予兆
王都の西の外れ。川に架かる橋の向こうには、建物が山の斜面に建ち並ぶ地区がある。昼間は静まり返り、夜には一晩中明かりが煌々と灯る――所謂、夜の街だ。その性質上、訳ありの者が逃げ込む場ともなっており、王都の中では治安が悪く、子供は絶対に近付いてはならない場所としても有名だった。
それもあって、ここは地区独自の自治を行うことを唯一許されており、王都警備兵団とは別に自警団が組織されて治安に当たっていると言う、特異な場所でもあった。
そんな夜の街の片隅の酒場に、その男はいた。
己の姿を隠すように薄汚れた外套を羽織り、薄暗い店内で注文した酒を次々と胃に流し込みながら、男は酷く苛立っていた。
思い出すのは、己に降りかかった不幸の数々だ。
始まりは十九の時。父が母を殺した。
酒浸りの父がその日も泥酔して帰宅したことを母が咎めた――たったそれだけのことで、父は母を酒瓶で殴り付けたのだ。父の気が済むまで、何度も何度も。
男が連絡を受けて帰宅した時には既に母は血に塗れて事切れ、父はいつもより強く酒の臭いを纏わり付かせて呆然と床に座り込んでいた。年の離れた弟妹は、帰って来た男にしがみ付いて大声で泣いた。
その光景を目にした瞬間、役に立たない父の代わりに家族を養うのだと、懸命に兵士として働いてきた男の五年間が途端に虚しく色褪せた。そして、これまで充実していたのが嘘のように、兵士として働く日々が単なる作業に思えて身が入らなくなった。
一瞬にして色褪せた日々は、それから次々に男から様々なものを奪っていった。
いつか一緒になる日を夢見ていた恋人は、初めの内こそ心配して弟妹の世話をしてくれていたのに徐々に疎遠になり、気付いた時には別の男と寄り添って街を歩いていた。
非常に同情的で親切にしてくれていた近所の人々も、いつの間にか、何故か男を遠巻きにし始めた。
ついには弟妹までもが、男が帰宅すると顔を曇らせるようになった。
男には意味が分からなかった。
たとえ単なる作業となったとしても、男は残された弟妹の為に、心を擦り減らしながらも日々兵士として懸命に民に尽くしているのに。
笑いたくもないのに愛想笑いを浮かべ、はしゃぎたくもないのに仲間内で騒ぎ、子供達の憧れる兵士を演じて、金を得る――毎日それらを必死にこなす男に対して、弟妹のそれはあまりに心ない仕打ちではないか。
男は悩み、頭を抱えた。
その頃からだ。男に対して、しきりに同じ言葉が掛けられていることに気付いたのは。
「飲み過ぎるな」
男が唯一、日頃の悩みと苦しみから解放されている時に限って、何故か周囲は男にそんな言葉を投げ掛けるのだ。
男は苛立った。
その言葉は、男や母が父に対して散々言ってきた言葉で、男に対して使われる言葉ではなかったのだから。
だから、男は何度も、己は言われるようなことはしていないと反論した。それなのに周囲は聞く耳を持たず、男が言い返せば言い返した分だけ、男の言葉を否定した。そして、男を更に苛立たせた。
いい気分の時に限って、男を苛立たせる言葉が飛んでくる。
それはまるで、呪いだった。あの日、母を殺した父が男に対して放った罵詈雑言が力を得て、男の人生から幸福を奪おうとしているかのようだった。
そうして男に決定的な不幸が訪れたのは、一番上の弟が成人した年だった。
深夜、男がくたくたになって帰宅すると、書き置き一枚を残して弟妹が姿を消していたのだ。書き置きには、これまで育ててくれたことに対する一応の感謝の言葉と、これ以上世話にならない為に家を出ると言う内容が、短い文章で綴られていた。
恩を仇で返すような弟妹からの仕打ちに、男は苛立ちが爆発した。深夜と言うことも忘れて感情のままに吠え、家の中で暴れに暴れ、気付いた時には兵団の留置場に転がっていた。
そこからは、正に坂を転がるようだった。
五日の謹慎を言い渡されたのち職場に復帰はしたものの、兵士としての職務も放って、男は消えた弟妹を血眼になって探した。誰かに止められたような気もするが、覚えていない。とにかく男は必死だった。
そして、必死に探し続けて七日目のこと。男は、とうとう弟を見つける。弟は、弟と同じ年頃の若い娘と一緒だった。二人は幸せそうに寄り添っていた。その姿を目にした瞬間、男の中に得も言われぬ激しい怒りが沸いてきた。怒りは簡単に男を暴力的にさせ、男は我を忘れて弟に飛び掛かる。
男が覚えているのはそこまでだった。次に目を開いた時、男は再び兵団の留置場にいた。だが、そこから再び男が自由を手にすることはなかった。弟を半死半生の目に遭わせた男は犯罪者として捕まり裁かれ、三年間の強制労働の刑に処されたのだ。
屈辱だった。あまりに不幸だった。
悪いのは己ではなく己をこうした周囲にあるのに、何故己がこんな目に遭わねばならないのかと、男は日々を呪いながら過ごした。
男がようやく労働から解放されたのは、一月ほど前のこと。だが、これで自由の身になったと思ったのも束の間、三年振りに戻って来た王都は男を拒絶した。
男が住んでいた家はなく、弟妹の姿は探せず母の墓もどこかへ移され、兵団の門を叩いても歓迎されない。挙句の果てに、ほんの少し言い合いになっただけで門前に放られた己の姿を笑われる始末だ。
特に腹立たしかったのが、不幸など何も知らないとばかりの、誰より身なりのよかった子供だ。男が目指して届かなかった騎士の腕に抱かれて己を見下し、無様とばかりに吹き出した。
「あの小娘……っ!」
子供の為に誂えられた上等な服。汚れ一つなく磨かれた靴。丁寧に梳られた鮮やかな緑髪に、労働の苦労も知らない細く白い手足。
いかにも良家の生まれと言った姿の子供の全てが、大いに男の癪に障った。
数日前の出来事を思い出した瞬間に苛立ちが噴出し、空になったグラスをテーブルに叩き付ける。その音に隣のテーブルにいた客がわずかに振り返り、男はばつが悪くなって身を縮めた。
この場で問題を起こすことは、さしもの男でもよくないことは理解している。
男は気を取り直すように酒瓶を傾け、嫌なことを忘れるべくグラスに注いだ。だが、出て来たのはほんのわずか。男の不幸を嘲笑うように、どれだけ振っても、もう一滴も酒はグラスに注がれなかった。
なけなしの金をはたいて買った酒は、もう終いと言うことらしい。こんなことなら、もっと味わってゆっくり飲んでおくのだった。
「ちっ」
男は、とことんまでついていない己に酷く苛立つ。父が母を殺した日から、まるで世界がすっかり変わってしまったかのようだ。男を不幸から救ってくれるものなど、最早この世にはないのだろうとさえ思ってしまう。
深々と息を吐き、男はせめてと、グラスに入ったほんのわずかの酒を煽った――そこに、声が掛かる。
「随分と荒れてるねぇ、兄さん」
男が視線を動かせば、その声の主は先ほど男を振り返った客だった。
男同様、顔を隠すように頭から白布を被った客は、薄暗い照明の中で黒に見えるほどに濃い黒茶の髪に浅黒い肌も相まって、異国の者だとすぐに分かった。
年齢は男よりも上だろう。上背もあるその異国人はほっそりして見える割に体格はよく、こんな場所で一人で酒を飲んでいるより、娼館で女を抱いている方がよほど似合いに思えた。
髪と同色の切れ長の瞳が楽しそうに男を見やり、男の空のグラスに並々と酒を注ぐ。
「何があったか知らないが、酒は楽しく飲んでこそ。兄さんさえよければ、僕が話し相手になってもいい。見ず知らずの相手なら、兄さんだって気兼ねしないだろう?」
この日の出会いに感謝をと呟いて、異国人は男が何か反応するより先に男のグラスに自分のグラスを軽く合わせて、一気に飲み干す。
男は呆気に取られて異国人を見やり、相手の視線に誘われるように、男自身もグラスの酒を飲み干した。男が飲んでいたのとはまた別の強い酒精が喉を焼く感覚に、あっと言う間に男の中の苛立ちが溶けていく。体が軽くふわりと浮いて、たちまち夢見心地に包まれる。不幸の中にあっても男をいつも悩みと苦しみから解放してくれた、あの感覚がよみがえる。
そんな男の耳元に、異国人がそっと囁いた。
「……それで? 兄さんを笑ったって言う緑髪の子供のこと――もっと詳しく聞かせておくれよ」
その言葉に、男は一瞬、己はうっかり口に出していただろうかと首を傾げた。だが、深く考える前に再び空のグラスに酒を注がれ、肩を抱かれて「さあ飲んで」と声を掛けられて、過った疑問はあっさり酒精に溶け消える。
一杯、二杯と酒を煽る男のことを異国人が意味ありげに見つめていることにも気付かないまま、男はただただ相手に問われるままに口を開いたのだった。
己の不幸な生い立ちと、全てに対する恨み辛みと、ここ最近で最も男を惨めにさせた子供のことを。
◇
「レイラ、行くよ!」
《――ええ!》
返事を合図にレイラの腹を強く蹴り付け、私とレイラは急峻な斜面に向かって駆け出した。
手綱でレイラに合図を送れば、四肢が力強く大地を蹴って跳び上がり、斜面の下段に前足が楔のように接地する。そこから間を置かず斜面を一気に駆け上がるレイラの動きに、私の体が大きく揺れた。けれど、鐙に力を入れて踏ん張り鞍の上で重心を意識していれば、もう湖の時のように振り落とされることはない。
順調に斜面を登り、最後に突き出た岩を蹴り付けて二階建ての建物ほどの高さの斜面をレイラが登り切れば、ぐんと高くなった視界が私達の前に開けた。
やり切ったとばかりにレイラが頭を振って軽く嘶き、私もほっと息をつく。斜面の下では、レナートがフィンと並んでこちらを見ていた。そのレナートと目が合えば、よくやったと笑顔で手を振ってくれる。そのことに、私の顔にも笑みが灯った。
肩の力を抜いてレイラを撫で、やったねと声を掛ける。
「登り切れたね、レイラ!」
《練習してきたのだから、当然のことよ》
素直に喜びを表さずにつんと澄まして答えるレイラに苦笑して、私は次に斜面を下るべく手綱を握り直した。
*
聖花祭の旅行から、しばらく。エリューガルは西から吹く風によって、暑い季節を迎えていた。力強い陽光の下で、若葉の時とは違うはっきりと濃い緑が山々を彩り、くっきりとした青空に白い雲が映える。水はいつも以上に煌めいて流れ、木陰も地面に濃い影を落としては、人々に涼を運ぶ。
汗ばむ陽気が続く日々ではあるけれど、初めてアルグライス以外で過ごす新たな季節は私にとっては新鮮で、毎日が楽しくて仕方がない。
そんな私の暮らしは、驚くほど平穏だ。
ラッセに勉強を教わり、城の図書館に通い、城内の訓練場でレイラと乗馬訓練をし、時間が合えばエイナー達と過ごす。時には、勉強の延長として商会で仕事の手伝いをすることも、アレクシアの許しを得てジェニスの店で短時間だけ働かせてもらうこともあった。
また、私から令嬢らしい振る舞いを学びたいライサがフェルディーン家を訪問することも増え、その時には、私もライサから護身の為の体の動かし方や剣の扱い方を学ばせてもらっている。ライサとは一緒に街へ遊びに出掛ける頻度も増し、その多さには、エイナーが頬を膨らませて拗ねることもあるくらいだ。
そして、そうやって街へ出るようになったお陰か、城は元より街でも随分と顔馴染みの人が増え、私自身、もうすっかり王都の暮らしに馴染んだように思う。
それもこれも、心のままに行動せよとの、あの日リーテに言われた言葉があればこそだろう。この行動が正しいかは分からないけれど、自分がやりたいと思ったことは、とにかくやってみることにしたのだ。私が望みを口にすればアレクシア達も喜んだし、経験をすることはいいことだと、よほどのことがなければ快く許可もしてくれた。
時折、レナートだけは不服そうに眉を寄せることがあったけれど、そう言う時は大抵アレクシアが私の味方になってくれるので、今のところ反対されたことは一度もない。
そのレナートも、旅行から時間が経つほどに、その過保護振りは落ち着いていった。恐らく、長期休暇明けからは専ら城で過ごし、屋敷に帰って来るのは休日だけと言う生活に戻ったことが、レナートに冷静さを取り戻させたのだろう。
今日のように城での乗馬訓練には必ず付き添ったり、屋敷に帰ると何かと私と過ごしたがりはするものの、私が大袈裟だと感じるような心配をするようなことはなくなり、オーレンに揶揄われることもずっと減った。
そんな日々の中、私にとって明確に変化したことが、一つだけある。
「目標達成できたな、ミリアム」
「はい!」
登った時同様、慎重にしながらも恐れることなく斜面を下って戻って来た私を、レナートが笑顔で出迎えてくれる。フィンも嬉しそうに寄って来て、やったねと私達に向かって声を掛けてくれた。
《レナートってば、下り終えるまでずっとはらはらしてたんだよ。僕、見てた》
《失礼だわ。私、もう失敗しないのに》
《ははっ。レナートがレイラのこと心配すると思うの?》
《余計に失礼だわ!》
「レイラ、落ち着いて」
私がその背から下りた途端、むすっとした顔でフィンを押しやるレイラを宥めながら、私は眉尻を下げる。
「また喧嘩か?」
「いえ、そうではないんですけど……」
「動物の声が聞けるのも、大変だな」
レナートから差し出された水の入った革袋を受け取って、私は困ったように小さく笑った。
そう。私にもようやく、女神から授かった力が発現したのだ。
そのことに気付いたのは、旅行から帰ってすぐ。城の厩舎で過ごしていたレイラを迎えに行った時だった。
《おかえりなさい、ミリアム。旅行は楽しかった?》
馬房から顔を覗かせたレイラから、これまではその時に最も強い感情を片言でしか聞くことが叶わなかった彼女の声が、まるで人と会話するようにはっきりと聞こえたのだ。
あまりの驚きで目と口をこれでもかと開き、レイラ達にと買ってきた土産の入った袋を取り落として、その場にいた人も馬も心配させたのは記憶に新しい。
何故こんなにも突然、と疑問も過ったけれど、恐らくアーデの泉でリーテからいただいた祝福が、ほんのわずか芽を出していた私の能力を明確に発現させてくれたのだろう。むしろ、そうとしか考えられない。せめて一言言ってくれればと、その瞬間だけはリーテに対して恨めしい思いが過ったものだ。
ちなみにこの力、動物との意思疎通ができるとは言っても、発現したばかりの私ではどんな動物相手でも、とはいかない。今のところ人と変わりなく会話ができるのは、元々人語を解するグーラ種くらいだ。
その中でも力を意識せず言葉を交わせるのは、私と過ごす時間が圧倒的に多いレイラとフィン。その他のグーラ種相手では、力の行使を意識しなければ上手く会話ができない。まだまだ力の使い方が未熟な私では、私と接する時間の長さや私との親しさが意思疎通のし易さに影響しているようだ。
試しにラーシュの馬との意思疎通を試みたけれど、相手からは片言の言葉しか聞けず、私の言葉も上手く相手に理解してもらえなかった。
それでも、現在の私にとっては十分すぎる力である。
とは言え、この先のことを考えれば現状で満足してはいられない。もう少し、どんな動物とも意思疎通ができるよう訓練すべきなのだろう。
だから、最近は手当たり次第に目が合った動物に声を掛けるようにしているのだけれど、これがなかなか難しい。ジェニスの店の近くに住み付いている野良猫とは、構ってあげている内に懐かれて、目が合う度に〝メシ、ヨコセ〟だとか〝ナデロ〟と言った言葉が聞こえるようになったけれど、私が求めている結果とは少し違うので、あまり素直に喜べない。
革袋を傾けて喉を潤し、人間そっちのけで二頭で話し始めたレイラ達を横目に見て、私は小さく息を吐いた。
「今日はこのあと、どうするんだ?」
レナートに礼を言って革袋を返せば、受け取ると同時にそんな言葉が返ってきて、私は少し考える。
今日の訓練の予定としては、今日の時間一杯を使って斜面の上まで登り切れるようになるつもりだったので、早い段階であっさりとそれが達成できてしまって、まさか時間が余ることを考えていなかった。
「そうですね……。レイラがよければ、もう何度か登ってみようと思います」
せっかくの時間を、有効活用しない手はない。グーラ種の為に訓練場に作られた斜面は一つだけではないし、成功した感覚を忘れない内に、できることはやっておきたいと思う。
そうすれば、この先の予定も早くこなしていけるだろう。
「ミリアムは熱心だな」
そう褒めてくれるレナートは、けれどその表情にはどうにも浮かない色が現れていた。
これまでのような、過保護故の危険な行為や怪我を心配すると言うよりは、微かに不安のようなものが見え隠れして、私は首を傾げる。
「レナートさん、どうかしましたか?」
「ああ、いや」
「私、無茶はしていませんよ?」
ちゃんと事前に相談しているし、レナートの指示にも従っている。危険だと言われたことはやらないし、助言に素直に耳を傾けることも忘れていない。
勿論、これは乗馬に限った話ではなく、どんなことをやるにも無茶と思われることはしないよう、相談して許可を貰ってと日々気を付けているのだ。それなのに、レナートは一体何がそんなに気にかかっていると言うのだろう。
少しばかり心外だと私が頬を膨らませれば、レナートは小さく吹き出して、そうではないと謝罪を込めて私の頭を撫でてきた。
「ミリアムが無茶をしないよう気を付けていることは分かっているさ。俺はただ、君がここまでする必要があるのかと思っただけなんだ」
いくらグーラ種を贈られたからと言って、必ずしも崖登りができるよう訓練する必要はない。特に私は兵士でも騎士でもないのだから、普段の生活で馬を利用する際の必要最低限が過不足なくできれば、それで十分である。
レイラ自身もあまり荒事には向かない性格の馬なのだから、敢えて危険なことをさせることもない。
「それなのに、揃って普通以上のことをこなそうとしているだろう? 無茶をしているわけではないにしても……時々、焦って無理をしているように見えてしまうんだ」
「無理、ですか?」
思ってもいなかったレナートからの言葉に、私は驚きで目を丸くした。
けれど、言われて最近のことを振り返ると、やりたいと思ってやれなかったことに挑戦できる環境にいることが嬉しくて、ついつい、あれもこれもと手を出してしまっている気はする。心のままに行動せよ、と言うリーテの言葉も一因だろう。
私自身にはそんなつもりはないけれど、傍から見れば、色々なことを一度に詰め込んでいるように見えても仕方がないのかもしれない。
レイラとの乗馬に関して言えば、私だけでなくレイラ自身も望んだことなので、余計にそう映るのだろう。レイラにとって、あの日気付かないままに私を背から振り落としてしまった出来事は、それだけ衝撃的なものだったのだ。
お陰で、私が旅行から帰ってからと言うものレイラは私を積極的に訓練に誘い、あれだけ毛嫌いしていたレナートに対しても、あからさまに嫌う素振りを見せることはなくなった。それどころか自らレナートに手綱を握らせて走り、いざと言う時に冷静に対処できるよう、また、未熟な私を助けられるようレナートに指示を仰ぐほどの変わり様だ。
これには、レナートも信じられないとばかりに目を見開いて驚いていた。
もっとも、レイラは訓練以外でレナートと馴れ合う気はないようで、訓練が終わればあっと言う間につれない態度に戻ってしまうのだけれど。
そんなところも含めて、レナートには私達が無理をしているように映っているのかもしれない。
「俺の思い過ごしなら、それでいいんだ。実際、ミリアムは何をやるにもいつも楽しそうにしているし」
そう言って笑ったレナートに笑い掛けようとして、その後ろから見知った人がこちらへ向かって歩いて来るのに気付いて、私は目を瞬かせた。私の視線に気付いて微笑むのは、この国唯一の色彩を持つ人――キリアンだ。
キリアンは両脇にイーリスではない騎士を連れ、更には中年の神官を一人伴い、真っ直ぐに私達を目指してやって来る。レナートも言葉の途切れた私が見る先に気付いて背後を振り返り、それから意外そうな顔をした。
「訓練中に突然すまないな、ミリアム」
やって来たキリアンは、レナートではなく真っ先に私に声を掛けてくる。神官を伴っていたので予想はしていたものの、どうやらキリアンが用のあるのは私らしい。
けれど、マーリットとは館で会ったきりだし、神殿の方からも何の接触もない。一体どうしたのだろうと不思議に思う私の隣では、レナートが真剣みを帯びた表情へと切り替えて背筋を伸ばしていた。
「殿下がわざわざいらっしゃるなど……何かあったのですか?」
暗に、王子自ら出向くのではなくこちらを呼びつけるべきだろうと主を咎める声音に、キリアンはわずかに苦笑する。
「そう睨むな。彼は城の神官とは折り合いが悪くてな」
私達へ向かって目礼をする神官を指し、キリアンは面倒を避ける為に足を運んだのだと軽い調子で言う。けれどその一言は、私に嫌な予感を覚えさせるのには十分だった。レナートも、リーテ派の神官が私に用があると知り、心なしか表情を厳しくする。
その中で神官が一人、私の前へと進み出て深々と頭を垂れた。
「我らが女神リーテの愛し子、ミリアム様。どうか、我々にあなた様のお力をお貸しください――!」