微笑む君と、このまま 3
トイレから戻ると、そこには誰もいなかった。まさかこの場面で置いて行かれるとは思ってもみなかった雅也は、自分が何かしてしまっただろうかと思い返す。確かに何度か孝多の後頭部を狙おうとしたが未遂だ。それに気づかれてしまったのか。
急に心細くなり、帰ろうかと出口の方へ身体を向けると、目の前に紗理那が現れた。
「うわっ、びっくりした……」
「うわっ、酷いですよ先輩。せっかく健気な後輩が待っていたっていうのに」
後ろ手に組んで上体を傾け、胸元に視線を誘導するあざとポーズ。紗理那のことが少しずつ分かってきて、それを予想していた雅也は華麗に無視した。
「ありがとう、健気な後輩」
「あれ? ここは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら目を逸らして、けどやっぱり男の性には逆らえずに見ちゃうって場面ですよ? どうしました?」
「お前のあざとさにはもう慣れたよ」
「えー、後輩にえっちなポーズさせといてそれはないですよ」
「させてないからな……。それで、みんなはどうしたの?」
見たところ紗理那以外に見当たらない。顎に手を当てて考える素振りを見せた紗理那はそのまま首を傾げた。
「さあ?」
「さあ、って……。案内するために待ってたんじゃないのか、お前は」
「紗理那ですよ、先輩」
「……紗理那は」
「はい。何ですか? せ、ん、ぱ、い。はーと」
「ハートって……口で言うのか」
「ちゃんと先輩って言葉にも込めましたけど、こっちの方が可愛いかなと思いまして」
雅也が嘆息してうんざりした表情を見せると、紗理那は自分の頭をコツンと叩いて舌を出した。
「探すか」
「えー、いいじゃないですか。置いて行っちゃった三人なんて放っておいて、二人でいいこと、しましょうよ」
「おま――」
「紗理那ですよー」
「紗理那、わざとやってるだろ」
目を細める雅也に対して、紗理那はそっぽを向いてしらを切る。先に降伏したのは雅也の方で、両手を挙げて降伏のポーズを見せた。
「どうしたら教えてくれるんだ?」
「んー、そうですね」
視線を彷徨わせる紗理那。やがてどこかに目が留まり、大きく頷いた。
「せーんぱい」
とても可愛らしい完璧な笑顔。甘い声。だが、それは完璧すぎるが故にどこか作り物めいていた。瞳の奥に妖しい光が宿る。
急に胸の奥が鈍く痛んだ。手を当てるとそれはすぐに収まって、気のせいだったかのように消えた。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。それで?」
「流れるプールを一緒に半周してくれたら、教えてあげましょう」
雅也は言われた通りに浮き輪を借りて、流れるプールに入った。ドーナツ型の浮き輪の中心に形のいいお尻をはめ込んで、紗理那は上体と足を浮き輪の上に載せた。
「さあ先輩、流れるプールデートです」
「さあ後輩、さっさとゴールへ向かおうか」
「駄目ですよ。ちゃんと流されるままに行くんです。先輩は浮き輪に張り付いて私とお話タイムです」
「なんだそれ地獄か」
「酷い! いいんですか? 叫びますよ?」
「どんな脅しだよ……」
プールの流れは緩やかで、ちょうど半周したところにあるウォータースライダーのあたりに着くまで時間がかかりそうだった。そのウォータースライダーは『スパイラル』とは別の種類で、浮き輪で滑るタイプのものだ。
開口一番に雅也と静香が付き合ったきっかけについて根掘り葉掘り訊かれた。ある程度は知っているようだったので抵抗するだけ無駄だと思い、言える部分については話した。その後は初デートや今後の予定などを訊かれ、ついにはどこまで進んだかも訊かれた。
「もういいだろ、僕の話は」
「ふむふむ。大体は分かりました。けど、不思議なことがあるんですよ」
首を傾げて見せると、紗理那は惚けたような顔で――けれど鋭さを覗かせた眼差しで、こう言った。
「キスまでしてるのに、どうしてそんな――よそよそしいんですか?」
「え?」
虚を衝かれたようだった。体温が急激に落ちていくような感覚。それは暑さの中で冷水に浸かるような気持ちのいいものではなくて、恐怖に震えるときのような悪寒に似ていた。心がざわめいた。彼女は危険だと、雅也の本能が告げている。
「図星、ですか?」
紗理那は恍惚の笑みを雅也に向ける。
心臓を鷲掴みにされたような不快感と圧迫感を抱いて、雅也は声も出せなかった。
「私、そういうの人一倍鋭いんですよ。誰が誰を好きとか、ちょっと雰囲気変わったなとか、微妙な変化にも気づいちゃうんです。だ、か、ら――」
浮き輪に置いた雅也の手の甲をなぞり、紗理那は小首を傾げた。致命的な言葉を投げかけられる予感がして、雅也は喉を鳴らす。
「先輩が今日、静香先輩を見た瞬間に、まるで一目惚れのように好きになったことにも、気づいちゃったんですよ。あれ? けど、おかしいですよね? 先輩たち、付き合ってるはずなのに」
紗理那は器用に浮き輪を回転させ、雅也の耳元に迫った。そして、熱を帯びた吐息とともにささやきかける。
「理由、教えてくれますよね? せーんぱい」
恍惚を抑えきれず、他人の秘密を暴いた喜びに打ち震え、酔い痴れる悪魔がそこにはいた。
*
話し終える頃には終着地点が見え始めていた。
「そうなんですね。何かすごくロマンチックな話です。好きになった人のことを忘れちゃうなんて」
紗理那は両手の指先を合わせ、それを顎につけた。
「けど、ちょっとショックです」
紗理那は目を伏せて、眉尻を下げた。唇を尖らせて、静かに目を閉じる。
「紗理那のこと忘れてないってことは、好きじゃないってことですよね?」
「まあ、そうなるのかな」
視線を紗理那に向けると、目が合った。悲しそうな、それでいて嬉しそうな、不思議な目だった。
「そうですか……」
紗理那はどこか遠くを向いて、息を漏らした。
「さて、上がりますか。ちょうど時間です」
コースの外際にあるスペースに浮き輪を寄せて、紗理那を下ろした。階段を上って、ザラザラした床を歩く。前方がウォータースライダーの出口になっていて、ちょうどそこからカップルが吐き出されたところだった。
「楽しそうですねー」
「そう、だな」
気まずい。雅也は言葉を探そうとして、押し黙った。何て言えばいいのか、見当もつかない。悪ふざけで付きまとっていると思っていた後輩は果たして今、何を思っているのか。想像もつかない。
紗理那の背中を見ようとして、何故か彼女の前方の風景に目が行ってしまった。そして、息を呑んだ。
先ほどウォータースライダーから出てきた二人乗りの浮き輪のカップル。それは静香と孝多だった。彼らは笑い合いじゃれ合いながら、浮き輪を引きずってプールから上がろうとしている。
まるで、恋人のように。
胸に杭を打たれたような痛みが走った。何か熱いものが込み上げてくる。吐き気ではない。けれど、吐きそうな感覚。訳が分からない。雅也は胸を押さえて、その場にうずくまりそうになった。
「あれ、東堂くん?」
その声に、雅也は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。唖然とした表情で顔を向けると、しかし、そこにいたのはまったく知らない人だった。
黒髪のミディアムボブ。緩くふわりと広がった髪は濡れていない。
彼女が一歩。また一歩と近づく度に、頭の中がガンガンと音を立てる。呼吸の仕方が分からない。視界が揺れる。景色が歪む。瞳の焦点が合わない。指の震えが止まらない。
何だ。何だ。何だ。何だ。何だ。何だ。
鼓動が速度を上げる。止まらない。全身の毛穴が開いて、汗が噴き出るようだ。
知らない。知らない。知らない。知らない。知らない。
足をついているのか分からない。地面が柔らかくなって、身体が沈み込んでいくような錯覚。音が消えていく。視界に彼女のみが映る。それ以外のものが霞む。
心臓の音が一際大きな音で――。
「どちら様ですかー?」
肩に触れた温度に、雅也はハッとして足下を見た。平坦でザラザラした地面。喧噪が戻る。先ほどまでいた場所。今いる場所。呼吸が戻る。ゆっくりと吸って、まだ震える息を吐き出した。
「えっと、私は東堂くんの中学のときの……友達、かな」
含むような笑みに、紗理那の目が細められる。
「へえー、そうなんですか。元カノだったんですね」
紗理那は『元』という部分を強調するが、相手はそれを何とも思っていないようで、頭を掻いて苦笑した。
「あ、もしかして東堂くんから聞いてた? 何だ、なら先に言ってよ」
「いえ、雅也先輩はあなたのことなんて一言も言ってませんでしたよ」
完璧な作り笑いで挑発的な言葉を投げかける。そんな紗理那に対して、相手は笑みを消し、眉を顰めた。
「何、さっきから。感じ悪いんだけど」
「そうですか? ごめんなさい。私、性格悪いんですよ。あなたと同じで」
満面の笑みで手を合わせ小首を傾げる仕草に、相手の女は舌打ちをして何か言いかけた。そこへ後ろから声がかかる。
「愛実、どうした?」
茶髪でマッシュパーマの男が愛実の背中に手を添える。背が高く、体つきは孝多よりもいい。鼻筋の通った凜とした顔が雅也たちに向いた。
その顔を見て、チクリと胸が痛む。
「誰?」
「ううん。何でもない。行こ?」
愛実に身体を押され、マッシュ男は苦笑いしながら来た道を戻っていく。愛実もそれに続くが、途中で振り返った。
「東堂くんさ、ちょっと趣味悪いよ」
敵意むき出しの表情で紗理那を一瞥して、彼女はマッシュの隣に駆け寄った。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。だい――」
大丈夫。そう言おうとして、身体が揺れた。前のめりに倒れそうになったところを紗理那が受け止める。だが、華奢な身体で受け止められるはずもなく、そのまま押し倒しそうになった。辛うじて踏み出した雅也の足で、何とか踏みとどまる。そのせいで紗理那に抱きつくような格好になってしまった。
普段なら赤面して飛び上がるところ。だが、雅也は胸に当たる柔らかな弾力にさえ意識が向かず、ただその背中に回した腕に力を込めた。
「ごめん」
「いいですよ、先輩。頑張りましたね」
何をと言いかけて、それどころではないことにようやく気づいた。紗理那から離れて、ばつが悪そうに頬を掻く。
「ごめん」
「いいって言ったじゃないですか。あの愛実って女、覚えてますか?」
記憶を掘り返してみても、彼女に心当たりはない。首を振ると、紗理那はさらに問いかけた。
「男の方はどうですか?」
「知らない」
どちらにも面識はないはずだ。
それでも愛実の顔を思い出すと胸が痛んだ。
「大体分かりました。先輩は――」
「東堂と有明じゃんか。どこ行ってたんだよ。遅いからウォータースライダー乗っちまったぞ」
緩い駆け足で来たのは孝多だった。その後ろから浮き輪に身体を通している京子。その後ろに隠れるようにして――身長の問題で隠れられていないが――、静香がいた。
「まったく、その歳で迷子とか勘弁して欲しいんよ」
「あっははー、ごめんさない。流れるプールに乗って来たら遅くなっちゃいました」
「なーに二人で仲良く遊んでるん!」
「きゃー、京子先輩こわーい」
「そのけしからん胸に教えてやるんよ」
京子の指がグロテスクにうにゃうにゃと動く。紗理那に襲いかかろうとしたところで孝多に拳骨を食らい、京子はその場にうずくまった。
雅也がその光景を眺めていると、いつの間にか横に並んでいた静香が口を開いた。
「さっきの、何?」
「あ、ああ。……中学のときの、友達?」
「何で疑問形なの? っていうか、そうじゃなくて……」
静香は口ごもり、開きかけた口を噤んだ。
「どうした?」
「何でもない」
そう言って、静香は歩き出した。輪の中に入って、一緒になって笑い始める。
雅也は独り、その光景を眺めるだけだった。
何だか、これ以上近づくのが怖かった。




