大好きな先輩に、愛を込めて 2
憂鬱な気持ちを抱えたまま昇降口に向かう。先ほどの教室でのことを思うと胸が痛んだ。覚えてはいないけれど想像はできた。付き合って、そして忘れてしまったのだ。どれくらい親密な仲だったのかは、もはや本人に訊く意外に知る術はない。だが、それを聞いたとしても何にもならない。好きになってしまえば、結局忘れてしまうのだから。
だから、自分にできるのは関係が始まる前に断ち切ってしまうことだ。忘れる出来事が最初からなければ、何も心配する必要はないのだから。
今、同じ過ちを繰り返そうとしている。何て学習能力のない奴だと、雅也は自嘲の笑みを浮かべた。もしかすると今回だけでなくて、今までも同じ失敗をして来たのかもしれない。忘れているだけで、何人も傷つけたかも知れない。到底自分がモテるとは思えないので、あくまで仮定の話だ。
紗理那のことは何故か忘れないでいられている。けれど、それは偶然かも知れない。何かの拍子に忘れてしまうかもしれない。そう考えると、途端に怖くなった。誰もいない廊下に響く、リノリウムの床を靴裏が叩く音。うら寂しく響くその音は、まるでこの世界に自分しかいないような錯覚を抱かせた。
一階の渡り廊下に差し掛かり、雅也はハッとして足を止めた。数歩下がって物陰に隠れる。
渡り廊下は建物の外を通る作りになっていて、柱がいくつも立っている。死角が出来やすいせいか、カップル御用達の場所になっていた。
普通なら校舎内の廊下を歩いていても見えない場所に彼らはいるはずなのだが、今いる二人はまるで見せつけるようにして抱き合ってキスしていた。
「変態カップルかよ……」
うんざりした気持ちになりつつ、気づかれると気まずいため抜け足差し足で通り抜けようと試みる。相手に気づかれないようにするため、自然と視線は二人の方へ向いてしまう。
あともう少しで通り過ぎることができると思った矢先、二人の身体が入れ替わって、女子生徒の顔が見えた。
雅也は思わず声を漏らしてしまい、相手に気づかれた。
女子生徒が男子生徒に何か言う。彼は足早に雅也の方へ来た。俯いたまま横を通り過ぎて、昇降口の方へ去って行く。その顔には見覚えがあった。同じクラスの男子生徒だ。
その後をゆったりとした足取りで彼女がやってくる。
頭を殴られたような感覚に、足下が揺らぐ。
「あれー? 先輩じゃないですか」
わざとらしいくらいに明るい声色で、紗理那は雅也の前で立ち止まった。
「見られちゃいましたか」
「何だよ、今の」
声が荒くなる。雅也は自分でも驚いた。普通に発したつもりだった。
「何って、ハグですよ。キスですよ。恋人同士の営みですよ」
「だから、どうしてあいつと」
「え? いけませんか?」
「何言って――」
言いかけて、雅也は口ごもった。紗理那は満面の笑みを浮かべて、雅也の顔を覗き込む。
「あれれ? もしかして先輩、私のこと彼女だと思ってくれちゃってました。いやー、嬉しいですね。甘酸っぱいですね。青春ですね。けど、ごめんなさい。先輩のこと、もう飽きちゃいました」
急に足下がなくなったように感じて、雅也は壁に寄りかかった。心臓が大きな音を立てる。吐き気と頭痛が襲う。気分が悪い。息がうまく出来ない。
「先輩? 大丈夫ですか?」
雅也の傍らにしゃがみ込んだ紗理那は、その耳元に口を寄せる。
それを押しのけて、雅也は無理矢理立ち上がった。壁を支えに昇降口へ歩き始める。脳を直接叩かれているような頭痛。胸が苦しく、熱いものが込み上げてくる。思わず膝を折った。そのまま崩れ落ちて、壁に寄りかかる。
紗理那はその背中に被さって、耳元で囁いた。
「もう雅也のこと、好きじゃないから」
その瞬間、雅也の頭に記憶が洪水のように流れ込んできた。
*
放課後。教室には誰もいない。西日が降り注いで、教室が赤く染まる。何かに導かれるように屋上へ向かう。
沈みゆく夕日の中で、黒髪の少女が待っていた。ミディアムボブは一番好きな髪型だ。彼女は先週まで長髪だったから、今日に合わせて切ってきたのだと分かった。
初めて告白された。その相手は自分も気になっていた相手だった。
その日にすぐ唇を重ねた。脳が痺れるような感覚に夢中になった。
何度もデートした。中学生のデートなんてたかが知れているけれど、どれもすごく楽しい思い出だった。
ずっとこんな日が続くのだと思っていた。
廊下。手には大量のプリントの束があった。職員室に届けなければならない。そんなことしている場合ではないのに、身体は勝手に動いた。
そちらに行ってはいけない。予感めいたものがあった。
三階の廊下を歩く。職員室は一階だ。何故か階段を通り過ぎる。ここを降りろと念じても身体は言うことを聞かない。このまま真っ直ぐ行ったところにも階段があり、そこを降りれば職員室に辿り着ける。
足は止まらない。そちらは駄目だ。
階段を下りる。一階。職員室に行くには渡り廊下の前を通らなければならない。
通り過ぎる直前で物音が聞こえた。よせばいいのに、好奇心からそちらへ足が向かう。
見るな。見るな。念じても足は進む。分かっている。これは過去の再現。結果を変えることはできない。
柱の陰に男女がいた。その姿を見て、声が漏れた。プリントがばらばらと床に散らばる。それが気にならないほどに、視線はその二人に釘付けになった。
「なんで……」
二人は気まずそうな顔をして、男の方は逃げるように去って行く。その顔に見覚えはない。いや、違う。よく知っている人物だ。よく知っていた人物だ。中学のときの親友。一番仲のよかった男子生徒。彼は知っていたはずだ。目の前にいる彼女と、自分が付き合っているということを。彼が無理矢理に聞き出して来たのだ。だから、どうして彼が自分の彼女と抱き合ってキスをしていたのか、理解が及ばない。
おかしい。そんなはずは。
彼女は深いため息をついて、こちらを向いた。その態度には何の悪びれた様子もなく、むしろ目撃したこちらが悪いとでも言いたそうに双眸を尖らせていた。
「何だよ、今の」
「何って、見て分かんない? キスしてたの」
「だから、どうしてあいつと」
「何、悪い?」
「何言って――」
面倒くさそうに息を吐いて、彼女は舌を打った。
「雅也のこと飽きちゃった」
横を通り過ぎ、去って行く彼女を振り返る。背中に呼びかけた声に、彼女は振り返った。
「もう雅也のこと、好きじゃないから」
*
堰を切ったように涙が溢れた。
思い出した。思い出してしまった。
中学の頃の忘れたい記憶。忘れていた記憶。
大好きだった彼女と、大好きだった親友に裏切られたこと。
鮮明に蘇った。まるで昨日ことのように。彼の申し訳なさそうな顔も、彼女の鬱陶しそうな瞳も。全部思い出した。
背中から伸ばされた手が優しく雅也を包み込む。
「ちゃんと、思い出せましたか?」
いつものような明るい声ではなく、穏やかで柔らかい声。傷に沁み込みような彼女の優しさが痛かった。手を振りほどいて、突き飛ばす。痛みで顔を顰める彼女に、雅也の心は痛みを増した。
紗理那はすぐに微笑んで、雅也に寄ろうとする。雅也はそれを手で制した。
「何でだよ」
声が震える。喉が自分のものではないみたいに言うことを聞かない。
「何で思い出させたんだよ」
紗理那が行った過去の再現に対して、雅也は感謝ではなく怒りを露わにしていた。
「思い出したくなかった。こんな記憶、要らなかった!」
「どうしてですか?」
「あっても辛いだけじゃないか。このせいで僕は誰も信じられなくなったんだ。独りでいることを選んだんだ」
「だから、好きな人の記憶を消してるんですか? それは逃げてるだけですよ」
声色は優しいのに、その言葉は雅也の胸に深く突き刺さった。咎められている気がして、胸が苦しくなる。
「悪いかよ。逃げたっていいだろ」
「逃げること自体はいいと思います。けど、その逃げ方はないです。あり得ないです。論外です。死ねばいいと思います。それじゃあ、先輩のことを好きになった人はどうすればいいんですか?」
「だから、僕は今までずっと拒絶して――」
鈍い音が響いた。赤くなった頬を押さえて、雅也は紗理那を睨んだ。けれど、今にも泣き出しそうな表情で睨み返す紗理那を見て、雅也は表情をなくした。
「嘘! 先輩は拒絶する振りしてるだけです。本当は他人の温もりが欲しいくせに、涼しい顔をして。けど、先輩は求められたら応じちゃうんです。自分が傷つくのが怖いから、相手から来させて、それなのに相手のことを信用しないんです。いつだって裏切られる準備をしているんです。だから先輩は好きになると忘れちゃうんです。自分だけなかったことにして、安全なところにいるんです。相手にだけ苦しい想いをさせて、自分は苦しんでる振りをしてるんです。先輩が! 忘れることを望んでるのに!」
紗理那はぼろぼろと涙を流しながら、雅也の胸ぐらを掴んで押し倒した。
シャツに染みが広がっていく。
「先輩はずるいです。裏切られたっていいじゃないですか。あのクソ野郎ってツバ吐いて、次に行けばいいじゃないですか。それができないなら。傷つくのが嫌なら――」
嗚咽とともに、それでもはっきりと、紗理那は心の痛みを言葉にした。
「最初から、静香先輩を巻き込まないで!」
その言葉とともに紗理那は泣き崩れた。雅也の胸元に顔を埋め、涙が涸れるまで泣き続ける。
雅也は紗理那の背中に回そうとした手を床に投げ出した。天井を見上げて、ここにはいない彼女のことを思う。
ああ……、最初から間違えていたのか。




