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始祖の森の対面

 足を踏み入れた森の中は、生い茂る木々のお陰で随分と涼しい。それに、この森にはアーデの力に満ちた泉があるからか、これまで強く吹いていた風も不思議と穏やかだった。

 王家の森同様に整備された遊歩道を、私はライサと手を繋いだまま進む。擦れ違う観光客の姿はなく、二人の足音だけが静かな森に聞こえていた。


「……人払いされてる」


 ライサの囁きに、私は頷きだけを返す。

 森の入口でもそうだったけれど、いつの間にか私達の周囲に人の姿がなくなっているのだ。薔薇園や庭を見て回っていた時には、それなりの数の観光客がいたのに。

 考えられるのは、私達がテラスで休憩していた時。その間に、神殿騎士達が動いたのだろう。この先にいるのはそんなことまで命じてしまえる人物なのだと思うと、少しだけ恐れが湧き上がる。

 思えば、私は今日まで神殿について何一つ知らなかった。リーテの愛し子が神殿にとってどれだけの価値を持つのかも、考えたことがなかった。


 一つには、キリアン達が敢えて私に積極的に知らせようとはしなかったからだけれど、何より私自身に知る余裕がなかったからだろう。私は生家の過酷な環境に耐えかね、私自身に自覚はなくとも、心身共にぼろぼろな状態でエリューガルへと逃げて来たのだから。そんな私に必要なのは、エリューガルでの私を取り巻く様々なことを知らせることではなく、ゆっくりと休むこと。

 私は、私が思う以上に周囲の人々に守ってもらっていたのだと、今ならよく分かる。

 けれど、これ以上ただ守ってもらうばかりではいられない。ここを訪れることを許可してくれたのだって、そうしても大丈夫だろうと周囲が思えるほどに私が両の足でしっかりと立てるようになったからだ。

 ならば私は、その期待に応えたいと思う。神殿のことを知り神殿に関わる人々を知り、私自身で考えて、この先神殿とどう関わっていくのかの答えを出す。


「ライサは、マーリット神官とは面識はないんだよね?」


 それは、突然出された菓子と茶によって神殿の存在を俄かに思い出した休憩中、話題に上った人物だった。恐らくこの人物が私を待っていると考えて間違いないだろうと、イーリスが言ったのだ。


「ないよ。でも、こんなことなら一目だけでも姿を見ておくんだった」


 まさかこんなに早く会うことになるなんて、とライサが悔やむのを横目に見ながら、私もイーリスから聞かされたマーリットと言う人物について考える。

 神殿長補佐と言う、神殿第二位の地位にいる要人。目が見えず体も不自由で、杖と人の介助がなければ出歩くこともままならない高齢の女性。気性は穏やかそのもので、常に物事を公正に判断し、周囲からの信頼も厚いとされている慈母の如き人物。

 そして、私にとっては母を除いて初めて会う、カルネアーデ家に連なる人間。母の名付け親であり、二十五年前には責任を感じて、一度はその命を絶とうとした清廉な人。


 聞く限りでは、エイナーが怒りに任せて無理に力を振るってしまうほどの暴言を吐く人だとは思えない。

 ただ、公正な考えの持ち主だと言うのなら、迎えにヒューゴを寄越したことは不可解ではあった。彼は思考に随分と偏りが見られる、公正とは程遠い人物なのだから。そう言う人物でさえ起用する公平さを持つと言うことなのかとも考えるけれど、イーリスの驚きからはそうとも思えない。

 マーリットは本当にイーリスが言うような人物なのか、私の中に小さくない不安が湧き上がる。

 それに、私にはもう一つ不安に思うことがあった。マーリットの神殿内での別の立ち位置についてだ。


「ミリアム、緊張してる?」

「……うん。少しだけ」

「大丈夫だよ。エイナー様と違って、ミリアムはリーテの愛し子じゃん? マーリット神官はリーテ派だって言うし、酷いことは言わないと思うよ?」

「……だといいんだけど」


 そう。クルード派とリーテ派。黒竜クルードを信奉する神殿に派閥なんてものがあること自体、私にとっては驚くべきことなのだけれど、よりによってマーリットがリーテ派の筆頭だなんて。

 しかも、現在は二十五年前の事件を機にクルード派が幅を利かせ、リーテ派は隅に追いやられていると言う。そんな中でマーリットが私との面会を切望する理由なんて、一つしかない。

 確かにライサの言う通り、エイナーに対するよりは悪意ある言葉は出て来ないかもしれない。けれど、反対に耳障りのいい言葉を並べ立てて、私を彼らの側に引き込もうとする可能性はあるだろう。

 うっかり相手の話に頷くようなことがないよう十分気を付けなければ、彼らのいいように解釈され、知らぬ間に私の意思を無視してリーテ派の旗頭に担ぎ上げられてしまいかねない。

 会話には、細心の注意を払わなければ。


 そうして、緊張と不安とを胸に森の中を進むことしばらく。私達は、観光客はおろか神殿騎士ですら一人も見ることなく、森の中ほどにあるアーデの泉までやって来ていた。

 いくつもの石で綺麗に丸く囲われ、アーデと思しき小像が設置された泉は、大きすぎず小さすぎず、泉の中央から澄んだ水を滾々と湧かせては、私達が来たのとは別の道の方へと森の中を流れている。その泉の周囲は広く整地されており、泉を囲うように幅広の石畳が敷かれ、その倍以上の距離を開けて、整地された広場を囲むようにいくつものベンチが並んでいた。人払いがされていなければ、多くの人がそこかしこで木陰の涼しさと流れる水の音を楽しんでいたことだろう。


 と、私はそのベンチの一つに腰掛ける人影があることに気付いた。同時にライサも気付いたようで、繋いだ手から緊張が伝わる。

 私達は顔を見合わせ無言で頷き、ベンチへと向かった。

 石畳に、二人分の足音が小さく響く。その音に、ベンチに座る人物のやや下を向いていた顔が上がり、私達へと向けられた。

 目元を隠すベールの付いた帽子に、傍らには杖。質素ながらも一目で上等と分かる服に身を包んだ、高齢と思しき女性だ。ほんのわずか緩く弧を描く口元は柔らかく、けれどすっと伸びた背筋はその人物の意志の強さを感じさせる。また、全体に漂う気品は、ただそれだけで相対する相手に居住まいを正させる力があるようでもあった。

 私とライサは、ベンチの前で一旦その足を止める。そして、どう声を掛けるべきかと逡巡したところで、相手の方が先に動いた。


「こんにちは」


 優しく柔らかな声が、私達に微笑む。いいお天気ですわねと続けられて、私もライサも困惑を滲ませながら顔を見合わせた。まさか、和やかに挨拶をされるなんて予想外だ。

 けれど、ここで黙ったままと言うわけにもいかない。


「こんにちは。神殿騎士の方から、こちらで私を待っている方がいらっしゃると伺って、やってまいりました。あなたがマーリット神官でいらっしゃいますか?」


 一歩だけ前に出て挨拶と共に私が問えば、相手は嬉しそうに口元に弧を描いた。


「ええ、マーリットはわたくしですわ。では、あなたがミリアムさん?」

「はい、私がミリアムです。お初にお目にかかります、マーリット神官」

「わたくしもミリアムさんにやっとお会いすることができて、とっても嬉しいわ。わざわざここまでいらしてくださって、ありがとう」


 ヒューゴにしたように一礼すれば、音で察したのか、マーリットはより一層嬉しそうに微笑んだ。その表情は身構えていた私達の気勢をすっかり削ぐほど裏がなく、私達を更に困惑させる。

 けれど、目の見えないマーリットには、私達の表情の変化を察することはできない。私達の困惑に気付かないまま、にこにこと微笑んだ顔の向きをわずかに変えたマーリットは、次に、そこに立つライサに向かって声を掛けた。


「ミリアムさんと一緒にいらしたのは、わたくしが迎えにやった子ではありませんわね? あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら?」

「私は近衛騎士団所属の騎士、ライサ・エルムットと申します。フォシュベリ殿に代わり、ミリアム様の護衛としてまいりました」


 表情を引き締めたライサのはきはきとした受け答えに、マーリットは感動するように胸の前で手を合わせ、「まあ、あなたが」と小さく零す。


「わたくし、王都でエイナー殿下の騎士候補のお話を耳にして、その方にもいつかお会いしたいと思っていましたのよ。それがまさか、こんなにも早く叶うなんて……今日はなんていい日なのかしら。お会いできて嬉しいわ、ライサさん」

「それは……その、光栄、です」


 装った言葉が綻び、ライサの瞳が驚きと困惑を乗せて泳ぐ。私に向かって、「何であたしまで?」と言わんばかりの視線を寄越すけれど、私にとってもあまりに意外なことだった為、マーリットがどう言うつもりなのか分かる筈もなく、首を横に振るしかできない。

 そんな私達の様子に構うことなく、マーリットはライサに会えた喜びそのままに、わずかに身を乗り出した。


「我が国に、槍使いの騎士はとても少ないのですもの。それも女性だなんて、滅多にいらっしゃらないでしょう? お会いしたいに決まっているわ。ライサさん、あなたが槍騎士として活躍される日を、わたくし楽しみにしていますわね」


 マーリットの口元は、相変わらず穏やかな笑みを湛えていた。けれど、私もライサも、マーリットに穏やかな気持ちで微笑み返すことができなかった。

 ライサは一瞬驚愕に目を見開き、けれどすぐに口元に力を込めて、マーリットを油断なく射る。私も、最初の長閑な挨拶から緩んでしまっていた気を引き締め直した。

 何故なら、マーリットが口にした槍騎士はライサが密かに胸に秘めている夢であり、ジェニスやエイナーと言った、限られた人しかそのことを知らないからだ。私ですら、先日の茶会でライサから初めて教えてもらった。

 ライサは私に、どこか恥ずかしげに、けれど誇らしく夢を語ってくれたのだ。いつか絶対、父さんの槍を受け継ぐのだ、と。

 ライサの隣で話を聞いていたオーレンが、だったらまずは身長を伸ばさないと槍に振り回されるぞと笑っていたので、その時のことはよく覚えている。


 何故、親しい者しか知らないことを、目の前の初対面の老女は知っているのか。目元が隠れて相手の真意が分かりにくいことも相まって、得体の知れない恐ろしさが私の背筋を駆けた。しっかりしなければいけないのに、優しく穏やかな声に滴る毒に、ともすれば飲み込まれそうになる。

 その時、無意識にきつく握り締めていた私の手を、誰かの手が優しく包み込んだ。


「勿体ないお言葉感謝いたします、マーリット神官」


 直後、私のすぐ横から聞こえたライサの声が、私を搦め取る恐れを吹き飛ばす。拳を解いてライサの手をそっと握れば、その横顔が微笑むのが分かった。

 大丈夫、私は一人ではないと態度で示してくれる頼もしい友人の姿に、私の中に強い気持ちが戻ってくる。


「あらあら。もしかして、あの子が何か粗相をしてしまったのかしら? 二人共、そんなに緊張なさらないで。わたくし、見ての通りただの老婆ですもの」


 一方のマーリットは、依然として穏やかに微笑んだまま、実に楽しそうに言葉を紡いでいた。ただし、その言葉は全くもって信用ならないのだけれど。

 殆どの人が知らないライサの夢を知り、しかもそれをわざわざ告げてくる時点で、私達にとってマーリットは決してただの老婆ではないのだから。

 こんな人物を相手にして、エイナーはよく最後まで怒りを表に出さずにいられたものだと感心してしまう。


「それに、わたくし堅苦しいのは苦手なの。ここは神殿ではないのだもの、もっと楽しくお喋りをしましょう? わたくしのことも、ここではマリアと呼んでくださると嬉しいわ」


 そう言いながらマーリットは片手に杖を持ち、もう片手を私に向かって差し出した。


「せっかくの森なのだもの。一緒に散策いたしましょう?」

「マー……マリア、さん? 失礼ですが、私にお話があったのではないのですか? 人払いまでされていますし……」


 マーリットは、神殿の人間としてリーテの愛し子である私をそちら側に引き入れる為に、この場を設けたのではないのか。

 そんな疑問が、思わず私の口から零れ出た。

 だって、少なくともヒューゴの態度からはそのつもりであることは明白に思えたし、だからこそ私もライサも覚悟をしてここに来たのだから。それなのに、私達の予想に反してライサの夢を口にした以外は、マーリットはただ私達との対面を喜んでいるようにしか見えない。一体、どう言うことなのか。

 ヒューゴ同様、差し出された手を取ることなく相手を見つめていれば、私の目の前でマーリットは可愛く首を傾げ、あら嫌だ、と声を上げた。


「ヒューゴったら、任せてくださいと言うからあなた達の迎えに寄越したのだけれど……きちんとお話が通っていないようね。困った子だこと」


 ごめんなさいねと謝罪したマーリット曰く、彼女はただ私と話がしたくて、ここに呼んできてほしいとお願いしただけ、なのだそうだ。

 それを聞いて、私とライサはもう何度目か、困惑の表情を見合わせる。

 本当だと思う? 信じられなくない? どうする? どうしよっか。誘いに乗る? 危なくない? でも……――そんな無言のやり取りを経て、私達は結局マーリットの望み通り彼女の手を取り、森を散策することを決めた。


 仮に何かあっても、相手は私達より力の弱い老婆なのだから危険は少ないと考えたこともあるけれど、どんな形であれ、マーリットを知るには彼女と言葉を交わすことが一番だと考えたからだ。

 会話の中から、少しでもマーリットの真意を探れたらいい。そんな思いを抱いて、私はマーリットを介助しながら、ライサは私達の一歩後ろに付いて共に歩き始める。


「この森はとても気持ちのいい場所でしょう? ゆっくりお喋りをするには一番だと思ったの。それに……ここは、エステルともよく一緒に過ごした場所だから」

「マリアさんは、母の名付け親だと伺っています。母とは親しかったのですか?」

「どうだったかしら。わたくしは、エステルの父親……シグヴァルドが、神殿との結び付きをこれまで以上に強固にする為の名付け親ではあったのだけれど、少なくとも仲は悪くはなかったと思うわ。会えば、両親に対する愚痴で一日が終わりそうになることもあるくらいだったから」

「愚痴……」


 いつだって私には前向きな言葉を贈ってくれていた母が、まさかの愚痴。それも、一日中。全くもって想像できない母の姿に思わず絶句した私を、マーリットがおかしそうに笑う。


「ミリアムさんの前では、エステルはいい母親だったのね」

「……そう、ですね。少なくとも、私は母が愚痴を零す姿は見たことはありません。いつだって前向きで優しく、凛とした母でした」

「まあ、そう……あのエステルが。……どんな子でも、やっぱり親になると変わるものなのかしら」


 もっとも、成長した娘にならばいざ知らず、生まれて数年の幼い娘を前に延々愚痴を零していたとしたら、それはそれで問題のような気もするのだけれど。

 ただ、それでも私の記憶にある母と、エリューガルで暮らしていた時の母とは、受ける印象が随分と異なることは確かだ。そしてそれは、マーリットが言うように親になったが故の変化とは、私には思えなかった。

 私にとっては異なる印象の姿の方こそが、きっと本当の母の姿なのだ。私のそばにいた母は、本当の自分を押し殺して生きていたのだろう。


 それを思うと、母は本当に私を生んでよかったのだろうかと考えてしまう。望まぬ子であったなら、私を手放してあの家を出たってよかったのに。死ぬほどの無理をしてまで、よき母として私に尽くす必要なんてどこにもなかった筈なのに。

 もしもその無理が、私がリーテの愛し子として生まれてしまったが為のものだったとしたら、たとえ私が母の姿を写し取って生まれてしまうものなのだとしても、そんな風に生まれたくはなかった。


「それにしても、本当に誰もいないのね。森がとっても静かだわ」


 思考が逸れていた私の耳に、どこか呆れを滲ませたマーリットの声が届き、私は彼女には見えないと分かっても苦笑する。


「人払いがされていますから」

「そうなのよね。わたくし、あの子にそんなことまでは頼んでいないのだけれど……。お陰で、ミリアムさん達がいらしてくださるまで、わたくし心細くて」


 こんな体なものだから、と続いた一言と、地面に杖を突く音が重なる。そして一歩を踏み出す度に、私の手を握るマーリットの手に力が籠り、支える私も力が入る。

 私達は、マーリットの歩調に合わせてゆっくりと、泉の広場を時計回りに三分の一ほど進んでいた。広場へやって来た時には正面に見ていたアーデの像を、今は斜め後ろから見ている。けれど、まだその程度だ。健常な足を持つ者であれば既に一周し終えているだろう時間を使っても、その程度しか進めていない。


 介助者がいてこれなら、杖だけを頼りに歩くのは、より困難を極めるのだろう。人の気配の失せた森に、視界も閉ざされたマーリットが一人残されるのは、さぞ心細いことだったに違いない。

 神殿の序列二位ならば、マーリットだって敬われる存在の筈。まして、高齢で体の自由が利かないのならば、余計に一人にさせるべきではないのに、そんな彼女を放って私を意気揚々迎えに現れるとは、あのヒューゴと言う神殿騎士はとんだ護衛である。


「ヒューゴさんのような方は、神殿には多くいらっしゃるのですか?」

「そうねぇ。あの子は特別に思いが強い子ではあるけれど、そう珍しいことではないわね。愛し子は神聖な存在。その愛し子をいただき、神々の恩恵に与れる自分達は選ばれた民――多かれ少なかれ、神殿にいる者達にそう言う意識があることは否定しないわ」


 そしてそれは、クルードの愛し子であれリーテの愛し子であれ、大差はないと言う。神を信奉する者達にとっては、神に力を授けられた人間は、それだけで崇める対象となり得るのだ。

 たとえ、愛し子自身がどれだけ特別な人間ではないと思っていても。


「エステルも、神殿の彼女への特別な扱いには辟易していたわね。お陰で、わたくしだって神官なのに、神殿に対する愚痴も遠慮なく散々聞かされて。……それでも、エステルなら逆に、その立場を上手く利用することだってできた筈なの。なのに、あの子はそうはしなかった」


 一旦言葉が途切れ、足を止めたマーリットの顔が私を向く。


「――ねえ、ミリアムさん。あなたならどうなさるかしら?」


 たちまち雑談めいていた雰囲気が消え、ぴり、と空気が張り詰める。穏やかに笑んでいた筈のマーリットの笑顔が、たちまち空恐ろしいものへと変化した。

 私がヒューゴの態度をよしとしないのならば。それを改善させたいと願うならば。そして、選択しなかったが故に母が、カルネアーデ家が迎えた末路を思えば、私は何を選択するのが最善か分かるだろう――私は、リーテの愛し子なのだから。

 マーリットの言葉の裏に潜む真意がはっきりと突き付けられて、私は顔を強張らせた。


 今更、だから迎えに現れたのがヒューゴだったのかと気付いても、もう遅い。マーリットを侮って、散策くらいならと受けたのが間違いだった。この人払いだって、ヒューゴならばやってしまうと分かっていた筈だ。

 楽しくお喋りだの困った子だの心細くてだの、よくもまあ、思ってもいないことをぬけぬけと言えたものだ。母とのことだって、これではどこまでが真実か分かったものじゃない。

 すっかり、マーリットにしてやられてしまった。彼女の柔らかな雰囲気と体が不自由な老女と言う見た目に、すっかり騙されてしまった。どんなに慈母のような人物と言われていようと、神殿第二位の地位にいるのには相応の理由があると分かっていた筈なのに。


「私は……」


 分かりませんとは答えられない。だからと言ってはっきり突っぱねようにも、ヒューゴの態度をよしとせず、そんな考えが神殿に蔓延っていることをよく思えない私がいるのも事実で。

 それに、今この国にはクルードとリーテ双方の愛し子が揃っている。私がリーテ派の上に立てば、両派閥の均衡は保たれる。キリアンと良好な関係を築いている私であれば、なおのこと互いに手を取り合って派閥同士の関係もよくしていけるだろう。


(……甘かった)


 皆の期待に応える? これから神殿とどう関わっていくかを考える? 旗頭に担ぎ上げられないよう気を引き締める?

 私の決意の何と軽いことか。そんなことを考えながらマーリットに相対するなんて、浅はかだった。

 マーリットは私などよりもっと先を見据えて、彼女のこの先に私がどれほど使えるかを見極める為にここにいるのだ。引き入れるか否かではない。選択肢など与えず私を引き入れることを、既に前提としているのだ。

 そんな相手に、私はどう太刀打ちできると言うのだろう。自分一人のことでさえ、精一杯なのに。


「……ふふ。少し意地悪だったかしら」


 何も返せない私を、マーリットが柔らかく笑う。


「ごめんなさいね、ミリアムさん。あなたと話をしていると、まるでエステルがそばにいるように感じてしまって、懐かしくて。あなたはエステルではないのに」

「いえ、その……」


 マーリットの、邪気がないと見せてその実棘しかない言葉が私に刺さる。

 まともに答えられない私を、マーリットはどう判断しただろう。自分の情けなさに悔しくなって、私は思い切り唇を噛んだ。


「お詫びに、アーデの泉のこんなお話はご存知?」


 私が何とか言葉を探している間にも、まるで私に対する興味をなくしたかのように正面へと顔を戻したマーリットは、私の悔しさなど素知らぬ様子でその足を泉の方へと向けて歩き出す。


「アーデの泉は、その成り立ちから恋に関する願いを叶えてくれるそうなの」


 誰それと恋人になりたい、こんな性格の人と出会いたい、いついつまでに恋人を得たい、等々。アーデ像に相対し、しっかりと目を閉じて心から願うと叶うと言うのだ。

 けれど、残念ながら今の私は、そんなことを呑気に考えられる心境ではなかった。それなのに、マーリットは構わず私をアーデ像の正面へと導いていく。どこにそんな力があるのかと驚くほど、はっきりと私を引っ張っていく。

 そして、戸惑いながらも私がアーデ像と相対した――瞬間。


 泉の水面が日の光を浴びて煌めく様が私の視界一面を埋め、それに飲み込まれるように私の意識が白く弾けた。


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