対話
(術式、展開)
瞳に術をかけたが視界に変化はない。まるで墨で塗りつぶされているようだ。
すぐ後ろにあるはずのドアに手を伸ばしたが、指先は宙を切るだけでまったく距離感がつかめないときている。ということはこれは視力の問題ではなく、違う形の力がこの空間に干渉しているということなのだろう。
(罠というわけではなさそうだが……さて)
己を拒むように固く閉ざされていたドアは、結局開いた。
自分はこの部屋にいる者に『招かれた』のだ。
存在を明らかにしようとしなかった悟朗は、『いつき』にこんな力があることを知っているのだろうか。
六華は?
血のつながった家族だと言っていたが、この部屋で眠っていたはずの『いつき』はいったい何者なのだろう。悟朗に尋ねようにも彼とは分断されてしまった。だったら自分でなんとかするしかない。
(術式でも視界は悪いまま……。どうしたものか)
陰陽の業か、それとも自分が知らない大陸由来の術のたぐいか。
大河は武術と己の肉体に対するステータス上昇に限っての術式の才能はあったが、自分以外の相手に干渉するような術には弱かった。幼いころからずっと鍛錬はしているが、術というのは努力ではいかんともしがたいものだ。相性もある。
であれば、とりあえず竜の力の顕現でもある金剛を一振りすることでこの空間に満ちている不思議な力を切り裂くくらいしか思いつかないのだが、ここには『いつき』がいる。さすがに剣を振り回すことはできなかった。
(たとえ目が見えなくても肌感覚はある)
大河は床に片方の膝をついたまま、気配を探った。
この部屋に飛び込む直前、赤い光が見えた。
およそ腰の位置にあったふたつの光。
(あれは……もしかしたら子供の目だったのかもしれない)
まるで時が止まったようなこの空間は確かに異常だが、とりあえず相手の懐に入れてもらったのだ。
(だとすれば……)
大河はゆっくりと呼吸を整えたあと、口を開いた。
「俺の名は久我大河という。君はいつき……で間違いないだろうか」
黒いスニーカーの持ち主なら男の子の可能性が高いとは思うが、決めつけはよくない。大河はとりあえず名乗ることで相手の反応をみたが返事はなかった。
とりあえずドアを『いつき』は開けてくれた。話を聞く気はあるはずだ。
大河はさらに言葉を続ける。
「三番隊の詰め所に電話をしてきたのは君ということでいいのかな。その電話をとったのが俺だ。きみのお母さんはどこにいる? お母さんがいる場所を教えてくれたら、助けを向かわせることができる。よかったら俺を信じて、お母さんの話をしてくれないか」
六華のことを聞きたいのはやまやまだが、今は子供の不安を解消させるほうが先だ。
大河は言葉を選びつつ、問いかけた。
だがいくら耳を澄ませても返事はない。無視されているのだろうか。
(まぁ、子供に好かれるたちではないしな……)
少し残念に思いながらも、大河は乾いた唇を舌先でしめらせながらうつむく。
(六華……)
どこでなにをしているのか、やはりなにか事件に巻き込まれたのかもしれない。いや、そうなのだろう。こうやって自分が何もできずにいる間、ひどい目にあわされていたらと思うと、口の中に鉛でも流し込まれているような気がして苦しい。
なぜ守ってやれなかったのか、異変に気付いてやれなかったのか。自分を責めても仕方ないのにふがいない自分に吐き気がする。
だが――。
大河は暗闇の中で、この部屋のどこかにいるはずの『いつき』を思う。
大人と子供。守らなければいけないとしたら、優先すべきは子供のほうだ。
きっと六華だって同じことを考えるだろう。自分よりも小さくて柔らかな心を助けることを選ぶだろう。
(彼女が俺にしてくれたように……)
彼女は強い女だ。
きっと負けない。絶望もしない。折れたりしない。
そう信じて、大河は今自分ができることをするしかない。
「――俺には『お母さん』の記憶がないんだ」
大河はいつでも剣を抜けるようにしていた膝を下ろして、床に胡坐をかき、その上に肘をのせ頬杖をついた。当然持っていた金剛からも手を放していた。
この不思議な空間の中で金剛から手を離すのは愚の骨頂だが、相手は子供だ。
信じてもらうためには、まず自分が信じるしかない。
「俺は竜宮で生まれた。父親は……御名を口にすることはできないが、この国でもっとも尊い存在と言えばわかるだろう。母親は知らない。たぶん貴族ではなかったんだ。貴族であれば俺は母方に引き取られて政治の駒にされていただろうし、もしかしたら早々に暗殺されて死んでいたのかもしれない」
子供に唐突に聞かせるような身の上話ではないとわかっているが、自分がどうして母親がいないのか、この部屋にいる『いつき』に聞いて欲しいと思ったのだった。
「後宮の奥深くで育てられて、小学校に入るまで母親という存在を知らなかった。信じられないだろう?」
大河はくすりと笑う。
「知ってからは荒れたな……。自分が周囲の人とはまったく違う、特殊な環境で育ったことが理解できなかった。『普通』が羨ましくて、本当に羨ましくて……ねたんで、憎んで……苦しんで……。ずいぶんと周りに迷惑をかけてしまった」
後宮から連れ出してくれた山尾はその筆頭だ。
だから大河は山尾にいまだに頭が上がらない。
「顔も知らない母親を憎んだこともある。なぜ自分を生んだのかと……お役目も果たせない俺をなぜ生かしておいたのかと。だが……今は違う。この世に生んでくれた母に感謝している」
『なぜ……?』
そこで唐突に、頭の中で声が響いた。
一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
だが実際そうなのかもしれない。視界を奪われているのだ。聴覚だって正常とは限らない。