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昨日の君に、さよなら  作者: WW
第4章
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初めての君に、どきどき 2

 補習が終わり、ようやく雅也の夏休みが始まった。

 その間ほぼ毎日静香と一緒に昼食をとっていたようで、ノートには事細かに会話の内容が記載されていた。『足が一〇本なのは気にしないこと』という走り書きを何度か見かけたが、考えても何のことが思い出せない。とりあえず、気にしないことにした。


 カレンダーの今日の日付には目立つように色ペンでデカデカと『水族館デート』と書かれていて、非常に重要な日らしいことは分かった。

 昨日、念入りに服装を選んでいた記憶があるのはこのためだろう。スマホの画像フォルダを見て、思わず声を漏らした。イケメン系可愛い女子の自撮り画像が、『彼女』というファイル名で保存されていた。おそらく毎日これを見て自分は驚いているのだろうと、雅也は冷静になる。

 付き合い始めてからもう二週間ほど経っていることはカレンダーに書かれた交際記念日という文字から容易に察せられた。その間、雅也は何度も似た反応を繰り返していたが、最近では少しだけ変化が生じていた。


「忘れてるってことはこの子のこと好きなんだな、僕は」


 忘れていることを逆手に取り、自分の気持ちを確認できるようになったのだ。

 ただ、昨日までの静香との出来事はすべて綺麗さっぱり忘れているので、気持ちが戻ったというわけではなかった。それでも、これは非常に大きな事だった。


 自分の気持ちが分かっている状態で会うのと、分からない状態で会うのとでは心の準備の仕方が大きく異なる。何の不安もなく、ただ好きだという気持ちで接すればいいのだ。

 雅也にとっては静香は初対面に等しい状態なので、それが分かっていることは非常にありがたかった。会うハードルがかなり下がる。


 待ち合わせは夕方だった。水族館を検索してみると、どうやらイルカショーを見る予定のようだ。

 夏の水族館が雅也は好きだった。屋内なので涼しくていい。誰と行ったかは忘れてしまったので、遠い昔のことなのだろうと、雅也は一通りサイトで下調べをした。現場であたふたしてかっこ悪いところを見せたくなかったのだ。


 待ち合わせの時間より少し早くに品山駅に着いたが、すでに静香はいた。

 細身のデニムに、ギンガムチェックのシャツ。すらりとした立ち姿は高身長も相まってモデルのように様になっていて、ショートカットの黒髪がその凜々しさを引き立てていた。

 雅也はできるだけ気安く、彼氏っぽく見えるように声をかける。


「よ、よお」

「え、何ですか?」

「え、あ、す、すみません。人違いでした……」


 恥ずかしい。死にたい。雅也はこの場から消え入りたい気持ちに体中から湯気が出そうなほど赤くなり、足早に立ち去ろうとする。


「なんてね」


 その手を掴んで引き留めたのは、先ほど声をかけた女性だった。


「え、し……ひ、姫野か?」

「あ、やっぱり違う人でした」

「あああ、し、静香、か」

「うん。そうだよ。酷いなあ、覚えてないなんて」

「あのさ、本当に覚えてないんだからこういう悪ふざけやめて? 心臓が保たないし、トラウマになるから……」

「どうせ明日には忘れるでしょ?」

「いや、そうだけどさ」

「私のこと大好きだもんね?」

「僕ってこういうタイプが好きだったんだ……」


 雅也が自分のセンスに落胆していると、太腿に容赦ない膝蹴りが見舞われた。


「蹴られたことは忘れても、痛みは残るからね?」

「じゃあ、身体が痛んだら私のこと思い出して」

「悪魔かよ……」

「ほら、行こ? ちょっと早いけど、ショーまで他の見てればいいし」


 手を取って先を行く静香に、雅也は少し気後れした。この距離感で合っているのだろうか。付き合って二週間ほどの仲だろうか。昨日と同じくらいには彼氏のように振る舞えているだろうか。


 分からない。けれど。


 静香の横顔から覗く耳が、仄かに赤みを帯びていることに気づいた。

 雅也は少し安心した。

 記憶がない自分のために、リードしてくれようとしているのだと分かった。


 それなら、と。


 雅也は足を速めて、静香の隣に並んだ。



 *



 色々な大きさで、様々な形をした白い物体が浮かんでいる。それらは優雅にたゆたい、七色に発光し始める。空間の中にいくつも設置された円柱の水槽。その中を漂うオーロラのベールを思わせる物体の正体はクラゲだった。ライトの光を受けてその透き通った身体に色が付き、その度に違った印象を与える。


 クラゲというと海に浮かぶ気持ち悪い奴という印象しかない雅也だったが、この目を奪われる光景を前にして一変した。それは隣で食い入るように水槽を眺める静香も同じのようで、彼女は感嘆の息を漏らした。


「綺麗……星空みたい」


 少女のように目をキラキラさせる彼女の横顔の方がよほど綺麗に見えて、雅也はすぐに目を逸らした。


「行こっか」


 ご満悦そうな静香の後に続いてクラゲの部屋を出る。

 手は繋いでいなかった。受付でチケットを買う際に周囲の目が気になり、放してからそれきりだ。


 エスカレーターを上り、広い空間が現れた。真ん中に大きなプールがあり、その周囲に観客席が並んでいる。一番プールから離れた席に座ると間もなく照明が落ち、鋭い笛の音が響いた。

 水中をもの凄い速さで黒い影が動き、勢いよく水上へ飛び出した。遙か頭上に垂れ下がるボールへ口先をタッチし、その巨体を水面へ叩きつける。聞いているこちらが痛くなるほどの大きな音とともに、豪快に水しぶきが弾けた。最前列にいる観客はずぶ濡れ。最後列にいる雅也たちのところまで飛んできた。


「速いし、高いし、凄い迫力!」


 控えめだが興奮しているのよく分かる声が耳元で囁かれる。静香の髪が頬に当たり、彼女の温度を感じたような気さえした。

 よほど気分が高まっているのだろう。静香はそれを気にした様子もなく、破顔してショーを楽しんでいた。反対に雅也は気が気でない。イルカが高速で泳いでいるのも素晴らしい芸を披露しているのも、どうでもよくなっていた。隣が気になりすぎて観賞に集中できないのだ。会場に流れる音楽。そのリズムに乗ってイルカがゆらゆらと立ち泳ぎすると、それに合わせて静香も身体を揺らす。

 その度に肩が触れ、静香の体温を感じる。気を逸らそうとすればするほどに触れた箇所に意識がいってしまい、気がおかしくなりそうだった。


 こんな気持ちになるのは初めてだ。思ってから、そんなの当然だろうと雅也は自嘲する。

 きっと、静香といるときは毎回こんな気分を味わっているのだろう。ただ、それを忘れているだけで。


 ショーが終わり、静香が「あれが凄かった」「これも凄かった」と言うのに対して、「君が気になってショーなんて見てる余裕がなかったよ。ははは」などと本当のことを言えるはずもなく、雅也は曖昧に頷くことしかできない。静香は興奮冷めやらぬと言った表情で、そのことに気づかなかったのが幸いだった。

 巨大な水槽の中に通路があった。そこを歩くと、まるで水中にいるような気分になる。


「魚って記憶が三秒しか保たないって、前に話題になってたよね」

「僕みたいって言いたいの?」

「ううん。違うよ」


 違うと言いながら、含んだ笑い方だった。絶対に何か企んでいる。雅也が身構えていると予想通りにやってきた。


「魚って頭いいんだよ? 数ヶ月記憶を保持できる種類もいるし、学習することもできるんだよ? 誰かさんはすぐに忘れちゃうけどさ」


 棘のある言い方だった。雅也は少しだけムッとして、ため息を漏らした。


「悪かったね、魚より記憶力がなくて」

「あれ? 怒った?」


 小馬鹿にした感じが鬱陶しくて、雅也は足早に通路を抜けた。その後をご機嫌そうについてくる静香に、その苛立ちは最高潮に達する。


「あのさ」

「何?」

「わざとやってる?」

「うん」


 怒鳴ってやろうとも思っていたが、あまりにあっさり認めたので拍子抜けしてしまう。深く嘆息して雅也はカメが優雅に泳ぐ水槽の前に立った。少しでもその気長そうな姿にあやかりたかった。雅也とてデートをぶち壊したくない。


「ごめん」


 理由を問いただすかどうか迷っていた雅也よりも先に、静香が口を開いた。その視線は水槽にただ置いているだけで、何も見ていない。


「怒らせたら記憶に残るかなって思って。もう、しないから」


 そう言う彼女の表情はどこか物憂げで。何か言葉を返さなければ窒息してしまうのではないかと、そう感じた。だから雅也はきつく握り締められた手を優しく取った。解いて、指を絡ませる。


「別にいいよ。どうせ忘れるから」

「忘れんな、馬鹿」


 ぶっきらぼうな言葉に隠しきれてない感情。それは触れた指からも伝わってきて、雅也は顔を綻ばせる。


「じゃあ、恨みノートでも作ろうかな」

「作ってなかったんだ!?」

「ねえ、彼氏のことなんだと思ってるの?」


 目をしばたたかせる彼女に、雅也はどっと疲れた表情で笑みを漏らした。

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