最低な君に、それでも 2
静香は目元をこすらないように涙を拭いてから体育館へ向かった。赤くなって騒がれると面倒だ。
その日の練習は驚くほど身が入らなかった。
バスケットコート半面を使ったスリーオンスリーの練習では、ドリブル中にボールを爪先に当てるというヘマをやらかした。
「静香、大丈夫なん? 今日ずっと変なんよ?」
ひょこんと揺れる短いポニーテールの少女が静香に駆け寄る。
「京子……ごめん、大丈夫! 何でもないよ」
京子は不安げに静香の顔を覗き込んだ。京子は背が一五〇センチと低く、自然と静香を見上げる形になる。
静香と京子は中学からの友達だった。中学でも同じバスケ部。静香にとって一番の親友と言っても差し支えない。
一番得意なはずのシュート練習ではボールが一度もリングの中に入らなかった。おかしい。焦りはどんどん加速して、ミスが多くなる。視線が自分に集まるのが痛いほど分かった。
こんなにも自分が不安定だとは思っていなかった。これまでも振られたことは何度もある。その度に落ち込みはするけれど、これほどではなかった。
心の中で悔しさと怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
――あれはない。あんなの酷すぎる。
人の気持ちを何だと思っているのだ。勇気を出して告白したのに、それを忘れてもいい些細な出来事にしているなんて。信じられなかった。許せなかった。
なかったことにして欲しいと言ったのは、今後の生活で気まずくなりたくなかったからだ。
決して、どうてもいいことだという意味で言ったのではない。
振られた今でも、まだ雅也のことが好きだった。振られて失うような恋ならば、初めから告白なんてしない。
――それなのに。
最低だ。最悪だ。あり得ない。
その気持ちの膨らみは自分でも抑えきれず、ついに爆発した。
静香は感情に任せてボールを壁に叩きつけた。バチンという音が体育館に響いて、それを歯切りに静まり返る。
しまったと思っても、もう遅かった。女子バスケ部だけでなく男子バスケ部からも、二面コートを仕切るネットの向こう側にいるバレー部からも自分へ視線が注がれていることを肌で感じた。
「静香……」
京子が躊躇いがちに声を掛ける。腫れ物を触るように。
静香はそれが嫌だった。
「ごめん、私、帰るね」
「ちょっと、静香!」
声を無視し、静香は逃げるようにして体育館を出た。
部室で着替えを済ませて外に出ると、もう日が落ちていた。
月が厚い雲に覆われていて、どこにあるのかも分からない。星も瞬かない。外灯だけが仄かに道を照らしていた。
汗をかいたせいか、少し肌寒かった。静香はカーディガンの前ボタンを留めて腕を擦る。
外灯の周囲には蛾が飛び回っていて、その下を歩くことは躊躇われた。虫自体は平気な静香だが、顔に当たったり、服についたりする虫は大嫌いだった。
だから自然と灯りから遠いところを歩く。それが何だか今の自分の心境と似ている気がして、おかしく思った。胸がぎゅっと締めつけられた。笑おうとしても、頬が引き攣って震えるだけだった。
急に自分が弱くなったように感じた。たかが男子に振られただけなのに。どうしてこんなにも揺さぶられてしまうのだろう。
どうにも折り合いのつけられない感情に呑まれそうになったそのとき、背中に衝撃を受けた。
「帰り支度速すぎるんよ!」
後ろから抱きつかれ、静香は転びそうになるのを踏み止まる。スクールバッグの肩紐がずり落ちて、慌ててバッグを掴んだ。
心臓が一瞬で跳ね上がった。足音など聞こえなかったし、まったく予想もしていなかった。京子が後ろから抱きついて来ることなんて日常茶飯事にもかかわらず。
自分が異常な精神状態なのだと改めて思い知らされる。
「びっくりするでしょ!」
静香の抗議に、京子はまったく耳を貸さなかった。悪びれもせず親指を立てる。
「一緒に帰ろ!」
「部活は?」
「静香と一緒に早退したんよ。私も今日は身体がダルくてダルくて」
えへへ、と得意気に笑う京子を見て、静香は大きなため息を漏らした。
「罰として、明日は部活前にコートを一〇周ね」
「待ってください静香キャプテン! それは権力者の横暴です!」
「私も一緒に走るから」
「別に、なしでよくない?」
「よくない」
「で、ですよねー」
がっくりと肩を落とす京子。彼女は走るのが嫌いだった。
その落胆ぶりに静香から笑い声が漏れる。京子も笑顔を見せた。そしてすぐに決め顔を作る。目を細め、流し目を静香に送った。
「やっぱり俺は、笑ってる静香が好きだぜ」
「それ何キャラ?」
「静香の好きな人の真似」
それを聞いて自分でも顔が強張ったのが分かった。
京子の口元がニヤリと歪む。我が意を得たりと得意顔で嘆息した。
「やっぱり男関係かー。静香って見た目の割に乙女よねー」
「別に、そういう……。ってか、俺って言わないし!」
ふーん、と京子は目を細める。
やってしまった。静香は視線を逸らす。一人称の呼び方なんてどうでもいいのに思わず訂正してしまった。
「好きな人はいるんだ? 聞いてないんよ? 聞いてないなあ? 聞いてないんだよなあ? 親友の京子ちゃんはその話、知らないんよ?」
「誰にも……言ってないし」
一部では噂になっていることを静香は知っていた。放課後の屋上で告白をすれば目撃者がいてもおかしくはない。それが京子まで伝わっていないことを知って、静香は少しだけ気持ちが軽くなった。これなら広まらないだろう。
「ほほう。誰? 知ってる人? 同じクラス?」
ぐいぐいと詰め寄る京子の顔を押しのけて引き剥がそうとするが、それよりも強い力でしがみついてくる。この小さな身体のどこにそんな力があるのだと、静香は親友の執念に畏怖を抱いた。
観念した静香が彼の名前を言うと、京子は大きな声を出して驚愕した。
「しっ!」
「あ、ごめん。いや、けど、だってさ。東堂雅也でしょ? ぼっちの」
棘のある言い方だった。
否定しようとして、静香は言い淀む。
確かにその通りだった。雅也が誰かと仲良さそうに話しているところを見たことがない。話しかければ普通に応じるので、人間性に問題があるわけではないと思う。
どうして友だちがいないのだろうと常々不思議に思っていたけれど、一人が好きなのだろうと勝手に納得していた。
「どこが好きなの?」
「不思議な、感じとか?」
「なぜに疑問形……」
本当はもっと違う理由があった。少しミステリアスなところも素敵だけれど、何事にもひたむきで一生懸命なところが好きだった。そのことは美化委員の仕事を通してたくさん見て来た。
もう数ヶ月の付き合いだと言うのに全く仲良くなっていないことについて、静香自身焦りを覚えている。けれど、それが雅也の誠実さ故なのかもしれないと考えると、静香はそれもいいかなと思えた。少しずつでも、ちゃんとお互いのことを知っていけたらなと思う。
「いやいや、やめた方がいいって。静香とは全然合わないよ?」
「そんなこと……けど、もう振られたから」
「えええええええええ」
本日一番の声量で京子が叫ぶ。体育館まで聞こえてしまいそうな声に静香は咄嗟に耳を塞ぎ、京子の頭を手刀で叩いた。
「声が大きい!」
「いやいやいや、展開早すぎなんよ? 全然ついて行けてないんだけど! ってか、なんで相談しないん? え、私たち友達よね? 親友よね?」
だって、と静香は心の中で呟く。
言えるはずもなかった。
絶対にやめろと京子が言うのは分かっていたから。
実際、それは正しかった。
「ごめん」
「ああ、もう! 学校一のイケメン姫野静香が、学校一の冴えない東堂雅也に告白なんて……って、え? 聞き間違えよね? 静香が振ったんよね?」
「私から告白してるんだから、私が振るのはおかしいでしょ?」
「いや、そうなんだけど、そうなんだけどさ……ってことは東堂のやつ、静香を振ったん? はあ!? 身の程を知れって感じなんよ!」
今にも雅也の下へ殴り込みに行きそうな京子を、静香は必死になだめる。
「断った理由は何だったん?」
「それは……」
できれば言いたくなかった。言えば京子が激情するのは目に見えている。それに、改めてその言葉を聞きたくなかった。たとえ自分の口からでも。
それでも、この雰囲気は言わなければ終わらない。
静香は胸に当てた手を握りしめる。
「……全部、だって」
「は?」
「私の全部が、駄目だって、言われた」
「あいつ――殺すっ!」
走り出そうとした京子の腕を掴んで引き止める。意外にも簡単に止まったので、本気で行くつもりはなかったのだろう。静香は少し安心した。彼に嫌われたくはない。
「京子、雅也くんの家知ってるの?」
「知らない! 知らないけど!」
ようやく京子が諦めた頃には、二人ともヘトヘトに疲れていた。本気でないはずなのに、異様に粘り強かった。
「さすが静香、いいディフェンスだったんよ」
ふうと息を吐いて、一仕事終えたような清々しい表情で京子は空を見上げる。生憎の曇り空に彼女はすぐに顔を戻した。
「残念、だったね」
その声に、込み上げてくるものがあった。
何だかんだ言いながらも京子はいつだって静香の気持ちを優先してくれる。そのことを痛いほどに感じて、涙が溢れた。
「…………うん」
「よしよし」
京子は静香を優しく抱きしめて、その背中を撫でる。
「まだ好きなん?」
「………………うん」
「そっか」
京子はそれ以上、何も言わなかった。
ただ静香の身体を強く抱きしめた。
そんな親友のことを静香はありがたいと思った。
今欲しいのは、慰めの言葉じゃない。