憧れるもの、望むもの
花束を取り損ねた人々が悔しがる中、青年は花束を手にできた興奮もそこそこに人を探すように周囲を見回すと、少し離れた場所でこの賑わいを見ていた若い女性へと駆け寄った。かと思うとその場で彼女へ跪き、今手にしたばかりの花束をすっと差し出す。
再び歓声が湧き拍手が二人を祝福し、指笛が賑やかに鳴らされた。一方、女性は周囲の歓声など聞こえていない様子で、花束を前にしてたちまち顔を赤くさせ、感極まったように口元に手を当てながら、みるみるその瞳に涙を溜めていく。
「あら。やるじゃない、彼」
「まあぁっ! 聖花祭に来て早々、こんな素敵な場面に出会えるなんて! 嫌だわ、こっちまで顔が赤くなっちゃう!」
周囲が温かく成り行きを見守る中、青年も顔を赤くして、けれど真剣な眼差しで何事かを口にした。距離がある為はっきりと言葉は聞こえなかったけれど、きっと、女性に愛を告げたのだろう。それに対して、女性がとうとう涙を流しながら嬉しそうに花束を受け取ると、その場に三度歓声と拍手と指笛が弾けた。
どうやら、青年の求婚は見事に成功したらしい。二人は観衆のただ中で抱き合い、口付けを交わして、再び互いを強く抱き締め合う。浮かぶ表情は勿論、笑顔だ。「幸せ」のただ一言では言い表せないほど幸福に満ちて輝く二人は、その喜びを全身で表していた。花束を投げた花嫁も、まるで我がことのように喜び、花婿と抱き合って大喜びをしている。
その内、結婚式会場となっていた料理店から、祝いの酒が無料で振る舞われ始めた。当事者は勿論のこと、成り行きを見守っていた周囲の人々も次々にグラスを掲げては乾杯の声を上げ、より一層、その場が盛り上がる。
そんな中で、ちゃっかり料理店の店主が抱き合う若い二人の元へとやって来て店内へと招くのは、いずれ行われるだろう彼らの結婚式会場として、店を使ってもらう為だろうか。しっかり者の店主の行動にも笑いが起こり、賑わいは収まることを知らないように続いていく。
どこを見ても笑顔ばかりが溢れるその様子は、離れた場所からただ見ていただけの私の胸さえ温めて、幸せな気持ちで満たされた。
「ねえ! あたし達、もしかして凄いもの見ちゃったんじゃんっ? ね、ミリアム!」
「うん。初めは驚いたけど……とっても素敵だった!」
「今みたいなことは稀だけど、式自体はこれからも色んなところで見られると思うわよ。祭りの間中、あちこちでやっているから」
幸せの余韻に浸りながら、私達は再びイーリスの先導で街を歩き始める。
いまだ祝福の空気に包まれる店の前を横切り、改めて幸せ一杯と言った様子の主役二人の姿に笑みを零して、わずかに人通りの減った道を先へ行く。
そうして喧騒が遠のき、漂う花の香りに心が落ち着いた頃。私の中にもようやく冷静さと自制心が戻って、この先は誘惑に流されないようにしようと決意していると、私の隣を歩くライサが、どこか羨ましそうに呟いた。
「……ああ言うの、ちょっと憧れるなあ、あたし」
「それって、さっきの結婚式?」
家族や友人だけでなく、道行く人達からも祝ってもらえる結婚式は、確かに素敵なものだった。厳かで形式ばったものも、それはそれで神聖な儀式として素晴らしいものではあるけれど、先ほどの式は、本当に愛し合う男女がこれからを共に生きていくのだと強く思わせるもので、正に身分差のないエリューガルならではと言えるものである。
私がアルグライスの貴族として生まれ、生きていたなら、決して望めない形だっただろう。たとえ平民でも家のことを第一に考える親は多かったし、領主が自領の今後の為にと、平民の結婚を取り持つこともあった国だ。そして、それに異を唱えられる平民もいなかった。
互いの気持ちが通じ合っての結婚も勿論あったけれど、私に限って言えば、それは最も縁遠い話だった。私に好意を寄せてくれる男性なんていやしなかったし、私もまた、男性にも恋愛にも結婚にもまるで興味がなかった。そんなことに現を抜かすより、私にはもっと考えなければならないことが目の前にあったから。
ただ、その考えなければならないことの中心にいたのがフィロンだった所為で、何度か、私がそう言う意味でフィロンを慕っていると、周囲に誤解されることはあった。
柔らかな赤褐色の髪に、理知的な金の瞳。どこか中性的な美貌は、柔らかな物腰と相まって、彼が口元にそっと微笑を浮かべるだけで令嬢が黄色い悲鳴を上げて卒倒してしまうほど。けれど、その優しく儚げな見た目とは裏腹に、エリューガルの王太子キリアン・ガイランダルに勝るとも劣らない、思慮深く聡明で決断力に優れ、他者への思いやりにも溢れた王太子フィロン・オーゼンス。
どの人生でも彼のことを慕う女性は多かったものだから、特に貴族令嬢人生で誤解された時には、それはもう酷い目に遭ったものだ。
もっとも、人生を繰り返しすぎたからかその姿を見慣れすぎたからか、残念ながら私にフィロンを慕う気持ちは欠片もなく――何なら、私の人生で絶対に出会いたくない人物である――周囲の誤解は、甚だ迷惑なだけだったのだけれど。
そう言えば、フィロンは私のそんな思いを見透かしていたのか、全く意味合いは違うけれど私が下心ありきで近付こうとしていたからか、私に対しては思いやりは鳴りを潜め、酷く冷めた割り切った態度でいたような気がする。それがまた周囲を誤解させていたこともあったような、なかったような……。
ともあれ、美貌の王太子にすらそんな具合なものだから、私には異性だの婚約者だの結婚式だの、そう言った類への憧れも全くないのだ。
だから――こんなことを言うと本人は怒ってしまうかもしれないけれど――年齢の割に子供っぽく、時には少年と紛う言動すら見せるライサでも結婚式に憧れを抱いていることを、私は意外に思っていた。また、その憧れを素直に口にできることに感心もしていると、ライサは何故か明るく首を振る。
「ううん。そっちじゃなくて、告白の方!」
「分かるわ、ライサ! 素敵だったわよね、さっきの告白! 私も、一度でいいからあんな情熱的な告白をされてみたかったわ……」
「冗談でしょ、テレシア。あの人にそんなことができていたら、今頃あなたはとっくに母親になっているわよ?」
呆れるイーリスの呟きは、自分の世界に入ってしまったテレシアの耳には届かなかったらしい。全く気にする様子なくうっとりと彼方を見やって、テレシアがほぅとため息を吐く。
彼女の頭の中では今、理想の告白の場面が想像されているに違いない。私もそれに倣い、大勢の人の前で跪き、花束と共にテレシアに向かって愛を告げるキリアンの姿を想像……しようとして、まるで上手くいかなかった。イーリスが冗談でしょうと言ったのも頷けるくらい、さっぱり思い描けない。
花束を差し出す先にいるのがエイナーだったなら、何故かいとも容易く跪くキリアンの姿が想像できてしまったのだけれど、それはやはり、私が祈願祭祝宴の際に見てしまった兄弟の熱い抱擁の所為だろうか。
うっかりその場面を思い出してしまい、私は気恥ずかしさとテレシアへの申し訳なさに、にそっと視線を逸らした。
ついでに心の中でテレシアとキリアンへ向かって謝罪をしていると、隣のライサが更に笑って首を振るのに気が付いた。ライサは違う違うと言いながら片手を腰にやり、胸を張る。続いて、芝居がかった動きでもって、もう片手で己を指し示した。
「あたしが! 告白するの! 公衆の面前で堂々と、びしっとばしっと、格好よく!」
「そっちなの? 好きだ、結婚してくれーって?」
「そう!」
「まあ、頼もしい!」
「でしょ!」
テレシアが感激したように手を胸の前で組み、その反応に、ふふんとライサが得意げに顎を上げる。イーリスは、いつかライサに告白されることになる相手の男性に同情するように苦笑し、私もライサが大勢の人前で堂々と告白する場面を想像して口元を緩めた。
何事にも物怖じせず感情を素直に表すライサならば、きっと有言実行してしまうのだろう。その時のことを思って、私にはきっとできないことをやってのけてしまうライサの眩しさに、私は目を細めた。そうしながら、交わされる会話にそっと耳を傾ける。
「ライサは、どんな男性が好みなの?」
「それは勿論、父さんみたいに強い人!」
「あら……それじゃあ、並大抵の男性ではライサの恋人にはなれそうにないわね」
「理想が高すぎると、苦労するわよ?」
「そうかなぁ? でも、最低限自分と互角にやり合えるくらいの相手じゃなきゃ、あたしのことは嫁にやれないって父さんも言ってるんだもん。あたしだって、一方的に守られたり守ったりするよりは、相手と対等でいたいし」
だから自分ももっと強くなるのだとライサが拳を握り、決意を込めた瞳が前方を強く見据える。その横顔が思いの外凛々しくて、思わず私は見入ってしまった。
けれど、それもわずかで終わる。ライサの瞳が瞬いて、私を捉えたのだ。そして次にライサの口から出た言葉に、私は大いに狼狽えることになる。
「ねえ、ミリアムは?」
「……えっ?」
まさかこちらに話が振られるとは思わず、私は驚きに目を丸くして、ぽかんとライサと見つめ合ってしまった。反射的に左右に顔を振るけれど、当然「ミリアム」はこの場に私しかいない。
「ミリアムは、どんな人がいいの?」
まるで、自分が言ったのだから次は私だとでも言うように、何の含みもない真っ直ぐな瞳が私を見ている。
どんな人、とは。
思わず頭の中で反芻し、私は沈黙した。
どんな人。どんな相手。男性。好み……私が好む、男性像。頭では理解しても、すぐには想像が追い付かない。
愛だの恋だの結婚だの、そんなもの全般に興味がなかった私は、当然そんなことを考えたこともない。貴族令嬢だった時は尚更、家同士の結婚に私の意思は不要で、考える必要すらなくて。そんな話題を同性の友人と語り合ったことだって、一度として記憶にはない。この人生だって下女生活が長すぎて、ライサに問われて今初めて意識したくらいだ。
けれど、それより何より、呪いである私が特定の誰かを愛したり愛されたり、そばにと望んだり望まれたりするなんて、実に馬鹿げた話である。そんな存在、私には最も縁遠く、望んではいけないものなのだから。
「私、は……」
三対の、期待のこもった視線が私の言葉を待っている。
私は、彼女達の期待する嘘を言うべきだろうか、思ってもいない男性像を。それとも、考えたこともないと馬鹿正直に言うべきだろうか、この楽しい空気を壊すことを分かっていながら。
迷い悩む私の脳裏に、その時不意に一人の名が思い出された。ずっとずっと、これだけは変わらず記憶にある、私の憧れの人。
生涯ただ一人を主とし、主の為ならば迷わず剣を取り、敵と見たならたとえ親しかった者でも一切の容赦をせず、その身を血に汚すことも厭わない忠節の人――月華の騎士。
ふっと、私の口が緩く上がった。
決して愛なんてものを望むつもりはないし、私にあるのはただの憧れだけで、実在だってしやしない。それでもほんの少し、少女が夢を語るように望みを口にしていいのであれば。
私は、かの人がいいと望む。かの人のような人がいいと望む。
「……くれる、人」
呟くように零れた私の声に、よく聞き取れなかったのか、三人が不思議そうな顔をする。その三人の表情がおかしくて、私はふわりと笑った。
私が望むのは、私を止めてくれる人だ。
私が、どうしようもなく取り返しのつかない結果に辿り着いてしまった時に、誰より先に私のことを止めてくれる人――私を、殺してくれる人を。
これは決して、生きることを諦めてのことではない。今の私に、死への願望もない。この繰り返す人生から逃れる努力を怠るつもりもないし、呪いのことを調べる意欲だって継続している。前向きに、今生にだけある違いを大いに利用する気持ちだって持っている。
矛盾しているかもしれないけれど、だからこそ、私は私を殺してくれる人を望むのだ。誰に殺されたのか分からないまま死ぬのではなく、私を殺す者が誰かを分かった上で、足掻いた結果どうにもできないと分かった時に、殺されたい。
私を迷わず殺してくれる人がほんのすぐそばにいてくれたなら、私は逆に安心して、思うままに最期の瞬間まで諦めずに生き抜ける気がするのだ。
あわよくば、私が王太子の命を奪ってしまう最悪が起きるその前に、その人が私の息の根を止めてくれたなら、とも思うけれど、流石にそこまでの贅沢は言うまい。
「ミリアム、今、何て言ったの?」
三人を代表したライサが、わずかに首を傾げた。それに私は「うん」と応じ、今度ははっきりと、少しだけ言葉を足して繰り返す。
「好きと言うのとは違うけど、私は、私を止めてくれる人が――」
言いかけた言葉に道を吹き抜ける強い風が重なって、言葉が途切れた。同時に強風に驚く声が方々から上がり、激しくはためく旗の、鳥の羽ばたきにも似た音が幾重にも重なって耳朶を打つ。
堪らず帽子とスカートを手で押さえ、私はその場で身を屈めた。それでも風に攫われるように思わず足がふらついて、すかさず伸びたイーリスの腕に支えられる。そのまま体を引き寄せられて、私達は四人で固まるように身を寄せた。
女性の悲鳴、物が倒れる音、何かが飛んでいく音、木々が激しく撓る音。ごうと唸る風の音に混じって、様々な音が通りを駆け抜ける。
それは、時間にしてみれば、恐らくほんのわずかだったのだろう。それでも、俄かに吹いた突風の恐怖は、私にその時間を随分と長く感じさせた。
ようやく風が止み、名残のような緩い風が頬を撫でたところで、私はいつの間にかきつく瞑ってしまっていた目を恐る恐る開けた。そして、まるで何事もなかったかのように風に巻き上げられた花びらがはらはらと舞い落ちる様を見て、四人で呆然と顔を見合わせる。
「びっ……くりしたぁ。ミリアム、大丈夫?」
「うん、私は平気。イーリスさんが支えてくれたから」
「それにしても、凄い風だったわね。ツェレトの風が吹くにはまだ早いと思うのだけど……」
「ツェレトだって、滅多にこうは吹かないわ。……何だったのかしら、今の風」
体を起こして互いの無事を確認し、それから私達は自然な流れで周囲へと目を向けた。
通りには、私達同様突然のことに足を止めていた人々が互いに声を掛け合い、無事を確認し合う様子がそこかしこにある。ただし、綺麗だった通りは風の威力を知らしめるように、少々雑然とした様相を見せていた。
折れた木の枝、千切れ飛んだ旗、散乱する花に倒れた籠、割れた鉢、剥がれかけた板壁。わずかな時間だったにも拘らず、その爪痕は浅いとも言い切れない。喜びに満ちた華やかな祭りに水を差す出来事に、ふと、私の胸に言い知れない不安が過る。
と、テレシアが私の不安を払拭する声で「あら、大変!」と何かに気付いて小走りで駆け出した。
見れば、テレシアの向かう先には倒れた老夫婦の姿がある。今の突風に煽られ、転倒してしまったのだろう。男性の方が手に杖を持っているのを見るに、女性が男性を支えきれず、共に転倒してしまったようだった。そして、二人共頭か腰を打ってしまったのか、すぐには起き上がれない様子だ。
それを見て取ったイーリスがテレシアを追い抜いて老夫婦の元へと駆け寄り、すぐさま二人の容体を確認する。慣れた手際は、騎士として対処を学んできているからか、恋人である医師フレデリクの影響か。
そして、テレシアがイーリスの指示で辻馬車を探しに行こうとした、その時だった。
「――あれ? 姉ちゃん?」
通りに散乱する花を拾い集めていた少年の、イーリスと同じ瞳の色を驚きに見開く姿が私達の目に飛び込んできた。