召喚 3
レティシア・ロズベールは、今年で十八歳になる。
彼女はロズベール伯爵家の長女として、アウデイン王国西に位置するベイン地方にて生を受けた。
父親譲りの栗色の髪に琥珀の瞳はロズベール伯爵家の特徴をよく表し、緩くカールする髪質と明るく何事も物怖じしない性格は母親から受け継いでいた。
ロズベール家は伯爵位とはいえ、領地は田舎でこれといった目立つ特産もない。
更には田舎ゆえに、王国の首都であるボルドイックのように魔陣牒が潤沢に供給される訳でなく、その在庫は常にカツカツだ。
だからこそここの領民達は、簡単には魔陣牒には頼らない生活をしている。
日常的に火を薪で焚き、煮炊きをして暖をとる。水は井戸から汲み上げ、涼をとるといえばそれは木陰で休むか水浴びをするか、だ。
そんな生活は伯爵家といえども同じことで、幼い頃から領地で育ってきたレティシアにはそれは至極当たり前のことだった。
けれどもその生活もたった一つの悲劇で大きく現状を変える。
今から五年前、レティシアが十三歳の夏の初め、父であるロズベール伯爵が事故で若くして亡くなってしまったのだ。
大雨の増水による災害だった。対応さえ間違えなければと今でも考えることがある。
しかしいくら考えてもどうにもならないことはあるのだ。それは、伯爵家当主を失ってしまったロズベール家のひっ迫した状況も同様であった。
レティシアの母であるロズベール伯爵夫人エリディアは、急ぎ王家に繋ぎを取り、爵位の継承について、当時八歳の嫡男のコーヴィンが成人となる十五歳になるまでの後見人を願い出て了承される。
これにて、とりあえずロズベール伯爵家の存続は首の皮一枚で繋がることとなったのだ。
しかし、本当に大変なのはここからだった。馴れない領地経営に、コーヴィンの貴族教育、とてもではないが年頃になるレティシアの結婚相手を決めるどころではない。そうでなくても持参金すら用意できないのだ。
だとしたら?自分はロズベール伯爵家の為に何が出来るのかと、レティシアは考えた。そして、出した結論と言うのが――
「侍女として働こうと思います」
「待ちなさい、レティ。今はまだ大変だけれども、もう少ししたら、来年の税の目処がつくから」
「いいえ、お母様。社交界にデビューともなれば、今以上に大変お金がかかりますわ。おわかりでしょう?」
十三歳のレティシアに正確な金額などわかるわけはないのだが、ドレスにアクセサリー、王都での滞在費にその他諸々、簡単に計算しただけでも今のロズベール伯爵家では賄いきれないのはわかる。さらにその上で持参金の用意など全くの無理難題だ。
だからこその提案だった。自分が働けばいいのだ。
そうすれば、レティシアにかかる経費は一切なくなる上に、お手当までいただける。
「お母様、大丈夫です。私、こうみえてもタフなのですよ。知ってらっしゃいまして?」
レティシアが、胸を張ってそう言い切ると、小さくため息をつきながら、ロズベール伯爵夫人は首を縦に振った。
「ええ、ええ。知っていましてよ。貴女と言えば、本当に小さな頃からおてんばで気が強くて……」
「あら、気の強さはお母様譲りよ。私のせいじゃないわ」
「領地の子供たちと近すぎたお陰が、少々口が過ぎるところもあるけれども」
「……申し訳ありません」
そう言ってペロリと舌を出す姿も、あまり伯爵令嬢らしくはない。ロズベール伯爵夫人はおてんばだと称したが、領地では山猿で通るほどの元気者だ。
きっとどこへ行ってもそれなりにやっていけるたくましさはあるのだろう。
そんなレティシアを引き寄せ、彼女の軽くカールした栗毛の髪を慈しむように撫でながら言った。
「けれども、心優しくて素敵な、自慢の娘よ」
小さく「ありがとう」と呟く母親の心の痛みは計り知れないが、いつまでも感傷に浸っていても仕方がない。
前を向いて、出来る限りのことはしないと。そう、レティシアは決意を新たにする。
こうして、十三歳で田舎から王都ボルドイックへと旅立ったレティシアは、サイガスト公爵家の令嬢、当時十歳のミラベルの専属侍女となったのだ。
***
本当に、あの頃のミラベルお嬢様は可愛らしかった。そう思わないではいられないレティシアだった。
綺麗な銀髪を揺らしながら、レティシアの後をついて歩き回り、夜が怖くて眠れないからとお話をせがみ、王太子に意地悪をされたと緑の瞳に涙をいっぱい貯めながら縋り付いたりもしてきた。
そんなミラベルが、なんということだろう、こんな、魔王(仮)を呼び出すようなことをしでかすなんてと、レティシアは昔のミラベルと比較しながらの現実逃避中だ。
しかしそんな中でも二人の言い合いは続く。
「舞踏会の中止だと?お前本当に舐めてんのか?」
「舐めてなんかいないわ。だって、ロヴなら出来るのでしょう?」
「王宮主催のだぞ。しかも、王太子の婚約者の発表予定のある舞踏会だ。誰がやるか、阿呆」
「だって私、嫌なの!このまま婚約なんてしたくないのっ!」
「お前、自分が選ばれるってわかってて、それか。泣くぞ、王太子が」
「泣かないわよ、パーシーなんて、絶対に!だから、お願い。中止にして頂戴!」
その言葉にレティシアは我に返った。ミラベルがパーシーと呼ぶその相手こそアウデイン王国の王太子、パージヴァル・アウデイン殿下だ。
そして、今日のこの黒の日の、丁度一ヶ月後にやってくる白の日にて、その王太子殿下の婚約発表が予定されているのだが、それを中止にしてくれとは流石にやり過ぎだ。
「駄目です!お嬢様、それはいけません。我がアウデイン王国の王太子殿下に対して失礼ですわ」
無理矢理話に入り込んだレティシアに、言い合っていた二人が驚いたように口をつぐむ。
「大体、まだ誰が婚約者になるとも決まっていないのではないですか。当日の発表でしょう?それは、お嬢様が一番家格的にも年齢的にもお似合いだとは思いますが、ご自分がなりたくないからと言って、王家の大事な行事に水を差すようなことは……」
「決まってるぞ」
「え?」
「王太子の婚約者は、ミラベルだ。なあ、ミラベル。当然知っていて言ってるよな?」
魔王(仮)の男が、ミラベルに向かいそう言うと、彼女はぷうっと頬膨らませながら静かに答える。
「先々週のパーシーの十五歳の誕生日にそっと教えてもらったわ。舞踏会では私を指名するって……」
まさか、本当に、ミラベルが婚約者に選ばれているとは知らなかった。
今までならどんな些細なことも教えてくれたのに、こんな重大なことを知らされていなかったとはと、少し胸が痛んだが、流石に事が事だ。
そこはひとまず置いておき、もう少し突っ込んで聞いてみることにした。
「公爵様はご存じなのですか?お嬢様」
「ううん。言ってない。パーシーからも、誰にも言うなって言われたし」
「では、公爵夫人にも?」
コクン、と小さく頷くと、銀色の髪が綺麗に揺れる。
よくもまあ、おしゃべりなミラベルが、こんな大事を黙っていられたものだと思ったが、大事なだけに誰にも言えずに悶々としていたのだろう。だからこそこんな暴挙にでたのかと思うと、ミラベルに同情を禁じ得ない。
レティシアは、ミラベルの手をぎゅっと握ると、優しくなだめるように声を掛けた。
「お嬢様、お一人で抱え込んでしまって、それはご心痛でございましたわね。これからは、私がなんでもお聞きしますので、こんな真似はしなくても大丈夫ですよ」
「…………」
「お嬢様が憂いなく、婚約発表を迎えられるようにいたしますので……」
「何を言っているの?私は婚約自体したくないのよ!こんなこと誰かに話したら、外堀固められちゃうじゃない」
「はあっ!?」
「恋もしたことないのに、恋もしていない相手となんかと婚約なんて絶対に無理!だから、ロヴ、お願い!中止にしてっ!」
ふざけるなー!と口から暴言が飛び出そうとしたところで、クックックとそれは面白そうに笑う声が聞こえてきた。
「やめとけ、言っても無駄だ。こいつは昔から、その可愛い顔で周りを懐柔しては無理ばかり通そうとする」
身に覚えはないか?そう付け足されると、レティシアにも思い当たることばかりだ。
一晩中お話をさせられて寝不足になったこと、王太子への仕返しだと、大嫌いな芋虫を大量に集めさせられたこともあった。そうだ、見かけについ騙されがちだが、可愛いだけの少女ではなかったのだ、このミラベルは。
大体が、今日も今日とて『魔王ロヴ』を呼び出すと言って、この部屋を勝手に使っているではないか――
そう思い出して、レティシアは、はたと気が付く。この男の存在を。
何故、ミラベルが誰にも話さなかった『婚約者指名』の話を知っていたのか。
何故、公爵家の一室であるレティシアの部屋に入り込めたのか。
何故、先程までのだらしない薄掛けでなく、きちんとしたローブを羽織っているのか。
その答えはあっさりと次の瞬間に判明した。
「それにしてもここは暗いな。灯りくらいケチらず使え」
そう放つ一言とともに、鳴らした指の音に反応して天上そのものが光りを落とす。一瞬で真昼のような明るさになった部屋に、目が慣れない。
慌てて目を擦り、そっと開け直すと、そこには真っ黒な髪に、そして今度こそ真っ黒なローブを肩に掛けた、背の高い青年が立っていた。
「俺の名は、ロヴ。魔王でもなんでもいい、好きに呼べ。わかったか?レティシア・ロズベール」
教えたはずのないレティシアの名前どころか家名までも口にした彼は、たった今、確かに魔陣牒も使わずに部屋に明かりをつけた。
これが魔法でなくなんなのだ。
本当にミラベルは魔王を呼んでしまったのだ。伝説の『魔王ロヴ』を……
あまりの衝撃に、レティシアは魔王(確定)の問いかけに答えることも出来ずに、ずるずるとその場にへたり込んでしまったのだった。