竜の意志と人の願い
『……か。りっか……』
声が聞こえる。
『六華……俺の愛する、ただひとりの女……目を覚まして、俺の最後の言葉を聞いてくれ』
懇願する声は、はっきりと六華の脳内に響いている。
六華はぼうっとする頭で目を見開くと、自分を腕に抱いている大河と視線が重なる。
黒い鱗に覆われた獣でも何でもない。いつもの大河だった。
黒の隊服に身を包んだ大河は、六華を子供の様に腕に抱き、一面真っ白などこかに胡坐をかいて座っていた。
六華が目覚めて、ほっとしたようだ。何度か瞬きをした後、唇を震わせながらささやいた。
『まずはお前ひとりにすべてを負わせていたこと、言葉を尽くして詫びなければならないが……時間がない。だから今の俺の気持ちを単刀直入に言わせてくれ。六華。樹を……俺の子を産んでくれてありがとう』
「え……?」
自分はもしかして夢でも見ているのだろうか。驚いてなにも言えない六華に、大河は言葉を続ける。
『まさか俺に家族ができてたなんてな……。それだけで今まで生きていてよかったと心底思えるよ。もう後悔はない』
なぜ彼が樹のことを知っているのか。もしかしたら家に行ったのか、樹に会ったのかと疑問が浮かんだが、それよりも大河の『後悔はない』と言い切る言葉にどこか不穏な空気を感じて、六華の胸の奥はひんやりと冷たくなった。
彼はいったい何をしようというのだろう。
『今の竜宮は昔とは違う。簡単に壊滅なんかしない。山尾先生もいるしな。あの人はこの俺がどうやったら死ぬか知ってる人だから……。だから大丈夫だ』
大河は何度も大丈夫と言いながら、六華の頬に手を当ててゆっくりと親指を動かす。
目の下を優しく撫でながら、慈しみに満ちた目で六華を見つめる。
『俺を捨てて、逃げろ。竜宮には向かうな』
「ちょっと、待って……」
『大丈夫だ。誰も殺さない。樹を人殺しの子にはしない』
「っ……」
その言葉を聞いて、ようやく大河の意図を理解した。
竜宮に行けばただではすまないことがわかっていて、だからこそ行こうとしている。
彼は自分から殺されに行くつもりなのだ。
それは彼が『もう人には戻れない』ということを意味していることに気が付いて、
「だ、めっ……」
六華の目から涙が噴き出した。
手を伸ばし大河の隊服の襟元をつかむ。
涙で六華の顔はぐちゃぐちゃになっていく。いやいやと首を振りながら、大河を見つめた。
「だめ、だめです、そんなのっ……」
たとえ人に戻れなくても、彼は彼だ。
六華が愛したたったひとりの男だ。
駄々っ子のように同じ言葉を繰り返す六華に、大河は困ったような微笑みを浮かべながら、ゆっくりと顔を近づける。
『六華……。樹とお前にはずっと幸せでいてほしい……』
そしてゆっくりと六華の唇にキスを落とした。
それはかすかに血の味がするキスで、別れの挨拶が夢でも何でもないことを六華に教えてくれる。悲しいくらい現実味のあるキスだった。
ふれるだけのキスをした後、顔を離した大河は名残惜しそうに六華を見つめ、隊服をつかんだ六華の手をほどいてその爪先に唇を押しつける。
ぎゅっと眉根を寄せ、また思い出したように六華の額に口づけ、身を絞るようなうめき声をあげる。
『ああ……我ながら未練がましいな……ここまで来て、お前と離れたくないと思うなんて……』
愛していると言われなくても、好きだ好きだと、何度も心に刻みつけるような大河の不器用なキスに、六華は泣きたくなる。
だが最初に『時間がない』といった大河の言葉は本当らしい。
何もなかったはずの真っ白な空間が、じわじわと黒く浸食されていく。
周囲を見回した大河が観念したようにつぶやいた。
『――さよならだ、六華』
「いやーっ!!!!!」
途端に六華の視界は真っ暗になった。
六華の体は、ジェットコースターのように急降下する。
いや、上っているのだろうか。
とにかく上下の感覚がまるでなく、ぐるぐると回っている。激しい渦のような流れに身を任せながら、六華は大河の最後の言葉を反芻していた。
(さよならって、言われてしまった……)
きっと最後の力を振り絞って、六華に感謝と別れの言葉を伝えてくれたのだろう。
大河は覚悟を決めた。
だから自分だって彼の尊い意志を尊重するべきで――。
(覚悟……意志……?)
ふと、疑問が心の表面に浮かび上がってくる。
いったい彼がなにをしたというのだろう。
逆鱗。忌まわしい存在。
呪いだのなんだの、望んで持った力でもないのに、なぜ彼がその責任を負わなければならないのだろう。
そして彼が『そういう風に生まれた』からと言って、なぜ私がそれに黙って従わなければならない?
(納得なんて、できないよ……)
腹の底からざわざわと波立つような怒りがわいてくる。
『幸せでいてほしい』
じゃない。
『一緒に幸せになろう』
と彼に言わせない、そんな寂しくて悲しい竜の決まり事なんか知るものか。人間の自分には関係ないとこっちから切り捨ててやる。
「っ……!」
六華はカッと目を見開いた。
おそらく六華が大河にしがみついてから、ほんの瞬き数回の時間だった。だがその刹那で六華は決断し、行動に移した。跳ねるように身をひるがえし、赤き竜の女帝のもとへと飛び掛かっていく。
(彼が自分で自分を止められないなら、元凶を断つまで!)
突然自分に向かってきた六華の姿に、女帝は一瞬目を見開いたが、にやりと薄い唇の端を持ち上げるようにして笑う。
「悪あがきじゃな……!」
人の身で何度向かってきても、指一本触れることはできないというのに、なぜ性懲りもなく同じ過ちを繰り返すのだろう。
竜を殺せるのは竜だけだ。
同胞を捨て、人を伴侶に選んだ黒き竜の愚かさに心底あきれながら、女帝は今度こそ六華をひねりつぶそうとさっと両手を伸ばしたのだが――。
『お か あ さ ん を い じ め る な !』
突如女帝の頭上に現れたまばゆい光が、六華に向けられた禍々しい力を消し飛ばした。