闇 1
早いものであの衝撃の魔王ロヴの召喚からもう二ヶ月も立っていた。
その間レティシアは熱を出した翌日、ロヴに休めと言われた日以外は毎日彼の屋敷に通い、掃除と料理をしている。
サイガスト公爵家でのミラベルのお世話に、ロヴの屋敷での仕事と、もうダブルワークにもかなり慣れたものだ。
ミラベルは王太子への感情を自覚し始めたお陰で、今までよりも随分と思慮深くなったので、あまり無茶なことはしなくなったし、ロヴの方はといえば、初めは得体の知らなさが少し恐ろしいと思ったこともあったのだが、すぐにそのざっくばらんな性格と、思いのほか優しい気持ちに触れ、屋敷での仕事も苦にはならなかった。
けれども、先日の一件からどうにもレティシアとロヴはぎくしゃくしていた。
言ってはいけないことを言ってしまったと、レティシアはロヴから一歩引いてしまい、言わなければいけないことを言えなかったロヴは、きまりが悪くレティシアをつい避けてしまっている。
そんなふうに二人、全くといって喋らない日が続き、とうとうフォルツとの約束をした黒の日がやってきてしまった。
そして約束をした日から黒の日である今日までの間に、一度だけグレンがサイガスト公爵家へと顔を出しにきたのだが、レティシアは彼にフォルツのことは語らなかった。
なんとなく物言いたげな視線を何度か受けたのだが、敢えてそれを逸らし淡々と受け答えをするだけにすませた。
フォルツが旅立ってから、以前貰った通信用の魔陣牒で連絡をすればいいのだからと、そう思っていたのだ。
「ねえ、もう来てるの?」
月も星もない暗闇の中、侯爵家の裏門をそっと抜けだし、角を曲がったところで小さく声をかけると、にゃあ、可愛らしい鳴き声が返ってきた。同時に足元にするりと柔らかいものがあたる。
「やだ、猫の姿で来たの?」
「ここらみたいな貴族屋敷の集まるところは普通の姿じゃ来にくいんだよ」
その言葉と共に、すっとフォルツが姿を見せる。
「それに、最後だから。ちょっと使ってみたかった」
子供らしいそんな理由に笑ってしまったレティシアだが、いつまでもここでそんな話をしている場合ではない。
今日のレティシアはいつものお仕着せのメイド服だが、白いエプロンだけは外してきた。そうすれば少しは暗闇の中でも目立たないだろうという配慮だ。勿論グレンから貰った魔陣牒入りのサシェは忘れてはいけないと、急遽胸元にポケットを作りつけしまってある。
そんなほぼ黒といういでたちでも、貴族屋敷の立ち並ぶこの辺りは、黒の日ともなると極端に人通りが少なくなるため、長居をするととても目立つ。
「じゃあ早速だけど、行きましょう。案内してね」
「うん、こっちこそ頼む」
そう言って、フォルツが真っ暗な道の先頭を切って歩き始めた。
黒の日でも、街中の商店街は中々に明るい。街頭以外にも各々の店先で趣向を凝らしたランプやイルミネーションで飾られているのを見てレティシアは驚いた。
田舎育ちの彼女には、黒の日に外出をするという概念はない。だから王都に来てからといもの、一度だけ、しかも馬車に乗って出たことしかなかったのだ。
「すっごいのねえ……王都の黒の日って、いつもこんなに派手なの?びっくりしちゃった」
「ここ最近はどんどん派手になってくって爺ちゃんはうんざりしてたけどな。ただ、表が明るい分、裏通りは余計暗く感じるから、気を付けてくれよ」
「あ、うん。わかったわ」
はぐれてはいけないと、レティシアはフォルツの腕を取った。すると、急なことに驚いたのか、彼の体がビクンと飛び跳ねた。
「ちょっ、レティシア!」
「ごめんなさい。でも、はぐれるよりはいいでしょ?」
弟のように思っているフォルツに名前を呼んでもらえて嬉しいレティシアは、気分を良くしてさらに力を入れる。
ぶう、と唇を尖らし恥ずかしがるフォルツは、彼女の手の温かさに気持ちがいっていて、普段なら気になるはずの人の気配に気が付かない。
二人の後をこっそりと付いていく影の存在に。
***
「ここ、でいいの?」
「ああ、この長屋の一番奥が、爺ちゃんと俺の家さ。ちっせえだろ?」
路地裏の奥、何回か曲がった先にある長くつながった家のようなところに辿り着くと、フォルツがそう言った。
小さいも何も、暗すぎて良く見えない。かろうじてチラチラと見え隠れするようなランプの灯りのお陰で、人が居ることがわかるのだが、それもほんの一部だった。
「さっさと入ろうぜ。ここはあんたみたいなヤツがいつまでもいるとこじゃねえし」
フォルツに押されるようにして足早に家に入ると、まず扉の横に置いてあるランプに魔陣牒で火を灯した。
小さな土間のような、たった一間だけの家。ここに祖父と二人、住んでいたのだろう。寝床のような布団が二つ、部屋の隅にあるのが見て取れた。
「こっち。汚ねえから、あんま見るなよ」
布団とは逆にある煮炊き用の小さな竈の中に手を突っ込んだフォルツが、煤にまみれながら油紙に包まれた塊を取り出した。
「これ、なんだけどさ。あ、ちょっと待って」
几帳面に包んであった油紙を解き、中身を確認すると、一枚だけするっと抜き取った。そうして、ゆっくりとレティシアへと向きなおす。
「一枚だけ。一枚だけ、持って行っていいか?これ、最後まで爺ちゃんが肌身離さずに持ってたヤツだから」
「フォルツくん……」
おそらくは形見のつもりなのだ。
黙って持っていけばレティシアにも、グレンたち執務官たちにもわからないだろうに、いちいち断るところが本来の彼の性格の良さなのだろう。コクンと黙って頷くレティシアに、つい祖父を思い出してしまったのか、その魔陣牒について語り出した。
「爺ちゃんさ、死ぬ間際まで、これで一番会いたい人に会いに行くって言ってたんだ……けど、どうしても上手くいかなかった」
「……そう、お祖父様は会いたい方がいらっしゃったの。まだご存命なのね、もしかしてフォルツくんはその方のところへ行くの?」
レティシアの柔らかい声に、フォルツは大きく首を横に振った。
「違う。爺ちゃんは、こいつで、ずっとずっと前に死んじゃった、俺の婆ちゃんに会いに行くって言ってたんだ」
「えっ!?」
声を張り上げてはいけないと気をつけていたのが、思わず口から飛び出してしまった。
移動の魔陣牒ですら、あり得ないはずなのに、まさか過去の人物に会えることの出来る魔陣牒などあるはずがない、まさに夢物語だ。
なのに、レティシアは、信じてしまいそうなる。
フォルツの祖父の作っていたという魔陣牒は、異性の心を操るものや、猫に姿を変えられるものといった、今の世界ではありえないものばかりだった。
もしも、本当に、会いに行けるのだとしたら?
あの日父親であるフレデリックに約束を破られたと勝手に一人で腹を立て、声もかけず見送りもせずにいたことをやり直せる。
いやそれどころか、災害の報告のために出かけていき、二次災害で亡くなってしまった父親を助けることが出来るかもしれない。
あの日から何度も夢見たそんな妄想がレティシアの頭の中をぐるぐると周り、体を縛り付けたように動かなくさせてしまった。
「過去へ、会いに、行けるの?」
「ふうん、いいことを聞かせてもらったわ。では私にその魔陣牒をよこしなさい」




