兄王子との対面
あっと言う間に室内に三人きりになってしまったことで、エイナーとの会話ですっかり解けていた緊張が、私の中に再び生まれ始める。
私は、エイナーにとっては大切な命の恩人でも、キリアンにとっては弟を助けた身元不明の女にすぎない。彼には人攫い夫婦の娘と認識されている可能性もあるし、エイナーを助けたことに関してだけは感謝の念くらいはあるかもしれないけれど、それ以上に警戒されていると考えるべきだろう。先ほどの、私の失態もある。
これからの時間は、キリアンが私と言う人間を己の目で確かめる為に設けられたもの。私としては、キリアンに何を問われてもできる限り正直に答えるつもりだけれど、なにぶん、他者とは経験してきた人生が特殊すぎるもので、怪しまれる要素しかないところが不安で仕方ない。
それでも、私を助けてくれるよう声を上げてくれたエイナーの恩に報いるためにも、嘘だけはつきたくない。
それに、二度とアルグライスの地を踏まない覚悟で、ここまで来たのだ。怪しまれてアルグライスに送り返されたり、冷たい牢獄に放り込まれるなんて末路だけは、絶対に回避しなければ。
腹の中で覚悟を決めて、椅子に座ったキリアンと相対する。
キリアンの切れ長の瞳に射貫かれ、さてその口からどんな言葉が私に向けられるのかと思った瞬間、私の意表を突いて、キリアンが初めてその端正な顔に笑みを浮かべた。
私の記憶の中の姿が霞んでしまうほどのあまりに穏やかな姿に、一瞬、気抜けしてしまう。もっと冷徹に、即座に本題に切り込んで来るかと思ったのに。キリアンの行動は、私の中の彼の印象を悉く覆してばかりで驚かされる。
「まずは改めて名乗っておこう。私はキリアン・ガイランダル。この国の第一王子と言う立場にある。こちらは私の騎士で、レナート・フェルディーンだ」
キリアンのやや後ろに立つ騎士が軽く会釈するのに、私も礼を口にして応える。
「レナート・フェルディーン様。あの時は、お助けくださりありがとうございました」
見たところ、歳はキリアンと同じほどか、やや上か。どことなく異国の血を感じさせる鼻梁が通った彫りの深い顔立ちに、涼やかな深い青の双眸。あの日、月光に輝いていた金の髪は、今日も陽光を浴びて煌めき、風に踊るようにふわりと弧を描いて耳の後ろに流れている。
まるで、女神の伴侶である雄々しい男神の彫像を思わせるレナートの姿を改めて目にして、こんな人物が私の命を救ってくれたのかと、私は感謝の思いを新たにした。
「……覚えていたとは」
「朧気にしか覚えておりません。ですが、お名前をお聞きして、殿下方がフェルディーン様の名を口になさっていたことを思い出しました」
意識を失う寸前だったあの状況で、私が覚えているとは思わなかったのだろう。二人が共に意外そうにするので、私自身もよく覚えていたものだと思わず苦笑した。
たとえ死んでも感謝はしないけれど、あれだけの傷を負ってもなんとか意識を保っていられたのは、長年に渡るあの男からの折檻による痛みに慣れていたからだろうと思う。あれのお陰で痛みに耐えられるようになっていたと思えば、折檻を受け続けたのも無駄なことではなかったと、少しは思える。絶対に、感謝などしてやらないけれど。
「エイナー様がわたくしを命の恩人だと仰ってくださいましたが、それならば、わたくしにとってはフェルディーン様が命の恩人でございます。このご恩は一生忘れません」
「レナートで構いません。それに、私は当然のことをしたまで。こちらこそ、あなたが目を覚まされてよかった」
レナートの、護衛としての厳しかった表情が和らぐ。
私の方こそ、命の恩人にこうして礼を言うことができてよかった。そんな思いでもう一度感謝を込めて微笑んだところで、深い森を思わせる、しんとした響きのキリアンの声が私の名を呼び、その場の空気を変えた。
「……さて。ミリアム・リンドナー嬢」
笑みを消し、エイナーとは違う鋭い紅の瞳で私を捉えるその視線に、私の背筋が自然と伸びる。そして、彼が次に言うであろう言葉を覚悟して、ぐっと腹に力を込めた。
「弟の命を救ってくれた恩人に対して、このようなことを問う非礼を先に詫びておく。だが、必要なことだと理解してほしい」
「はい」
一拍、間が空く。そして。
「――あなたは、何者だ?」
静かな室内に、誤魔化すことを許さない端的な問いが、強い響きを持って発せられた。
やはりそう来たか――その思いに、私は意識して息を吸った。
「……わたくしは――」
キリアンの問いに答えるべく口を開きかけて、ふと思う。このままの話し続けてもいいのだろうか、と。
思いがけず、勝手に私の口が作法に則って喋り出してしまったけれど、本来の「ミリアム・リンドナー」はこんな言葉遣いではない。このまま、偽りの言葉遣いで自らのことを話すのは、キリアンに対して本当に誠実だろうか。
話し始めてすぐに言葉を途切れさせた私に、二人からの不信の目が注がれる。警戒を高めるその二つ視線を正面から受け止めて、私は改めて深呼吸した。
言葉を偽っては、信頼など得られない。私自身を見せなければ、意味はない。部屋の中に私を含めて三人――相対するのはキリアンたった一人――と言う状況に、私は遅まきながら冷静さを取り戻す。
今この場で最も大事なのは、王族に対する完璧な礼儀ではない。
「私は、ミリアム・リンドナー。アルグライス王国モールト領領主エルマン・リンドナー子爵の娘です。……と言っても、庶子ですが」
覚悟を決めて「今の私らしく」口を開いてみれば、当たり前ながら、それは自分の中にしっくりと来た。無意識に気負っていた気持ちが弛緩して、息を吐くのと同時に顔の強張りも解けた気がする。
私を見つめる二対の瞳が意外そうに瞠られるのを感じながら、私は、私自身の言葉で、できるだけ簡潔にこれまでのことを二人に話した。
家のこと、母のこと、母の死のこと、それからの暮らしのこと、針子として働いたこと、家を出たこと、旅の目的地はエリューガルだったこと、そして、その旅の道中で――騙されて攫われたこと。
私が話す間中、キリアンは眉一つ動かさず、ただ静かに私の話に耳を傾けていた。彼の表情からは内心を窺うことはできず、果たして私の語る言葉を信じてくれているのかどうか、判断ができない。それが少し、不安になる。
それでも、彼が私の言葉を遮らないことをいい意味に捉え、徐々に怠さを訴え始めた体調を無視して、私はどうにか最後まで話を続けた。
「……あとはキリアン様もご存知の通りです。死を覚悟したところをレナート様に助けていただいて……目が覚めたら、この部屋でした」
その一言を締め括りにしたと同時に、意図せず私の頭が揺れた。
ああ、と思った瞬間には、傾いた私の体はキリアンの腕に支えられ、口からは言葉の代わりに熱い息が零れる。
王子に世話をかけてしまうわけにはと、すぐにキリアンの腕から起き上がろうと思うものの、私の意思に反して、体は全く言うことを聞いてくれなかった。体の怠さと熱さに加え、私に目を開けていることすらやめさせようと、頭痛までもが激しく主張を始めたのだ。動こうと言う気力自体が、あっと言う間に削られていく。
最後まできちんと話さねばと思うあまり、私は無意識に無理をしてしまったらしい。医師に絶対安静を言い渡されていたんだったと今更思い出しても、後の祭りだ。
そしてエイナーのお守りも、私の無理を看過してはくれなかった。もう体を起こしていられる時間は終わりとばかりに、いつの間にか熱を失った小袋は、ただただずしりとした重みだけを私の手の平に残している。
キリアンの手によってベッドに横たえさせられながら、何も言わずとも医師を呼びに部屋を出て行くレナートの背中をキリアンの肩越しにぼんやり眺め、私は頭の痛みに顔を顰めた。
「すまない。無理をさせてしまったようだ」
ゆっくりと視線を戻せば、間近に、申し訳なさそうなキリアンの顔。私が小さく首を横に振れば、自分の行動を悔いるように、キリアンの形のいい口が歪んだ。
「あの、キリアン様……」
私がこうなったのは無理をした私の自業自得であって、キリアンが謝罪することなど何一つない。だから、謝らないでほしい。
それよりも、私にはまだ、最後にどうしてもキリアンに言っておかなければならないことがある。彼が私の話を信じてくれたかどうかは分からないけれど、こちらの意思だけは伝えておきたい。それを言わずにキリアンを見送ることだけは、したくなかった。
そんな思いを込めて縋るようにキリアンの紅の瞳を見上げれば、彼は私を安心させるようにその瞳を緩めて頷いた。
「心配はいらない。あなたは弟の大切な恩人だ。安心してゆっくり休むといい」
私の言わんとするところを理解してくたらしいキリアンに、私は全身から力が抜けるのを感じた。明言こそしなかったけれど、きっとキリアンは私のことをリンドナー家に伝えることはないだろう。彼の声音には、そう信じられる響きがあった。
私が今、どうにもならない死の運命以外に恐れる、リンドナー家に連れ戻されてしまうと言う未来からは、少なくとも逃れられそうだ。もしも連れ戻されるようなことがあれば、王太子に出会ったが故に死ぬよりも先に、私はあの男に殺されてしまうだろうから。
「ありがとう、ございます……」
「当然のことだ。ただ、その……」
それまではっきりと喋っていたキリアンが、不意に言葉を濁した。そして、今まであくまで王子然としていた彼の表情が、突然崩れる。
情けなく眉を下げて、私から視線を逸らしたのだ。
彼の長い指が頬を掻く様は、悪戯がばれて気まずそうにする子供とも、照れ隠しをしているとも見て取れ、私は新たなキリアンの表情に驚いて目を瞬く。
そして、続けてキリアンの口からぼそりと零れ出た言葉に、私は更に驚かされることになる。
「……あなたに無理をさせてしまったこと、エイナーには言わないでおいてもらえるだろうか……」
知られたら弟に叱られてしまう、と悄然とする姿に、私は体の不調も忘れて小さく吹き出してしまった。
記憶にこびりついた姿が、私にどうしてもキリアンに対して一定の恐ろしさを抱かせてしまっていたけれど、それが面白いほどに消し飛んでしまった。
「……っ」
私が突然笑い出したことに動揺する姿も、それに拍車をかけた。
ふと、エイナーがキリアンのことを「兄様」と呼んでいたことが思い出される。兄に甘える弟を、それ以上に甘やかす兄――そんな姿がすんなりと浮かんできて、頬の緩みが収まらない。
先ほどまで部屋にいた人が皆穏やかな表情をしていたのも、彼らの仕える二人の王子が、こんなにも互いを大切に思い合う仲のいい兄弟だと分かっているからか。
「……安心してください。エイナー様には内緒にしておきます」
「……助かる」
決まりが悪そうに目を逸らすキリアンが、肩の力を抜いて椅子の背に凭れる。その姿は一国の第一王子ではなく、ただの一人の兄のものだった。それに、私はまた笑みを漏らす。
その後、医師と侍女を連れて戻ってきたレナートが、部屋を出る前とはすっかり雰囲気の変わった私達を見て不思議そうな顔をしていたけれど、私もキリアンも、ただ笑むだけで何を言うこともなかった。
満足そうなキリアンと腑に落ちない表情のレナートが、医師によって退室を促されたのは、そのすぐあと。
私はと言えば、この時の無理が祟って、それから丸一日を再びベッドから起き上がることなく過ごす羽目になってしまった。
医師に呆れ交じりに注意され、侍女に酷く心配されたのは言うまでもない。