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動揺 1

 猫に治癒の魔陣牒を使うのは勿体ないと思う人の方が多いだろう。

 しかも飼い猫でもなく、ただの野良猫に対してならなおのことである。けれどもレティシアはその猫に使うことを頼んだ。自分が代金を支払うから、早くと頼み込んだのだった。


「ねえ、どうだったの?あの猫」


 ミラベルの寝支度をしている途中で、そう尋ねられた。


「傷は塞がりました。さっき目を覚まして水も飲んだようなので大丈夫かと」

「そう。よかった」

「ええ、使用人玄関の三和土にバスケットを置かせて頂きました。懐炉も入れてありますから明日になれば落ち着くでしょう」


 とりあえず後は夜番の使用人に一言伝えて、レティシアはロヴの屋敷へと行くために自室へと急いだ。


「ブラン、ロヴはまだ帰ってきていないの?」


 魔陣牒の揺らぐ空気を抜けると、開口一番そう尋ねた。


「まーだ。あれ、もう一週間たつの?俺もういらないの?」


 レティシアの言葉に、しゅんと小さくなるブランの頭を撫でながら、そうではないと慰める。


「ううん、ブランは毎日居てくれると助かるわ。お手伝いしてくれるものね。そうじゃなくて、ロヴに聞きたいことがあったんだけど……」

「うん。俺毎日お手伝いするよ!じゃ、続きやろっ」


 あっさりと機嫌を直したブランの鼻先でぐいぐいと体を押され、片づけ中の部屋へと促される。

 どちらにしても居ないものは仕方がないと、まずはいつも通り掃除片づけに集中することにした。


 あらかた今日の予定分が片付き、ブランが飽きて一人遊びを始めたので、キッチンでお茶を飲んでから帰ろうかというところ、突然音もなくこの屋敷の主であるロヴが現れた。


「レティ、茶。それからなんか食うものをくれ」


 静かだったのは現れた瞬間だけで、姿が見えた途端、乱暴にキッチンの椅子をひき、その椅子が軋むほどの音を立て崩れる様に座り目を閉じた。

 言われた通りにと急ぎお茶を淹れ、手渡す。


「ねえ、大丈夫?」

「ああ。そうは見えないか?」

「ええと、あんまり」

「そうか、控えめな表現だな」


 今日会ったグレンと同じように、顔に疲れが思いっきりのっている。

 その上、ロヴの方は肉体的な疲れだけではなく、なんとなくだが精神的にも随分疲れがきているようだ。先ほどから右足が何度も不自然に床をかたかたと踏んでいる。


 レティシアは、食糧庫に残っていたパンに、そのまま食べられる具材を挟み込みサンドイッチを作った。

 簡単なものだがすぐに食べられるものの方がいいだろう。そう考えて皿にのせて渡すと、小さくありがとうと答えるが、ロヴは中々口にしようとはしない。

 どうしたのかと思い、もう一度声を掛けようと座っている彼の顔を覗き込むと、その黒いきらきらした瞳がいつになくどんよりと濁っているように思えた。


「あ、あの……」

「そうか、遅くなったな。悪いがブランに送ってもらえ。あの魔法陣は、まだ有効だ」

「いえ、そうじゃないわ。時間はまだ平気。それより、ロヴのほうが」

「俺の方が?平気に見えない?」

「っ、はい。……ごめんなさい」


 魔王と呼ばれる魔法使いに向かって、とても図々しいことを言ってしまったとレティシアは思ったが、嘘はつけない。


 ふう、と小さく吐く息が聞こえた。そうして、お茶のカップがレティシアの目の前に差し出される。


「もう一杯頼む。レティも自分の分淹れて飲んでいけ」

「はい。今すぐ」

「……お前のお茶は、気分が落ち着く」


 振り向きざまに、ロヴの小さな囁きが耳に入る。

 そんな言葉を生まれて初めて言われたレティシアは、赤くなった顔を隠すようにしてお茶のお代わりと、おやつ用に持参した焼き菓子の用意をした。


 いつの間にかちゃっかりとキッチンへやってきたブランが焼き菓子をねだるので、別の皿に載せて渡してあげるとあっという間に食べ終わり、その場でごろんと横になった。それを横目に彼女はトレイに載せたお茶と焼き菓子を運び、ロヴの隣の椅子に腰を下ろす。


「魔法なんて使えたところで、使いどころを間違えれば何の役にも立たない」


 サンドイッチを食べきったロヴは、三杯目のお茶を飲み干すと、どこか遠いところを見ながら一言そう言い切った。

 それ以上詳しく話すつもりもないのだろう、そんなふうに感じたレティシアは黙ってそれを聞き流す。


 魔法使いも人間だと、いつかロヴが言ったことがあった。力は特別なものなのだろうが、心も体も普通の人間なのだ。

 愚痴を言いたい時だってあるに決まっている、強大な力を持っているからこそ心は疲れてしまうものだ。だからロヴがそうしたい時はただ大人しく聞いてあげたいと、レティシアはそう思った。


 ただ静かに、そこに居るだけの時間を過ごしていると、ゆっくりとロヴがいつもの彼に戻っていく。

 そうして、彼の瞳が光を取り戻した時、低いのだが穏やかな声でレティシアに話しかけた。


「それで?何か俺に聞きたいことがあるんだろう?レティ」

「あ、……うん」


 こんな疲れ切っているロヴに、自分の気になっているだけのことを聞いて、煩わせていいのだろうかと思うレティシアだったが、彼はなんともない声でもう一度彼女に促した。


「いいから話していけ」

「うん、あの……人の心を操るようなまじ……魔法ってあるのかな?」


 レティシアの言葉に、一瞬だけぴくりと体を動かしたロヴだが、落ち着いた声でその質問に答えてくれた。


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