闇 2
ようやく絞り出したその言葉に、キンキンっと響く女の声が重なる。
それと同時に、レティシアの首筋に、小ぶりだが先が鋭く尖ったナイフがあてられていた。
「っ、誰だ、てめえ!?」
「余計な真似をしないで頂戴。ナイフは脅しじゃあなくってよ」
「つっ……」
ランプ一つしかない小さな部屋に、その毒々しい声が響くと、飛びかかろうとしたフォルツの足が止まる。
女の持つナイフの切っ先がレティシアの首元に小さな傷を作るところを見たのだ。
「オットー、早くその子から魔陣牒を奪いなさい。違う、それだけじゃないわ。全部持ってきなさい」
偉そうに指図する女の言いなりになり、フォルツの手から魔陣牒を奪い取るひょろりとした男の顔を見た時、彼はあんぐりと大きな口を開けた。
「てめえ……そうか、あん時俺を刺した男だよな」
フォルツの怒りを帯びた声に、気弱そうなその男は、ヒィッ、と声を漏らしながらも女の忠実な犬となり、手にした魔陣牒を彼女のナイフを持たない手に渡す。
「この子を始末し損ねた時は腹も立てたけど、こうしてたくさんの魔陣牒も手に入れたことだし、失敗はなかったことにしてあげるわ、オットー」
粘りつくほど甘い言葉に、そのオットーと呼ばれた男はうっとりとした顔で女を崇める。
その真後ろで自分にナイフを突きつける女の声にレティシアは聞き覚えがあった。甘い、甘い、身体には毒になるような甘さのその声。
ようやくその声の主に思い立ったレティシアは、確かめる様にその名を口にした。
「バーネット様……」
「あら、私を知っているの?……あなた、あの時トールダイス様と居た……」
バーネット・エキレーゼ侯爵令嬢がレティシアの顔を覗き込み眉間に皺を寄せると、ナイフを持った手がほんの少し緩んだ。
その一瞬の隙を見逃さず、レティシアは片手でバーネットのナイフを持つ手を叩き落とし、もう片方の手で彼女の覗き込んできた顔にめがけて裏拳をくらわせる。
田舎育ちの山猿の名は伊達ではない。
ナイフなど危険な持ち物は論外だが、取っ組み合いの喧嘩くらいだったら周りでしょっちゅう起こっていたのだ。
男相手では力では敵わないかもしれないが、女が相手、しかも貴族令嬢なら負ける気がしないと、渾身の力を込めて打ち込んだ裏拳はなかなかのものだったらしい。
「った、痛いっ!オットー、この女をどうにかしなさい!」
殴られた鼻を押えてバーネットが吠え立てるが、人質であったレティシアがナイフから解放されたのを見て即座に動いたフォルツに、そのオットーと呼ばれたひょろひょろの男は、あっさりと床に抑えつけられている。
年は十ほども違うようだが、下町裏通りの少年と碌な運動とは縁のなさそうな貴族子弟では、少年の方が圧倒的に力は強かったようだ。
ギリッと、バーネットの歯ぎしりだけが聞こえる静寂の中、レティシアは正面のバーネットへと声をかけた。
「バーネット様、どうして、こんな……それに貴女、今は謹慎中ではありませんでしたか?」
「ふんっ!馬鹿らしい、何故私が謹慎なんてしなければいけないの?ちょっと変わった魔陣牒を使っただけじゃない。皆に私の美しさを、ほんの少しだけわかりやすくしてあげただけだわ。……それを、あの、あの……トールダイス様がっ、私の邪魔をっ!」
可愛さ余って憎さ百倍とでもいうような忌々し気な目でグレンの名を告げるバーネットに、背筋がぞっとした。そんなレティシアの気持ちなどお構いなしに毒を吐き続ける。
「アントーニオ様にも連絡がつかないし、監視も酷くて部屋から一歩も出してくれない。あまつさえ、お父様はこのまま修道院へ行けというのよ、この私が!美しい私が、修道院?ふざけないで!」
「それは……」
それは仕方がない。ただでさえ疑似魔陣牒の不法売買は重罪だ。
それが人の心を操るものだとなれば、バーネットの修道院行きはむしろ寛大すぎる処遇なはずだが、当の彼女には全く聞き入れられないものなのだろう。
「だからね、逃げ出したの。よかったわ、遊びのつもりで買っておいた、猫になる魔陣牒。誰も気が付かないのだもの」
ふふ。そう笑うバーネットの姿は確かに美しいが、まるで毒の華のようだ。
そして、その言葉を苦々しい顔で聞くフォルツ。自分の売った魔陣牒が、人の心を、そして人生までも蝕んでいくのを目の当たりにし、ようやくその罪の重さを感じ取ったらしい。
くしゃん、と顔を歪めたその時、押さえていた力が抜けたのか、組み敷かれていたオットーがフォルツを突き飛ばし、バーネットに駆け寄ってその身体を抱きしめた。
「バーネット様、行きましょう。ここにいては、すぐに追手が来ます。それを使って、あなたの行きたいところ、どこまででも私はついて行きます。離れません」
「オットー……そうね。もうこんなところは私の居場所ではないわ。美しい私を自由に飾ることが出来ない、碌に好きなものも買えない生活なんていらないもの。ああ、ちょうどいいわ。多分、あの人ならきっと、私の好きにさせてくれる……」
バーネットは怪しげな微笑みを浮かべ、フォルツの祖父の形見の魔陣牒を広げ手を当てる。
するとその魔陣牒が、いきなり温かみのある光を放ちだした。
「えっ!?こんな光、今まで一度も出なかった……」
呆気に取られるフォルツの声に、我にかえるレティシア。
「いけない、このまま発動したら」
逃げられる。
そう思うのと同時に、レティシアは自分の父親のことを思い出す。もしも本物ならばこれは、父親であるフレドリックに会えることの出来る最後の希望なのだ。
「お父様っ――」
慌てて伸ばした右手が、その魔陣牒へとかかったその時、光が三人を包み込んだ。
そうして部屋いっぱいに広がった眩い光が消えてなくなるのと同時に、レティシアとバーネットの姿だけがその場から綺麗に消え去っていたのだ。
その狭い部屋には、抱きしめていたはずのバーネットが消えてしまったことに理解が追い付かなくなってしまっているオットーと、魔陣牒の発動によりレティシアが消えてしまったことにショックを受けるフォルツの、二人だけが呆然と立ち尽くし残っていた。




