契約 1
そのニュースは昼食の支度をしている最中、彼女たちの元にまるで荒馬のように駆け抜けてきた。
「東のワーガットが国境周辺で小競り合いを仕掛けて来たらしいって!」
「ええっ、本当に?」
「だって、あそこの国って、この間も隣のザックラーとやりあってなかったっけ?」
「だからだろうよ。結局うちのアウデインが仲裁に入って終結しただろ。それを根に持ってんじゃねえのかな?」
ここ四十年ほど、アウデイン王国では戦争どころか、近隣諸国との小さな諍いすら起きてはいないため、皆突然の事態に驚きと、それ以上の興味を持って話し回っている。
公爵家の統制のとれた使用人ですらそうなのだ、市井の人々ならもっと声高らかに憶測を飛ばしあっているのだろう。
サイガスト公爵はといえば、その一報を聞くや否や、取るものも取らず王宮へと馳せ参じていった。
公爵領は王都より西側にある為に、直接的な被害はないと思われるものの、王国としての対応がどうなるかはわからない。なんとなく皆が落ち着かないまま日々の仕事を済ませて行く。
レティシアも、昨日起こった魔王との約束もすっかりと忘れ、頭の中が王国の大事でいっぱいになってしまった。
***
「マチルダ、ミラベル、次の王宮舞踏会は中止だ。王太子殿下の婚約式はひとまず延期となった」
晩餐後の居間に、今しがた王宮より帰宅したサイガスト公爵の大きく太い声が響くと、ミラベルの表情が喜色に満ちた。
きっと、昨日の魔王ロヴとの約束を思い出したのであろう。
しかしそれとは反対に、サイガスト公爵夫人であるマチルダの表情はさえない。
「まあ、ではやはり東の情勢がよろしくないのでしょうか?」
「いや、魔陣牒ですぐに送られてきた情報によるとそこまで緊迫したような状態ではない。しかし、ルミオズ辺境伯がなあ」
「辺境伯……ルミオズの叔父様が、どうかされたのですか?」
マチルダの母親の弟にあたるルミオズ辺境伯は、東の国境付近のビエル地方にてその勇を誇る、王国の槍と呼ばれる男だ。
五十半ばにしてなお、一線で指揮を執る勇猛果敢な人物である。
「あー……今回の小競り合いの件でな、最近少しばかり王国の威信が揺らいでいるからこういったことが起こるのだ、と。そのためにも一度、国軍の演習も兼ねた行軍を強く進言された。そして、成人されたのなら王太子殿下にそれを率いてこいと言われてなあ」
「まさか、そんな無理が通ったのでしょうか!?」
「通ったのだ、何故か、な。そんな訳で、殿下は二ヶ月ほどあちらで指揮を執ることになった。まあ、あくまで合同演習だということだから、特に心配もすることもないらしい。陛下にもおかれても、平時と同様に過ごすようにとのお言葉も賜ったよ」
ここでサイガスト公爵は、今日初めてミラベルの顔を見る。
「そんな訳だから、ミラベル。お前の成人のパーティーは予定通り行うが、若干招待する客に変更はあるかもしれん。いいな」
「わかりました。お父様のよろしいように」
流石に公爵令嬢らしく、慎ましやかに、且つ淑やかに答えるミラベルであった。
しかしそこまで話を聞くと、最初の嬉しさが滲む表情は鳴りを潜め、かなり落ち着きがないようにも見える。
ミラベル座るソファーの横に立ち、黙って大人しく付き添うレティシアには、何故かそう強く感じられた。
「待って待って、待って!どうしてこうなるの?」
「ミラベルお嬢様のお望みですわ。良かったではありませんか」
「良くないわ。そんな、婚約発表が中止になればいいと思っただけで……パーシーに戦場へ行って欲しいだなんて思ってなかったわ」
ミラベルの自室にて、彼女の寝る前の支度を手伝いながら、少しつっけんどんな言い方でレティシアが伝えると、随分と戸惑い苛立ったような声を出して答える。
そんな彼女を見ていると、まるで幼い頃の自分の様に思えて、少しだけ可哀そうな気持ちになり、慌てて言葉を繕った。
「戦場ではありませんよ。訓練の為の兵を率いて行かれるのだと、公爵もおっしゃられていました」
「そんなことわからないじゃない!ワーガットが攻めて来たのは事実なんでしょ?だったら何かが起こったらどうするの?」
「落ち着いてください、お嬢様」
「ああ、もうこんなことならロヴにお願いなんてするんじゃなかった……」
物事に絶対などはない。幸せな毎日が、ある日突然音を立てて壊れてしまうことを、レティシアは身を以て知っている。
だからこそ、日々の毎日を悔いの無いように生活していかなければならないのだ。
今のミラベルの様に、自分の我が儘が引き起こしたことの大きさに後から気が付くのでは遅いのだと――
「とりあえず約束ですから、私はこれから『魔王ロヴ』に会ってきます」
「わ、私もっ……」
「いけません、お嬢様。私一人で、と申しておりました。ミラベルお嬢様は早くお休みになってください。そうでなければ、いつまでたっても会いに行くことがかないません」
一人で来いなどと言われた覚えはないが、レティシアはそう言ってミラベルの部屋を後にした。
あんな状態の彼女を、連れて行く訳には行かないし、連れて行けるのかもわからない。
途中窓から見た夜空には、昨日の黒の日とは違い、綺麗な星が瞬いている。
髪に隠れたロヴの瞳の中にも、同じ様に美しい星の輝きを見た気がしたのだが、何かの間違いだったのかと、残念な気持ちを抱えながら自室へと急いだ。