリアムがレナートのことを気遣いながらも椅子から腰を上げようとする間に、その姿は部屋から消えてしまった。


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