女神との邂逅
それは、眩しさに目が眩むのによく似ていた。けれど、反射的に瞑ってしまった目を開いて私が見た世界は、寸前とはまるで様相を異にしていた。
私が介助していたマーリットも、その後ろに付いていたライサの姿も消え失せ、そこにいるのは私一人。風に木々が葉を揺らす様は見えても風を感じず、葉擦れの音もしない。滾々と水を湧かせては小川へ流れる泉も、突然のことに戸惑って一歩後退った私の足も、何の音も生み出さない。
現実であって、現実ではない。左右反転こそしていないものの、さながら鏡の中の世界にでも入り込んだような不思議な光景が、私の目の前に広がっていた。
(一体、何が……?)
周囲を見回しながら、私は素早く直前の出来事を思い返す。
マーリットに対して全く答えられない私を、恋の願いが叶うそうなのよと突然話題を変えてマーリットが泉へと引っ張って行き、せっかくなのだから私もライサも何かお願いしてみたらとアーデの小像の前に立たされた。
(……大丈夫、ちゃんと覚えてる)
アーデの小像も、その前に広がる泉の水面が光を湛えていた様子も、はっきりと思い出せる。そして、私がその光景から目を逸らしたのはほんのわずか。眩しさに目を瞑った一瞬だけだ。けれど、そのたった一瞬で世界が変わった。信じられないけれど、現実だ。
無音の世界を眺めて改めて夢などではないことを確認し、再度正面の泉へと視線を戻して――
「――っ!」
私は、驚きに目を瞠った。アーデ像のあった場所に、唐突に女性が存在していたのだ。
あまりのことに声すら出せない私の反応に相手は楽しそうに目を細め、柔らかな微笑みを浮かべる。
「久しいですね、我が娘よ」
森の澄んだ空気のような声が、女性の口から発せられた。
私のものとは比べ物にならない、およそ人間が持つとは思えない輝きを放つ鮮やかな緑色の長い髪。泉に向かって垂れるそれは次第に色を変化させ、泉に到達する頃にはすっかり水の色と同化して、どこまでが髪でどこからが泉の水なのか、まるで判然としない。
女性の両の瞳は、陽光に煌めいているとも月光に煌めいているとも取れる水面の輝きを写し取った色を湛えて、私を見つめている。
そして、その顔立ちは先刻までそこにあったアーデの小像と同じだった。
(アーデ・リーデ? ううん、違う。この人……この方は――)
私は、今度は信じられない思いで目を見開く。
「……女神、リーテ……?」
緊張か畏れか。私の出した声はからからに乾いて、か細くひび割れていた。それでも、この無音の世界では明確な音として相手に届いたのだろう。女性の微笑みが満足そうに深まり、相手は動いてもいなければ当然直接触れられてもいないのに、私の頬をその手が褒めるように優しく撫でたのが分かった。
それは私に祈願祭決勝での女神の存在を思い出させ、そして、唐突に理解する。
確かに今、私の目の前に顕現しているのは生命の泉の女神リーテなのだと。そして、本来無形の存在であるリーテが、人である私がその存在を知覚できるよう始まりの子アーデ・リーデの姿を模してこの場にいらっしゃるのだと。無音のこの世界は、リーテの力によって一時的に現実から切り離された、私とリーテの対面の為だけに用意された場なのだと。
まるで、生まれ落ちた瞬間から自然と呼吸をするように、誰に教わらずとも知っていたかのような感覚で、私は現状をすんなりと受け入れていた。
けれど、疑問は残る。何故、突然リーテは私の前に現れてくださったのだろう。
私は愛し子として、いまだろくに力を発現させられていない状態だ。当然、「水鏡に女神を見る方法」なんてものも知らないし、この泉でそれを試そうと思ったこともない。第一、いくら私がリーテの愛し子だとしても、神であるリーテがこんなにもあっさりと目の前に現れてくれるなんて、誰が考えるだろう。
それなのに、何故?
けれど、その答えを探そうとするより先に、私の思考が別の方向へと弾けた。
(――そうだ、呪い!)
一旦脇へと置いていたことが思い出されて、私ははっとする。
そもそも、この館を訪れ、一般人には制限されている館の内部へ立ち入りたいと思ったのも、その為。所蔵されている文献から、呪いを解く手掛かりを探したいと願ってのことだった。
(女神リーテなら、私の呪いを解く方法をご存知の筈!)
何と言っても、神なのだ。神々が持つ力があればこそ、人知の及ばぬことを成し、人々に祝福や加護を与え、時に呪いを与えて戒める。呪いを解くことだって、当然できるだろう。それならば、私の呪いだってリーテに願えばこの場で解いてくれるかもしれない。それでなくとも、解く為に必要なものを明示してくれるかもしれない。
こんな好機、恐らく二度はないだろう。
私は後退っていた足を一歩前へと踏み出し、リーテに向かって深々と膝を折った――いや、折ろうとした。
けれど、何故か体はぴくりとも動かなかった。
正面のリーテが慈愛のこもった眼差しで私を見つめたまま、そのようなことをする必要はないとでも言うように、彼女の見えない手で私の動きを押し止めていたのだ。
そして、アーデの似姿の方の手が私に向かって伸ばされ、胸元を指差す。
「我が娘よ、お聞きなさい」
言葉をしかと聞き、胸に刻み付けて忘れるなと、リーテの厳かな声が響く。
「呪いは願い。願いは祈り。祈りは希望。――望みなさい、我が娘よ。望み故に苦しみ、悩み、迷い、惑いなさい」
まるで私の心を読んだかのような言葉に、私は内心で驚く。けれど、その内容は直接呪いを解いてくれるようなものではなく、それどころか逆に私を困惑させるもので、私の中に同時に落胆も広がった。
リーテの言葉を要約すれば、呪いは希望であり、私が望めば呪いは解けると解釈できる。
それなら、私はこれまでにもう何十何百と願っては苦しみ悩み続けてきたのだから、とっくに呪いは解けてもいい筈だ。それなのにいまだに呪いは解けず、懲りずにこうして人生を繰り返している。
この上、一体何をどう望めば、この呪いは解けるとリーテは言うのだろう。
「あなたは何を望むのです、我が娘よ」
そんなの、この呪いを解くことに決まっている。それ以外に、私に望みなんてないのだから。その為に、こうして人生を繰り返しているのだから。
けれど、私が心の中でそう思った瞬間、リーテの表情がわずかに変化した。
落胆とは少し違う。自信満々に解答を出したものの、それは正解ではないのだと、教師が出来の悪い生徒を温かく見守るのに似た、少しばかり困った色が眉尻に現れていた。
「あなたは何を望み、生きるのです」
そう言われても、私は生きる為に呪いを解こうとしているわけで、何かを望みながら生きるなんて、呪いを解かなければできない話なのだ。そうなると私の願いは呪いを解くことになるのだけれど、それでは不正解だとリーテは言う。
では、何を望めばいいのだろう。
私を試すようなリーテの問い掛けに、私は瞳を伏せて考える。
(私が、呪いを解くこと以外で望むことは、何だろう……?)
今生では、アルグライスの外に自ら出て、私が望むより先に多くのものが与えられてきた。
優しく親切な保護者に、十分な衣食住。私のことを大切だと、好きだと言ってくれる大勢の人に囲まれて、心穏やかに日々を送ることもできている。初めて友人だってできた。友人との旅行も現在進行形で叶っている最中だ。
これまでの人生では経験できなかった幸運を、この人生ではたくさん味わうことができている。それこそ、これ以上何かを望むなんて罰が当たるのではと思ってしまうくらいに、毎日が幸せだ。
それでもなお、私が呪いを解く以外に望むことがあるとするならば――
「女神リーテ。私は……ただ、生きたいです。今の幸せな日々を穏やかに、一日でも長く、老いるまで。ただそれだけを、私は望みます」
きっと、多くの人々にとっては、望まずとも当たり前にあるものだろう。けれど、今の私はそんなささやかな望みすら満足に叶わない状況にある。だから、何かを望めと言うのであれば、私はこれを望む。
長生きがしたい――平凡でちっぽけで、けれど何より難しい。これが私の望みだ。
私が真っ直ぐリーテを見返せば、果たしてその表情には笑みが浮かんでいた。ただし、長生きなんて漠然とした答えだった所為か、リーテにとって十分な満足を得られる答えではなかったようではあった。それでも、及第点には届いたと思わせる優しい眼差しが私を褒めるように細まるのを見て、私もほっとする。
そんな私に向かって、リーテが体を前傾させて顔を近付けた。
「我が娘よ。ならば、望みの為に選択なさい。望みを胸に、その心に従いなさい。何者にも縛られず、生命を躍動させなさい。――我が娘の選択を、その躍動を、私は全て肯定しましょう」
聞きようによっては、自分勝手に好きに生きなさいと言っているようにも聞こえるリーテの言葉に、私は目を瞬く。
「それは……」
流石に、愛し子の私が周囲の迷惑を考えずに我が儘を通しては駄目だろう。愛し子と知られていない他国ならばともかく、エリューガルではつい先ほどのマーリットとの対面でもそうであったように、愛し子はとても重要な存在なのだ。それこそ、場合によってはクルードの愛し子を擁する王家と対立できてしまうくらいには。
そう思うのに、リーテは胸を指していた手を私の口元に当て、肯定すると言った言葉そのままに、私にそれ以上を言わせなかった。そして、私の額に軽く口付ける。
実際に額に触れたのは、恐らく実体のない本物のリーテの方だろう。仄かな熱が柔らかな羽毛のように一瞬額をなぞる感覚があって、リーテの体が私からゆっくりと離れていく。
「我が娘に、我が祝福を――」
見上げた私と見下ろすリーテの視線が絡み、リーテが言い終えるか終えない内に、今度は急に世界が白み始めた。目の前のリーテの姿も周囲の森も私自身も、眩い光に溶けるように徐々に白く塗り潰されていく。
そのことに、この特別な対面の時間が終わるのだと気付いた私は、慌ててリーテに向かって手を伸ばした。
「待ってくださいリーテ! 私は、まだあなたにお聞きしたいことがっ」
呪いについては助言めいたものは貰えたけれど、私にはまだ聞きたいことがたくさんあった。
そもそもの私にかけられた呪いのこと、呪いである私が愛し子として生まれてしまったこと、授かった力の種類、発現方法。神であるリーテならばきっと知っていて、私に答えをくれるだろう疑問がいくつもあるのだ。
「呪いを……! 私の呪いのことを教えていただきたいんです! 力も! 私はまだ何もできなくて……っ」
けれど、手を伸ばした先のリーテの姿はどんどん遠ざかり、見える世界も白の中に消えていく。ここで聞くことができれば、今度こそ、本当に今度こそ確実に私の人生が変えられると言うのに!
「女神リーテ! お願いです!」
必死に足を動かして、私はリーテを追い掛けた。それでもリーテとの距離は縮まるどころか開くばかりで、世界は白に塗り潰されて、私の足を動かす感覚も消えていく。
(待って! お願い、行かないで……っ!)
とうとう声まで出なくなったところで、殆ど白の中に埋もれてしまったリーテの口元が、最後に微かに動くのが私の視界の端に映った。
「――望みなさい。心のままに……――」
その言葉を最後に再び意識が白く弾けて次に私が目を開いた時、そこに映ったのは白い天井だった。同時にすぐそばで物音がして、白の中に氷雪色が飛び込んでくる。
「ミリアム様! お目覚めになられましたか!」
こちらの加減を考慮することなく自らの安堵の感情を真っ先にぶつけてきたのは、森の入口でイーリスに任せた筈のヒューゴだった。
彼は私が瞬く様に大袈裟なほどに胸を撫で下ろし、安堵と共に喜びを隠しきれない表情でこちらを見つめている。その様子はまるで人懐っこい大型犬を思わせて、何故彼がここにだの私はどうしたのだろうだの、まるで状況が分かっていないのに、不思議と私をほっとさせた。
「ここは……?」
「こちらは、救護室として使用されている館の一室でございます」
ヒューゴに恭しい仕草で身を起こすのを手伝ってもらいながら、私はいまだに整理の付いていない状況を確かめるように、その場を見回した。
大きな格子窓がいくつも並ぶ、明るく清潔な室内。隣には私が寝かされていたものとは別にもう一つベッドが並び、向かいには、救護用の道具が収納されているのだろう戸棚があった。窓の外へと視線を向ければ、少し前に見た覚えのある庭の緑が広がっており、ヒューゴの言葉が正しいことを私に教えていた。
窓から降り注ぐ太陽の光にも大きな変化はなく、私がライサと共に森へ足を踏み入れてから、そう長い時間が経過したわけでもなさそうだ。
「アーデの泉で急に倒れてしまったのよ、ミリアムさん。……覚えていらっしゃる?」
杖を突く音と共に聞こえた第三者の声に振り向けば、マーリットがヒューゴに支えられながら、座っていたのだろうソファからこちらへとやって来る姿と出会う。
相変わらず彼女の頭には目元を隠すベール付きの帽子があり、その表情と感情は判然としない。ただ、聞こえた声にはこちらを気遣う色が窺え、口元にも笑みが浮かんでいないところを見ると、どうやら私のことを心配してはいるらしい。
先ほどまでヒューゴが座っていた椅子へと腰を下ろしたマーリットから、突然倒れた私を救護室へと運ぶまでのことを聞きながら、では、私が女神リーテに会ったのは夢だったのだろうかと、そんなことをぼんやりと思う。
無意識に額に手が伸び、リーテが触れた優しい熱を思い出す。まるで親が子にそうするように、リーテが私に触れてくれたのだ。
(……ううん、あれは夢なんかじゃない。私は確かに、女神リーテにお会いした)
私のことを我が娘と呼び、呪いは願いだと、心のままに望んで生きろと、その為の選択、行動、全てを肯定すると私に告げたリーテは、決して夢などではない。何より、リーテの愛し子である私があれを単なる夢にしてはいけないと、不思議と強い思いが溢れ出る。
「ミリアム様。もしや、まだお加減が……」
「いいえ、大丈夫です」
私はまだ、リーテに告げられた内容を十全に理解できてはいない。リーテの問いに、満足に答えられもしなかった。けれど、一つだけはっきりと理解できたことはある。
それは、どれだけ迷っても、決して後悔する選択はするなと言うこと。自分に対しても、自分以外のことに対しても。それがたとえ、一つの国に影響を与えるであろうことであったとしても。
もしかしたら、あれこれと迷い悩んでばかりいる私を、リーテは見兼ねたのかもしれない。だから、私の背中を押す言葉を告げる為に現れてくれたのだろう。不甲斐ない子を叱咤する為に。
全ては、私の勝手な都合のいい解釈だ。けれど、少なくともリーテが現れてくれたお陰で、私は自分の中の迷いが不思議と晴れているのを感じていた。悩みは尽きないものの、それらについても、私の思った道を行けとリーテが背を押してくれたと思えば、これまでよりもずっと前向きな気持ちで向き合えている。リーテが額に触れたあの瞬間を思い出してから、大きな味方を得たような心強さが私の内に漲っていた。
風に吹かれる木々の音に今一度窓越しに外の景色に目をやって、それから私は、決意を込めてマーリットとヒューゴを順に見た。
「……私の友人達をここへ呼んでいただけますか? お話したいことがあります」