最低な君に、それでも 1
赫赫と輝く空は、目の前に立つ彼女の心を映し出しているようだった。
彼女から喧嘩を挑むような闘志を感じて彼は少し憂鬱になる。彼女に何かしてしまったのだろうかと考えを巡らせた。けれど、思い浮かばない。
日に日に強さを増していく陽光に夏の到来を感じさせた。夕日が出ている間は温度が高めだが、沈むとぐっと下がる。衣服の調整が面倒な季節になった。
ボーイッシュな短髪の彼女は、彼のクラスメイトだった。
女子の中では一、二を争うくらいに背が高く、一七〇センチの彼とほとんど変わらない。
姫野静香。
高校二年生になって初めて同じクラスになった。けれど、今まで一度も話したことはない。
だから、彼にはこんなところに呼び出される理由について身に覚えがない。
そんな風に睨まれると、まさか屋上から突き落とされはしないだろうかとひやひやした。
とは言っても、屋上は緑色のフェンスで囲まれている。老朽化によって一部に穴が空いてしまったため、最近新しくなったのだ。鮮やかな色をしているはずが、夕日に焼かれて色をくすませていた。強度はしっかりしており、彼の二倍は丈があるため落ちる心配はない……はずだ。
「……雅也くん!」
一際大きな声で静香が口を開いた。その声に自分でも驚いたようで、ハッとした表情をして二の句を言い淀む。彼女は胸に手のひらをあてて深く息を吐いた。
そして、覚悟を決めたような凜とした眼差しで再び口を開く。
「私、雅也くんのことが――」
「ごめん」
「……え?」
的外れの答えが返って来たとでも言いたげに、静香は目をしばたたかせた。
雅也から発せられた言葉を噛み砕き、すりつぶして、そこに込められた意味を汲み取る。
「私、まだ最後まで言ってないんだけど……」
「告白でしょ? 言われなくても分かるよ。こんなところに呼び出されて、分からない方が不思議だと思わない?」
殴られると思っていたことは言わないでおいた。知らない方がいいこともある。
静香は開きかけた口を閉じた。
俯いた影が雅也の足元、そのつま先あたりまで伸びる。だが、重なることはなかった。
「私のどこが駄目なのかな?」
「全部」
それを聞いた静香は雷にでも撃たれたように茫然自失としていた。
そんな彼女を放って、雅也はその横を通り抜ける。
静香が雅也を振り返った。瞳が光を帯び、今にもこぼれ落ちそうになる。彼女はそれを必死に堪えていた。
彼女の視線に気づいたけれど、雅也は決して足を止めなかった。止めたところで良い方向には転がらないことを知っていたから。
躊躇いがちに伸ばされた静香の手は行き場に彷徨い、漂流の末にその胸元に収まる。
それは諦めを意味していた。
雅也は屋上の扉を後ろ手に閉めると、鞄を取りに教室へと向かう。
彼は何かを確認するように、一度だけ背中を振り返った。
*
独り屋上に取り残された静香は零れそうな熱を堪えた。空を見上げると、滲んだ赤がぼやけて見えた。
告白したことは何度かあるけれど、断られる一番の理由は『背が高いから』だった。
それなら仕方がないと諦めることはできた。そのことは静香自身が一番よく分かっていた。
ちゃんと理由を言ってくれれば直せるところは直して、無理なところは諦めることができる。
けれど、雅也は『全部』と答えた。
自惚れてはいないけれど、顔は悪くないと思う。胸も同年代の中では大きい方だ。スタイルも悪くない。結構魅力的な方だと思っていた。だから、それすらも嫌いだと言われてしまうと、どうしようもなかった。
その言葉は心の奥に深く突き刺さり、傷口からため込んでいた熱量が溢れ出そうになる。
「好きになった理由、言えなかったな……」
言いようのない胸の苦しみに顔を歪ませ、嗚咽を押し殺してその場に崩れ落ちた。
*
翌日。帰りのホームルームが終わった。
十七時のチャイムがなる前に眼鏡を掛けた中年の男性教師が教室を出て行く。それに合わせて生徒の方も瞬く間に数を減らしていった。
放課後になって間もなくは部活動に勤しむ生徒の闘争が繰り広げられる。サッカー部や野球部は先輩より先にグラウンドへ集合しなければならない。理由なく遅れるようなことがあれば、連帯責任でグラウンド周回が始まる。昔からの悪しき伝統だった。
部活動に入っていない雅也はそんなことには無縁で、自分のペースで帰り支度を進める。
鞄に宿題を詰めて机の横に掛ける。
時計の長針が一〇回動いたのを確認してから教室を出た。
途中、女子からの冷めた視線を感じたけれど、気のせいだと流した。
無闇に反応してしまうと、相手の女子を意識しているのかと勘ぐられる。あるいは嫌悪感を露わにされる。いや、いじめに発展する可能性だってある。
特に、教室で浮いた存在に近しい雅也にとって、むしろその可能性の方が高いかもしれない。それは非常に面倒だった。
放課後には美化委員会の仕事があった。当番制で一日一クラスが割り当てられている。一年と二年合わせて八クラスあるため、だいたい二週間に一度のペースで当番が回ってくる。それが今日だった。三年生は大学受験があるために免除されている。
仕事は日次と月次に分けられている。
日次は校内に設置されている缶と瓶専用のゴミ袋の交換、それからゴミ収集所の整備だ。
月次では校内の掃除用具点検。
年に数回、市開催の清掃活動には強制参加させられる。つい二ヶ月ほど前に河原清掃が行われた。
その他にも学校行事で清掃の仕事があった。直近では体育祭がそれにあたる。
他の委員会に比べて美化委員は仕事の量が結構多い。
それでも雅也は美化委員の仕事を案外気に入っていた。淡々と作業をこなせば終わるからだ。それは独りでも十分にできることだった。
今日の仕事は楽だ。昇降口以外のゴミ箱はまだ溜まっていなかったので片付ける必要はない。二つある昇降口のうち、ゴミ袋を交換しなければならないのは一年と二年が使用する昇降口だけだった。昇降口は三年生だけ別になっている。
沢見沢高等学校は一応の進学校で、三年生は受験勉強によるストレス対策のために昇降口が分けられている。
受験生には特有の張り詰めた空気があり、三年生の昇降口に行くときは緊張した。
一年生の冬のことだ。ゴミ袋を取り替えていたときに怒鳴られたことがあった。袋をゴミ箱から引き抜いたときに鳴る、缶のぶつかり合う音が耳障りだと。
そんなのどうしようもない。缶なのだから。
もちろん、そんなこと言えなかった。
そのときの三年生の表情は焦燥が募り、追い詰められているように見えた。なり振り構わない彼の行動は雅也に反論を許さなかった。
それ以来、缶の音が鳴る度に緊張が走った。できるだけ音を立てないように、そっと、そっと。
袋を交換しなくていい日はほっと胸を撫で下ろす。だから、何も考えず片付けのできる一、二年の昇降口は気が楽だった。
カランという乾いた音が響く。今日は当たりだった。空き缶の袋は飲み残しのせいで下に汚水が溜まっていることが多い。袋の底が破けでもしていたら、ゴミ箱も掃除しなければならない。けれど、今日はほとんど水が溜まっていなかった。こういう日は気分がいい。
袋の口をきつく縛って、タイルの上に置く。赤茶のレンガを敷き詰めたような地面はどこか童話めいていて、不思議な気分になる。
新しい袋に交換していると、背後で足音が鳴った。
ついていないなと思った。美化委員の仕事中はあまり人に会いたくない。興味本位でじろじろ見てくることが多いからだ。そして、思い思いの感想を小声で口にして去っていく。
汚いとか、大変とか、絶対やりたくないとか。
視線が集まるのが分かる度に、その言葉が耳に入る度に、顔に火がつくようだった。どこかへ走り去ってしまいたくなる。
放っておいて欲しい。汚いことは自分がやってやるから、触れないで欲しい。
その願いとは裏腹に、背後の足音は動かなかった。
何をしているのだろう。
落ち着かなかった。早く立ち去ってくれと願いながら手を動かす。慣れた作業なので意識せずとも勝手に動いた。
いい加減振り向いてしまおうか。もしかしたら、もうとっくにいなくなっているかもしれない。
設置されている三個のゴミ箱を交換し終えたとき、気配が動いた気がした。息を呑む音。躊躇いがちな何度目かの吐息。それでも、その誰かは口を開いた。
「……ねえ」
女の子の声だった。
それが自分に向いているものだと分かった。けれど、缶の音で聞こえなかったことにする。
雅也は人と会話することがあまり得意ではない。できることなら会話を避けたいと思った。
「ねえってば」
しつこい。さすがに無視し続けるのは無理だと思い、振り返った。
男子っぽさを感じさせるショートの黒髪。顔が整っていて美形だが、あどけなさの残る大きな瞳のせいか可愛くも見えた。
長袖の白いブラウスを押し上げる胸元から、雅也は意識的に視線を逸らした。暗色の緑と赤のスカートは膝を隠している。
両手を後ろに回し、俯き加減で視線を逸らす。そうやって気まずそうな雰囲気を出している彼女。それでいて時折、雅也の様子を窺うように視線を投げてくる。
こういう、何を言えばいいか分からない沈黙の時間が雅也は嫌いだった。どんな言葉をかけても間違いのような気がする。それでも何か言わなければならないと思わせる強制力を伴った雰囲気。
時間が経つごとに口が重くなる。
その空気を破ったのは、他でもない彼女だった。
「……手伝う」
「いいよ。美化委員の仕事だし」
「私もっ! ……美化委員なんだけど」
「えっ?」
彼女が美化委員だと雅也は知らなかった。そう言えば美化委員はクラスで二名だったと思い出す。
なるほど。それなら彼女は美化委員なのだろう。
けれど、正直に言えば手伝って欲しくなかった。
人と話すことは苦手だが、女子と話すのはもっと苦手なのだ。
「そう、だったんだ」
「うん。だから――」
「部活とか入っていないの? 行かなくていいの?」
「……バスケ部に入ってるって、前に言ったよね?」
「ああ……そう、だったね。行かなくていいの?」
「委員会の仕事で遅れるのは、大丈夫」
「気にしないで。僕がやっとくからいいよ」
彼女は目を見開いて言葉に詰まった。呻き声のようなものが漏れる。胸に押し当てた手を握りしめて、不安を孕んだ表情で視線を逸らす。
「そんなに避けなくても、いいじゃん」
「別にそういうわけじゃ……」
「昨日のことさ、忘れて。今まで通り友達で……いようよ」
「昨日の、こと?」
呆然とする雅也の表情を見て、彼女は表情を曇らせる。
まずいと思って雅也は口を開いた。後頭部を掻きながら、できるだけ軽くて明るい声色になるよう努める。
「ごめん、なんだっけ? 最近忘れっぽくてさ」
「え……」
目を丸くして、信じられないものを見るような表情で彼女は雅也を見つめる。半開きになった口が言葉を紡ぎ出そうとわずかに動く。けれど、何も見つからないようだった。
その深刻な表情を受けて、雅也は自分が失敗したことを悟った。
次の瞬間。視界が大きく揺れて右頬に鋭い痛みが走った。
頬の痛みを確かめるように手を触れ、彼女に視線を向ける。
彼女は今にも壊れそうな表情で目尻に溜まる涙を堪えていた。噛み締めた瑞々しい唇は今にも弾けそうで、左手は震えている。
睨みつけてくる彼女の眼差しに雅也はたじろいだ。
向けられた感情の熱が心を揺さぶる。
「――最低っ!」
怒声が雅也を貫いた。
去り際、彼女の頬に一筋の滴が流れるのが見えた。
駆ける音が遠ざかっていく。しんと静まり返った昇降口はまるで時間が止まったようだ。タイルに染みる一粒の水玉は透き通った色をしている。
――ああ、失敗した。
雅也はゴミ袋を拾い上げ、昇降口を出る。
袋はゴミ箱から出したときより何倍も重たくなっているような気がした。