五感を超えて
「もしもし……久我ですが」
『――』
電話の向こうは相変わらず無言だ。
こちらの声が聞こえていないのだろうかと思ったが、それなら向こうからなんらかのリアクションがあってもいいはずだ。
大河は慎重に耳をすませる。
なにかの事故でも起きたのだろうか。
もし彼女が声を出せない状況なら、今すぐそちらに向かうだとか、助けるだとか、うかつなことは口にできない。
「もしもし……聞こえますか?」
そう言いながら、とりあえず電話口の向こうにいる『誰か』の気配を探ろうと、意識を集中させていると――。
カツカツ、と、なにかを叩く音が電話口から聞こえてきた。
『カツカツ……カツ、カツ……』
『カツ……カツ……』
意識しないとわからないレベルの意味のない異音だ。
受話器の具合なのだろうか。それとも混線しているのだろうか。そう思ったが、大河はすぐに否定した。
大河はそこに人為的なものを感じたのだ。
(この音に意味がある……?)
大河は自らの意識をさらに集中させる。
感覚は鋭利になり、頭のてっぺんから自らを穿つ光に姿を変え、肺、仙骨、それから大河の両足まで通っていき足の裏から地球の中心まで根を張り広がっていく。思考が錐のように鋭く尖っていく。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、五感の向こうへと跳んでいく。
自分という存在が、この大地の中心であると錯覚させるような感覚が、夜明け前に届けられる無機質な音を拾い上げて、明瞭にかたちにしていく。
それは竜独特の思考術だ。
『……けて』
遠くから声が聞こえた。
六華の声ではない。もっと幼い声だ。ちいさな女の子のような、あどけなくてかわいらしい声。
なぜか一瞬、二十年前の自分がここにいて大人の自分に助けを求めているような気がして、激しい眩暈が起きる。
(くそっ……)
記憶のフラッシュバックに戸惑って、倒れている暇などない。とっさに片手をデスクの上につきなんとか転ばないように足に力を込めたが、声はどんどん大きくなっていく。
『おか……けて……!』
声なき者の声を聞けるのは、かつて万物の長であった竜のころの名残なのかもしれない。
だが頭に響く声は大きすぎて、逆に何を伝えたいのかうまく聞き取れない。
『カツカツ……カツ、カツ……カツ……カツカツ……』
夜明け前に届けられる無機質な音は、大河の脳を大きく揺らす。
(これは、なんだ……?)
激しい頭痛と吐き気をこらえて、さらに大河は思考を深くする。
深海よりも谷よりも、もっと深く。暗い所へ――。
【・-・・・ ・-・・ --・-- -・-・- ・-・-・ ・--- -・ ---・- -・-- ・-・--】
その瞬間、大河のアンテナがなにかを拾った。
混線していた思考のチャンネルが繋がり、無機質だと思った音が意味のあるものへと置き換えられる。
(これは……モールス信号……!?)
トンツーの、ツーはないが、特定のリズムがそれを想起させる。
百八十年前に米国で生まれ、二十年ほど前までは日本国の通信業務でも使われていた文字コードだ。しかも国際基準である欧文モールス符号を、さらにいろは順に置き換えていている。だからすぐにわからなかったのだ。
(俺としたことが……!)
反省しつつも、正解に近づいたと感じた大河は、聞こえた音を確認するように口に出していた。
「おかあさん……を……た、す、けて……?」
次の瞬間、ガチャンと電話が置かれる音がして。
「あっ!」
大河は慌ててかけなおしたが、受話器が外れているのか話中になっていた。
【おかあさんをたすけて】
モールス信号がたしかにそう告げていた。
(お母さん? どういうことだ)
六華に母親はいないはずだ。
たとえば父親の母は、祖母だが。同居している祖父母がいるとは聞いたことがない。
信号を送ってきたのは誰なのだろう。
「隊長……どうでした?」
そばで様子をうかがっていた隊士が、表情をこわばらせている大河を見て、不安そうに顔を覗き込んできた。
「――家に」
「え?」
「矢野目の家に隊士を向かわせる。もちろん俺も行く」
「えっ!?」
「詳しくはわからないが、なにか異変が起きているようだ」
大河はそう言って受話器を置くと、腕時計に目を落とした。
夜明けまであと一時間。
胸騒ぎが止まらない。