竜の災厄
術式は一時的な強化であって、体を作り替えるものではない。
それでなくても六華は薬を盛られ、おかしな力で意識を失い、体はとうに限界を超えていた。
六華が立って前に進もうと思えるのは、ただひとえに大河を救いたいと思うその一念である。
(やばい……目がかすんできた……)
六華は震える手でごしごしと瞼をこする。
血に濡れた暴力の中で、大河がもがき苦しむように殺戮を繰り返す背中が痛々しく映る。
(久我さん……大河さん、もうやめて……っ……)
珊瑚を杖のように突きながら、六華は必死に大河のもとへと向かった。
白装束の女は『逆鱗』を欲しがっている。大河はこの場にいてはいけないのだ。けれど大河は六華を護るために残っている。
久我大河としての魂を――削ってまで。
(やっと会えたのに……!)
自分の死よりも、彼を失うことのほうがずっと辛くて怖かった。
この六年、おそらく六華はわざと大河を思い出さないようにしていた。
樹という宝物を得てからは、もう自分の人生は十分これで報われたと真剣に思っていた。
だが違った。
大河と再会し六華はまた彼に恋をしたのだ。
許されないことかもしれないが、彼と、そして彼との間にできた樹とともに人生を歩みたい。
それが六華の今の望みであり希望だった。
だが今、荒れ狂う大河はまさに台風だ。彼が腕を振り上げると空気は刃になり、周囲にかまいたちのように広がっていく。
「くっ……!」
六華の隊服が裂ける。結界の役目も果たせる珊瑚をなんとか盾にして前に進むが、徐々に六華を刻む刃は深く鋭くなった。
「ほほほ、逆鱗よ、もう少しじゃな……! もう少しでそなたは完成する……!」
嵐の中心で、女が歓喜の声を上げているのが聞こえる。
「我ら赤き竜の呪いの結晶! かつて黒き竜に送り込んだ竜殺しの劇薬よ……! そなたと我らの祖が甦れば、我らの悲願は果たされようぞ……!」
彼女は赤の竜の一族の女帝。
人に寄り添うことを拒み、神になり損ねた竜の眷属の一派であった。
彼女の顔を覆っていた紙はすでに吹き飛び、大河と同じ、赤い目がらんらんと輝いていた。かつての竜の名残か、額には宝石のように輝く鱗が埋まっている。
「さぁ、さぁ、そのまま竜宮へ向かうのじゃ! 逆鱗よ、邪魔をするものはすべて殺せ! あさましく醜い人間も、その人間と契ることを選んだ竜も、すべて燃やし尽くしてしまえ……!」
ガラス窓が激しい音を立てて割れる。それを合図に使い魔たちが、一斉に窓へと向かっていく。
『グォオオオオオオオーーー!』
完全に理性を失った大河が、鵺を追いかけようと身をひるがえす。
「だめーーーーーーっ!」
その瞬間、六華は大声で叫びながら、大河の背中に飛びついていた。
大河の体にしがみついた瞬間、全身が炎に包まれた気がした。
全身に毒薬を注ぎ込まれたような激痛が走る。
「……!」
もはや悲鳴すら出ない。
六華の目から、大粒の涙があふれて、喉から生暖かい血が噴き出した。
こふっと、六華のどのが鳴った。
「愚かな娘よ、わざわざ死に向かうとは」
赤き竜の女帝はほほほ、と笑い、彼を外に出すまいと珊瑚を床に突き刺して、大河を必死に押しとどめている六華を見つめる。
妙に勘が鋭く殺しにくい、おかしな女だった。
だが竜の気に当てられて満身創痍だ。死が間近に迫っている。
(所詮は人間よ。われらに力が及ぶはずがない)
彼女にとって、いい意味で誤算だったのは逆鱗だった。
逆鱗は、誇りを捨てて人と契るようになった黒き竜へ送った、旧い呪いのひとつだ。
竜でありながら竜ではない。竜を殺せる力を持つ者。それが逆鱗。
万に一人しか生まれない竜の子が、竜ではなく制御できない力を持つ毒として生まれるのだ。
ひとたび目覚めれば血を求めずにはいられない。そういう風に作られた呪いだった。
表の歴史に出てくることはないが、過去何度も逆鱗は血を求め竜宮を破滅の危機に陥れたことを女帝は当然知っている。
呪いの意味を知った歴代の竜王は、角を持たずに生まれた子を即座に殺すようになったという。それも当然だ。獅子身中の虫をわざわざ生かしておくはずがない。
なんという皮肉。子を残すことを選び誇りを捨てた竜が、出来損ないとして子を殺すのだ。
これこそ竜にとって一番の災厄である。
「こうやって生き延びた逆鱗がいたとは……。愚かな竜王よ……」
これも『祖』の導きに違いない。
赤き竜の望みは『祖』をよみがえらせ、新しき竜の世を作り直すことだった。
そのために長い時間をかけて、いけにえを集めて捧げてきたのだ。
逆鱗は使い魔を追って竜宮へと向かうだろう。
そして竜宮にいるすべての裏切り者を殺し尽くす。
ようやく我らの時代がやってくるのだ。
「ふふふ」
女帝は楽しくてたまらないと言わんばかりに、笑い声をあげた。