六華、飛ぶ
床下は、六華の身長でも立ち上がるには少し低過ぎた。
なので這いつくばりながら、匍匐前進の姿勢でとりあえず前方へと進む。
いや、前方と言ってもそれが前なのか正直わからない。案外反対側に進んだ方がどこかに出るのは早いかもしれない。
(とりあえず進もう……)
脳内で自分が閉じ込められていた牢屋の地図を展開する。
玲が来た方向に出入り口があった。だからとりあえずそっちの方向へと進んでみようと思ったのだ。
ここが地下でなければいいのだが、床板をはがせたことでその可能性は低いように思う。ただ自分が這いつくばっている床が土ではないことからして、ここが一階であるという可能性も薄いようだ。
念のため拳で叩いてみたが、分厚い鉄筋なのか、コンクリートなのか、さすがに殴って壊すのは無理そうだった。
(なんとなくだけど、こっちのほうから風が吹き込んでくる気がする……)
たとえどこに出ても、術式を使えば多少の高さなら飛び降りられるはずだ。
そう、はずだったのだが――。
「えっ……」
六華は硬直する。
床下から途中通気口に入ったことで、このまま外に出られるのかと期待したのだが、行き着いた先の、目の前に広がる景色に絶句した。
景色のほとんどが延々と続く灰色の空で、明らかに十階どころの話ではない。
「せいっ……!」
とりあえず通気口の金網を蹴り飛ばして曲げると、両手を使ってそれを外し自身の頭を外に出した。
どうやら外は雨が降っているらしい。びゅうびゅうと強い風とともに雨が吹き込んでくる。眉をしかめながらなんとか下を覗き込むと、ガラス張りの窓がどこまでも続き、はるか下に傘を差して行き交う人々の姿が見えた。
「もしかして……ここ、オフィスビル……?」
そう、六華が閉じ込められていたのはビルだった。
高さ百五十メートル以上は間違いなくあるだろう。オフィスビルなら三十階はあるはずだ。
そして自分が立っているのは、おそらく建設途中に作った資材を運び入れる足場のようだ。がらんとしてほかにどこに通じるわけでもない。ただの空間だ。
さすがの六華でもなにの準備もなくここを飛び降りるというのは、無謀すぎた。
たった今外した金網や、なにかモノでも落として通行人に気づいてもらえないかとも考えたが、この高さだと怪我をさせてしまう恐れがある。
「どうしたら……」
六華はため息をついて、雨風が吹き込まない程度の場所に戻り、そのままずるずると膝を抱えて座り込んだ。
情けないことこの上ないが、突然心細くなってしまったのだ。鼻の奥がつんと痛くなる。
「ぐすっ……」
慌てて手の甲で、目の端にうっすら浮かんだ涙をぬぐい、唇をかみしめる。
(諦めるな。まだなにかできることはあるはずだ……)
だがそんな六華の希望は早々に打ち砕かれる。
「りっちゃん、そこにいたんだ」
「ひっ……!」
唐突に声がして、六華は飛び上がり背中をしたたかに壁に打ち付ける。
暗闇の奥から懐中電灯の明かりが伸びてきた。
「玲さん……」
床をぶち抜いてきたのだ。そのうちばれるだろうとは思っていたが、ここまで早いとは思わなかった。
「本当に君はどこまでも往生際が悪い」
玲は優しく微笑みながら、持っていた懐中電灯を六華の顔に当てて、困ったな、と肩をすくめる。
「そこは危ないから。こっちにおいで」
「――いやよ」
六華は首を横に振る。
「柚木さんはどうなったの」
「生きてるよ。でも……もってあと数時間だろうね」
「っ……!」
全身から血の気が引く。
指先が凍えるほど冷たくなって、うまく息が吸えない。
「どうしてそんな、むごいことを……!」
「りっちゃん。これは必要なことなんだ。屍を積み上げないとなにも変わらない。それが竜宮という場所だからね」
「そんなのおかしいよ……」
「そうだね。でも僕はまずこの世界がおかしいんだと思う」
「……私もいけにえにするの」
「するよ。あまり痛い目に遭わせたくないんだけど……」
慈しみに満ちた声だが、一瞬で、鋭い殺意が六華を貫き、息が止まりそうになった。
玲が懐中電灯を床において、愛刀である紅玉の柄に手をかける。
居合だ。
彼がひらりと一閃すれば、自分は簡単に切られてしまうだろう。
同じ剣士だからわかる。ここで玲をやり過ごせる方法など一つもないということを。
(せめて珊瑚があったら……戦えるのに……!)
玲に攫われた時点で、珊瑚は取り上げられている。
徒手空拳で、どうやって立ち向かえるというのだ。
悔しい。情けない。
もっと自分が思慮深く振舞っていたら。もしかしたらこんなことになる前に、玲を止めることができたかもしれない。
後悔の念が、後から後から噴き出してくる。
だが玲は本気だ。今更六華になにを言われても、考えを改めるようなことはないだろう。
(どうして……どうしたら……)
いけにえ。それがなにを意味するのか、まだ六華はわからない。
柚木は逆鱗を竜の呪いだと言い、乙女たちはみなその逆鱗のいけにえになったのだと告げた。そして大事な人を竜のいけにえにされたという玲は、その復讐のために竜宮を破壊するのだと――。
ふと、大河の顔が脳裏に浮かぶ。
ツノナシと呼ばれ育った大河は、逆鱗なのだろうか。
わからない。
でも、確かに彼が竜の呪いから生まれた存在だったら。
世界中の人々に疎まれる存在だとしたら――。
自分はどうしたい?
その瞬間、それまで迷いに迷っていた、六華の腹は決まった。
「私は……ならない……っ!」
震える唇で、それでもはっきりと宣言した。
「りっちゃん?」
突然なにを言い出すのかと、玲が眉をひそめる。
六華はあふれ出てくる涙を乱暴に手の甲でぬぐうと、今度はまっすぐに玲を見つめて叫んでいた。
「私は、彼を苦しめる、竜のいけにえになんか、絶対にならないっ!」
そしてそのまま、助走をつけると勢いよくビルの外に向かって走っていた。
「りっ……死ぬ気か!」
玲の顔面が蒼白になる。
加速した玲の伸ばした指先が六華のジャケットをかすめたが、届かなかった。