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黒竜住まう国の聖女~呪われ令嬢の終わりと始まり~  作者: 奏ミヤト
第五章 絡み合う思惑の果て
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仮初の伴侶

 あ、と思った時にはレナートが意外そうに瞬き、一拍、会話に間ができる。


「……ミリアムは、まだ食べていないのか?」

「え、と……はい」

「そうか」


 流石に誤魔化せないと私が素直に答えるや、軽い調子の相槌と共にレナートの手にあった皿が私へと戻された。

 反射的に受け取ってしまってから、レナートの行動の意味を測りかねた私は目を瞬く。美味しそうだと言ってくれたのだから食べたくないということではないのだろうけれど、レナートの為に取り分けたのに、それを食べないまま返されても困る。


「レナートさん?」

「作った本人が先に食べるべきだろう?」


 困惑する私とは対照的に、私と向かい合ったレナートは、笑顔で私に菓子を食べるよう勧めてきた。それを聞いて、私は更に困惑する。


「でも、これはレナートさん達に作ったものです。レナートさんに先に召し上がっていただかないと……」


 そう言いながら菓子の乗った皿をレナートへと今一度差し出すけれど、それは再び、やんわりとレナートの手によって押し戻されてしまった。


「ミリアムは、自分で作る前にこの菓子を食べたことは?」

「ありません」


 昨日は色々なことがあった結果遅い昼食だったこともあり、菓子と一緒にお茶を楽しむようなゆっくりとした時間は取れなかった。今日作った菓子のことを知ったのも、昼食後に誘われた時が初めてだ。

 よって、この菓子を食べたこともなければ、その味もまだ知らない。


「だったら、尚更ミリアムが先に食べるべきじゃないか」

「どうしてそうなるんですか? レナートさん達の労いの為のお菓子なんですから、レナートさんから先にどうぞ」

「俺は何度かこの菓子を食べたことがあるから、どんなものか知っているんだ。こいつは、絶対にミリアムの気に入る。だから、君が先に食べろ」


 通るようで通らない理屈を捏ねるレナートに対して、私はますます眉間に眉を寄せる。こうも頑なに私の菓子を最初に食べたくないと言われては、だんだん腹も立ってくると言うものだ。


「甘いものは疲労の回復にいいんです。この部屋に来た時、とてもお疲れのようだったレナートさんこそ、最初に食べるべきじゃないですか」

「いいや。ミリアムが作ったものなら、ミリアムが最初に食べる権利があるし、最初に食べるべきだ。それに、俺は言われるほど疲労を感じていない」

「疲れていなくても、お腹は空いてるんじゃないですか? レナートさんが先です」

「そこまで空腹でもない。先に食べるのはミリアムだ」


 私が皿を差し出せば、レナートの手の平がその皿を押し戻す。差し出しては押し戻され、押し戻されては差し出して。

 そんな応酬がしばらく続いたあと、ついには私とレナートのちょうど中間の位置で皿の押し合いが発生し、腹立ちを込めた私の瞳と、苛立ちの色をわずかに灯したレナートの意志の強い瞳との睨み合いに発展してしまう。

 初めは穏やかだった譲り合いも、それに伴って刺々しさが目立つようになっていた。


「レナートさんが先です」

「ミリアムだと言っているだろう」

「レナートさんです!」

「ミリアムだ」


 どうしても私が最初だと言って譲らないレナートに私はいよいよ我慢ならなくなって、渾身の力で皿を押すついでに、半眼でレナートに体ごと迫った。


「……レナートさん。そんなことを言って、本当は私が作ったものなんて食べたくないんじゃないですか?」

「馬鹿を言うな。そんなことあるわけがないだろう。ミリアムの手作りなら、何だって食べたいに決まっている」


 レナートもぐっと顔を寄せて来て、私達は皿そっちのけで近距離の睨み合いを続けた。


「だったらどうして先に食べてくれないんです! 私だってレナートさんに食べてもらいたくて、レナートさんのことを思って心を込めて作ったんですよ!」

「ミリアムのその気持ちは嬉しいが、それとこれとは話が別だ。さっきから俺が何度も説明しているだろう。それなのに……分からず屋だな、君は」

「分からず屋はそっちじゃないですか! 私だって何度も言ってます!」

「……んんっ!」


 段々と互いの口調が荒くなり、私が言い返した時だった。私達の間に、誰かのわざとらしい咳払いが割って入ったのは。

 そして、私達の言い合いが途切れたことで静かになった室内に、キリアンの呆れ声が静かに落ちた。


「二人でいちゃついているところ悪いが、私にはまだやることが残っていてな。この辺りで失礼させてもらうぞ」

「いちゃ……っ!?」

「は? 何を仰っているのです、殿下?」


 レナートと同時にテーブルを挟んだ向こうへ首を振れば、キリアンの切れ長の瞳が声音と同様に多大な呆れを持って私達に刺さる。


「たかが菓子をどちらが先に食べるかで延々揉めていると見せかけて惚気けておいて、いちゃついていないとは言わせんぞ。まったく……くだらん」

「どこがくだらないのでしょう? 大事なことですが」

「そうですよ、キリアン様。私達は真剣に話しているんです」


 キリアンに一蹴されて、私はレナートと共にすぐに反論に出た。けれどキリアンはこちらの言い分を聞くつもりはないらしく、私達へ向ける視線も依然としてうんざりとしたままだ。


「くだらんだろうが。どちらが先と揉めるくらいなら、二人で一緒に食べれば済む話だろう」


 ばっさりと言い切られ、私はレナートと顔を見合わせた。


「二人で」

「一緒に……」


 そして、互いの手で持つ皿へと揃って視線を落とす。

 皿にあるのは、当然ながら私が取り分けた菓子だ。切り分けられたその一切れは、やや縦長の四角い形をしている。

 これを、レナートと一緒に――


「……っ!」


 ばっと勢いよく顔を上げれば同じく顔を上げたレナートと目が合い、私達は同時に顔を赤らめてしまった。その反応はレナートも私と同じことを考えていたのだと示していて、恥ずかしさに益々顔に熱が集まる。

 そんな私達に、またもや呆れ切ったキリアンの声が届いた。


「待て待て待て。どうしてそこで二人揃って顔を赤らめる? 一体、何を考えた? ミリアムの作った菓子はまだ数あるだろうが。俺は、それを一切れずつ同時に食べれば済むと言っただけだぞ?」


 呆れの度合いを示すように一人称の変化したその言葉に、私ははっとした。すぐさま視線を向けたのはテーブルだ。隣ではレナートも同じように大皿へと顔を向けていて、思わず二人して言葉もなく菓子を凝視してしまった。そう言えば菓子はこれ一つだけではなかったと、今頃思い出したように。

 視線の先の菓子は、たった一切れで言い合っていたのが馬鹿らしいほどの数がある。そして、今もまだ蜂蜜を纏ってきらきらと美味しそうに輝いてもいる。その姿は、私達に食べられるのを今か今かと待ち構えているようでもあった。

 それなのに私達ときたら。

 たちまち今までのやり取りが恥ずかしくなって、私はその場で体を小さくした。この応接室に来てもう何度目か数えきれないくらい、またしても顔が熱い。

 これでは、確かにキリアンにくだらないと呆れられて当然だろう。


「お前達……くだらん言い合いを続ける必要は、もうないな?」

「……そう、だな」


 答えられない私の代わりにレナートが言葉少なに答え、キリアンの口から盛大なため息が漏れる。


「では、俺はもう行くぞ。お前達はしばらく二人きりにしてやるから、存分にいちゃついていろ」

「いや、それは……」

「いいんじゃない、その方が伴侶らしくて。砦の皆に疑いを持たれることもないわよ」


 キリアンに続いてイーリスにまで言われては、レナートもろくに言い返すこともできずに黙り込んでしまった。

 その隙にキリアンとイーリスは席を立ち、最後に、としっかり私達へと釘を刺す。


「レナート。伴侶の件は、お前が全責任を持つと言ったんだ。誤解のないようにしっかりミリアムに説明して、残り半日、彼女をこれ以上の面倒に巻き込むなよ」

「ミリアムも、おかしなことに巻き込まれたくなかったら、レナートの腕でも掴んで離れないようにしなさいね」


 二人の言い方は、結婚を控えた婚約者達にと言うより、子供とその保護者に言い聞かせているようだった。けれど、レナートが至極真面目な顔をキリアンに向けるものだから、私も神妙な顔でイーリスに対してしっかり頷く。

 そうして、またあとでとの言葉と共に二人が退室してしまうと、応接室に残される形となった私とレナートは、ソファに座ったままでしばし呆けた。

 一拍遅れて、キリアンに相談したいことがあると伝えそびれたことに気が付いたものの、今の私の頭の中は伴侶に関することで一杯で、そちらについてまであれこれと考えられそうになかった。それに、またあとでと言っていたことだし、今日中に伝える機会はありそうだ。

 ひとまず、応接室から出たらレナートから絶対に離れないようにしよう――私がそう強く心に誓ったところで、レナートから菓子を乗せた小皿を差し出された。


「……食べるか」

「……そう、ですね」


 いつの間にか新たに小皿に菓子を取り分けて手にしていたレナートと、私は自然と向かい合う。それから、何を言わずとも二人同時に菓子を手に取り、これまた同時に口へと入れた。

 最初に感じたのは、生地のさっくりとした軽い歯応え。続いて、蜂蜜の濃密な甘さと木の実の香ばしさ。そして、幾重にも重ねられた生地から最後にバターが染み出して、全ての味が口一杯に広がっていく。

 レナートの言った通り、それは私好みの甘さの実に顔の緩む味で。私が思わず頬に手を添えて幸せを噛みしめれば、レナートも嬉しそうに目を細め、私達は互いに菓子を頬張ったまま笑い合った。

 それからしばらくのレナートと二人で過ごした時間は、私が砦に来てから初めての、心安らぐひとときだった。


 *


 その日の夜。勘違い継続中の砦で盛大に催された宴を早々に切り上げた私とレナートは、フィンの背に跨って砦の外へと出掛けていた。


「あいつらの相手は、本当に疲れる……。君は平気か、ミリアム?」

「はい、レナートさんのお陰で、私は平気です。でも、本当に昼間のお話の通りになるなんて、少し驚きました」

「婚前の祝宴なんて、どうせ、あいつらが酒をたらふく飲む口実が欲しかっただけだろうがな」


 迷惑なことだ、とぼやくレナートに小さく笑い、私は昼間にレナートから様々に教えられた伴侶についてのことを思い出しながら、落としてしまわないよう両手でしっかりと抱えた籠に視線を落とした。これは、砦を出る前に寄った厨房で受け取った、宴を辞した私達二人の為の食事だ。

 今夜の晩餐は、レナートが言うように、勝手に私とレナートの婚前祝いの宴にされてしまったのだ。私が着せられた民族衣装もその為のものだったそうで、主役の正装だと言われて、レナートも宴前に私とは色違いの民族衣装を着せられてしまっている。その色は、豊穣への祈りを込めた緑だ。


 ちなみに、私の衣装の赤色は互いの絆や愛情、戦士キスタスから繋がる民族の血への敬意を表しているのだとか。

 余談だけれど、レナートが民族衣装を纏った姿を見て、私の衣装の色が金や黄、青でなくてよかったと、私が密かに安堵したのは言うまでもない。

 エリューガルではどうかは知らないけれど、アルグライスでは自分達が主役を務める華やかな場で相手の色を身に纏った正装をするのは、婚約者としての務めなのだ。

 もっとも、イーリスやアディーシャはしっかりレナートを揶揄っていたので、務めと言うほどではなくとも、相手の色を身に纏うことに関しては、ある程度似た認識があるのだろう。


 ともあれ、この婚前の祝宴では、主役の二人は出席者全員から祝いの言葉を貰ったあと、速やかに宴の場を辞すと言うのが作法となっている。場を辞した二人はその後、皆からの祝福を噛み締めながら二人きりで食事を楽しみ、互いの絆と愛を確かめ、深め合う。こうすることで、二人が確かに分かち難い間柄になったことを皆に知らしめるのだ。

 そう言うわけで、私達も作法に則って宴の場を出てきたのだけれど。


「私達、砦の外にまで出てしまってもよかったんでしょうか?」

「構わないさ。どのみち、あの騒ぎようじゃ部屋で落ち着いて食事なんてできる雰囲気じゃないだろう」

「それは……そうですね」


 戦士と言う特性なのか、はたまた酒の力なのか、砦の人々の騒ぐ声は大きい。盛大に祝うことが出席者に求められることでもあるらしいけれど、今夜は食堂ではなく大広間が会場になっていたし、玄関先の広場でも煌々と照る松明の明かりの元で、祝宴に便乗して多くの兵士が酒を酌み交わして騒いでいた。

 そんな状態では、砦に宛がわれた部屋でゆっくりと過ごすことはなかなか難しい。かと言って、喧騒を避ける為に砦から出てしまうと言うのも、夜は危険が多くあまり推奨されることではないのだけれど。

 現在、砦の裏門を抜けて川伝いに川下へ向かってフィンが進む先は、街中とも外れた方向だ。静けさを求めるのならば、川のせせらぎと澄んだ虫の音が時折聞こえるだけの、今この場でも十分のように思う。

 レナートはどこまで行くつもりなのだろうか。そう思って、片手で私を支えつつ片手でフィンの手綱を握るレナートを振り返れば、小さなランタンの明かりに照らされた、微笑むレナートの顔が見えた。


「それに……ミリアムに見せたいものがあるんだ」

「この先に、何かあるんですか?」

《それは行ってのお楽しみだよー。それまでは内緒!》


 フィンからも弾む声でそう言われ、私はたちまち夜の危険を不安に思うよりも期待に胸を膨らませて、前を向く。

 やがて、のんびりと夜道を進むフィンの足が止まったのは、疎らに木立が生える場所――森の入口だった。


《到着ー!》

「ここ……ですか?」

「正確にはこの先だな。ここからは歩くんだ」


 そんな言葉と共にフィンから降ろされた私は、今度はレナートにしっかりと手を握られた。彼のもう片手にはランタンが、腕には今まで私が抱えていた籠を下げる。


「足元に気を付けて」

《僕はここで留守番してるから、ごゆっくりー》


 いってらっしゃいとばかりにご機嫌に尾を振るフィンに見送られながら、ランタンの明かりとレナートに引かれる手を頼りに、私は森の中へと足を踏み入れた。

 疎らな木々の合間を、それとなく作られた道に沿って歩くこと少し。私達は、森の中の少し開けた場所に出た。

 人が憩う為の場になっているのだろう。王家の森のようなベンチこそないものの、そこかしこに横たえられた丸太や岩が点在しているのが、ランタンの灯りに浮かんで見えた。

 その時、私の視界の端を、小さな光のような何かが横切った。それはふわりと空中を移動しては失せ、失せたかと思うとまた別の場所にふわりと出現して、可憐に宙を舞う。


「わぁ……っ」


 光を追って顔を上げれば更に一つ二つと目にする光が増え、よくよく見ればあちらこちらに宙を泳ぐ光が存在ことに、私は思わず声を上げてしまう。レナートがランタンを丸太の陰に隠してしまうとその姿はいよいよ鮮明になり、森の中を舞い踊る美しい光に、私はしばし見とれて立ち尽くした。

 音もなく光の軌跡を宙に描き続けるのは、蛍だ。これまでの人生で何度となく見かけたことはあるけれど、今生では初めてのこと。それに、舞う蛍達を見て素直に感動したのも、これまで繰り返し生きてきて初めてのことだった。

 蛍とはこんなにも美しい存在だったのかと、改めてその美しさを噛み締めると共に、こんな光景にすら心を動かされなくなるほど、ただ一つのことだけに必死になって心を擦り減らす生き方を繰り返してきたことを思うと、私はどれだけ損をして生きてきたのだろうと考えずにはいられない。

 丸太に腰掛けてもなお飽きることなく私が蛍を眺め続けていると、笑いを含んだレナートの柔らかな声が私の耳を優しく擽った。


「気に入ってもらえたか?」

「はい、それはもう。私、こんなにたくさんの蛍を間近で見たのは初めてです。こんなに綺麗なんですね」


 私が蛍を驚かせないよう声を潜めながらも興奮気味に伝えれば、レナートも嬉しそうに笑みを深める。


「時期としては終わりかけで、実は少し心配していたんだが……間に合ってよかったよ」

「連れて来てくださってありがとうございます、レナートさん」

「ああ。どういたしまして」


 それからしばらくの間、私とレナートは蛍の舞う姿を眺めながら料理を味わい、他愛のない話に花を咲かせた。昼間にも随分話したのに次から次へとそれぞれに話題は湧いて、不思議と話が尽きることはなかった。

 その内に祝宴の場でも度々尋ねられた愛称へと話題が移り、残りの砦滞在期間は明日の午前中だけとは言え念には念を入れておくべきかと、皆の前で口に出すかは別にして、それぞれの愛称を考える方向へと話が向かう。

 キスタス人が聞けば大切な愛称を軽々しく扱うなと怒られそうだけれど、レナートはともかく私はキスタス人ではないので、愛称を考えるのに真剣さは多少あっても深刻さはない。


「俺がほんの小さな頃は、使用人に時折『レティ』なんて呼ばれてはいたが、アレックスがいい顔をしなかったらしくて、すぐに誰も呼ばなくなったっけな」


 だからと言って、ならば昔のようにレティを愛称にと言うのはレナートには気恥しいようで、渋面がランタンの光に照らされた。


「私は……お母様以外にまともに私の名を呼んでくれる人もいませんでしたから、愛称で呼ばれたことはないんですよね」


 他の人生では「ミリィ」との愛称で呼ばれることが一般的だったけれど、私もレナートと理由は違えど、幼少の頃のほんの一時しか呼ばれたことはない。

 愛称とは名の通り、親しみを込めて相手を呼ぶ為に用いられるものだ。頭がおかしくなってしまった娘に対して、いつまでも親しみを込めて愛称を呼んでくれる親兄弟などいやしない。

 私とレナートは互いに困ったと顔を見合わせ、同時に唸った。


「そう言えば、レナートさんはキスタス人としての名はお持ちではないんですか?」


 オスタルグで暮らすキスタス人の中には、エリューガルの民と婚姻関係を結び、子を成している人も多い。そして、子にはキスタス人とエリューガルの民とそれぞれの名を付けているそうなのだ。


「アレックスが付けてくれた名があるにはあるが、普段から名乗っているわけじゃないからな……」

「いいんじゃないですか? 念の為の愛称なんですし」


 互いに決めた愛称がある、と言う事実さえ作ってしまえば、敢えて口に出さずとも嘘をつくことはなくなる。普段名乗らない名から愛称を付けても、支障はない筈だ。

 加えてとても個人的なことを言えば、私が単純にレナートのもう一つの名を知りたかった。

 そんな気持ちを隠してレナートを伺えば、それもそうかと存外軽い頷きが返り、私はレナートからもう一つの名を教えられた。


「ディルファ。これが、アレックスから貰った俺の名だ」


 それは、レナートに似合いの、実に力強くしなやかな戦士の名だった。

 レナート・ディルファ――ただ一つの、騎士と戦士の名。その名を親しみを込めて呼ぶとしたら、どんな名がいいだろう。

 教えてもらった名を口の中で転がしながら、私はふと何かに導かれるように、その音に辿り着いた。まるでそう呼ぶのが相応しいと思える響きを持った、たった一つの愛称。


「……『レファ』は、いかがですか?」

「レファ?」

「名の最初と最後から、一文字ずつ取ったんです。どちらも、レナートさんにはとても似合いの素敵な名だと思ったので」

「レファ、か……」


 レナートが、わずかばかり考えるように瞳を伏せる。それから顔を上げ、酷く満足そうに私に向かって微笑んだ。


「いい名だと思う。ミリアムになら、俺はそう呼ばれたい」


 ランタンに照らされた笑みは、伴侶ではないと知られない為に一時的に名付けるだけのものを決めたとは思えないほどに眩しかった。呼ばれたいと言う柔らかな声が発した言葉も、私には何故か呼んでほしいと耳元で囁かれたように感じて、心臓の鼓動が早まる。

 互いに近距離で見つめ合っていることにも恥ずかしさが遅れてやって来る中で、私はレナートの懇願に応えるように、今しがた自分で決めた愛称をそっと舌に乗せた。


「レファ」


 途端にレナートの瞳が喜びに細められ、そっと伸びた手に頬を優しく撫でられる。同時に、レナートの口からも私であって私ではない新しい名が紡がれた。


「――『ミア』」


 これまでに呼ばれた記憶のない音の響きに、私の体温が一気に上がる。


「……俺は、君をそう呼びたい」


 呼んでもいいだろうか。そう呼ばせてほしい――一言の中に込められたレナートの希う声に私の胸の奥から柔らかな何かがたちまち膨れ上がって弾け、気付けば私は頬に触れたままのレナートの手に、自分の手を添わせていた。

 そして、私を見つめるレナートを見つめ返して、私も頬を緩ませる。


「勿論です。……レファ」

「……ありがとう、ミア」


 レナートからのそんなたった一言にすら不思議なほど気持ちが満たされて、その充足感に浸っていたくて、私は静かに両の瞳を閉じた。

 涼やかな虫の音が耳を掠め、レナートの動く微かな気配と共に、無防備な片頬に吐息を感じる。けれど、この時の私は自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、レナートの優しい口付けを受け入れていた。


 次に目を開けた時、触れるほどの距離にあるレナートの顔に我に返り、静かな夜の森に奇声を響かせることになるなんて、欠片も思いもしないまま――


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