帰還 1
「呼ぶんだ、レティシア。その魔獣の名前を」
「ど、どうして?何があるの?ブランはそんなにすごいの?」
確かに呼んだらすぐにレティシアの元に駆けつけるとは言っていた。だが、時間まで越えて来られるものなのだろうか。
そんなふうに考えをぽろりと口に出すと、また優しい顔を見せながら笑う。
「すごいのは、レティシアだ。普通、魔獣は自分から名乗らない」
「そうなの?」
思い返してみても、ブランは最初から友好的だった。
それどころか自分からレティシアの胸に飛び込んできたくらいだ。気にしている胸の大きさを暴露されたのは恥ずかしかったが、それ以降はなんでもレティシアの言うことをきいた。
「じゃあ、ブランを呼べば、帰れるのね」
自分で言いだした言葉に、じわりじわりと歓喜の情が湧き出してくる。
例えそのまま一緒に帰ることは出来なくても、少なくともグレン・ロヴには伝わるのだ。
そうすれば、きっと彼は助けてくれるとレティシアは信じている。
息を一つ吸い込んで、絞り出すようにして魔獣の名を呼んだ。
「来て、ブラン。ブランシッカドエルジェ、……お願い!」
ピシッと空気が裂けたような音がした。途端見たこともないような大きな影が映ったと思いきや、のんきで明るい声が響いた。
「レティー!お待たせー」
「ブラン!来てくれたのね」
名前を呼べば、嬉しそうにレティシアの胸に飛び込んでくる。陽気な魔獣は、どこにいても相変わらずだ。
彼女の手が、よしよしと頭を撫でるのを気持ちよさそうに享受している。
「あら、これは何?ブラン」
首の辺りまで撫でる手が移動したことで、指に何かが引っかかるのを感じた。
そこでようやく、グレン・ロヴとの約束を思い出したのか、ブランが慌てて紐を食いちぎった。
「ロヴから持ってけって言われたの。レティが使う魔陣牒だって!」
そう言って彼女の手にその魔陣牒を落とすと、お使いが上手に出来たとばかりに、鼻を高くして目を細めた。
「魔陣牒……ロヴから……」
バッと後ろを振り返り、一歩下がったところでレティシアとブランの再会を見守っていた若き魔王へと顔を向ける。
「ロヴから、魔陣牒が来たわ!ねえ、これって……」
「ああ、そうだ。これで元の世界に……君の元いたところに帰れるよ、レティシア」
その言葉を聞き、たった今届いた魔陣牒を胸に抱きしめた。
これで、本当に帰ることができるのだと、あの少しいじっぱりでわがままな、それでもとても優しい魔王の元に帰ることができるのだと安堵した。
「ロヴ、グレン……」
もう一度、彼の名前を呼べば、ぽかぽかとした温かい気持ちが胸から全身へと伝わるのがわかる。すぐにでも行かなければと、魔陣牒を開いた。
「悪い、レティシア。行く前に少しだけそれを見せてもらえるかな?」
「え、ええ。いいわよ、はい」
こちらの若き魔王にも随分と世話になったレティシアは、なんの疑問もなく手渡した。
すると彼はその魔陣牒を一瞥し、何故か苦虫を噛みつぶしたような、奇妙な表情を見せた。
「ねえ、どこかおかしいところがあるの?」
その顔つきが気になり、つい声に出して尋ねると、彼は頭を掻きながら苦笑いを彼女に向ける。
「いや、なんというか……すごく俺らしい魔陣牒だなって思っただけさ」
「そう、よかった……」
「大丈夫だ。それなら絶対に戻れるから、安心しろ」
「うん!ありがとう、ロヴ。あなたがいなかったら、私どうしようもなかった」
魔陣牒を返してもらうと、早速床の上に開いたそれを置く。そうしてもう一度彼の方を向いた。
「本当に、ありがとう」
心から感謝の言葉を告げると、少し照れたような顔をしたグレン・ロヴがレティシアへと声をかけた。
「レティ、そう呼んでも?」
「勿論よ、ロヴは最初からそう呼んだわ」
そう言いながら満面の笑顔を見せるレティシアの右手をとり、彼はそっと唇をそこに落とした。
「えっ!?」
グレン・ロヴの突然の行動に驚いたレティシアは、思わず手を引っ張り離してしまった。
そんな彼女に向かい、彼はゆっくりと別れの言葉を口にした。
「さよなら、レティ。もう行けよ」
「う、うん。じゃあ、また、向こうでね、ロヴ」
「ああ、さよなら」
彼の言葉を聞きながら、レティシアは開いた魔陣牒に両手をかざす。
以前、魔王召喚の時に、ミラベルがこうしていたのを覚えている。きっと、あの魔王は彼女がそうすると考えて作っていたのだろう。
ぶわっと光が噴出したのが見えたのと同時に、レティシアの姿はそこからもう消えていた。
そうしてその場所に残るのは、若き魔王と、魔獣ブランだけになってしまった。
しかし、そのブランも早く追いかけたいとうずうずしてるようだ。
「んじゃ、俺も行くね。ちっちゃいロヴ、ばいばーい!」
「わかった。じゃあな、赫然たる白角の魔獣」
魔獣は自ら認めた者以外に名を呼ばれることを好まない。その習性を知っている彼はわざとブランの名を呼ぶことなく別れを告げた。
へらへらっと笑いながら飛ぶ様をみると、魔獣の中ではあちらの魔王と変わらない対応らしいが、それでもけじめはつけておいた方がいいだろうと思ったのだ。
「しかし、俺はどんだけレティに執着してんだ」
ぽつりと漏れた言葉に、自分自身呆れた口がふさがらないと笑う。
あの魔陣牒はありとあらゆるものが向こうのグレン・ロヴに紐づけされていた。
極めつけは、あの横に書かれた文字だ。レティシアには読めなかっただろうし、気が付いてもいなかっただろうが、『俺のレティへ』とは図々しい。
「まあ、俺も大して違わないか」
もしも迎えが来なかったのならば、ずっとここにいればいいと、口にしなかったが強く思ったのは事実だ。
結果、元の世界に戻れたわけだから、向こうで彼自身が頑張ればいいわけだが、なんとなく振られたような気分になってしまうのは仕方がないだろう。
溜息を一つ吐いたあと、ドートー川の様子を見に行くと考える。
少なくとも、彼女の気にしていた氾濫が、二度と起こらないようにしてやるくらいは、いい格好をしておこうと思い、早速飛ぶことにした。




