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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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黒雨の災禍・揺れる心

「その『声』に耳を貸すな、ミリアム――ッッ!!」


 私が姿なき声に名を尋ねかけた、瞬間。

 割り込んできた大音声が私の鼓膜を打ち据え、衝撃が体を突き抜けて私の体がびくりと震えた。


「――っ!」


 たちまち、姿なき声以外何も聞こえなかった私の耳に強く振り続ける雨音と雷鳴が、何も見えなくなっていた私の目に一人の騎士が救出される様子が、現実が飛び込んでくる。


「はっ……ひっ……」


 急激な変化に喉が引き攣り、上手く呼吸ができない。空気を求めて口を開くけれど、呼吸の仕方を忘れたように、どうすればいいのか分からなかった。


「落ち着け、ミリアム! 私を見ろ! 落ち着いて息を吐くんだ。焦らなくていい。私の合図に合わせて。ゆっくり……ゆっくりだ」


 キリアンが私を抱き締めて、呼吸の調子を取るように優しく背中を叩いてくれる。その間にも、救出された騎士は安全な場所へと運ばれ、救出に手を貸していた騎士達の多くは別の場所へと捜索に向かっていく。

 やがて、キリアンの合図に合わせて呼吸をする度に私の中に現実が実感としてはっきり戻ってきて、数多くの音、雨に打たれる冷たさ、キリアンの手の温かさ、全身の傷の痛み、眩暈がするほどの疲労感――五感が一斉に伝えてくる様々な情報に、今度は処理が追い付かずに気が遠くなりかける。

 そんな私の視界に、崩れた崖とは街道を挟んで反対側、下る斜面の方からひょこりと動く何かの姿が入り込んできた。


《……ミリ、アム。こっち。レナート、こっち》


 途切れ途切れの声と共に現れたのは、全身を泥に塗れさせたフィンだ。怪我をしているのか、足を引きずりながら懸命に街道へ登ってこようとする姿は、酷く痛々しい。


「フィ……ン」


 フィンの声が聞こえる度に蟀谷に刺すような痛みが走り、お陰で意識は無理矢理はっきりとしたけれど、今の私には名を口にするだけで精一杯だった。それでも、私をその腕に抱えているキリアンには十分に届くもので。

 私よりほんのわずかに遅れてフィンに気付いたキリアンが目を瞠り、すかさず騎士達に指示が飛ぶ。私の前を複数の騎士が横切り、フィンの元へと急ぐ姿が見えた。

 そこに、レナートがいる。

 理解した瞬間、私もまた力を振り絞ってキリアンの腕の中から身を乗り出していた。フィンへ向かって伸ばした腕が宙を掻き、危うく倒れそうになったところをキリアンが慌てて抱き留める。


「無茶だ、ミリアム!」

「いやっ」


 反射的に上げた声は、けれどすぐにキリアンにしっかりと抱き抱えられたことで驚きに代わった。緩慢な動きながらもキリアンを見上げれば、彼は私を安心させるように口の端にわずかに笑みを灯して、すぐに街道の下を鋭く見据える。


「大人しくしていろ」


 簡潔な一言に、私は今できる精一杯でキリアンの体にしがみ付いた。

 私を抱えて、キリアンが足場の悪い土砂を下り始める。その時になってようやく周囲の様子に目を向けた私は、土砂崩れを目の当たりにした時にはいなかった多くの動物が、そこかしこに疲弊した様子で座り込んでいる姿に気付いた。

 その数は、土砂崩れに巻き込まれてたまたまそこに現れたにしては異常な多さで。しかも、彼らは一様に泥にまみれ、小型の鳥などは座り込むと言うよりは倒れ込み、中には口から泥を吐きながら痙攣を起こしているものまでいる。

 そうかと思えば、私の前方を蹌踉(よろ)けながら騎士のあとを追い、驚く騎士達には全く構うことなく、残った力を振り絞るようにして土砂を掻く動きを見せる動物もいた。


「え……」


 目にした動物達の姿に酷く胸が痛むと同時に、私の背筋を冷たいものが流れ落ちる。

 彼らは立っているもやっとに見える状態なのに、決して土砂を掻くことを止めようとはしていないのだ。そして、明らかに土砂に埋もれた騎士を助けようとしている彼らの行動は、到底野生の動物のものではなかった。明らかに、そこには他者の意思が介在している。

 何故、どうして、何が、と瞬時に疑問が過る。

 ただ、私は既に疑問に対する答えを知っているような気もしていた。いや、確かに知っている。私は一度、それを目の当たりにしている。あの、礼拝堂前の広場で。

 それでも、知っていることをはっきり認めてしまうのが恐ろしくて、目の前の出来事を認めたくなくて、私は今見たものから目を逸らすように思考を放棄してしまっていた。それよりも今考えるべきはレナートの安否だと、必死に自分に言い聞かせながら。

 けれど、そうして救出作業をする騎士達の元へ到着した私を待っていたのは、私が求めて止まなかった金の髪を泥と血で汚し、瞼を閉ざしたままぴくりとも動かない、生気のない白い顔をしたレナートの姿だった。


 力なく投げ出された利き腕はおかしな方向に曲がり、髪を赤く染め上げる血は肌を流れ下って土砂に染み込んでいる。すぐそばの半分以上を土砂に埋もれさせた大岩には、そのレナートのものだろう血痕が、この雨にも流されずに残っていた。よく見れば出血は足からもあるようで、明らかに肌の色とは異なる鮮烈な色が、大きく破れた布地から覗いてもいる。

 それは、レナートの身に何が起こったのかを想像するには十分すぎる光景で。

 まるで、現実から目を逸らした私への罰とでも言うかのようなその有り様に、私の喉がひゅっとおかしな音を立てた。動物達の虚ろな目が私に向けられている気がして、顔が上げられない。

 キリアンが声を掛けても騎士に体を抱えられても無反応のレナートの姿に、私の脳裏を最悪の結果が過った。収まっていた動悸が再び激しさを見せ始め、呼吸が上手くできなくなり、体に震えが走る。手を伸ばせば触れられる距離にあるレナートに触れるのが、とてつもなく恐ろしいことのように思えた。フィンのお陰で微かに見えていた希望が、あっと言う間に足元から崩れて絶望に変わり、私を飲み込む。

 どうして真っ先にこちらに助けに向かわなかったのかと、多大な後悔が私を襲った。そうしていれば、レナートを救えたかもしれないのに。


 それとも。


 更に嫌な考えが浮かんで、私の心臓が軋む。

 それとも、まさかこれは。


(私、が……?)


 これは、私が引き起こしたことなのだろうか。私と言う呪いが、私とキリアンと周囲を巻き込んで、今度こそ恐れていたことを起こしてしまった結果なのだろうか。

 そうだとしたら、肝心のキリアンを殺し損ねて無関係のレナートを死なせ、呪いの張本人である私は軽傷で助かっているとは、なんと滑稽なことだろう。しかも、それでいて私は呪いの可能性を考えず、まるで見当違いの場所の土を必死に掘り返してレナートを助けようとしていたのだから、道化もいいところだ。いくら掘り返したところでそこにレナートはいないのだから、助けられる筈もないのに。本当に救いようがない。

 いや、そもそもこれが呪いであったなら、救いなんてなくて当然だろう。だって、呪いは不幸しか招かないのだから。


(……ああ。また、私は)


 こうして、人を死に追いやるのか。

 口の端が引き攣り、笑いたくもないのに、喉奥でくつりと音が弾けた。

 仮に、これが私の呪いが引き起こしたことでなかったのだとしても、他の騎士がどれだけ助かったところでレナートが生きていてくれなければ、私にとっては呪いと同じだ。

 胸が痛い。心が痛い。声が乾く。何もかもが手から零れ落ちて行く。これまで散々味わってきた虚しい思いがこれまで以上に重く濃く私に圧し掛かり、目に映る世界から色が失せる。暗く染まる。泥濘んだ地面の底から、何者かに手招きされる。


 こんなことなら、いっそここで――手招く者に誘われるままそんな考えまでもが浮かびかけたところで、思考を断ち切る乾いた音が弾けて私の手が誰かに強く掴まれた。

 その痛みは、一瞬で私を現実へと引き戻す。はっとして瞬けば世界に色が戻り、レナートの脇に膝を付いていたキリアンの紅の瞳が、正面から私を捉える姿が飛び込んできた。

 強い意思のこもった瞳が揺れる私の心を見透かし、私ではない別の何かをきつく睨み据える。

 そして、絶望を吹き払う強い一言が私へと放たれた。


「息はある」


 しっかりしろとキリアンの言葉が私の頬を叩いて、私は今一度瞬いた。


「……い、き?」

「そうだ。レナートは生きている」


 生きている。

 その言葉に、私は大きく目を見開いた。ゆるりとキリアンから視線を動かし、言葉の意味を噛み締めるように横たわるレナートを見つめる。その顔はいまだに白く、閉じた瞼はぴたりと接着されたように固い。到底、生きているようには見えなかった。

 けれど、呼吸すら忘れて見つめる私の前で、キリアンの言葉を証明するようにほんの一瞬、雨粒が触れた唇が、確かに動いた。


「……っ」


 生きている。

 キリアンからの一言が目の前のレナートの姿と共にゆっくりと私の中を巡って満たし、最後に胸にほとりと落ちて、視界が滲んだ。同時に私の全身から力が抜けて、体が傾ぐ。


「ミリアム!」


 慌てたキリアンの声が私を支えるのを感じたけれど、まともに反応はできなかった。束の間忘れていた激しい頭痛に全身の痛み、眩暈に多大な疲労感が安堵と共に一気に押し寄せ、今度こそあっと言う間に気が遠くなる。

 それでも私は最後の力を振り絞り、恐れることなくレナートに触れた。生きていることをこの手で確かめたくて。レナートの存在が消えないことを確かめたくて。呪いではなかったと思いたくて。


「レ、ナート……」


 薄れる意識と閉ざされる視界の中、私の冷えた手が確かな手の温もりを感じ取り、その胸元に弱々しく灯る生命の輝きを見て取った。そのことに喜びが溢れ、頬を一筋、温かなものが流れ落ちる。

 最後に、ほんの微かに私の手を握り返すレナートの手を感じながら、私は完全に意識を手放した。


 *


 体を支える腕に力なく倒れて瞳を閉ざしてしまったミリアムを抱き寄せ、その表情が柔らかいことを見て取って、キリアンは軽く息をついた。

 ミリアムから止めどなく溢れ出ていた力の奔流もどうにか止まり、キリアンはこれまでエイナーに幾度となくしてきたのと同様、外れてしまった掛け金をかけ直すようにミリアムへ己の力を行き渡らせて、力をミリアムの内へとしっかりと留めさせる。そうすれば、ミリアムの力の影響下にあった動物達が徐々に正気を取り戻す様子が見られた。それを目にして、今度は大きく安堵の息を吐く。

 まだ完全に気を抜ける状況ではないが、現状における最大の懸念であったレナートの生存は確認できた。他の者も大なり小なり怪我を負い、馬にも相当の被害は出ているが、報告では死者は一人もいないと言う。

 この結果が、暴走したミリアムの力によってもたらされたものであることを思えば素直に喜んでもいられないが、彼女が力を暴走させてまで救おうとした人命が救えたことは、よかったことと言えるだろう。勿論、そのミリアム自身もなんとか無事であることも。

 これでもし、一人でも失われた命があったとしたら――そこまで考えて、キリアンは眉間に力を入れた。


 思い出すのは、ミリアムが応えそうになった悍ましい声だ。

 あれの登場は、キリアンにとって実に予想外だった。いや、ミリアムにモルムによるまじないがかけられている現状を考えれば最悪の事態として想定してしかるべきで、事実、キリアンもわずかながら頭の片隅にあったことではあったのだ。だが、まさかあちらから直接ミリアムに接触を図ろうとしてくるとは思わなかった。

 死を祀る地底の神、モース。

 ここにきて新たな神までもが動きを見せるとは、二十五年前の決着を付けるだけの筈が、いよいよもって面倒事の気配が濃厚である。モースの介入が明らかとなった今、最早全てのことが終わるまでモルムの存在をミリアムに伏せておく、などと悠長なことを言っている場合ではないかもしれない。これ以上ミリアムに知らせぬまま事を進めれば、危ういのはキリアン達の方となってしまう可能性もあるのだ。


 考えなければならないことは、他にもある。今回の事態に際してのクルード、リーテ二神の動きだ。

 馬車が横転した時、明らかにキリアンではなくミリアムに対して言葉を告げたクルード。そして、力を暴走させ、危うくモースにその心を囚われるところだった娘の危機に、何らの反応も見せなかった女神リーテ。

 まるでミリアムの力を暴走させることが目的だったかのような二神の行動は、キリアンには理解し難い頭の痛い問題だった。


「……クルード。あなたは一体、何をお考えなのですか。私に、お心を明かしてはくださらないのですか?」


 縋るように問うても、キリアンの声が聞こえている筈のクルードからは沈黙しか返らない。キリアンに対して詫びる感情の気配すら、感じられなかった。


「くそ……っ」


 思わず悪態を漏らし、キリアンは雲に覆われた空を見上げた。

 いまだに雨は降り続いていたが、その勢いは先ほどまでの大雨が嘘のように弱く、雷鳴も名残を聞かせることなくすっかり消え去り、周囲は雨雲の向こうから太陽の存在を感じるほどに明るくなっている。

 ミリアムが気を失った途端に、この変化だ。本当に、神々の考えは人間如きには理解し難い。

 世の中には、神が人間に試練を与え、乗り越えられた人間に祝福を授けるなどと言う物語があると言うが、では、力を暴走させるほどに苦しみ悲しみ、必死に叫んだミリアムには、一体どんな祝福が授けられると言うのだろう。

 この状況がキリアンへ与えられたクルードからの試練だと言うのなら、乗り越えた先で、クルードがキリアンの苦悩への答えを示してくれるのだろうか。


 果たして、キリアンはこの先どう動くのが最善なのか。

 ため息と共に、苦悩に共鳴するようにキリアンの体の各部が痛みを訴える。感じる筈のないこの体の痛みも、試練の内だとでも言うのだろうか。


「……冗談ではない」


 キリアンは気持ちを切り替えるべく頭を振ると、ミリアムをそっと腕に抱え直した。そして、無事だったイーリスとトーラ、それにアシェルが、ミュルダール家や国境警備隊から救援の人員を連れて戻って来るまでに己のできることをやるべく、立ち上がった。


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