微笑む君と、このまま 5
期初テストが終わり、晴れ晴れとした表情で生徒が教室を出て行く。テストは午前中だけなので、午後の時間は自由に使うことが出来る。部活に精を出すもよし、友達と街へ繰り出すもよし、颯爽と帰宅するもよし。学生にとってテスト最終日というのは特別な時間だ。
補習の効果もありテストは赤点ではない自信があった。だが、こんな日に限って雅也は美化委員の週次作業があった。少し時間を空けてからゴミ箱を回ろう。そう思って机に伏していると、人の気配を感じた。まさか自分ではないだろうと無視していると、肩を叩かれた。
「東堂、シカトか?」
むくりと、わざと眠そうな眼で顔を上げる。大抵はこれで「寝てたのか、悪い」と会話を強制終了させることができるのだが、相手は強者だった。
「何寝てんだよ。もう放課後だぜ」
「ああ、この後に美化委員の仕事があるんだ」
一際大きな音が教室に響いた。誰かが机に脚をぶつけたのだろう。顔すら向けない雅也に対して、彼はそちらを振り返った。
「どうした、しず――」
「私、部活行くから」
「おい、ちょっと――」
小走りで足音が遠ざかっていく。痴話喧嘩はやめて欲しいと目の前の男に抗議の目を向ける。
「何か用か、藤島」
「ちょっと、歩かないか」
歩かない。そう言いたかったが、有無を言わせぬ何かがあった。何の用かは皆目見当もつかない。ただ、少しだけ気になった。クラスの人気者である藤島孝多が、どうして自分に声をかけてきたのか。雅也は美化委員の仕事をしながらというのを条件に孝多の申し入れを受けた。
「別に手伝わなくていいから。さっさと話せよ」
「いや、ちょっと心の準備がな」
体育館に続く通路に設置された空き缶のゴミ袋を孝多が縛って片手に持つ。雅也は手ぶらだ。これではどちらが美化委員なのか分からない。雅也は孝多からゴミ袋を受け取って、次の場所へ向かおうとするが、孝多に呼び止められて足を止めた。
孝多は自動販売機からコーヒーを二つ買って、片方を雅也に投げ渡した。ブラックだったので雅也は顔を顰めた。
「苦手だったか?」
「まあ飲める。ありがとう。というか、今袋替えたばっかなんだけど」
「ははは、空っぽのゴミ箱に最初にゴミを入れるのって、何か気分よくないか?」
「片付けることを想像すると、そもそもゴミを出したくないけどな」
「そっか、東堂はそういうタイプなんだな」
意味ありげな発言に顔を向けると、孝多はニッと笑った。その真意が分からず雅也が困惑していると、孝多がプルタブを引いた。空気の漏れる音が鳴る。一口飲み込んで、孝多は顔を顰めた。
「にっが」
「苦手なのかよ……」
「俺、甘党なんだ」
屈託なく笑う孝多に、雅也も釣られて笑みが漏れた。雅也も開けて口に含む。苦みと渋みが口の中に広がって、自然と表情が歪む。
「それで?」
このまま苦みに苦しむ顔を見せ合っているわけにもいくまい。雅也は本題を促した。
ボールをつく音が扉の隙間から漏れ聞こえてくる。連続した規則的な音。それが急に途切れ、別のものに当たった音がして、また規則的な音に戻る。バスケのドリブルだろうか。雅也が扉に視線を向ける前に、孝多が息を吸い込む音が聞こえた。
「何で静香と別れたんだ?」
世界から音が失われたような感覚があった。けれど、ちゃんとドリブルの音は耳に届いている。
静香?
雅也の頭に疑問が浮かぶ。それは同じクラスの姫野静香のことだろうか。問い返す前に孝多が続けた。
「静香、教えてくれないんだよ。京子も知らないって。プールの後、何かあったのか?」
「別に、何でもないよ」
「別にって、何でもないわけないだろ?」
呆れたような、拍子抜けしたような、それでいて怒っているような。複雑な表情で孝多は問いかける。
静香と別れたという言葉で大体の話が繋がった。空白の時間。捨てた日記。京子と紗理那と一緒に遊んだこと。孝多がまるで友達のように話しかけてくること。静香の視線。
何かがあった。それは間違いないのだろう。だが、何があったのか。それを知るのは静香だけだ。答えはここにはない。
雅也が黙り込んでいると、孝多はコーヒーを一気にあおって、缶をゴミ箱に捨てた。鈍い音を立てて缶が跳ねる。
「じゃあ、もう静香のことは好きじゃないんだな?」
「……ああ」
「俺、静香に告白するけど――いいんだな?」
力強い眼差しに、雅也は息を呑んだ。
「好きにしろよ。僕には関係ない」
「そっか。じゃあ、応援してくれよな」
普段通りの笑顔で、孝多は雅也の肩に手を置いた。その手にわずかに力がこもる。すぐに手は離れて、孝多は部活に行ってしまった。
雅也は肩に手を当てた。告白しても構わないと言ったのに、孝多は怒っているように思えた。そのことが腑に落ちず、雅也はコーヒーを一気に流し込む。
少しだけ、胸が苦しかった。
ドリブルの音はもう鳴っていなかった。
*
校舎内のゴミ袋をすべて替え終え、ゴミ捨て場の整備も終わった頃には二時間以上経過していた。夏休みからテスト期間中、誰一人として袋を替えていなかったのだろう。どのゴミ箱もいっぱいだった。そのせいでいつもより余計に時間がかかり、思わずため息が漏れた。
「遅いですよ、先輩」
「げっ」
校門を出たところで会いたくない相手に遭遇してしまい、雅也は露骨に苦い顔をした。
「ちょっと、酷くないですか? 超可愛い後輩がめそめそした先輩をずっと待っていたというのに!」
「めそめそしてないけど」
「あ、そうでしたね。先輩は忘れんぼさんでした」
紗理那は雅也の隣に並んだ。制服姿で鞄も肩にかけている。短めのスカートに黒のニーハイソックスで絶対領域を強調している。そのあざとさに感嘆の息が漏れそうになる。
視線に気づいたのか紗理那は口に手を当てて、いじらしく頬を染めた。
「また、ニーハイに指入れたいんですか? こ、こんなところで恥ずかしいですけど……先輩になら、いいですよ」
「入れたことないから……」
「忘れたんですか? 酷い! あんなに入れさせてあげたのに!」
「僕の記憶をねつ造するな」
「ちぇ、引っかかりませんか」
つまらなそうにため息を吐く紗理那に、雅也は頭を抱えたくなった。
「あれ? 部活は?」
「休みました」
「いいのかよ」
「先輩と帰るって部長に言ってオーケーして貰いました」
「それでオーケー出るのか……」
「すごく複雑な顔されました」
「だろうな。それでも許可するあたりバスケ部って緩いのか?」
「うーん、そういうことじゃないんですけどね。まあ、そういうことにしておきましょう」
話を切り上げた紗理那は雅也の前に飛び出ると、後ろ手に組んで腰を折るあざとポーズを繰り出した。雅也に〇のダメージ。
「はいはい、可愛い可愛い」
「紗理那の可愛さに慣れちゃいましたか!?」
言いながらスカートの裾を捲ろうとするので、慌てて雅也はその手を取った。
「む、無理矢理はちょっと……」
「何の話だ……。それより、何の用だ?」
「せっかちさんですね。もうちょっと後輩との触れ合いトークを深めましょうよ。いいリハビリになりますよ」
「大きなお世話――」
強制的に会話を打ち切られた。雅也は目を見開いて、すぐに紗理那の両肩を掴んで引き剥がした。唇に残る柔らかな感触に、顔がカッと熱くなる。
紗理那は舌舐めずりをして、小首を傾げた。
「嫌でした?」
「嫌っていうか……急に何だよ」
「紗理那と付き合ってください、先輩」
紗理那はニコニコと笑いながら言う。
頭痛に耐えるようにこめかみを押さえ、渋い顔で諭すように雅也は口を開いた。
「あのな。前に言っただろ。僕は好きになった人のことを忘れる」
「はい。聞きました」
紗理那のニコニコ顔は崩れず、それがどうしたと言わんばかりに頭の上に疑問符が浮かんでいた。
「だから――」
「ああ、先輩が私のことを忘れるってことですか? だったら大丈夫ですよ。先輩は私のことを忘れたりしません」
妙に自信満々で言う紗理那に、雅也は呆気にとられた。何を言っているのだろう。理解を超えた発言に戸惑う雅也の表情を楽しむように、紗理那はくすくすと可愛らしく笑う。
「私はあの女に似てますから」
*
遠くから声が聞こえる。うるさい。扉を何度も叩く音。うるさい。母親の声だ。そんなに騒いで何かあったのだろうか。薄目を開けて、ぼんやりとした意識のまま扉の方に顔を向ける。まだよく聞き取れない。音は拾えているのに、言葉として意味を取れない。時計を見る。起床時間を少し過ぎている。もう母親は仕事に行く時間のはずだ。いつもなら何も言わずに――。
「孝多! 紗理那ちゃんが来てるよ! 早く起きて!」
「……何だ紗理那が来て…………はあああああ?」
ガバッと布団を吹き飛ばす勢いで身体を起こした。すぐに扉に駆けて行く。
「何で紗理那が来てるんだよ!」
「迎えに来たんだって。何よ、やっぱり彼女いたんじゃない。しかも超可愛い子だし。隠すことないじゃない。リビングに上がって貰ってるから、早くしなさいよ。私はもう行くから――ごゆっくり」
最後の方はニヤついていて、雅也は今すぐに消え去りたい衝動に駆られた。玄関が閉まる音がして、足音が階段を上ってくる。
「先輩、起きましたか?」
「ああああ、来るな馬鹿!」
「うふふ、そう言われるとー、行きたくなっちゃいますっ!」
慌てて扉を閉めて、紗理那の侵入を防いだ。服を着替えてから恐る恐る廊下の様子を窺うも、いる気配はない。洗面所で身なりを整えてリビングに向かうと、紗理那は優雅にマグカップを傾けていた。
「何でくつろいでるんだよ」
「将来の紗理那の家なんですから、よくないですか?」
「よくないよくない。そもそも付き合ってないだろ」
雷に打たれたような表情で驚いて見せた後、紗理那は頬に手を当て、悲しげに目を伏せた。
「紗理那……初めて、だったんですよ」
「嘘つけ。キスなんて色んな男としてるだろ」
「え、昨日のこと覚えてるんですか?」
「むしろ何で覚えてないと思った……」
「紗理那とキスして堕ちなかった男はいません」
「何だその特殊能力」
「先輩も忘却能力ありますし、能力者カップルですね」
適当に会話を続けて、雅也は朝食を摂った。すると、食器を紗理那がキッチンへ運び始め、シンクの蛇口から水を出した。何かを擦る音が聞こえ、陶器が重なり合う音が鳴る。
「何してんの?」
「花嫁修業です」
盛大なため息に、紗理那は楽しそうに声を上げた。
「私と付き合えばこういう生活が続くんですよ? どうですか? 超優良物件ですけど」
「毎日来る気かよ……」
「先輩が、望むのなら」
雅也はもう一度大きなため息を吐いて、砂糖の入ったコーヒーを口に含む。
いつもより甘い気がした。
*
紗理那の家は徒歩で高校に通える圏内にある。そのため、電車で雅也の家の最寄り駅まで行き、雅也と一緒に来た道を戻らなければならない。非常に面倒なはずだ。
一日で飽きると思っていた雅也だったが、その後も紗理那は平日に欠かさず迎えにやって来た。
大変だろうから紗理那の家に寄ると言っても聞かず、そんな生活が何日も続いた。その間、紗理那の言った通り一日も彼女のことを忘れることはなかった。
日に日に、心が和らいでいくような気がした。
日が落ちるのが少しずつ早まり、肌寒くなり始めた。いつもならポケットに入れる手に自分ではない温もりを感じる。
それだけのことで、こんなに心が満たされるのだということを、雅也は初めて知った。




