矢野目家の違和感
『おかあさんをたすけて』
一瞬、脳内でモールス信号を打った誰かと重なったが、まさかあんな小さな靴を履く子供ではあるまい。あれは冷静で落ち着いた思考に基づいたと思われる信号だった。そもそも妊娠している双葉は竜宮にいて、この家に『おかあさん』はいないはずだ。
「矢野目さん、中に入れていただいても?」
茫然と立ち尽くしている悟朗に、大河は改めて尋ねる。
「ああ、そうだな。悪い、入ってくれ……」
大河の申し出に、悟朗は焦りながらもしっかりとうなずいた。
「お邪魔します」
ブーツを手早く脱ぎながら、そしてふと思いついたように、悟朗に尋ねる。
「すみません。車をどこかに停めたいんですが、駐車場はありますか」
「駐車場……? ああ、うちの敷地の裏に道場があるんだが、玄関からぐるっと反対側に回れば車一台分の空き地があるよ。そこに停めてくれればいい」
「わかりました。加地、頼む」
「はい」
大変なことになったと緊張した様子の加地に車のキーを渡しながら、
「――この家を見張っていてくれ。あと相談役に報告も頼む」
と、耳元でささやいた。
「了解」
加地の表情が引き締まる。
もしこれが六華の誘拐ということに繋がるなら、この家だって犯人に動向を見られていてもおかしくないのだ。
考えてみれば、皇太子妃への脅迫が双葉だけに向けられるというのは浅慮だ。本人に危害が加えられないのなら、家族へその敵意が向かうというのも当然ありうる話である。
(そのあたり、先生はどう考えていたんだろうか……)
自分が知らないだけで、もしかしたらこの家にはすでに警備がつけられているものなのだろうか。
この家に入る前に、もっと注意深く辺りを調べておけばよかったと思うが今更だ。
(いや……やはり竜宮がそこまでの価値をこの家に見出すはずがないな)
冷酷ではあるが、竜宮が守るのは竜の血を引いた王族やごく一部の上位貴族だけだ。皇太子妃が守られるのはその腹に竜の血を抱えているからであって、妃の家族はただの人でしかない。
リビングルームに招き入れられた大河は、ソファーに腰を下ろした。
広さは十二畳くらいだろうか。ローボードの上にテレビがあり、部屋の真ん中にはソファーセットとローテーブルがある。全体的に落ち着いた雰囲気の、ごく普通のリビングルームだ。
テレビの横にはカラーボックスが置かれて、中には宇宙や動物、化学関係の雑誌がぎっしりと詰まっていた。日本語のものもあるが英語のものもある。
(いったい誰の趣味だ……?)
六華だろうかと思ったが、脳内ではいまいち結びつかない。
(おかしい……矢野目の家は、父と子の二人暮らしのはずだ)
隊長に就任してから、とりあえず全員の家族構成は把握している。だがこの家はどうだ。大河の胸に違和感がじわじわと押し寄せてくる。
ポットでお茶を淹れようとしている悟朗を見て「気遣いは不要」と告げたが、
「俺が落ち着かねえから淹れさせてくれ」
と言われて、大河はうなずいた。
確かにルーティーンの作業は平常心を取り戻す作用がある。大河が自炊をするのも似たような理由だ。
「隊長さん、六華は昨日、終業間際に数時間程度遅くなるってメッセージを送ってきたんだ」
「そのメッセージを見せていただいても? 時間を確認したいので」
「ああ、もちろんだよ」
お盆に乗せた湯呑を大河の前に置きながら、悟朗はポケットからスマホを取り出してアプリを立ち上げる。
「感謝します」
大河はスマホを受け取って、六華から悟朗に送られたメッセージの時間を確認する。
「――確かに彼女が帰る前ですね。この後、彼女を呼び止めて少しだけ話をしたので、時間を覚えています」
「そうか……」
もしこのメッセージが彼女の手によるものではないとした場合、発信時間や状況からなにかしらのヒントが得られるのではないかと思ったのだろう。
大河の返事を聞いて、明らかに悟朗は肩を落とした。
「気落ちするのはまだ早いですよ」
「というと……?」
「このメッセージは彼女の意志で送ったもの。残業ではないが、何かしらの用事をこなすために帰宅が遅れるという連絡を入れたのでしょう」
「ああ……そうだな」
大河はスマホを悟朗に返しながら問いかける。
「六華さんの交友関係は?」
「――昔から友達はたくさんいるが、友達と遊ぶから帰りが遅くなるということはないと思う」
「……なぜですか」
歯切れの悪い、けれどどこか断定的な悟朗の言葉に大河は眉をひそめた。
「六華さんは年頃の女性だ。仕事帰りに友人と会うこともあるのでは?」
「うん、まぁそうなんだけどな……」
正面に座った悟朗の挙動がどんどん怪しくなっていく。
(俺と食事に行くときも、夜は難しいと言っていた。過保護な父親だからと……)
確かに目の前にいる悟朗は、見た目はかなり苛烈そうな雰囲気があるが、エプロンを付けて朝ご飯を作っている姿は人の好さが前面に出ていて、そこまで娘の行動を縛り付けるような、いわゆる毒親には見えない。
「――矢野目さん。あなた、私に何かを隠していませんか」
「えっ……!?」
悟朗がぎょっとしたように目を丸くした。
「六華さん個人というよりも、この家自体に私はなにか不思議なものを感じる。たとえば今朝、詰め所にかかってきた電話もそうです。あなたがかけたものではないというのなら、ほかの誰かということになる。六華さんでもないなら、誰なんです」
悟朗の体が緊張でこわばった。
「この家、二人暮らしではないですね?」
大河はソファーから立ち上がると、天井を見上げた。
「二階ですか」