不思議な君に、なんだか 4
徐々に体調を取り戻し、動けるようになっても雅也はそのままの体勢でいた。完全に治るまでは動かないつもりでいたし、治ってもできるだけ時間稼ぎをしようとしていた。
そのうちにいつの間にか寝てしまった雅也。ビクリと身体が跳ねた衝撃で目を覚ました。
しまったと思いながら横を見ると、静香は遊ばせている手元に目を落としていて、雅也が起きたことに気づいた様子はなかった。
できるだけ身体を動かさないように周囲を見回し、時計を探す。二時間ほど寝ていたようで、時刻は一二時を回っていた。
二時間という驚きのせいで思わず声が漏れてしまい、静香が顔を上げた。
「あ、起きた?」
「ああ……ごめん」
「ううん。私の方こそごめんね」
何のことだろうと記憶を辿り、すぐに思い至った。
「ああ、別にいいよ。最終的に乗ったのは僕だし」
「あ、そのこともだけど。……その、今日無理矢理誘ったこと」
静香は力なく笑う。
「嫌だったでしょ、遊園地」
「そんなことは――」
――ある。
今日の行き先が遊園地だと知らされた瞬間、何とかして行かずに済む方法はないかと考えたくらいだ。パンツを人質に取られていなければ絶対に来なかった。
口を噤んだことを肯定と捉えたのか、静香は唸りながら組んだ手を思い切り頭上に伸ばした。
「だよね。全然楽しそうじゃないもん……」
「それは――」
違う。そう言おうとしたが、静香はそれを遮った。
「いいの。私が馬鹿だったの。雅也くんはあんなはっきり断ってくれたのに。私はムキになって、絶対に振り向かせてやる、なんて思っちゃって。……あー、本当に馬鹿だな、私」
静香は立ち上がり一歩前に踏み出す。その刹那、頬に一筋の線が流れた気がして、雅也は息を呑んだ。
「…………帰ろっか?」
「けど、あいつらは」
「いいのいいの。野次馬根性で来たような奴らだし。ほっとこほっとこ」
普段とほとんど同じ声色で静香は言う。
ほとんどであって、まったく同じではなかった。
わずかに震えた声。その震えの意味を雅也は知っているような気がした。胸のどこかが痛む。それは同情や哀れみ、共感の類いではない。雨の日に古傷が痛むような、そんな感じだった。
だからかもしれない。勝手に口が開いた。
「おなか」
「え?」
振り向いた静香は目を丸くして雅也を見つめる。そのせいで急に照れが襲い、雅也は頬を掻きながら言葉を続けた。
「お腹、減ったし……何か食べない?」
一瞬、何を言っているのか理解できないという顔で呆けていた静香だが、すぐに表情が生き返った。少し困ったような、それでいて少し嬉しいような、そんな曖昧な笑みを浮かべて彼女は頷いた。
*
豊永遊園地には中央に巨大なフードコートがあり、各々好きな店で食事を買い寄ることができる。
お昼の時間帯なので大盛況だったが、幸いテーブル席が一つ空いていた。すぐにそこを陣取り、代わり番こに食事を買いに行く。静香はホットドッグ、雅也はハンバーガーだ。
互いのトレイを見て、二人は堪えきれずに噴き出した。それぞれのトレイに二人前のフライドポテトが乗っていたのだ。
「雅也くん、何でポテト買ってきたの? 私が買って来たの見たでしょ?」
「いや、全然気にしてなかった」
先に静香が買いに行き、その後に雅也が買いに行った。そのため、雅也は静香が買ったものを見ているはずなのだが、こういった場に慣れていないせいかまったく気づかなかったのだ。
「もー、二人じゃこんなに食べられないよ」
「藤島たちにも食べて貰おう」
「うん……そうだね」
静香はスマホを手早く操作して、すぐに仕舞った。
「今乗り物に乗るところだから、少し遅くなるって」
「なんだかんだ言って、安在は楽しんでるんだな」
「そうみだい。もうアトラクション五つ目だって」
「まじか……」
満喫しすぎじゃないかと思わなくもないが、そのおかげで今は平穏な時間を過ごせているのでよしとする。
これからまた敵意むき出しで接されるのかと思うと気が乗らないが、かといってこのまま静香と二人きりでいるのも気まずい。
食事を始めていくばくも経っていないが、もう話題に困窮していた。
「あ」
「ん? どうかしたの?」
ホットドッグを頬張った拍子に静香の鼻先にケチャップが付いたのが見えて、思わず声が漏れてしまった。拭ってやるという選択肢はないので、素直にそのまま伝える。
「鼻先にケチャップ付いてるよ」
紙ナプキンで鼻を拭い、静香は照れ笑いを浮かべた。
「ほんとだ。……ありがと」
今度は鼻に付かないようにホットドッグの角度を慎重に決めて口に運ぶ。大袈裟な様子が何だかおかしくて、雅也は笑い声を漏らした。
首を傾げる静香に、雅也は首を振る。
「別に、また拭けばいいじゃん」
「嫌だよ。子供みたいだし」
そちらの方が隙があって可愛いのに。不覚にも雅也はそう思ってしまった。
静香はボーイッシュな容姿から、クールで隙がないように見える。そのため、とっつきにくそうな印象を受けるのだが、鼻にケチャップを付けていればそれもかなり和らぐ。
言ったら怒りそうなので、当たり障りのない言葉を返しておいた。
「あれ? 静香先輩じゃないですか?」
その声に静香が振り返る。
雅也も視線を向けると、そこには茶色い髪をツインテールにした女の子がいた。胸元が大きく開いた服装で、スカートは短く、かなり際どい。後ろ手に組んで覗き込むように腰を傾けて、静香に笑いかける。
雅也はすぐに彼女から視線を逸らした。胸の谷間攻撃が急所に当たったのだ。もはやひんしの状態。これ以上攻撃を受ければ理性が死ぬ。胸は静香よりも一回り大きく見える。
顔を向けた先で彼女の横にいたイケメンと目が合ってしまい、慌てて手元に落とす。黙って下を向いているのも怪しまれるので、ポテトの山を一本ずつ消化していく。根気のいる作業だ。
「紗理那、こんなことろで会うなんて偶然だね」
「ほんとですね。――あ、もしかして、静香先輩もデートですか?」
視線を感じて、雅也は顔を上げる。
「――っ」
すぐ目の前に紗理那の顔があり、雅也は驚愕に声を漏らしながら身体を反らした。
「こんにちは。有明紗理那って言います。静香先輩と同じバスケ部で、後輩やってます」
反らしたのは距離を取るためだというのに、紗理那はその分だけ顔を近づける。
「よろしくお願いしますね、先輩」
全然離れてくれないので、とりあえず返答だけはしておく。
「僕は東堂雅也。よろしく。姫野とはクラスメイトだよ」
「あれ? 先輩は静香先輩の彼氏じゃないんですか?」
距離を詰められ、雅也は限界まで身体を反らす。そろそろ背骨が折れるかもしれないというところで、静香が助け船を出した。
「こらこら、そんなプレスしない。雅也くんは、ただのクラスメイトだから」
「え、ただのクラスメイトと遊園地? いやいや、静香先輩も人が悪いですね」
「本当だって。それに、京子と孝多も一緒だよ」
紗理那はわざとらしく手を叩くと、納得したという表情を作り、笑顔を浮かべた。
「なんだ、それを先に言ってくださいよ。こんな冴えない男子と付き合ってるなんてことになったら、静香先輩のファンクラブ会員みんな死んじゃいますよ。いや、むしろ先輩が殺されちゃいますね」
「ちょっと紗理那」
紗理那はわざとらしく口に手を当て、眉尻を下げて反省の色を匂わせる。
「あ、先輩ごめんなさい。悪気はなかったんです」
「いや、別に気にしなくていいよ。本当のことだし」
「ですよね! 先輩優しくてよかったです。性格はイケメンかも!」
「ど、どうかな……」
ニコニコと笑みを浮かべる紗理那とは対照的に、静香は眉間を指で揉みながら険しい表情を浮かべた。
「ごめんね、雅也くん。気にしないで」
「先輩いいなー。紗理那も静香先輩と遊園地行きたいです」
静香の腕に自分の腕を絡ませて抱きつく紗理那。
静香は慣れた様子で紗理那の肩をトントンと叩いた。
「紗理那、あんまりひっつかないで」
「えー、なんでですかー」
「それは、その……が当た……る」
気を遣ってか雅也に聞こえないように声を潜める静香だが、そんなのお構いなしに紗理那は声を上げる。
「えー、もう嫌だなあ静香先輩。わざと胸を当ててるんですよ」
「そういうのは私じゃなくて」
「いつも言ってるじゃないですか! 紗理那は静香先輩のことが好きなんですって」
「はいはい」
「もう! 本気なんですよ?」
そのやり取りは幾度となく繰り返されたものなのだろう。静香は軽く受け流す。紗理那は頬を膨らませながら、絡ませた腕をさらに強め、胸を押しつける。
おお、これが百合か……と雅也が思っていると、同じような感想を抱いたのか、紗理那の彼氏だろう男子もそれを尊いもののように眺めていた。ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえたので、彼はまだ紗理那による圧乳攻撃の餌食にはなっていないらしい。
「あ、先輩今エロいこと考えてましたね? ――って先輩?」
ああ、自分のことかと雅也は紗理那に顔を向ける。
「先輩だけじゃ分かんないよ」
「紗理那が先輩って呼ぶのは先輩だけなので、先輩って言ったら先輩のことですよ?」
「……なんだそのリンカーンの言葉みたいなのは」
「リ……ん? 何ですかそれ先輩馬鹿なんですか?」
頭を抱えそうになった雅也を見て、静香が慌てフォローを入れる。
「人民の人民による人民のための政治のことよ?」
「ああ、あの人民人民うるさい人のことですか! やだ先輩、頭良いんですね! 頭もイケメンですね!」
静香が深いため息を漏らすのを聞いて、雅也は苦笑するしかなかった。
「っていうか先輩、今紗理那の彼氏を見つめてませんでした? え、先輩って男子が好き系男子ですか?」
「いや、違うけど」
「えー、じゃあ、先輩は女の子が好きなんですか? 例えば誰が好きなんですか?」
「え? いや、その……」
紗理那の超積極性に困惑して静香に助けを求めようとするが、何故か静香も興味津々な様子でわずかに身を乗り出していた。そうなるともう味方は紗理那の彼氏しかいないのだが、そちらを一瞥すると彼は自分を抱きしめるように腕を抱えて身を引いた。
完全に勘違いされている。
雅也としては別に男子が男子を好きでも、女子が女子を好きでも、どちらでも構わないし、何とも思わない。自分とは縁のないことだ。ただ、誤解されるのは好きではないので、ここでしっかりと訂正しておきたい。
しかしながら。しかしながら、だ。
男子と女子どちらを恋愛対象として見るかと聞かれれば、何の迷いもなく女子と答えることはできる。だが、誰が好きかと聞かれると、返答に窮する。
別に言うのが恥ずかしいからというわけではなかった。もちろん、本当に好きな人がいたなら、この場で言うのはとても恥ずかしく、同じように返答に窮するだろう。
もっとも、そんな可能性は万に一つもない。
何故なら東堂雅也は――
「いない、かな」
――誰かを好きになることが、できないのだから。
「えー、何それつまんないです。ここは『静香、お前のことだよ』って、できる限りのイケメンボイスと決め顔で玉砕しないと」
「玉砕するの分かってるなら、やらなくていいだろ……」
紗理那はとびっきりの笑顔で手を合わせる。
それはとても可憐で、蠱惑的で。
「何言ってるんですか、先輩」
どれも作り物めいていて。
「その方が、面白いじゃないですか」
ただ、その瞳の奥に宿るドス黒い暗闇のような光だけは。
どこまでも本物で。
恐ろしかった。