微笑む君と、このまま 4
日が傾き、世界が茜色に光り始める。うだるような暑さは衰えを見せない。
前を歩く静香から距離を空けて、雅也は後ろを歩いた。そこには二人しかいない。
あの後、笑顔を見せるもののどこかおかしかった静香は途中で帰った。体調が悪いと本人は言っていたが、その場の誰もが嘘だと分かった。それでも静香の儚い笑みを見て誰も指摘できなかった。代わりに、京子に背中を叩かれて雅也が後を追いかけることになったのだ。
着替えてプールを出ると、すぐに静香の姿を見つけることができた、しかし、話しかける勇気がなく、後ろをついて歩くだけだった。
それがずっと続いた。改札を抜け、電車に揺られる。どの席も埋まっていて、二人は開かない方の扉の両端に向かい合うようにして立っていた。赤みを帯びた街並みが過ぎ去っていく。時折、雅也は静香に視線を向けるが、彼女は外を眺め続けた。
最寄り駅に着いても雅也は降りなかった。そのときだけは静香も雅也に目を向けるが、視線が交わるとすぐに逸らした。会話のないまま、静香の最寄り駅に到着した。
静香がホームに降りる。けれど、雅也は動かなかった。扉に寄りかかって、外を眺めている。
ホームに発車の音楽が流れる。軽快なリズムに混じって、大きな足音が迫った。ぐっと手を引かれ、雅也はホームに引きずり出される。
静香はそっと手を放して、何も言わずに階段を下りて行く。向かい側のホームに止まった電車を見送ってから、雅也は静香の後を追うように足を踏み出した。
改札を抜けると、静香の姿が見当たらなかった。それでも雅也は引き返すことなく、足を進めた。適当に道を曲がると、静香の背中を見つけた。振り返った静香と目が合う。すると、静香はすぐに角を曲がった。
雅也も同じところを曲がるが、またしても静香の姿はない。けれどすぐ近くの角を曲がると、静香の姿があった。目が合うと、また静香は角を曲がる。
それを何度も繰り返し、閑静な住宅街を抜けて河原に出た。静香はそこで足を止めて、川面を眺めている。
雅也はその少し後ろで立ち止まった。彼女の影が足下まで伸びている。その影を踏まないように、雅也は一歩下がった。
川の反対側に沢見沢高校が見える。もうすぐ、あそこに通う生活が再開する。
「どうして、何も言わないの」
振り返らずに静香が言った。
彼女の黒髪の輪郭が夕日を受けて光の束のように煌めく。
普段は濁っている川面が、今だけは鏡面のように光を放っていた。その上を彼女が歩いて行ってしまいそうで、そんなはずはないのに不安になった。けれど、足下に落ちた影を見る度に、踏み出そうとした足を思い止まる。
「ごめん」
ようやく返した言葉がそれだった。
静香は拳を握り締める。肩が震えたと思うと、勢いよく振り返った。短い髪がわずかに跳ねる。その頬に光の筋が走ったような気がしたが、すぐに見えなくなった。逆光のせいで彼女の表情を影が覆う。
「なにそれ」
鋭く息を吸い込む音がした。
「ごめんって、何が? 何に対して謝ってるの?」
最初は震えていた声が、徐々に力強くなる。
彼女の怒りが伝わってきて、雅也は胸が苦しくなった。何かを言わないといけないのに言葉が見つからない。
「分からないくせに謝らないでよ!」
一際大きな叫びが雅也の心臓を締め付ける。
「適当に謝って勝手に終わらせないでよ。雅也くんは明日になったら忘れるかも知れないけど、私は覚えてるんだよ。痛みを抱えたまま明日を迎えるんだよ」
ごめん。そう言いそうになって雅也は口を噤んだ。代わりに考える。考えて、考えて、考えた。その間、静香はずっと口を閉ざした待っていてくれた。
けれど、時間は待ってくれない。影が少しずつ迫る。
ようやく、雅也はそれらしい事柄に思い至った。
「中学の友達のこと? あれはただの友達で、何でも――」
「違うよ。全然違うよ。そんなの誰でもいいよ。昔の彼女だってことくらい、見たら分かるよ。過去の女なんてどうでもいいんだよ。何で、何で――」
絞り出すように。傷を抉るように。叫ぶように。悲しみを背負った弱々しい眼差しを伏せた。
「――何で、紗理那を抱き締めたの」
「違う。あれは」
「違くないよ!」
あれはただ、心細かっただけ。何かに呑み込まれそうで、独りでは立っていられなかっただけ。けれど、その理由が雅也には分からない。分からないから、言い訳ができない。
「好きじゃないなら抱き締めないでよ! 勘違いするようなことしないでよ!」
「ごめん」
影が雅也の身体を覆った。顔を上げると同時に、頬に強い衝撃が走った。
「雅也くんはいいよね。この痛みも明日には忘れるんだ。私の痛みも、雅也くんは明日になったら忘れるんだ」
背丈は同じはずなのに静香の方が小さく見えた。力なく落ちた肩が揺れる。
「もう嫌だ。もう疲れた。毎日、毎日。私は雅也くんに好きになって貰いたくて。けど、毎日、雅也くんが他の人を好きにならないか不安だった。私にはどんどん雅也くんを想う気持ちが積み重なって、好きな気持ちが溢れそうになるのに。雅也くんはそうじゃない。毎回、少し怯えた顔で私に会いに来る。その度に私は思い知るんだ。ああ、また私のことを忘れちゃったんだなって」
静香は溢れ出る涙を拭おうとしない。顔を伏せたまま、今までため込んでいたものを吐き出すように続けた。
「初めて私が告白したことも、一緒に遊園地に行ったことも、屋上の踊り場でお昼ご飯を食べたことも、水族館に行ったことも、あの景色も、初めてキスしたことも、全部、全部全部全部。雅也くんの中には何一つ残ってない」
雅也は何も言えなかった。その通りだった。全部、記憶としてはおぼろげにある。だが、そこに静香がいたという記憶はどこにもない。そこだけはまるで切り取られたように、綺麗に消えている。思い出そうとしても、余計に靄がかかるだけだ。
きっとこの先も、静香との思い出は積み重ならない。そこだけがずっと削り取られ、歪な山を築き上げる。今日楽しかった記憶も、今辛い記憶も、口に入れた綿菓子のようにすぐに消えていく。甘いのはその瞬間だけで、すぐになくなってしまう。
雅也は目を閉じて、叫び出したい気持ちを抑えた。納得した。理解した。自分が今まで恋愛を避けていた理由。人を避けていた理由。
結局、こうなる。
何かを信じても。誰を信じても。
信じたものを忘れてしまうなら。信じたことさえも忘れてしまうなら。
一体、何を信じればいい。
そして、そのことを最も実感するのは。傷を負うのは。
自分ではなく、相手の方だ。
確かに積み重ねたはずのものが、なかったことになっている。そのことを目の前で見せつけられて、平気でいられる人がいるだろうか。思い出は共有しているからこそ価値がある。片方しか持っていなければ、それは妄想と変わらない。覚えていないということは、なかったことと同じなのだから。
失うことで耐えられないのは、自分ではなく相手だった。
自分は誰かを好きになってはいけない人間だったのだ。雅也は涙が頬を伝うのを堪えきれなかった。一度流れ出すと、堰を切ったように溢れた。
雅也の肩に静香の頭が押し当てられた。
「ねえ。抱き締めて。好きだって言って。キスして。私のこと…………忘れないで」
重く、その言葉がのしかかる。
抱き締めたい。好きだと言いたい。キスしたい。けれど、けれど。
――きっと、君のことを忘れてしまう。
嗚咽が漏れた。それは雅也のものではない。背中に手が伸びて、ひっかくように強く抱き締められる。痛いけれど、痛くない。それは心の痛みに比べれば何でもなかった。
不意に力が弱まって、静香が身を引いた。伏せられていた顔が上がったとき、彼女の表情は涙に濡れてぐちゃぐちゃで、それでも笑みを浮かべていた。唇がきつく閉じられ、鼻をすする音は絶えない。それでも彼女は笑っていた。
「今まで、ありがとう。大好きだよ。…………さよなら」
横を静香が通り抜けていく。草を踏む足音が遠ざかっていく。
行かないでと、胸が痛みを上げる。追いかけろと、心が叫んでいる。
熱気を帯びた光が沈み、辺りを暗闇が包み込む。足下はもう影で埋め尽くされていて、自分のものさえ分からない。
日が落ちた後もしばらくの間、雅也はその場に立ち尽くし、ただの一度も、振り返らなかった。
*
習慣化していたせいで、三〇分早く起きてしまった。目を瞑って二度寝しようとする雅也だったが、眠気がまったくなかったので諦めて身体を起こした。
新学期が始まってから、もう数日が経った。夏休みの間ずっと日記を書いていた記憶があるが、机の上は綺麗になっていて何もなかった。何を書いていたかも覚えていない。大して重要なことではなかったのだろうと、気にしないことにした。
秋口になっても残暑が続いた。蝉が慌てたようにそこかしこで騒いでいる。彼らが鳴き止むまでこの暑さは続くのだろう。
鼻をかんで丸めたちり紙をゴミ箱に放り捨てた。底でかすかな音を立てる。
何もすることがないので、身支度を済ませてリビングに降りた。すでに朝食は雅也の分しか並んでいない。コーヒーの香りが漂い、もうすぐ母親が家を出る時間だと分かった。
「今日も早いのね」
「なんか目が覚めるんだよ」
「ふうん。最近どう?」
母親がマグカップを口に運んだ。視線はテレビのニュース番組に向いている。
「どうって、何が」
「彼女」
「彼女?」
首を傾げて見せると、母親も同じように首を傾げた。
「あれ? 出来たんじゃないの?」
「そんなこと言った?」
「言われていないけど、珍しく夏休みに出かけてたじゃない。友達、と」
「ああ」
言われて思い出す。確かに、この夏は意外なことだらけだった。
何故か京子たちと遊園地に行き、何故か京子たちとプールに行った。補習は毎年のことなので、出かけた内にはカウントされていないようだ。
「友達って言っただろ」
「へえー、友達と水族館ねえ」
「水族館?」
はて、と雅也は記憶を辿る。行ったような気もするし、行っていない気もする。
「確かに私は聞いたわよ」
「ああ、うん。行ったよ、友達と」
つまんないの。そう言って母親はコーヒーを飲み干すと、シンクに置いて水を溜めた。椅子に置いてある鞄を手に取って、玄関へ向かう。
「戸締まりよろしく」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関の戸が閉じ、ニュースキャスターの声のみが部屋に響く。
――誰と行ったのだろう。
その疑問は、朝食を摂り終える頃には一緒に消えていた。




