不思議な君に、なんだか 5
*
「本当にごめん!」
テーブルに額を叩きつける勢いで静香が頭を下げた。
実際、衝突音が響いた。小さな呻き声が聞こえた気がするが、本人が頭を上げる様子がないので聞かなかったことにしておく。
「いや、いいよ別に」
顔を上げた静香のふわりと浮かんだ髪の隙間から、わずかに赤くなった額が覗く。だが、すぐに髪で隠れた。
「ごめんね。紗理那、悪い子じゃないんだけど。ちょっと人に毒を吐くところがあって」
ちょっと、というとことに多少の引っかかりを覚える。
だが、静香にとってはその通りの人物に見えているのだろうと、雅也は理解した。慣れれば可愛く見えるのかもしれない。それまで心が保つかという問題はあるが。
当の紗理那は終始変わらぬ笑顔を貼り付け、少し前に彼氏を連れて行ってしまった。
「怒ってる?」
「いや、別に怒ってないよ。驚いただけ」
「そう、ならいいけど。紗理那の後ろ姿を睨んでた気がしたから」
「気のせいだよ。強烈すぎて引いたところはあるけどね」
雅也自身、睨んでいたつもりはなかった。だから、睨んでいた気がしたというのは、そういうように見
えたか、あるいは――。
「ごめーん。遅くなっちった」
京子が手を合わせながら空いている席に座り、息を吐いた。その後からやってきた孝多もその反対側に座る。
「二人とも遅かったね」
「ごめん。本当はもっと早く来れたんよ。けど、コータがどうしてもって言うから」
「おいおい、スイング・ジェットに乗ってから行こうって駄々こねたの京子だぜ?」
スイング・ジェットはクレーンの先に二人用の飛行機が付いていて、それが何本も中心でまとめられているアトラクションだ。中心を回転させ、さらにはクレーンを上下させることでジェットコースターとは違った刺激を味わえる。これも絶叫系の部類に含まれるため、苦手な雅也と合流する前に乗りたかったのだろう。
「ちっちっち。コータは顔はイケメンなのに、心がダメダメなんよね。男なら、女のわがままくらい背負うもんだぜ」
「結局、京子のわがままなわけね」
「あう……ポテトもーらい!」
むしゃむしゃとポテトを食べ始め、強制的に話を終わらせる京子。静香は呆れながらも笑っていた。
*
昼食を食べ終わった四人は待ち時間が短いアトラクションを中心に回っていった。お昼を過ぎてからは人がさらに増えて、長蛇の列がそこら中に出来上がる。そうなると人気アトラクションは三時間待ちはざらになってくるので、見極める力が重要になってくる。
その点に関して雅也は論外だが、孝多も鈍かった。
ただ、孝多は鈍いだけであって、純粋に楽しんでいるように見える。一方の雅也は早くも疲労の色が見え始めていた。これだけの人混みと待ち時間に慣れていないために、他の誰よりも疲れが顕著に表れていた。
そんな中で、前を歩く女子二人はまったく衰えることなく、むしろ元気ましましで次のアトラクションを吟味していた。
沢見沢高校の生徒は千葉県の夢の国よりも豊永遊園地に来る回数の方がダントツに多い。近いからという理由はもちろんのこと、小さな頃から慣れ親しんだ場所であり、今もなお進化し続けている遊園地だからこそ、飽きることなくリピートできるのだ。デートと言ったらまずここの名前が挙がる。ただ、そのせいで同校の生徒と鉢合わせすることが頻繁にあり、付き合っていることを公言していないカップルには鬼門となる。
知った顔――知っているだけで話したことはない――を見かける度に、雅也は自分に向けられた視線に居心地が悪くなった。
「あ、あれ行こう! 面白いんよ」
テンションが上がってしまったのだろう。京子は雅也の手を引いて、赤を基調とした建物に入っていく。アメリカのハンバーガーショップかと思っていた雅也は目に付いた看板を見て首を捻る。
「何で英語なんだ……」
「え、まさか雅也こんなのも読めないん? 小学生?」
英語は赤点を取るほど大の苦手だ。雅也は何も言い返せないもどかしさを、拳を握って押さえつける。ただ馬鹿にされるだけならまだいいのだが、京子は鼻で笑い、小馬鹿にしたような顔つきで両の手のひらを上に向け、肩をすくめる。
「鏡の世界へようこうそ、って書いてあるんよ」
まじか、と英文を眺める雅也に、静香が嘆息する。
「それ、外国人向けの注意事項が書いてあるだけだから」
「まじか……」
驚愕の色を隠そうともせず、京子は英文をじっと見つめる。解読を諦めたのか、浮かない顔つきで雅也に親指を立てた。
「勉強になったな」
「お前も馬鹿だったんだな」
少し並んでいたものの、割とすぐに入ることができた。子供連れが多かったため、子供向けのアトラクションだと見くびっていた雅也は見事に足下をすくわれた。
ミラーハウスというこのアトラクションはその名の通り鏡の錯覚を利用した迷路だった。京子の策略によって見事に置いてきぼりにされ、迷子となった。全方位に鏡が設置されていて、どちらに行けば良いのかまったく分からない。部屋の中なので方角も分からず、このままここで死ぬのかと遭難者のような心境で泣きそうになっていたところを、後からやってきた幼児二人に助けられた。
「お兄ちゃん大丈夫?」
幼女が優しく手を差し伸べる。
「お兄ちゃん、迷子?」
男児が頼もしく手を差し伸べる。
幼児カップルに両手を引かれて無事に脱出することに成功した。
だが、人生はそううまくいかず、出てきたところを京子に写メで押さえられ、雅也は自らの人生が終わりを迎えたことを悟った。
「やばい、超ウケる!」
「ごめ、ん、雅也くん……さすがに、これは」
「東堂は面白いな!」
三人とも笑っていたが、静香はツボに入ったのか腹を抱えて笑っていた。
一応、申し訳ないという気持ちがあるようで我慢しようと口元を押さえてはいたが、それが余計に雅也を惨めに感じさせた。
幼児たちに手を振ってお礼と別れを告げ、雅也はジト目で抗議する。
「おい、笑いすぎだろ」
「小学生どころか幼児に手を引かれるとか、さすが雅也って感じよね」
ようやく笑いきった静香が目尻に浮かんだ涙を拭いながら口を開いた。
「けど、子供に好かれるって素敵なことだと思う。将来、良い旦那さんになりそう」
柔らかな笑みを咲かせ、静香は幼児たちの背中を見送る。
「そ、そうか……」
「何照れてんよ、どうて――むぐっ」
京子の口を力尽くで押さえつけて、静香たちから引き離す。
「黙れ童顔ロリ」
「良い度胸じゃねえか。静香の男になるのは俺だああああ――あいたっ」
勇ましい雄叫びを上げた京子の脳天に背後から手刀がヒットする。前回よりも鈍い音がして、京子は頭を押さえながらその場にしゃがみ込んだ。
「うぅ……静香の愛は重いぜ」
「ん?」
口元だけに笑みを浮かべて、静香は必殺の右手を振り上げて見せる。その目はまったく笑っていない。それどころか、殺気のような冷たい光を放っている。
「ああー、うそうそうそ! 軽いなー、静香の尻は軽すぎるなー」
「京子!」
刀を振り落とした静香。その瞬間、京子はニヤリと口端を吊り上げた。
「隙あり!」
「いっ――」
急に腕を引かれた雅也は抵抗する間もなく振り回され、静香の手がちょうど額に当たった。ゴツンという大きな鈍い音が鳴り、雅也は額を押さえながらしゃがみ込んだ。
「あっ、ごめん雅也くん」
「はっはっは、忍法身代わりの術!」
高らかな笑い声を上げてふんぞり返る京子には目もくれず、静香は雅也の傍らに腰を落とした。手をどけさせ、前髪を上げて額を覗き込む。
「痛くない?」
「だ、大丈夫だから……」
あまりの距離の近さに雅也はすっと立ち上がり、そっぽを向いた。
甘く爽やかな香りが鼻腔に残る。これが女の子の匂いって奴か、と感動を覚えていた雅也の横で、悔しげにわなわなと震えているロリ女がいた。
「ちっ、むしろ二人の距離を近づけてしまうとは……」
「ナイスアシストだな、さすが天才ポイントガードだぜ」
「まあ、うちにかかればどんなゲームメイクも自由自在ってもんよ」
それから目まぐるしい時間が過ぎていった。
軽い絶叫系やレースカー、超長距離滑り台、コーヒーカップに丸太下りなど、様々なアトラクションに乗った。
基本的には二人乗りが多いので組み合わせを変えながら乗ったが、雅也としてはもう二度と京子と乗りたくはないと思った。
コーヒーカップに二人で乗ることになったときには嫌な予感がしていたのだ。案の定、京子は今日一番のサディスティックな笑みを浮かべ、中央のハンドルに手をかけた。
――死ぬ準備はできたか、小僧。
その一言とともに、ハンドルをこれでもかというほど高速で回し始め、まるでコマのようにぐるぐると景色を振り回した。後に壊れていたと判明した――京子が壊したという可能性が高い――このコーヒーカップは軸に油を塗りたくったように滑らかに回転して見せ、速度は瞬く間に上昇していった。
振り落とされそうになりながらも、雅也はカップの縁にしがみついて耐えた。
ようやくカップが止まって立ち上がったときにはフラフラで、しばらくその場から動けなかった。
そうした紆余曲折を経て、ようやく四人はメインイベントに辿り着いた。
日が傾き、空が紫色を帯びる。じりじりと焦げ付くような赤に混じるその色は昼と夜の境目。その境界線があやふやになる、黄昏の時間。逢魔が時とも言われるその時間帯は、魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙るという。
そう、つまり――
「絶好のお化け屋敷タイムなんよ!」
腰に手を当てて、列の最後尾に並ぶ京子。
同じような考えの者は多いようで、続々と人が後ろに並んでいく。もう少し遅れていたら入る頃には日が沈みきっていたかもしれない。
「お、やっぱ夏と言えばお化け屋敷だよな」
「さすがコータ、分かってるんよ」
「最近、リニューアルしたんだよね? どんな風に変わったんだろう。楽しみだね、雅也く……大丈夫?」
ウキウキの笑顔から一転、顔を曇らせた静香は雅也を覗き込む。
「う、うん……」
「あ、雅也もしかして――」
京子の顔が悪意を持った笑みに染まる。
「いやいやいや、この年になってお化けとか怖くないから」
「これは漏らす」
「漏らすわけないだろ! アホか!」
「ほう、じゃあ一人で行ってみいよ」
「ひ、一人……で」
「お? お? どうした? 怖いか? お?」
「い、いや、ほら今まで二人一組で来てたし、四人で行けばよくない?」
「はっ、これだからチキンは。四人で行ったら楽しいだけだろうが!」
「いや、楽しいだけでいいんじゃ? 怖い思いしなくでもいいんじゃ?」
「はい、ダメー。お化け屋敷は二人一組って相場が決まってるんよ。ほれ、行くぞ雅也」
「いや、待て、絶対に嫌だ。お前とだけは行きたくない」
抵抗する雅也の手首を握りしめ、京子は口元を歪める。もはやその笑顔こそがホラーなのだけれど、雅也はそれでも抗い続けた。
「さあ、地獄へ行こうか――っておい! やめろコータ!」
「京子は俺とな」
京子の襟首を掴み、雅也から引き離す。ちょうど順番が来て、孝多はキャリーバッグを転がすようにして京子を引きずって行く。最初は暴れていた京子だったが、疲れたのか運ばれる楽に気づいたのか、急に大人しくなって身を任せていた。
二人が暗闇の中へ消えていき、扉が閉まる。すぐに中から京子の悲鳴が響き、すぐ後に「まだ何も出てきてないだろ」と諫める孝多の声が聞こえた。